恋愛感冒
何故だろう。
いつも本当に、哀しいくらい、健康の幸せを感じられるのは病気になった時だけだ。どうして人は失う前に、失うものの大切さを感じることが出来ないのだろう。
なくなって、ようやく分かる。何気なく所持していたものを、どれだけ自分が欲していたか。今さら情熱をかけて求めたって、遅いのに……。
一日に満たない潜伏期間を挟み、私は風邪を引いていた。風邪の原因は分かっていて、健康を失った私は、力なくただベッドに横たわっている。
体が熱くて、息苦しい。酸素が上手く吸えず、溺れているみたいだ。それなのに止まらない咳は、コンコンコンコンと、私に下手くそな狐の演技をさせる。
咳をしても、一人。
一人暮らしで、部屋には私以外に誰もいない。
視線を窓に転じれば、外では雨が煙っていた。一昨日から続く雨だ。静かに、永遠のように雨粒が踊る。太陽は輝かず、鉛の蓋が世界を覆っていた。夢うつつの中で空が降下し、厚い幕の向こう、星空の気配がしたかと思ったら、直ぐに消えた。
喉が乾いた。水が飲みたい。でも、動けない。
口の中に自然と溜まる唾を飲み下す度、喉が痛んだ。喉に砂利道が出来て、飲み込んだものがわざわざそこを踏んづけて通る。そんな感じの、不快な痛みだ。
今までの人生で引いた風邪の中でも、とりわけ重い風邪だった。頭は痛いし、吐き気がある。体がだるく、咳と痰、鼻づまりが重なって呼吸も儘ならない。その上、何もしなくても体中が軋むように痛んだ。心細さで、泣いてしまいそうだ。
……それでも私は、この風邪が愛おしかった。
小さい頃から、風邪で熱が出ると決まって怖い夢を見た。何度も見たから内容はよく覚えている。身の毛のよだつ怖さではない、ただ漠然と「怖い」と感じる夢だ。
霧に沈んだ円形広場の中央に、大きな箱が置かれている。パジャマ姿の私が立ち竦んでいると、カタカタと悪魔でも潜んでいそうな動きで箱が左右に揺れ、蓋が開く。詰め込まれていた色とりどりのボールが、津波のように押し寄せて来る。
その波に浚われ、私は溺れるのだ。逃げたいのに、決まって足は上手く動かない。怖く息苦しい状態が続くとある瞬間に暗転し、迷路を歩く自分に入れ替わる。
裸足で歩いて出口を探すけど、出口は見つからず、何時間もの体感の中、迷路をさまよい続ける。永遠に迷子な予感がして、誰も自分を助けてくれない気がして、迷路で一人、息苦しい熱を抱え、孤独に生きていくしかないのではと思わされる。
だから目が覚めると、とても安心した。
じわじわと安堵が胸に広がり、強張っていたものが解れる。恥ずかしい話、泣いてしまうこともあった。元の世界に帰れてほっとして、反動で涙を流した。
そんな話をハルカにすると、また、いつものようにハルカは笑っていた。あれ?でも、何て言って笑っていたんだっけ。思い出せないよ。ねぇ、ハルカ。
コンコン、コンコン。部屋で狐が、一匹で鳴く。
思い出せないことは、多い。それでも、汗で濡れたシーツの上に横たわって咳が出る度、明滅するように痛む頭の中に――色んなハルカの顔が浮かんでいた。
* * *
私とハルカは、小さな頃から友達だった。
ハルカはお調子者だったけど優しかったし、いつも面白い冗談を言って私を笑わせてくれた。短い髪が似合う、誰の心の中にでも潜んでいそうな、元気な女の子。
笑顔が似合う、健康に美しい女の子。
私が悲しいときは、無理をしてでも励ましてくれた。友達の少なかった私を毎日のように遊びに誘っては、男の子も含んだハルカの友達の輪に入れてくれた。
仲良くなった切掛けは思い出せないけど、ずっと一緒だった。保育園、小学校、中学校と同じ学校に通う。同じクラスで、似たような名字だから席も近かった。
子ども達が恥じらいを知り、女子と男子に分かれ出す頃。
周りに煩く噂されても、私とハルカは一緒だった。それくらい二人は仲が良かった。ただ馬鹿にされたりからかわれたりすると、ハルカはすごく怒った。漫画みたいにプンプン怒る。それが面白かったみたいで、クラス中が私たちを囃し立てた。
私たち二人に打ち寄せる冷やかしの波は、日を追うごとにどんどんと強くなっていく。そして中学二年生のある時、一番腕白で遠慮のない男子にこう言われた。
「お前たち、女同士なのに付き合ってんだろう。キスはもうしたか?」
