天使のくれたフリーキック ~司令塔は左きき~
「わあ、スゴいね!」
華やかな声が聞こえた。
リフティングを止めて俺は振り向く。埃っぽい空気を通して、一人の少女の姿が見えた。
少女はブルカと呼ばれる頭を覆う民族衣装を着ていた。その白い服が今でも記憶に焼きついている。
戸惑っている内に、少女は近づいてきた。日焼けしたレンガの上を、彼女のサンダルが軽く滑る。
中東の人独特の黒目の大きい瞳から、視線が注がれる。
「サッカー、上手ですね」
「――ん。プロ選手だから」
英語で聴かれたので、何とか英語で返した。
無愛想だっただろうか。でも彼女は気にしていないようだ。
「ほんと? スゴい。日本人に見えるけど、もしかして今日の試合に出る人?」
「うん。スタメンかどうかは分からないけど、多分出ると思う」
答えながら、試合会場の風景を思い浮かべる。
開始は午後七時だ。その頃には、この日中の熱さも引いているだろうか。
そうであってほしいと願いながら、また俺はリフティングを始めた。
「サッカー、好きなの」
少女に声をかける。
その間にも、ボールは止まらない。足首を柔らかく使い、軽く跳ね上げた。膝、肩と自分の体をつたわせる。
「うん。でもこんな間近でプロの人見るのは初めて」
「あんまりそこらにはいないからね」
トッ、とボールが弾む音と、見知らぬ少女との会話が重なった。
ふとイタズラ心が沸き、ポゥンと柔らかいタッチで蹴った。
緩い放物線を描いて、ボールが少女に飛ぶ。
「わっ、ビックリした」
少女の両手がボールを受け止める。
「ナイスキャッチ」と言ってあげると、はにかんだような笑顔を見せてくれた。
ポゥンとボールは放り投げられ、俺の足元に返ってきた。トラップして、またリフティングを続ける。
「見てるだけで面白いわ」
「プレイしたらもっと面白いよ。女子サッカーあるでしょ、この国にも」
「はい。あ、でも私、運動苦手だから」
「そうなの。じゃあ、無理には言えないか」
リフティングを続けながら、そんなことを話した。
何でもない会話なのに、何故か今でも覚えている。
† † †
空港を通り抜け、そのまま代表送迎のバスに乗る。
屋外に出た時間はごく短かったけど、乾いた空気を感じるには十分だった。細かい砂が混じり、熱をはらんでいる。
そうだな。四年前と同じだ。これがカタールの空気だ。
「寺嶋、荷物貸せよ。お前、膝」
「大丈夫です」
振り返った三森さんに、短く答えた。
それだけで意図を汲んでくれたらしく、三森さんは口を閉じた。先にバスに乗りながら、声をひそめる。
「大丈夫なんだな」
「――はい。平気です」
返答の一瞬の遅れをスルーしてくれたのは、優しさと信じたい。
左膝の上を軽くさすりながら、俺はバスの急な階段に足をかけた。
小さな痛み、いや、忘れろ。
「よし、全員乗ったな。事前に伝えていたスケジュール通り、試合は二日後だ。
今日はホテルにこのまま直行して、大人しく宿泊。明日は軽めの練習だ。
時差ぼけには各自気をつけろよ」
監督の声が動き出したバス内に響く。それを耳に留めつつも、俺の心はどこか沈んでいた。
視線は窓の外を向く。高速道路の周囲は、一面の砂漠だ。
白茶けた砂の風景が延々と続いており、距離感を失わせる。
"あの子、もういないんだよな"
ポケットに手を突っ込み、一枚の手紙を取り出す。何度も読んだせいか、もうくしゃくしゃだ。
日付は一年前の今日。すっかり覚えてしまった癖のある英語の文章に、俺は目を通す。
拝啓 寺嶋勇人さま
突然のお手紙を失礼します。
日本サッカー協会を通じて、特別にこの手紙を届けていただくことになりました。このような形で以下の事実をお伝えしなければならないことを、残念に思います。
あの子が、アイシャが亡くなりました。
目を伏せた。
俺は手紙を睨み付ける。
そこにあの子の、一度しか出会ったことのない、あの少女の顔を見い出そうとする。
四年前、ここカタールで出会い、それから何回もメール交換をした。
けれど、それも過去のことだ。
