桜さんの年下の男の子事件簿
――事件その1。
二月の寒い朝にそれは突然やってきた。
「好きです。マジで。マジで……好きです。もうほんと、マジで、ほんとマジなやつです。やばいくらい。好きですマジで」
こんな短時間に大量の「マジで」を聞いたことがない。
まだ若いから、ということを考慮したとしても、その語彙力の乏しさはどうにかならないものか。
しかし当の本人の顔を見ると、仕方がないかと思える。
――顔面どころか、首まで真っ赤だ。
「あのね、キミ……」
「カイトです!」
「カイトくん」
「はい!」
「私、今年で二十八歳だよ?」
「若く見えますね!」
「ありがとう。いやそうじゃなくて、あなたは大学生でしょう?」
カイトくんは少し驚いたような顔をした後、悲しそうにうつむいた。
どう見ても二十歳そこそこの青年。
リュックの中にテキストらしき物がちらりと見えたから、大学生か、もしくは予備校生か。
「……年下は嫌いですか?」
「ごめんなさい。あなたとはそういう関係にはなれないです」
しょんぼりと肩を落としながら歩くカイトくんの後ろ姿を見送った。
「――上手くいかないなあ……」
やっと常連客ができたと思ったのに、妙なことで失ってしまった。
ため息を吐きながらCLOSEDの看板を掛けた。
ここは私が経営するカフェ、「SAKURA」。
つい三ヶ月前にオープンしたばかり。
テーブル席14、カウンター席3の、こじんまりとした小さなお店だ。
接客も調理も全て私一人でやっている。
というのも、お客が全然来ないから、私だけで事足りるのだ。
あのカイトという青年が、初めてうちの店にやってきたのは一ヶ月ほど前だった。
その日は朝から雨が降っていた。
彼は全身ずぶ濡れで店の中に入ってきて、ホットココアを注文した。
背が高いけれど顔立ちはまだ幼く、学生さんであることは見てすぐに分かった。
ホットココアと一緒にタオルを渡すと、少し恥ずかしそうに微笑んだ。
帰りに店の置き傘を貸してあげると、翌日にわざわざ返しに来てくれた。
若いのに、とても丁寧な男の子だなあというのが、最初の印象だ。
それからというもの、彼はほぼ毎日来店している。
他にお客もいないから、彼と他愛のない世間話をするのが私も楽しみになっていた。
だけど……
「きっと、もう来ないだろうな」
少し、寂しく感じるのは、なぜだろうか。
――事件その2。
もう二度と来ないと思っていたのに。
「桜さん! 俺と遊園地行きませんか?!」
若い子は思考回路がどうかしてるんだろうか。
私、昨日、ちゃんと断わったよね。
なのになんで遊園地?
「よく考えたらまだ出会ったばっかだし、これから俺のこと好きになってもらおうと思って!」
きらきらとした笑顔でカイトくんが言う。
これが犬なら、ちぎれんばかりに尻尾を振っていることだろう。
「どうして私の名前を知っているの?」
「お店のホームページに書いてあったので!」
「ああそうか」
「桜さん遊園地行きましょう!」
「行かないです」
「じゃあ、映画は?」
「行かない」
カイトくんが、しゅんとうなだれた。
「やっぱ、アレですかね……大人の女性は、もっと、お金のかかるデートがいいんですかね……?」
叱られた子犬のようにふさぎ込むカイトくんに、私は思わず噴き出してしまった。
「――どうだろうね。私は別にそうでもないけど」
「そうなんスか?」
「うん。気軽なデート好きだよ」
「じゃあ、カラオケとか行きましょうか!」
「もうおばさんだから、若い子の曲を知らないのよ」
「大丈夫ッスよ! 俺、ヨユーでキャンディーズとか歌えますよ!」
「いくら私がおばさんでもさすがにキャンディーズ世代ではないんだけど」
「ボウリングとかやります?」
「身体動かすのは苦手」
「ハスの花が開くとこ見に行きましょうか!」
「私のこと何歳だと思ってるの?」
ハスの開花は正直ちょっと興味あるけども。
――事件その3。
懐かしい顔だと思ったら。
「――新条さん?」
「やあ、久しぶり」
天気の良い昼下がり、前に勤めていた会社の先輩がお店にやってきた。
新条さんは私より3つ年上で、スーツがよく似合う長身のイケメン。仕事ができる上に部下の面倒見も良く、女性社員からの人気がダントツだった。
