怒りの硫黄――1――
開け放たれた扉の向こうに屋上が広がる。
差してくる光は太陽の光ではない。
複数の『赤鬼』が松明のように
出入り口の両脇にずらりと並べられているのだ。
私は恐る恐るその入り口に立つが、
『赤鬼』たちは炎の動きを真似て
ひたすら手や腰を振るだけで何もしてこない。
屋上に足を踏み入れると
屋内との温度差にまず驚かされる。
空気中に漲る灰やほこりは
口の中をざらつかせ水分を奪っていく。
空は大河の濁流のような黒煙に覆われている。
この煙が火事の全ての熱を閉じ込め、
あたかもサウナ風呂、
いやオーブントースターの役割を果たしていたのだ。
そんな灼熱の小宇宙の運行を
涼しい顔で眺める一人の男子生徒がいる。
屋上の縁に立つその彼こそが
兄・隆己その人であることを
私は認めた。
「明朝。」
兄が私に気づいて手招きをする。
平静な様子で、生前と変わりない姿だ。
私が傍に寄ると兄は私の手を優しく握った。
「一人か? 誰も一緒に来てくれなかったのか?
よく頑張ったね、やっぱりお前は強いよ。」
私は軽くうなずいてから大きく咳き込む。
兄は手を私の背中に添えて、
貴重な収集品か大事な思い出の品かを
愛でるかのようにさする。
「顔が煤だらけじゃないか。
それに何でびしょ濡れなんだ?
ただの水なんだろうね?
変な消火剤とかじゃないだろうね?
もしそうなら体に悪いよ。
痛い所はないのか? 怪我とかは?
義足の調子を見てあげるよ、
一回外して、ちょっと見せて……」
兄がやたらと親切に接してくるので
懐かしい気分になる。
姿は死の直前だが
性格は疎遠になる以前の兄のようだ。
「大丈夫、異常はない。
だけど……お前は危なっかしい所があるから、
僕に会う前に死んでしまうんじゃないかと
心配してたんだよ。」
兄のその言葉で私は今までの道中を思い返し、
キサメのことも思い出した。
「人を連れてくるように言われて、
それで寄り道をしてて……」
「人?」
「大事な生徒を助け出して
連れて来てほしいって、校長先生が……」
「それは教師が救う生徒を
選んだということか?
しかも生徒に助けさせるのか?
馬鹿な。」
「生徒会長からも頼まれて……」
「全く、この学校の連中はどいつも
こいつもすぐ人に仕事を押し付ける……
お前もそんなもの断ればよかったのに。
奴隷根性が
染みついてしまっているようだね。」
「……」
「だけど今日は特別な日だ。
お前は選ばれた。
今日からお前は特別な存在なんだ。」
「選ばれた?」
「そう。もうお前は何の我慢も苦労も
しなくて済む。お前はやっと休めるんだ。」
「休む……そうだまだ休めないんだった。
その人を死なせちゃったから、
謝ってこないと……
どうすればいいか聞いてこないと……」
私のその言葉は半ば自分に向けたものだった。
「明朝、みんな死んだんだよ?」
「まだ死んでない人もいる……
先生も生徒会長も生きていた……」
「そうだね。確かに、この学校にはまだ
80人くらい生き残りがいる。
でもすぐにみんな死ぬことになるよ。」
「それはどういう意味……兄さんは
火事を止めてくれるんじゃないのか?」
私が聞くと兄は遠くへ目をやった。
「明朝、少し『現実』の話をしようか。
おいで。」
兄はゆっくり歩き出し、
幼い頃絵本を読み聞かせてくれた時のような
穏やかな声で語り始めた。
「僕たちの身の回りにいる大人たちは、
いや大抵の子供もだが
何かあるごとに『現実』を語る。
だけどみんなが『現実』とお題をつけて
説明するものは殆どの場合
本当の現実じゃなくて『理念』だ。
『理念』を語るというのは、
『こうあればいいな』という考えを
押し付けてきているということだ。
実際の所、現実とは正反対のことばかり
喋ってるのさ。」
「……?」
「僕は世の中で『本当のこと』と
言われているものに疑問を抱いているんだ。
明朝は母さんに『勉強しろ』とか
『馬鹿だ』とかってよく言われるだろう?