"爆破テロ、か"
もう一度、窓の外を見た。白々しい砂漠はどこまでも続いていた。
カタールの空気は熱いが、湿気はない。日本の粘りつくような湿気に比べれば、断然過ごしやすい。汗をかいた傍から、すぐに乾燥していく。
「よーし、紅白戦に移るぞ。Bチームがビブス、十五分ハーフを三本だ。時間は短いが集中しろよ」
コーチの声が練習場に響く。
練習は非公開にしているため、報道陣の姿はない。ワールドカップの最終予選の最終戦だ。そりゃ神経質にもなるだろう。
「よし、気合いいれろよ、お前ら! ただし怪我だけはするな、させるな! 集中!」
GKの浅井さんの大きな声が聞こえた。
バンとグローブを合わせ、ぐるりと肩を回している。
この人がキャプテンだからこそ、日本代表はまとまっているんだと思う。
ピッチを見渡しながら、俺もそこへ踏み込む。
スパイクが緑の芝を噛んだ時、肩を叩かれた。振り向く。
「寺嶋、お前はダメだ。代われ」
コンディショニングコーチのひげ面が、俺をじっと見つめていた。
「何でですか。別になんとも」
「代われ。気がつかないとでも思ったのか」
声が低くなった。
周りにいた代表選手の動きが止まる。視線が俺に集まってくるのを感じた。
こめかみが熱くなる。代わりに胃の辺りが冷たくなった。
「全然大丈夫ですから。
ワールドカップの出場がかかってる試合なんですよ。ちょっと膝痛いからって」
「練習段階でも動きに無理があるんだよ。出ろ。今日はもう休んでいい。監督の指示だ」
「そんな」
コーチの後ろを見た。
監督と目が合う。沈黙が一つ、そしてそのまま頷かれた。
ダメだ、これは。抵抗しても無駄と悟った。
「分かりました。上がります」
諦めた。練習場を去る時に、監督に頭を下げる。目が合った。
「寺嶋」
「はい」
「無理をするな。お前まだ二十三歳だろう。サッカー人生は長いぞ」
「だから今回の試合は出さない、と」
「出せないんだ。お前がうちの十番であっても。いや、十番だからこそな」
意味は分かる。
司令塔である十番が不完全な状態であれば、チーム全体の攻撃が滞る。
監督の判断は正しい。だが、俺は。
「......すいません、でした」
心の整理をつけることが出来ないまま、頭を下げた。それしか出来なかった。
プァン、というクラクションの音と、雑踏が混じる。
耳に飛び込む話し声は、英語ですらない。俺には分からないカタールの言葉だ。
"何でだよ"
虚無感を胸に抱えたまま、俺は異国の街を歩いていた。
荷物は少ない。財布や鍵が入ったウェストポーチと、肩からキャリアーでぶら下げたサッカーボール一つだけ。
そんな旅行者とも言えない格好で、ふらふらと歩いた。
"人生で一番大事な試合に出ることさえ出来ないのかよ"
膝の調子が悪いのは確かだ。
去年の暮れから時折、左膝がぎこちない。靭帯の一部が切れかけていると医者に聞かされた。
それでも普段は何ともない。痛み止めで誤魔化して、サッカーをすることも出来なくはない。
"けど、やっぱりバレてたのか"
ほんのちょっとだけ無理が、ズレが生じる。それを見抜かれたらしい。
舌打ち、けれどそれは心の苛立ちを酷くしただけだった。
歩き疲れ、適当なカフェに寄った。
白い布が日除けとなり、俺の視界の一部に影を作る。
白っぽい街の光景に陰影が生じ、現実感があるのかないのか分からない。
行き交う人々の顔は平和そうで、あの爆破テロを引きずっているようには見えない。
だが、確かにそれはあったんだ。そしてそれは、遠く離れた日本にいた俺にも、けして無関係じゃなかった。
中東独特の甘いカフェオレを啜る。
アイシャもこの飲み物が好きだったらしい。
らしい、というのは、俺は彼女のメールでしかそれを知らないからだ。
目を閉じる。白い街角の代わりに、彼女とのメールのやりとりが瞼の裏に浮かんできた。
《ユートのプレイ、試合会場で観ていました。
すごいね。点決めた時、思わず声あげちゃった。U―20ワールドカップ、本選出場おめでとう》
これは、そうだ。