私がまだ入社したての頃は、私の失敗もよくフォローしてもらった。
「ここで君が店やってるって聞いてさ。ちょうど近くで仕事あったから寄ってみた」
にこりと微笑む新条さんは、相変わらず「仕事できますオーラ」が満載だ。
上質のコートを脱ぎ、店内の席にゆったりと座る姿はなんとも様になる。
「――桜さん、誰ですかアイツ」
気がつくと、いつの間にやらカウンター席にカイトくんが座っていた。
鋭い目つきで肩越しに新条さんを睨んでいる。
「あら、いつ来たのカイトくん」
「今来たとこです。ロイヤルミルクティーをください」
「はいはい」
カイトくんを適当にあしらって、新条さんにお水とメニューを渡しに行く。
「コーヒー。ブラックで」
新条さんの低い声が耳に心地良い。
厨房に戻ろうとしたら、
「桜さん! ロイヤルミルクティー取り消し! 俺も、俺もコーヒー! ブラックで!」
カイトくんが慌てて注文を変更した。
いつもロイヤルミルクティーにたっぷりの砂糖を入れて飲んでいるのに、ブラックなんて大丈夫かしら。
「――君が会社を辞めた時は驚いたよ」
コーヒーを運んで行くと、新条さんが懐かしそうに目を細めた。
「まあ、あの部長の下で働くのは確かにキツかったもんな」
前の会社の話をされて、私は思わず苦笑いになった。
――ある日突然、君が寿退社したらと思うと、不安で君には大きい仕事を任せられなくてねえ。
私の仕事が途中で他の者に回されたり、あからさまに雑用ばかりを押しつけられて、部長に理由を聞きに行ったら回答がこれだった。
それから半年後に会社を辞めて、今に至る。
「あれはひどいと俺も思ったよ」
新条さんが眉を下げて笑った。
そう言えば新条さんも、あの部長とはよく衝突していた。
「実は俺も、君が辞めた後すぐに退職したんだ」
「そうなんですか?」
「うん。君がいないとつまらなくてね」
ドキリとした。
こんなの社交辞令に決まっているのに。
尊敬する先輩にそんな風に言われたら嬉しくなってしまうものだ。
会社にいた頃はこの人に認めて欲しくて、必死になって仕事していたから。
「今はここで働いてるんだ」
新条さんに渡された名刺を見て驚いた。
前に勤めていた会社よりもずっと大手企業だ。
ちなみに肩書も、随分と昇進なさったようだ。
「うちの会社に来ないか?」
「え? 私がですか?」
「もう一度、タッグを組みたい。君となら面白い仕事ができるはずだ」
憧れの先輩と、大手企業でまた一緒に仕事をする。
その方が収入は安定するし、きっと充実した日々になるのだろうけど。
どうしてだろう。
二つ返事できない自分がいる。
「正直なところ、カフェ経営なんて儲からないだろ? ここは立地条件も悪いしなあ」
優雅な手つきでブラックコーヒーを飲みながら、新条さんが言った。
カウンター席ではカイトくんがブラックコーヒーを嘔吐きながら飲んでいる。
「実は、君のことはもう上司に話してあるんだ」
「そうなんですか?」
「うん。面白いヤツがいるって言ってある。君ほど根性も発想力もあるヤツはなかなかいないよ。上司も会いたがってる」
「はあ……」
「返事はすぐじゃなくていい。よく考えてくれ」
新条さんはコーヒーを飲み干すと、会計を済ませてコートを羽織り、颯爽と退店した。
その後ろ姿は、まさにエリートそのものだった。
「――桜さん! 行列を作りましょう!」
新条さんが帰った後、カイトくんがにぎりこぶし作って私に詰め寄ってきた。
ブラックコーヒーは意地で飲み切ったようだ。
「あんなこと言われて悔しいじゃないスか! ここを行列のできるカフェにして、アイツを見返してやるんスよ!」
「カイトくんどうしたの急に」
「看板メニューを作りましょうよ!」
ふむ。看板メニューか。
考えていなかったワケじゃない。
慣れないカフェ経営の立ち上げに追われて、後回しになっていた。
だけどよく考えてみれば、看板メニューは店の死活問題だ。
新条さんの「カフェ経営なんて儲からないだろ?」という言葉が頭の中でぐるぐると回る。
「――よし、やってやる! 看板メニューで行列を作ってみせる!」
「いいッスね桜さんその顔! 輝いてます!」
今日の私はなんだかおかしい。
元先輩の誘いよりも、年下の男の子にやる気スイッチを押されてしまうなんて。