侮蔑を孕んだ口調に、頭がクラクラした。ハルカは「なっ!」と言って驚き、またプンプンと怒った。その男子は楽しそうにハルカの言葉を受けている。
ふと私の心は、急速に新しい色に染まりたがった。これから先、自分の“好き”を大切にする限り、こういったことは何度もあるだろうと、思った。かの邪知暴虐の王を除かねばならぬと決意したメロスのように、私は一つのことを決意する。
前髪に表情を隠したまま、ハルカと言い争っている男子の前に進んだ。
私はこんなものに負ける気はなかった。ハルカのことが、とても好きだったから。そしてハルカも同じ気持ちだと信じていた。だったらやることは決まっている。
ハルカが私に気付き、続いてその男子が視線を向ける。教室中の視線と興味関心が、矢のように私に突き刺さっていた。生まれる沈黙の中、私はハルカに言う。
ねぇハルカ、私と付き合ってくれる? と。
例え勢いと幼さの力を借りていたとしても、よくあの場で告白なんて出来たものだと思う。その時のハルカの驚きようと、「へ?」と言った後に訪れた、顔の赤さと言ったらなかった。男子は視界の端で、唖然とした表情を隠さずにいた。
ハルカは、やがて、その赤い顔をゆっくりと縦に振ってくれた。それを確認して嬉しくなった私は、その腕白な男子に向かって言ってやった。
私たち、今から付き合うことにするから。でも、キスはまだ。応援してね。
不思議なことにそれ以降、皆は何も言わなくなった。私たちは何を言われても大丈夫になった。こっそり手を繋ぎ、休みの日には一緒に遊んだ。今までと殆ど変らないけど、ハルカは「恋人の特権」と言って、甘えてくるようになった。宿題が出れば一緒にやった。……やってあげたといった方が、正確かもしれないけど。
でも、その付き合いは中学二年の冬から高校二年生の夏までしか続かなかった。
当たり前の話で、ありふれた話だ。付き合ってみて分かることは多い。ハルカには沢山の好ましい部分の他に、あまりよくない部分があることを知った。
熱中すると周りが見えなくなるところ。ゲームや漫画、ふと見始めたドラマ、友人とのお喋り、そういったものに熱中し、約束に遅れるなんてしょっちゅうだった。電話にも出ない。だからデートの時は、私は常に本か参考書を手に彼女を待った。
努力がなかなか続かないところ。赤点を取りそうになると、私にしがみついて来る。ついつい甘やかして、私は丹念に教えてしまう。飲み込みは早いのだけど、忘れるのも早い。次からは自分で頑張ると言ったのに、努力を直ぐに忘れてしまう。
自分に甘くて、辛くなると理由をつけて直ぐに止めてしまうところ。一緒に申し込んだ私塾の夏期講習を、「自分のペースが大事だと思って」と寝坊続きで止めてしまった。私がムッとすると、抱きついて調子の良いことを言い、誤魔化そうとする。
モテるからって、すぐ調子に乗るところ。そのくせ私が男子と喋っていると拗ねて、子供みたいに怒った。
付き合いが続く内に、私はそんなハルカのよくない部分が悲しくなった。あくまでもそれは、ハルカという全体を形作る一部に過ぎない。幼い頃からある彼女の美点――天真爛漫なところや、人との繋がりを大切にするところ、笑顔、優しさ、そういったものは変わっていない。それなのに、私は不満を持ってしまった。
当時の私は、情けないくらいに贅沢だった。不満とは所有によって発生する贅沢な概念だということを知ったのは、もっと後のことだ。人は対象を所有していない時、対象の美点ばかりに関心が行く。そしていざ所有するとなると、美点に慣れ、やがて所有していない時には目に着かなかった点に、不満を覚えるようになる。
不満がある故に変わって欲しくて、私はハルカとは違う大学に進学すると言った。勉強嫌いな彼女では相当頑張らないと難しい、都会にある私大だ。そうやってハルカを試した。それで変わって欲しかった。一緒の大学に行くと、頑張ると、そう……。
でも、ハルカは悲しそうに、「そっかぁ」と、ぽつりと呟いただけだった。
高校三年になり、私は特別進学クラスに進んだ。初めてハルカとクラスが分かれた。ハルカは考え事が多くなり、時折ボンヤリしていた。一緒に過ごす時間が少なくなる。あはは、と彼女は笑った。私じゃ相応しくないよね、と言って、うん、私、応援するから、と言って、連絡も途絶えがちになり、二人の関係は自然消滅した。