四年前、彼女と会ったすぐ後だ。
俺のリフティングを見て、何故か俺に興味を持ってくれたらしい。
メールアドレスの交換をした時は、まさか本当にメールしてくれるとは思っていなかった。
《ベスト8まで行ったなんて、スゴいよね。それでもやっぱり悔しかった、よね。相手がブラジルでも、試合なんだから。でも、私はユートの実力は通用していたと思うよ》
《今度、うちの家にも衛星放送が入るの。日本のJリーグの試合も観ること出来るから、ユートの試合観るね。点決めて、勝てますように》
《来月からハイスクールに行くことになったの。まだ将来何になるかは決めてないけど、なりたい物が見つかるといいな。
ユートはいつからサッカー選手になりたいと思ったの?》
《服飾科という科があって、そこの授業が面白かったよ。この国の女性は肌を見せてはいけないから、皆お洒落したくても出来ないの。
けれど最近はその風習も少しずつ変わってきていて、デザイナーになる人も出てきたんだって》
他愛ない内容だけど、それでもアイシャのメールは生き生きしていた。
英語のメールに目を通していると、ちょっとくすぐったかった。
俺のサッカーを遠くで応援してくれている人がいる。それは不思議で、暖かい感覚だった。
《いつもメールありがとう。励みになります》
あまり英語は得意ではなかったけど、ちゃんと返信はした。
カタールとの時差は何時間あるのだろう。
《お返事ありがとう! ユートのサッカー、とても綺麗ね。トラップの時、ボールが足に吸い付くみたい》
時には日本時間の夜中に届いた。朝、そのメールを読むのが、いつしか日課になっていた。
《トラップ上手ければ、ボールは取られないから。練習してるんだ》
《えらいね。私もサッカー出来たら、もっとお話出来たのになあ》
無機質な英文メールの向こうに、俺はアイシャの顔を思い浮かべる。
時には写真も添付してくれたから、忘れることはなかった。彼女は元気にやっているらしい。
そんなやり取りが三年続いた。
遠くの地にいるメル友、それ以上でも以下でもない。
お互いに会えるとは思っていない、そんな関係。
それでも、ふと気になる時はあった。
《ニュースで見た。反政府ゲリラが武装蜂起したって聞いたけど、大丈夫?》
《平気、平気。私が小さい時から、当たり前みたいにあったもの。
ちょっと物騒な事件が起きて、すぐに鎮圧されておしまいよ。いつものこと》
《そうか、それならいいんだけど。
あ、俺、この前日本代表に選ばれたんだ。ひょっとしたらまたカタールに行くかもしれない》
《ほんと!? もし来たら、連絡してね。ユートのリフティング、また見たいから!》
今振り返れば、それが最後のメールだった。
アイシャ・スハーミアからのメールは突然途絶え、俺はその理由を彼女の両親からの手紙で知ることになる。
目を開ける。
空が眩しい。
ぎらぎらした陽射しに目を細め、街角に視線を流す。
アイシャが命を落とした場所は、このカフェから遠くない。爆破テロの跡地には、今も花束が絶えないと聞いていた。
「ハシュパミナ広場は、ここから近いのかい」
「徒歩五分ですね。あの大きな劇場を曲がって、すぐです」
「ありがとう」
ウェイターにチップを渡し、俺はカフェを出た。果たせなかった約束をはたす為に。
† † †
教えられた通りに歩くと、確かにすぐだった。
元々市民の憩いの場らしく、日陰をもたらすパラソルが何本か立っている。子供の笑い声に微かに頬を緩めたけど、それもすぐに消えてしまった。
"あれ、か"
近づく。白っぽい土の広場に、黒い慰霊碑が置かれていた。大理石だと気がついたのは、その前に膝を着いた時だった。
「一年前よ、ここでたくさんの人が亡くなったのは」
突然話しかけられた。
ブルカを被った老婆が、俺を覗きこんでいる。老婆はすぐに視線を逸らし、慰霊碑へと向きを変えた。
手に持っていた白い花がゆっくりと置かれる。
「息子がね、亡くなったの。婚約者と二人で出掛けていた時にね」
花びらが風に揺れた。
その花びらの揺れに合わせるように、老婆の独白は震える。