――事件その4。
前々から考えていたロールケーキの試作を、カイトくんに食べてもらうことにした。
「めっちゃ美味いッス!」
カイトくんが飛び上がりそうなほど喜んだ。
そりゃそうだろう。
これはなかなかの自信作だからね。
桜あんクリームを使ったピンク色のロールケーキ。
美味しそうに頬張るカイトくんはまるで子犬のような可愛らしさだ。
「でも、なんか普通ですよね」
子犬が突然、辛辣な言葉を吐いた。
「スゲー美味しいんスけど、桜味のロールケーキって、他のお店でもあるっちゃーありますもんね」
そりゃそうだ。
そりゃそうだけども。
そんなにハッキリ言われるとは予想していなかった。
「なんかこう、このお店じゃないと食べられない! みたいなオリジナル感が欲しいですよね」
「そ、そうだね」
「形をもっと珍しいのにしたらどうスか? うさぎとかパンダとか、やっぱ女子の心をつかまないと!」
「うん、そうだね」
「ケーキの名前を変わったのにするとかいいんじゃないスかね! 一度聞いたら忘れられないみたいな!」
「そう、だねえ……」
若い子は、感覚で遠慮なくズバッと物を言う。
私だって新人の頃は、アイデアを十も二十も用意して、ありとあらゆる角度から多面的に物事をとらえ、失敗を恐れず、次から次へと企画を発表していた。
なのに今は、こんなロールケーキを一個作っただけで、得意げになっていた。
自分がひどく年寄りになった気がした。
――事件その5。
個性的なメニューとはどんな物か。
考えながらお風呂に入っていたら、少しのぼせてしまった。
髪をタオルで乾かしながらリビングに戻ってきた時に、ちょうど電話が鳴った。
「はい、もしもし」
『――桜、元気?』
聞こえてくるのは、実家の母の声。
『最近なかなか連絡がないからお父さんも心配してるのよ。特に会社辞めてからは電話もしてこないし』
「忙しかったのよ」
『そうそう、お父さんの知り合いの息子さんで、桜にいいんじゃないかって人がいてね、一度お食事でもどうかなってみんなで言ってるんだけどね』
私のいないところで勝手に進められている話にカチンときた。
「いいよそんなの。断わっておいて」
『でもね、本当にいい人らしいのよ』
「いらない」
『でも、あなたももう二十八でしょ。そろそろ……』
「私、結婚はしないから」
『何言ってるのそんな』
「私はお母さんみたいになりたくないの!」
お父さんのお世話だけして、
お父さんの言いなりになって、
言いたいことも言えなくて、
生活力がないから離婚もできなくて、
そんな人生まっぴらごめんなのよ!
「……もう眠いから。切るね」
嫌だ、嫌だ。
自分が、嫌だ。
こんな私を見たら、きっとカイトくんは私を嫌いになるに違いない。
スマホを握りしめて、ふと気づいた。
私、カイトくんの番号も、メアドも、何も知らないんだった。
いや、例え知っていたとしても、
別にかけないけど。
――事件その6。
何もかもが上手くいかない時。
今がまさにそれ。
午前中は注文を聞き間違えるし、午後のお客には紅茶の温度がぬるいとお叱りを受けた。
閉店間際には、高校時代のクラスメイトがやってきた。
「――桜って確か広告代理店でバリバリ働いてるって噂聞いてたけど、今はカフェとかやってんの?!」
ベビーカーを押しながらやってきた彼女は、この近くに住んでいるらしい。
大きな声で高校の思い出話をしながらケーキセットを食べた後、「そろそろ旦那が帰ってくるわ」と慌てて店を出て行った。
帰り際に「この出入り口、ベビーカー入りにくいよ。子供いない人はそういうの分かんないと思うけど」と言われた。
彼女が帰った後、深いため息を吐いた。
だけどいくら思い返しても、特別否定的なことや攻撃的なことは言われていない。
最後のベビーカーの件だって、経営者としてはお客様からの有り難いアドバイスだ。
なのに、なんだかとってもモヤモヤするのは、きっと、私の心がささくれ立っているからだろう。
「……早く帰ってお風呂に入ろう」
温かい湯船に首まで浸かれば、心のモヤモヤだって晴れるに違いない。
店のドアに鍵をかけて振り返ると、薄暗い歩道に誰かが立っていることに気づいた。
「――久しぶりだな、桜」
父だった。
実家にはしばらく帰っていないので、数年ぶりだ。