それと似たようなことは
学校の先生や塾の先生も言うよね。
『お前は成績が低い』とか『真面目にやれ』とか。
『学校に通えるのは恵まれている証拠だ』とか
『人と人の出会いは素晴らしい』とか。
僕らと同い年の子供たちだって
『本当のこと』をたくさん言ってるよね。
『友達は宝物』、
『自分は友達いっぱい元気いっぱい』、
『だから無敵だ』、『怖いものなんてない』、
『怖いものなんてないから息をするように
富士谷の悪口を言えるし怒鳴ることもできる』。
社会にいる大人たちだって口を揃えて言うよ。
『人をためになることをするべきだ』、
『子供を守る』、『自立した社会人になれ』、
『自分勝手は許されない』、
『夢ばかり見てはいけない』、とかね。
でもそういうみんなの言っていることって、
絶対に間違ってないと言い切れるものかな?
本当に正しいものだと思う?」
「……だいたい正しいんじゃ?」
「そうかな? どうして正しいか、
ちゃんと教えてもらえたことってあるかい?
明朝は、言われた通りの勉強をするのが
正しいと思う?
馬鹿と言われてはいそうですかと
納得するのは正しいことかな?
学校に通えるのは本当にいいことか?
人と人の出会いが素晴らしい?
本当にそうかな?
友達がいないのはおかしい?
どうして人をいじめてはいけない?
どうして人を殺してはいけないのか?
進路相談って何だろう?
社会って何? 自分って何だ?」
「私は分からない……
でもみんななら知ってるんじゃ……」
「それはどうかな。
今、現に、こうして僕が本気を出したら
みんな慌てふためいてる。
みんな何をしていいのか、
何の答えも出せなくなっている。何故かな?
簡単なことさ。
本当の現実が見えてないからだよ。
みんな本当のことなんて何一つ知っていない。
普段みんなは生活するために
嘘っぱちの『現実』……『理念』を守り、
習慣を守り、常識を守っている。
だからそれらこそが現実なのだと
勘違いしている。
でもそうした勘違いは
実は火事や幽霊よりも恐ろしいものなんだ。
今日ここで死んでいった者たちのことを
思い出してごらん。
誰が、誰が自分が生活する理由を
知っていただろう?
誰が自分の存在する意味を答えれただろう?
誰もが何も知らなかった。だから死んだ。
何が危険なのか、何が必要なのか、
何が本当に許されざるもので、
何が本当におかしいことなのか、
誰も分かってない。関心すら抱かない。
僕を理解できないのも、
僕の正体や僕の真の力に気づけなかったのも
そんな無知や無関心の延長線上にあることだよ。
彼らは自分自身を理解できず、他者を理解できず、
そして僕を理解できなかった……
僕が自殺したことが知れ渡った時、
みんながどういう態度を取っていたか……
それはお前も知っているだろう。
僕が死んだ理由や僕の死が持つ意味を、
真面目に考える者は一人としていなかった。
僕が何故今まで死ぬのを我慢していたのか、
そして何故今更になって我慢を止めて
死ぬことにしたのか、誰も理解しなかった。
誰も共感しなかった。
そんなみんなの台詞はこうさ……
『事情はどうあれ自殺なんて身勝手なものだ』、
『生きていればいいことだってあるのに』、
『最近の若者は我慢ができない』、
『一番可哀想なのは残されていった
周りの人間たちだ』、
『自分で命を絶つような子供は親不孝者だから、
死んだ後も苦しみ続ける』……
『富士谷隆己は普段から何考えているか
分からない奴だった』、
『暗くて目立たなくて、いてもいなくても
誰も気づかない奴だった』、
『昆虫みたいな気味の悪い奴だったから、
いなくなってむしろ良かった』、
『富士谷隆己の友達でいるのは
恥ずかしいことだ』、
『あんな奴と付き合ったって
何のメリットもないのに』、
『類は類を呼ぶと言うし、奴の死を
悲しんでる人間も奴の同類なのだ』、
『富士谷隆己が死んだって誰も泣かないのは