「止めれば良かったと思ってもね......戻ってくるわけもないし。
だから毎日ここに祈りにくるしか出来ないのよ」
「そう、ですか」
俺が言えたのはそれだけだ。
祈りはしなかった。
老婆から距離を取り、キャリアーからボールを抜き出す。白と黒の球体を、俺はポゥンと緩く放った。
「友達が亡くなったんです」
左足で軽く蹴った。痛めていても、これくらいなら大丈夫だ。
「そう、お友達が......」
「はい。四年前にこの国で会って、メールで色々話してました。サッカーが好きで――」
リフティングを続ける。クルクルと回転を止めないボールを、俺は両足で器用に扱う。
アイシャがどこかで見ていてくれればと願う。
「いつも応援してくれていた」
一度しか会ったことがないのに、この遠い国から。
なのに俺は、試合に出ることすら出来ない。せっかくカタールまで来たのに、天国の彼女に俺のプレイを見せることさえ出来ない。
情けなかった。
うつむき気味になりながら、一際高くボールを蹴った。視線もそれを追って上を向き、すぐにまた地面に向かう。
フッと違和感を覚えたのは、その時だった。
「あれ、さっきのおばあさんは?」
いない。俺のすぐ前にいたはずの老婆が見当たらない。
それだけじゃない。周囲の景色が一変していた。
子供の笑い声が聞こえない。
憎たらしいほどの明るい陽射しは隠れ、辺りは薄い灰色に包まれていた。
色彩が無い世界とでも言えばいいのか。
「誰もいない?」
疑問が口をついて出た。
急に怖くなり、周囲を見回す。
誰もいない。俺しかこの広場にはいない。
コロ、とボールが転がったことに気がつく。
拾わなきゃと思ったけれど、ただ目で追うしか出来なかった。
数メートルほど転がってから、ボールが止まる......いや、止められた?
サンダルを履いた足が遠慮がちにボールを止めている。
「ユート、こんにちは」
覚えのある華やかな声に、俺は耳を疑う。
「アイシャ?」
俺の呆けたような呟きに、ブルカをまとった少女はこくりと頷いた。四年前と変わらない姿で。
† † †
「爆破テロに巻き込まれたって聞いたけど、生きてたのか」
「ううん、違うよ。私は死んだわ」
俺の微かな望みは、本人により否定された。
寂しげな笑みを浮かべたまま、アイシャはボールを俺に蹴り返す。
「知ってるでしょ、ユートも。うちの両親が手紙で知らせた通りなの。
私は去年死んでしまった。ここにいる私は魂だけの存在、かな。上手く表現出来ないけれど」
アイシャの囁くような言葉が、灰色の世界を滑る。理解するというよりはただ、受け止めた。
「幽霊みたいなものなのか」
「多分ね。自分でもよく分からなくて、でも気がついたらここにいたの。そうしたら、ユートに会えた」
「そっか、何て言えばいいのか」
言葉に詰まった。
嬉しくないわけじゃないけど、驚きの方が強い。
足元にはアイシャから転がされたボールがある。それをつま先でつつきながら、何とか口を開いた。
「俺さ、日本代表としてカタールに来たんだけど試合に出られそうもないんだ」
ひきつったような笑みを浮かべながら、左膝を指差した。
アイシャは「え、何で?」と首を傾げる。説明しなきゃ分からないよな。
今回の試合はワールドカップの最終予選の最終試合。
現在、日本は勝ち点で三位タイにつけている。
この最終試合の相手のイランに勝たないと、ワールドカップには出場出来ない。正真正銘の瀬戸際だ。
「そんな事態なのに、俺の左膝は万全じゃない。今日も練習から外された。試合に出られるような状態じゃない」
「そこまで悪いの?」
「自分じゃ平気なふりをしてるけど、違和感はあるよ。試合に使いたくないという監督の気持ちも分かる」
分かるけど、分かるけど、だけど。
悔しさと情けなさから唇を噛み締めた。アイシャ――正確にはアイシャの幽霊は、何も言わない。
その大きな黒い目が、じっと俺の左膝に注がれる。
「最後のメール、覚えてる?」
「覚えてる。
日本代表として、カタールに行くことになるかもって。