数年ぶりに見る父の顔は、ちょっと別人みたいに見えた。
「見合い写真を持ってきた」
大きな封筒を差し出す父を、思い切り睨んだ。
「いらない。お見合いなんてしないから」
「せっかく新卒で入った会社も辞めて、これからどうするんだ」
「だから、このお店をやってるんじゃない」
「こんな店続くわけがないだろう。女が結婚もせずに生きていくなんて土台無理な話だ」
「ほっといてよ! 私の勝手でしょ!」
歩き出そうとしたら、「待ちなさい」と腕をつかまれた。その時、
「――桜さんを離せ!」
突如どこからか現れたカイトくんが、私と父の間に割って入った。
「大丈夫ですか桜さん!」
「いや、あの」
「ここは俺に任せて桜さんは逃げて下さい!」
「違うの、カイトくん、私の父なの」
「……え」
父はカイトくんを険しい表情で睨みつけた後、
「見合いの日取りはまた連絡する」
それだけを言い残して、去って行った。
「……す、すみません桜さん。俺、桜さんが変な男につきまとわれてると勘違いしちゃって……」
「いいのよ」
そんなことはどうでもいい。
そんなことよりも、
見られたくなかった。
いい年をして、父親と言い争っているところなんて、
カイトくんにだけは見られたくなかった。
「あの、これ、桜さんに渡そうと思って来たんです」
カイトくんが、クリアファイルを差し出してきた。
中にはレポートのような物が数枚入っているのが見える。
「うちの学校の女子にアンケートやってもらったんです。カフェに対する意見とか理想とか、こんなメニューあったらいいなとか、色々書いてもらいました。参考になればと思って」
私ってそんなに不憫に見えるんだろうか。
とんでもなく情けない気分になってきた。
「……なにこれ同情? うちの店が人気ないから?」
なんだか自分の声じゃないみたいだった。
「私だって市場調査くらいできるわよ。広告代理店に勤めてたんだから」
「あ、はい、でも俺、少しでも手伝いたくて」
「私が一人で何もできなさそうだからでしょ?」
「違いますよ」
「できない女だって思われるのが一番嫌なの!」
私は最低だ。
こんなのは、ただの八つ当たりだ。
カイトくんは何も悪くないのに。
恥ずかしさと、情けなさで、私は顔を上げることができず、ただ黙ってうつむいた。
「――そんなの、思ってないですよ」
ぽつりと、つぶやいたカイトくんの声は、普段とはまるで違って聞こえた。
「俺、雨が嫌いなんです。雨っつーか、厳密に言うと、傘を差すのが嫌いなんスけど……」
カイトくんが頭を掻きながら、一つ一つ、ゆっくりと言葉を紡ぎ出していく。
「でも桜さんに借りた傘は、差すのが全然嫌じゃなくて。それどころか、なんかもうめっちゃ嬉しくて」
なぜ今、傘の話なのか。
訊ねたくてもできない。
少しでも声を出せば、きっと涙がこぼれてしまうから。
「大嫌いな雨でも、桜さんと一緒なら楽しいだろうなって思ったんです」
カイトくんの声が、ふわりと、柔らかくなった。
「土砂降りが毎日続いても、桜さんがいてくれたら俺幸せだなって」
初めて会ったあの日、
ずぶ濡れだったのは、傘が嫌いだったからなのか。
「だから桜さんはすごいと思うんです」
怖くて顔は上げられないけれど、
カイトくんが優しく微笑んでいるのが分かる。
「雨が嫌いな俺に、そんな風に思わせる桜さんは、桜さんのこのお店は、きっと、もっと、たくさんの人を幸せにすると思うんです」
カイトくんが、もう一度クリアファイルを差し出してきた。
私は、それをゆっくりと受け取った。
「……なんか、ワケ分かんないことばっか言って、すんませんでした……」
深く頭を下げて、走り去って行った。
――事件その7。
翌日は臨時休業にして、厨房でロールケーキを何種類も作ってみた。
「寒い……」
節電のため、暖房を切っているせいか身体が冷えてきた。
ずっと立ちっぱなしでロールケーキを作っているのも原因なのだろう、足先が氷のように冷たい。
窓の外を見ると、雪がちらついている。どおりで寒いわけだ。
「もうこれ以上食べられないよ……」
朝からロールケーキを作っては味見、作っては味見を繰り返し、すっかり胃が疲れてしまった。
おまけにこの寒さ。
今一番食べたいのは、ロールケーキじゃなくて……