当然だし、そうあるべきだ』……
どれも勝手な解釈や噂や
薄っぺらい憶測ばかりだよ。
つまり、みんな現実から目を逸らしていたんだ。
みんな死んで当然なんだよ。
生きるとは何か、死ぬとは何かを
本気で考えない人間は簡単に死ぬし、
簡単に殺されるんだ。
現実を見ない者の末路なんてそんなものさ。
大事なのは、本当の力を発揮するということだ。
本当に求めるべきものとは何か、
自分ができることとは何なのかを知ることだ。
自分の価値を知ることこそが
現実と向き合うということなんだよ。
生きて死ぬとはそういうことなんだけど、
それが分からない人間のなんと多いことか。
優等生も人気者も大人たちも
今化け物染みている奴らも、皆何ら特別ではない。
例え世界の半分が焼き尽くされたって
本当の現実に気づくことのない人間たちだ。
ただの凡人だよ。
現実を見る能力も
真実を問う勇気もないクズばかりだ。
だけど明朝、お前はみんなとは違う。
お前には分かるはずなんだ。
現実とは何かをちゃんと理解できるはずだ。
僕のようにね。僕らこそは特別なんだ。」
この私も苦しい時や辛い時には、
現実とは何かと疑ったことがある。
今生きている場所は
現実の世界ではないかもしれないと
考えたことがある。
他人も自分の存在も実は
ただの幻ではないかという思いを
抱いたことがある。
だが結局私には何も分からない。
それらに答えがあるのかどうかすら分からない。
兄はともかく、私は特別などではない。
この私に何が現実かなど分かるはずがない。
私は火事と日常の違いも
まともに分かっていない人間だ。
怪物たちと普段のみんなの区別すらつかない。
生きている人間と
死んだ人間の違いももう分からない。
どの人間の言葉が正しいかそうでないのか、
全然分からない。
私の頭の中に母が現れて言う、
『死にそうでも一々文句を言ってはならない』。
父が言う、
『殺されそうだなんて大袈裟だ、
お前は嘘つきだ』。
友達が言う、
『家族が死んだのに
平気で学校に来るのはおかしい』。
親戚が言う、
『生死のことなんか考えても無駄だ。
答えはない』。
教師が言う、
『抽象的なことじゃなくて
将来の進路を考える方が大事だ』。
皆が言う、
『他人の命などどうでもいいだろ』
『自分の命なんかどうでもいいだろ』
『お前の命などどうでもいい』
『命を軽んじてるんじゃないのか』
『何故わざわざ死のうとする』
『俺たちを見殺しにするな』
『死にそうになったぞどうしてくれる』
『死んだんだぞ泣け』
『死んだ奴のことなど忘れろ』
『生きている人間の方が大事だ』。
私は自分に言う、
『命とはクズだ、人生とはゴミだ、
命は大切だ、人生は大事だ、
死ぬというのは大したことではない、
死は一大事だ』。
『死ぬことは悲しい
死ぬことは恐ろしい
生きることは嬉しい
生きることは素晴らしい』。
『死ぬことは悲しくない
死ぬことは恐ろしくない
生きることは嬉しくない
生きることは素晴らしくない』。
誰かが言う、『死ね』。
誰かが言う、『死んでは駄目』。
突如、迸る稲妻のような一つの叫びが
私たちの注意を引いた。
『赤鬼』のものとは違う叫びだ。
その方向へ振り替えると
炎の光の中にキサメの姿があった。
キサメは先に会った時より
黒ずんだ体をしていて光る血を迸らせている。
一層おどろおどろしさを増した変化だ。
それは私が対峙した『灰塵』と
同じ特徴を持つようだった。
「キサメ? 生きていたのか……
あの怪物を吸収し返して復活したのか……」
「こいつは……焼死体のようだが
『赤鬼』ではないな。
僕の指令を受け付けていない。
やはりこの力は僕自身にとっても
まだまだ未知の技術、
イレギュラーは付きものということか。」
キサメの足取りはおぼつかない。
だが目には力強い殺気がある。
睨み殺さんばかりに私たちを見ている。
「痛イ……痛イ、痛イッテ言ッテルダロ!!