実際そうなったけど、試合に出られないんじゃ意味ないよな」
「諦めちゃダメよ。まだ時間あるんでしょう?」
「無理だろ、明日だぞ。どんな医者だって、一日で膝治すなんてさ」
俺は強い口調で否定した。
幽霊が試合を見られるのかどうかは分からないけど、アイシャはきっと俺の試合を応援したいんだろう。だけど無理だ。
「無理じゃない」
凛と響いたその声に、俺は反応出来なかった。いつのまにか、アイシャが俺との距離を詰めていた。
「応援は嬉しいけど、無理だ。何度も病院に通って、それでも完治しないまま引きずってるんだ。治りっこない」
「明日の一試合だけなら、私が何とかしてあげるから。左膝、もたせてあげる」
反応する暇さえなかった。
アイシャが俺の足元に屈みこむ。ブルカで包んだ後頭部が見え、灰色の世界にその白だけが鮮やかだった。
「ユートのサッカーはとてもキレイだった。
だから私は応援したい。お願い、私を信じて」
とくん、と一つ心臓が鳴った。
アイシャの細い指が、ゆっくりと俺の左膝に触れる。
ひんやりとしており、体温を感じない。
「明日の試合は、ユートにとってすごく大切な試合。ユートの人生を変える試合。だから私も見てみたいの」
アイシャの唇が左膝に触れる。
柔らかな感触が押し付けられ、俺の背筋が震えた。とくん、とさっきより大きく心臓が鳴った。
「きっと、きっと大丈夫。ユートの足は大丈夫よ。私が応援しているから」
アイシャは俺の左足全体にしがみつくように、その細い体を絡ませていた。
冷たいと感じた次の瞬間には、ゆっくりと熱がこみ上げる。
ブルカの生地を通して、アイシャの肌を感じた。
「だからお願い、ユート。私にあなたのサッカーを見せて」
頭が痺れる。うずき始める。アイシャの体は徐々にその輪郭を無くしていっている。
得体の知れない暖かさに包まれながら、俺は何とか声を絞り出す。
「分かった、アイシャの言葉を信じる。明日の試合に出て、俺のサッカーを見せてやるよ」
「そうよ。ユートなら出来る。きっとあなたはプレイ出来る」
「ああ、君の言葉を信じてみるよ。だから楽しみにしていてくれ」
「良かった。あなたのサッカー、もう一回見たかったから」
「約束する」
「ありがとう」
彼女の声が途切れた。
半透明のアイシャが俺の足元から離れ、ふわりと宙に浮く。
「待って」と言いかけたけど、彼女との距離は離れるばかりだ。
「もう行かなきゃ。会えてよかった。こんな形でなければ、もっと嬉しかったけれどね」
「そう、だな。でも俺も会えて嬉しかったよ。明日の試合、君も観てくれるんだよな」
「もちろんよ。頑張ってね、ユート。天国から応援してるわ」
白い光の微粒子が、雨のように降り注ぐ。
その流れに逆らうように、アイシャは天へと消えていった。眼の錯覚なのか、背中から白い翼が生えているようにも見えた。
天使という単語が脳裏に浮かぶ。普段なら笑ってすませるけど、今日はそうもいかないだろう。
立ちすくみつつ、俺はただ空の彼方に消えていくアイシャを見上げていた。
突然、視界が明滅した。その激しさに耐えきれず、伏せるように目を閉じた。
がくんと膝が落ち、その場にしゃがみこんだ。そのままじっとしていると少しましになってきた。
意識がぐるんと裏返るような感覚に耐えながら、恐る恐る目を開く。
明るいハシュパミナ広場の風景が、俺の周囲に戻ってきている。
世界は色彩を取り戻していた。
「どうかしましたか、日本の方?」
「いえ、何でも」
あの老婆もさっきと同じようにいた。答えながら、俺はサッカーボールを左足のつま先で浮かせた。
トッ、トッと二回ほど弾ませてから、試しに思いきり上空へと蹴りあげる。
痛みは全然感じなかった。カタールの青い空に、白と黒のボールが高々と舞った。
† † †
「上がれ、上がれー! 時間ねえぞー!」
浅井さんの声を背に、俺達は一気に走った。相手のシュートを止めてからのカウンターだ。この機会を逃せば、試合は終わってしまう。
"動けよ、俺の足!"