「――あったかいうどんが食べたい……」
近くのスーパーに行き、うどんの材料を買ってきた。
カフェの厨房でうどんを作る。
惣菜コーナーにあった天ぷらをのせて、即席天ぷらうどんだ。
「あったまる……」
全てたいらげて、ようやく体温が戻ってきた。
誰もいない店内を、一人静かに眺める。
そう言えば、うちの母が作る鍋焼きうどんは美味しかったなあと思い出す。
「もうすぐお父さんが帰ってくるから」と、父の帰宅時間に合わせて、母は忙しそうに夕食の準備をする。
我が家はいつも、父中心だった。
母は父のためにくるくるとコマネズミのように懸命に家事をする。
そんな母を見るのが嫌いだった。
だけど、
今思えば、私の勘違いだったのかも知れない。
母の手料理に、父が文句を言うところを一度も見たことがない。
だって母が父の好みに合わせて作っているから。
父はどこにも寄り道せずに真っ直ぐ家に帰ってきて、母の手料理を食べる。
飲み歩いて午前様、なんて一度もない。
母の手の平で転がされているのは、父の方だったのではないだろうか。
その父は昨年、定年退職をした。
頑固で偏屈な父のことを好きだったことは一度もない。
でももしかしたら、意外と寛容で、柔軟性があるのかも知れない。
定年までずっと同じ会社で働き続けるというのはすごいことだ。
上司から叱責されたことも何度もあるだろう。
部下から嫌味を言われることだってあったはずだ。
新しい機器やシステムを上手く使いこなせない父の世代にとって、定年間際はさぞ風当りがキツかっただろう。
それでも最後まで勤め上げた。
私にはできない。
ちょっと上司に嫌がらせをされたからと言って、すぐに逃げ出してしまう私とは大違いだ。
ゆうべだって、父はカフェの閉店時間までずっと外で待っていてくれた。
私の仕事を邪魔しないように。
母も、見合い話なんて口実で、ただ私と電話で話したかっただけかも知れない。
なのに、あんなにひどいことを言ってしまった。
ぽたり、とテーブルに涙が落ちた。
私は誰の気持ちも理解していなかった。
父のように定年まで働く根性もなければ、
母のように手料理で誰かを癒すこともできない。
――そんな私が作ったお店に、人が集まるわけがない。
涙を拭くタオルを取りに行こうと立ち上がった時、テーブルの端に置いたクリアファイルが目に入った。
カイトくんが取ってきてくれたアンケートの調査結果。
とても丁寧にまとめられている。
これを作成するのに、どれほどの時間を費やしたのだろう。
――めっちゃ美味いッス!
ロールケーキを食べてくれた時の、笑顔が思い浮かんだ。
このうどんも、彼なら美味しいと言ってくれるだろうか?
いや、こんなうどんじゃだめだ。
ダシをちゃんと取って、
こうなったらもう、あれだ、麺から作ろう。
カイトくんなら、どんな味が好みなんだろうか。
カイトくんは、どんな具材が好きなんだろうか。
カイトくんに、食べて欲しい。
カイトくんに、美味しいと言って笑って欲しい。
「――桜さん!」
ドアが開いて、カイトくんが店内に入ってきた。
鼻を真っ赤にして、ダウンジャケットにはうっすらと雪が降り積もっている。
私は慌てて涙を拭った。
「クローズの看板が掛かってたけど、覗いたら桜さんが見えたから。うわあ、めっちゃいい匂いですね、うどんですか美味しそう」
不思議だ。
あんなに寒かった店内が、
彼の登場で一気に暖かい空間になった。
「桜さん。これ受け取って下さい」
「なあに、これ」
「今日、バレンタインじゃないスか」
ああ、そうだったか。
すっかり忘れていた。
飲食店を経営する身として、世間のイベントを失念するとか間抜けすぎやしないか私。
「でも俺、大人の女性に何あげたらいいかとか、全然分かんなくて……」
カイトくんから受け取った紙袋を開けてみる。
中から出てきたのは……
「うわあ、暖かそう」
柔らかな手触りの、毛糸の靴下だった。
「うちの母ちゃんが、台所立ってたら足が冷えるって毎日ボヤいてるんで、女性にはいいかなって」
「てゆうか、これ、もしかして……」
「はい。婆ちゃんに教わって俺が編みました」
「本当に?!」
「夜なべして、一晩で編みました」
「ウソでしょ?!」
靴下を手編みする男子大学生とか初耳なんですけど!