それから一年。私は無事第一志望の大学に入った。都会で一人暮らしを始める。ハルカのことは思い出にしようと思い、勉強に励んだ。実際、忙しく勉強しても着いて行けない程、大学の講義は奥が深かった。相変わらず友達を作るのが下手だったけど、講義をしっかりと聞く姿勢だけは、教授に好感を持たれていたと思う。
そんなある冬の日のこと、思わぬ報せが母親から来た。ハルカが死んだ……と。
直接の死因は事故死だった。雨の日、ハルカは視界の悪い中で車に跳ねられた。高校卒業時点で志望校に受かるレベルに達していなかったハルカは、浪人して予備校に通っていたそうだ。必死に、勉強していたらしい。
その内に、無理が祟ってハルカは風邪を引いた。でも予備校は休まなかった。風邪は悪化して、それでもハルカは勉強を止めなかったと、後になってご両親から聞いた。理解できなかったことが理解できるのが楽しいから、勉強をし続けたと……。
その挙句の事故死だった。模試の翌日だったらしい。遺品の中には成績表があり、ハルカは自己採点で志望校のレベルに到達していた。私は志望校を聞いて、息が詰まった。聞き覚えのある校名。私の通っている大学、同じ、学部。
現実には見ていない筈の光景が、頭の中を、通り過ぎて行く。春のキャンパス。驚きと、再会。得意になって、彼女は笑う。得意になって、彼女は言う。
「どう? 私って、頑張れば出来る子――」
そのハルカが、白いベッドの上に力なく横たわっていた。報せを受けて直ぐ、新幹線で地元に帰った。ご両親から、色んな話を聞いた。思考が朦朧とし、目の前の結果は、全てが自分のせいのような気がしていた。目が、閉じられない。
「わ、わたしが、わたしが、一緒にいなかったから。小さい頃、ハルカは私を守ってくれて。わたしは、いつしか、自分で自分を守れるようになって。だからって、ハルカの傍から、離れて。わたしが、わたしが、都会になんて、いかなければ」
みっともなく取り乱し、ハルカのご両親に泣きながら謝っていた。私が意地悪を言ってハルカと離れたから、その私を追いかけようとして、ハルカはこうして今、横たわっているのだから……。全部、私が悪いと、私が悪いと、そう。
それが気付くと、違う部屋のベッドの上にいた。
泣き縋っている途中、胸に圧迫感を覚えたと思ったら急に息苦しくなり、必死に酸素を求めるのだが上手く吸えず、いつしか意識を失っていた。発作的な過呼吸症候群という話で、ハルカのご両親に迷惑をかけ、一時間ほど眠っていたようだった。
夜の帳が落ち、連絡を受けた私の母親が、私が眠っていたベッドの傍で、沈痛そうな顔でハルカのご両親と話をしていた。
「わたし……」
「あぁ、よかった。気がついたんだね」
ハルカの父親に顔を向ける。ナースコールが押されると、直ぐに医師が遣って来た。自分の状態を説明され、冷静になった自分がそこにいることに気付かされる。
揺れる思考の中でハルカの名前を求めると、大人たちは顔を見合わせ、最後にと、ハルカが眠る場所に赴くことになった。
「取り乱して、すいませんでした」
「いや、いいんだ。君の気持ちは、よく分かる。本当に、よく分かるよ」
その途中、ハルカの父親と私は話をした。
「僕もね……小学生の頃に友人を失って、君と同じように、感じたことがあった。随分昔のことだ。大人になって、力を着ければ誰だって助けられると思っていた。過去だって、変えられると思っていた。でも、現実は、なかなか難しいね」
別の病院で働くカウンセラーだという父親は、どことなくハルカに似た人だった。
夜の霊安室に辿り着く。ベッドに横たわったハルカは、二度と動かない。ハルカのご両親が医師に呼ばれ、「最後のお別れをしてね」と私に言い残し、霊安室を出た。私の母親も、外にいるからねと、気を遣ってか退出した。
私はハルカにかかっていた布をめくり、ハルカの顔を見る。
綺麗な顔。ハルカはまるで、眠っているだけのようだった。
「あ……」
見慣れた筈のハルカの顔に、ふと、相違を見出した。一年前と人相が違う……。当たり前だ。あんなに勉強嫌いだったハルカが、勉強好きになるほど勉強したのだ。
あれほど努力が長続きしなかった、自分に甘かったハルカが、歯を食い縛って机に齧りついたのだ。これはきっと、その結果なのだろう。
そっと頬に手を触れる。ハルカは冷たく無表情だ。音符の無い楽譜のよう。怒ったり、笑ったり、あんなによく動いた表情が、今では凍り付いたように動かない。