自分に叱咤する。疲れはピークに達していたが、痛みはまだない。イランの選手がマークを仕掛けるが、それをスピードで振り切る。
スタジアムは興奮のるつぼと化していた。観客席の熱気が渦を巻いているかのようだ。
一対一の同点で迎えた後半ロスタイム、残り時間は僅か。
イランとしてはこのまま逃げ切ればいい。
逆に俺たち日本は絶対に一点取る必要がある。
「三森さん!」
バイタルエリア一歩手前でボールを受けて、俺は右斜め前にパスを出した。相手DFの足が止まりかけたところに、三森さんが走りこんだのが見えたからだ。
ボールを足元に収め、三森さんはそのままペナルティエリアに侵入しようとする。やや強引な突っかかりだったが、この時間帯にしては破格に鋭いドリブルだった。
イランの応援席から悲鳴にも似た声があがる。それに弾かれたように、相手DFが三森さんへ足を伸ばす。
ボールへ向かったはずの足は、しかし、三森さんの足首を捉えた。
引っ掛かる、倒れる。そしてこれを見逃してくれるほど、審判は甘くはない。
「おおおおお、絶好の位置でフリーキックです! イランは痛い場所でファウルを犯してしまいました!」
多分、実況はそんなことを叫んでいたんだろうな。
ちらっと見えた観客達の興奮した顔からも、それは容易に推察出来る。
残り時間から考えて、これがラストプレーになる確率は高い。
つまり俺達にとっては、ラストチャンスってわけだ。
「三森、ナイスファイト!」
「寺嶋もよくあそこでパス出したな!」
かけられた賛辞に、三森さんも俺も小さな笑顔を見せた。喜んでいる暇はない。
「それよりかキッカー決めなきゃな」と三森さんは何人かの顔を見る。
こういう場合のキッカーは、大体決まっている。普通ならば、南さん――スペインでプレーしているテクニシャンだ――が蹴るんだけど。
「南さん、俺に蹴らせてください。お願いします」
「寺嶋?」
南さんは不思議そうな表情になった。汗をぬぐいながら、俺の左足をじっと見る。
「......自信あるのか?」
「あります」
「ここまでよくもったけど、実はもう左足が限界なんてことはないよな?」
「大丈夫です」
疑うような、心配そうな視線に、俺は短く答える。
審判が早くしろと言いたげにこちらを見たので、素早くボールを拾った。
「どうしても蹴りたいんです。このフリーキックだけは」
届けたい人がいるから、とは言えないけど。決意をこめた視線を、相手のゴールへと向ける。
「分かった。任せたぞ」
南さんの承諾と共に、皆がその場から散る。
既にイランの選手は壁を作っている。長身の選手が多く、圧迫感があった。
ボールからゴールまでの距離は、大体十五メートルくらいか。フリーキックの練習では、これくらいの距離から決めたことはある。
左膝に目をやる。
それから足首から太ももまで、感覚を確認する。
もつ。もっている。ロスタイムを含め、九十分超戦ってもまだ俺の左足は動いている。
"なあ、アイシャ"
神経が研ぎ澄まされていくのが分かった。
観客席のざわめきが、ピッチにいる二十二人の選手の緊張が伝わった。
それら全てを飲み込んだ上で、俺は自分の左足を信じている。
"見ててくれよ、空の上からさ"
アイシャが動かせるようにしてくれた、この左足を信じられる。
"君が好きだと言ってくれた、俺のサッカーを。これまで積んできた技術の集大成を"
心が願いを刻み、周囲の音が消えていく。
静かだ。何も聞こえない。
緑色の芝をスパイクが蹴った。
短い助走から、ボールの横に軸足の右足が突き刺さる。
少し斜めに倒した体勢から、俺はゴールへと続く軌道に左足を走らせた。
"このフリーキックだけは絶対に決めてやる"
一秒にも満たないインパクトの瞬間に、全ての感情をぶつけた。
それはサッカーへの情熱だったり、ワールドカップへ出たいという欲求だったり、単純にこの試合に勝ちたいという気持ちだったりするけれど。
それよりもっと大きなものは、今はもういないあの異国の少女への祈りなんだよ。
何の罪もないのに、爆破テロで人生が終わってしまったあの少女への祈りなんだ。
インフロントで蹴ったボールは、壁の選手達を超えた。
ファーサイドからニアサイドへと巻き、急激に落ちていく。永遠とも思えるほんの短い空白が過ぎ、俺は。
「入れ!」
叫んだ。
夢のような弧を描き、ボールがGKの手を掠める。
ポスト間際のギリギリ、ここしかないコースへと滑り込んでいく。
静寂が破れ、スタジアムに音が戻った。
ドッ、と全ての観客が立ち上がった。
爆破するような叫びが上がった。
日本の選手達が、俺の周りに駆け寄ってきた。
イランの選手達がピッチに崩れ落ちていく。
それら全てが、嵐のようにスタジアムの空間を支配する。
「ゴオオオオオオル! ゴオオオオオオル! ゴオオオオオオル!