私タチガ何ヲシタッテ言ウノ!
悪イノハオ前ダ! 人殺シ!!
殺シテヤル!!」
キサメは絞り出すような声でそう言った。
キサメに生徒たちの亡霊が
乗り移って喋っているのだろうか。
キサメ自身の弁だろうか。
「驚いたな、言葉が話せるままでいるとは。
だけど耳障りなもんだね。
明朝、こいつは敵だ。
火を見るより明らかだよ。
お前が殺してみろ。
殺さなくちゃ。
本気を出したお前なら殺せる。」
そう言って兄が私の背を推す。
「無理だよ兄さん、この人は悪くない、
私が悪いんだ……」
私は兄からキサメを庇うように、
校長たちを真似た大げさな身振りを使って
弁明した。
兄は私の足元に燃える硫黄を投げつけた。
その表情は厳しい。
「何をすべきかは分かっているんだろう?
生きる意味と死の意味の答えを出してみせてよ。
いつまで怖がってばかりいるんだ?」
「ウギャアアアアアァ
何言ウンダヨォォォォッッ!!」
兄の言うことに対してキサメが激昂した。
が、躍りかかるのは私に向かってだった。
私と兄の区別がつかないらしい。
私を守ったのは、左腕だ。
生身の左腕の方が
義手より先に反応してしまった。
キサメの牙が肉に突き立つ。
骨まで突き刺さったかもしれない。
私は耐えようとしたが、
一秒もしないうちに喉が壊れそうな
叫びを上げた。
キサメは私の肩に爪を立てる。
右の方は首筋に近く危険だ。
なのに痛みに支配されて全く動けない。
泣くのも我慢できない。
「何をやってるんだ明朝。早くやり返んだ。」
「この人は優しい人なんだ……
優しくしてくれたんだ……」
「だから何なのかな?
お前に必要なのは優しい人間ではない。
無駄な人間関係に煩わされている
場合ではないんだよ。」
出血がおびただしい。
蛇口から出る水のようだ。
それが口に入ると流れる涙が勝手に増える。
私はキサメの顎を義手で捉えるが、
それ以上は何もできず膝をついた。
「僕も一緒に戦ってやるから、
早く立ち上がるんだ!」
しかし私は動けない。
我慢の限界なのか、兄が短く悪態を吐く。
兄は速足で歩いてくるとキサメの肩を掴み、
キサメを振り向かせて彼女の胸の真ん中に
人差し指を押し付ける。
私が兄の表情を窺ったその瞬間、
兄の指先から真っ青な光が瞬き、
キサメの胸から背後へ
一筋の光線となって迸る。
光線に貫かれたキサメの胸からは
赤い炎が鮮血のように噴き出す。
その炎が瞬く間に全身へ燃え広がり、
キサメは断末魔を上げながら
地べたを転がりまわる。
「……この火事って、やっぱり兄さんが……
全部兄さんが……」
私は視線を落としたまま呟いた。
「そうだよ。
最初の『赤鬼』はこうやって作ったんだ。
すごい力だろう?
僕が得たのは火を操る能力、
燃やしている人間を操る能力、
そして硫黄を操る能力だ。
今見せたのは硫黄を高圧で
噴き出して作ったレーザーだよ。
面白いだろ?」
兄は私の左腕の傷を掴み、火を放つ。
傷を焼かれて再び激痛に襲われるも
血は止まった。
私は何とか蹲るも、
少しも楽にならない。
「死ぬ数日前に硫黄生命体を
召喚することに成功したんだ
硫黄生命体とは異界禽畜類、
異世界の野生動物の一種でね、
僕の自殺後に僕自身の体内で召喚して、
更に融合した状態で顕現するよう工夫したんだ。
大成功だよ。
これはいわば核爆弾を自作するようなものだ。
生半可な知識や勇気では不可能なんだ。
まあ、詳しい方法を説明することに意味はない。
要は今や僕たちの敵が
みんなただの燃えるゴミだということさ!」
異世界の生き物の召喚。
兄にそんなことができるとは、
確かに誰も思わなかっただろうし、
信じられないことだ。
銃や刀剣を入手する方がまだ簡単そうなものだ。
現実離れもいいとこだ。
「今日の午前に火葬場で蘇ってから
まず母さんたちを始末した。
葬儀に来ていた親戚は皆焼却してやった。
それからここへ来る途中でも
街の至る所に火を放ってきたんだ。
今や街中に僕の炎が吹き荒れ
『赤鬼』たちが練り歩いている。
今までの暗い町並みからは想像もつかない、
本当に夢の世界のような景色さ!