「昨日はすみませんでした。俺、年下なのに生意気だったかなって」
「ううん、謝らないといけないのは私の方だよ。ごめんね」
「桜さんは何も悪くないですよ」
「だって……カイトくんは大学でアンケートまで取ってきてくれたのに、私ひどいこと言っちゃった」
「……俺、桜さんにもうひとつ謝らないといけないことがあるんです」
カイトくんが、急に深刻な顔つきになった。
「――実は俺、高校生なんです」
ん?
こうこうせい?
「桜さんが俺のこと大学生って思い込んでるみたいだったから、言い出せなくて……」
は?
マジで?
高校生?
高校生?!
本当に?!
それって一体、私のいくつ年下なの?!
でも来月で卒業なんですよ! と必死で叫ぶカイトくんを眺めがら、私はたっぷり十五分ほどフリーズした。
――事件その8。
お店に初めて行列ができました。
「信じられない……」
開店前から並んでいる人たちを見て、嬉しいやら、焦るやら。
だってうちは座席数も少ないし、私一人で切り盛りしてるし、とにかくてんてこ舞いになってしまう。
いや、でもしっかりしないと。
今日は午後からテレビの取材も来るのだ。
取材の対象はうちの看板メニュー、「桜の両想いうどんセット」だ。
自分が一番食べたいと思う物をお客様にお出ししよう、そう決めた時に思い浮かんだのが、このメニューだった。
桜葉パウダーを練り込んだ桜色のうどんに、新鮮な春の山菜。
そしてハート型のかまぼこを二つ浮かべる。一つはピンク、もう一つは白だ。
飲み物は桜のハーブティー、デザートは一口サイズの小さな桜餅。
太るのは嫌だけど、甘い物も辛い物も食べたい女子のワガママを叶える、とことん桜づくしのあったか春セット。
これを食べたみんなが、大好きな誰かと、想いを通じ合わせてくれたらいいな。
みんなの心に、春が来ますように。
そんな思いを込めて作った。
お客の女性の一人が、「恋の御利益ありそう!」と、うどんの写真つきでツイートしたのをきっかけに、客数がどんどん増えて、今や毎日が行列だ。
「――今朝も並んでますね桜さん!」
カイトくんが開店前の店内に入ってきた。
当然のように荷物を下ろして上着を脱ぎ、厨房に入る。
「大学の方は大丈夫なの?」
「はい! 今日の講義は午後からなんで大丈夫ッス!」
今月からめでたく大学生になったカイトくんは、空いた時間にうちのお店を手伝いに来てくれている。
数ヶ月前とは違い、今は目の回るような忙しさなので、非常に有り難い。
もちろんバイト代もしっかりお支払いしている。
カイトくんは最初、「給料なんていりません」と言っていたけれど、やはりそこはきちんとしておかないと。
「――そう言えば、桜さんのお父さん、あれからどうなりました?」
「ああ、なんか分かってくれたっぽいよ」
先日、父と母をこの店に招いた。
両想いセットを食べてもらい、「このお店で頑張りたい」と伝えた。
母は嬉しそうに涙を流していた。
その隣で父は相変わらずの仏頂面だったけど、理解してくれたようだ。
「お父さんと仲直りできたんスか!」
「仲直りってほどでもないけど」
「良かったですね!」
「うん。自分の気持ちを分かってもらうには、まず相手の気持ちを分からないといけないなって気づいたの」
「いいッスね、そういうの」
「だからね、これからは父の気持ちも考えて」
「はい」
「お見合いもしてみようかなって」
「それはダメでしょッ!!」
カイトくんが光の速さでツッコんだ。
「いやだって、父の心配を少しでも減らしてあげたいじゃない? いい年した娘がいつまでも未婚だったらやっぱりねえ」
「俺、食い気味で就職するんで! 大学卒業したら結婚して下さい!」
食い気味の就職ってのがよく分からないけれど。
店内のモップがけをしながらプロポーズするとか、ちょっと雑すぎない?
でもそれが若さ故のパワーなのか。
いやそんなことよりも、
「――こんな私でよろしければ」
年下の男の子のプロポーズを快諾する私が何よりも一番の大事件だ。
カイトくんの「よっしゃああああ!!」という雄叫びが店内に響いた。
カフェのドアを大きく開ける。
並んでいたお客様たちの顔が明るく綻んだ。
さあ、開店の時間だ。
今日もみんなの心に、春が来ますように。
<end>