入った、入った、入りました! 寺嶋、この大舞台でよくぞ決めてくれましたああああ!」
轟音のような実況が耳を掠めた。
ネットに突き刺さったボールを見ながら、俺は大きく息を吐く。
"見ててくれたかい、アイシャ"
見てたよ、ユート。ワールドカップ出場、おめでとう。そしてありがとう。凄いフリーキックだったね。
仰いだ夜空から、彼女の声が聞こえた気がする。
その声に答えるために、俺は無言で左拳を高々と突き上げた。
† † †
「いやー、何回見てもすげえよな、あの寺嶋のフリーキック。ほんと綺麗なカーブ描いて決まったもんな」
「あれは脱帽ものだよ。俺でも中々ああは蹴れない。譲って良かった、ほんと」
「決まってなかったら、やっぱり自分が蹴れば良かったと思うしな」
「それは......うん、まあ思うだろうな」
三森さんと南さんが俺の方を向く。二人の笑顔が俺には眩しい。
「何度も言うけどさ、よく決めたな、寺嶋」
「ありがとうございます。でも三森さんがあそこでファウル取ってくれたからですよ」
「全く、こういう時くらいはちょっとは威張れって。お前、謙虚過ぎるぞ」
ばしばしと三森さんが俺の右肩を叩く。その反対側から、南さんが話しかけてきた。俺にとっては二人とも良い先輩だ。
「けど、寺嶋。お前の左足、大丈夫なのか。あの試合、やっぱり出ない方が良かったんじゃないか?」
「もう出てしまったんだし、仕方ないですよ。それに最高の結果を出せましたしね」
俺は左足をぎこちなく引きずる。
白く固いギプスが装着され、思うように動かせない。
チームドクターによると、靭帯を酷く痛めているらしい。全治四ヶ月だそうだ。
「そうか。だが、よくその状態であの試合もったな。ほんとに出られないかと思ってたよ」
「いや、ほんと南の言う通りだよな。前日の練習でも、監督から上がれなんて言われてたし。どうやったら一日であれだけ回復するんだよ」
「んー、それはちょっと」
正直に言ったらどうなるか。とりあえず正気は疑われるだろうな。
だから俺は笑顔でごまかしたんだよ。
曖昧な返答をしてから、俺はパスポートと航空券を取り出した。もうじき帰りの飛行機の時間だ。
ふと気になり、空港の大きな窓の向こうを見る。一機の飛行機が離陸して、空へとその鉄の翼を広げている。
その飛行機が空の彼方へと消えていくまで、俺はそれをじっと見ていた。
「どうした、寺嶋?」
「あ、何でもないです。今行きます」
三森さんに答えてから、俺はゆっくりと歩き始めた。
胸の奥に、あの日のアイシャの顔がちらついている。
悲しみといとおしさが等分に混じった複雑な感情のまま、彼女に心の中で語りかける。
"目を離すのが惜しいくらい、すごいサッカーしてみせるからさ。だから天国で応援し続けてくれよな"
うん。私、ユートのサッカー好きだから。
きっとこの声はただの俺の思い込みだけど、それでも。
ブルカをまとった天使の為に、俺は俺のサッカーを続けていくんだ。
そう誓いながら、俺はカタールの空を見上げた。
いつかまたピッチの上で彼女に会いたいと――そう願いながら。