死んだハルカの顔が記憶を映すスクリーンになって、私の中にあるハルカの多彩な表情が、次々と投影されていく。もう泣かないと決めていたのに、視界が歪む。
楽しい時の顔。
ハルカは歌うことが好きだった。よくカラオケに連れていかれた。
嬉しい時の顔。
笑ってしまうけど、お菓子をあげた時が一番嬉しそうだった。
怒った顔。
すねると、たまに私に向けてきた。子供っぽい顔だった。
泣いた顔。
泣くと直ぐに顔を背けるから、ちゃんと見たことは一度もない。
恥ずかしがってる顔。
告白したあの時に見た……赤い顔。
笑った顔。
一番回数が多くて、一番好きな顔。
記憶の投影機が映写を止める。すると記憶にない、無表情のハルカが現れた。あぁ、そうか。ハルカの顔から表情が絶えたことなんて、なかったんだ。
無表情のハルカ。
沸き起こった衝動に従い、私はそんなハルカに最後のキスをした。唇の感触は思った以上に冷たく、固く乾いていた。涙がこぼれ、ハルカの頬に伝う。温度を失った頬を拭った。失われた体の熱は、どうやっても、取り戻せない。だけど……。
――ハルカが風邪を引いていたことを、私は知っていた。
ハルカの死を受け入れること。それは、辛く悲しい作業になるだろう。でも、必要なことなんだ。なら……せめて……。お別れの言葉を告げ、私は部屋を出た。ハルカのご両親に挨拶をし、久々に実家に寄る。翌日、お通夜には参加しないと言い、お葬式までには戻ると伝え、一人になりたくて、一人暮らしの部屋に帰った。
私は風邪を引いていた。
* * *
熱は高いけど、頭はモノを考えることは出来る。咳は出るけど、息はしている。喉の痛みも、私は生きているんだって、唾を飲む度に教えてくれている気がした。
私は考えが貧乏な人間で、意識を豊かに休ませることが出来ない。常に、生産性を求めてしまう。合理性を求めてしまう。時間を何かに換えようとしてしまう。
『ふふ、生き急いでいるみたいだよ。ねぇ、そんなに急いで、どこに行くの?』
あれはいつ、言われたんだろう。今になって分かる。本当に自分にぴったりで、悔しいよ。でもハルカ、私より先に、あなたこそ、ねぇ何所に行ってしまったの?
無理に笑おうとしたら失敗して、また、狐が部屋で鳴いた。
そんな考えが貧乏な私でも、風邪を引いた時は、何もしないでいられる。病気の時だけ、何もしないことが、許される。無くしてしまったものの大切さを、砂時計の砂のようにもどかしく落ちて行く時間の中で、見つめられる。
でも、その風邪もいつか治る。ハルカを失った悲しみも、いつか丸く柔らかくなって、私の大事な思い出になる。なって、しまう。
――どうしてだろう。
どうして人は、失う未来の視点に立って、今を見つめられないのだろう。そうすれば、どんなに馬鹿な私だって分かる。その大切さが、分かる。何気なく所持しているもの、所持していたものが、どれほどの情熱を持ってしても、簡単には、手に入らないことが。実はそれが、とんでもない、宝物だったことが。
――何故だろう。
そして人は何故、好きという気持ちを、他のどうでもいいもので覆い隠してしまうのだろう。大切な気持ちを、どうでもいいもので見えなくさせてしまうのだろう。
あぁ、本当……私は馬鹿だ。
そんなことに、ハルカがいなくなってから気が付くなんて。
頭が枕に沈む。体は重く、熱は高いままだ。ハルカから貰った、この熱。それもいつか全て、なくなるのだとしても……。せめてもう暫くは、このままでいたい。健康と愛の大切さを、私というバカモノに、身に染みて分からせてやりたいから。
風邪にもう少しだけ治らないでと自分勝手なお願いをしてから――瞼を閉じて、眠りに入る。その時間の中で、春の空気のように霞がかった中で、大切な人が微笑んでいた。聞き覚えのあることを、言っていた。悪夢の話をした、あれは……。
『もう、夢の中で勝手に孤独にならないでよ。ね、私たち、ずっと一緒にいようね。一緒にいられる、生き方をしよう。私、頑張るから』
いつも、失くしてから気付く、愚か者よ。
混じり気のない寂しさに、砕け散れ。
意識は温かい泥に包まれ、深い場所まで落ちていく。
雨は記憶を癒すように、朝方まで降り続けた。
感冒は去り、見る筈の悪夢を、私は見なかった。それなのに、子供みたいに沢山の涙が瞳から流れ、降り落ちた雨は、路上から排水溝へと消えていった。