見違えるように美しくなったんだよ!」
「……母さんたちを殺した?
親戚のみんなまで……?」
「僕たちは普通じゃなかった。
僕たちはその場にいるだけで
迷惑がられていた。
存在自体が悪だと言われた。
本当に犯罪者になったって
今更何の罪悪感も湧くものか。ねえ明朝?」
「それは……」
犯罪者という単語を聞いて普段の責め、
普段の不自由を連想し、
忘れかけていた現実的な感覚が、
罪悪感が戻ってきた。
私はようやく兄が完全に
常軌を逸している事実を認識できた。
だが今ここで逃げるべきだろうか?
私は何をしに兄のもとへ来たのか?
兄を止めるという考えが
いかに漠然としたものであったか、
この土壇場になって思い知らされる。
どう止めるのか、
そもそも私に止められるのか……
「明朝、復讐はできたのか?
どさくさに紛れて復讐したんだろ?
昔お前に怪我させた奴の一人や二人は
もう殺してきたんだろう?
今のクラスにだって救いようのないクズは
たくさんいただろう?
周りが敵だらけなんだから
一人でも多く減らさないと……」
私は首を振った。
どんどん増してくる痛みを堪えるのに必死で
僅かに左右に動かせただけだが、
伝わったらしい。
兄はますます演技臭い調子で続けた。
「誰も殺していない?
ああなんて可哀想な明朝、
やりたいことすらまともにできないほど
臆病になってしまっているのか。
一体誰の何を恐れている?
何でまだ我慢しているんだ?
何のための火事だと思っている?」
みんなが言うようにやはり僕黒幕だった、
そんな馬鹿な!
私はもう反応するのが億劫になってきて
何も答えなかったが、兄は続けた。
「お前にはここが地獄に
見えているのかもしれない。
だけどそれは違う。
今までいた場所はどうだった?
楽園だったとでもいうのかな?
ここに来るまで周りをよく見てきたか?
皆いらいらしたり怯えたり慌てたり
傷つけ合ったり、いつも通りだっただろう?
お前を誰かが守ってくれたか?
守ってくれないね。
お前の落ち度をすぐさま見つけて
責めはするがね。
いつも通りだ。
自分自身が何もしなければ無意味な
生活が続くだけだ。
僕はここまでやった。
後はお前が勇気を出す番だ!」
「もう嫌だ、こんなの……兄さん……
私は……私はもう許されたい……」
私がそう言うと
溜息だけが返ってきた。
長く感じる数秒間の後、
私は兄に手を引かれ
屋上の下を見るよう促された。
「明朝が片づけが苦手なのは昔からだよね。
どんな汚いゴミも捨てる決心がつかなくて、
いつも身の回りがいらないもので
溢れているんだ。」
運動場を兄が指差すと校舎や体育館から
『赤鬼』が沸いてきて
大きな軌跡を描いて駆け回る。
屋上入り口にたむろしていた『赤鬼』たちも
屋上のスペースいっぱいに散らばって
爆発しそうに踊る。
兄は第一校舎のある方へ向いた。
兄が天を指差す。
指のその先に黄色い不細工な球体が現れる。
大量の硫黄の塊のようだ。
すぐに塊の表面に無数の穴が生じ、
穴からは球体の中身が押し出され
外へ向かって等間隔に、
傘のように広がり元の球体を覆っていく。
空洞を形成しながら膨張を繰り返し、
元の塊の何十倍にも大きく膨らみ、
丁度蜂の巣を連想させる幾何学的紋様の
巨大な集合体へと変貌していく。
その大きな姿はそこら中にある炎に照らされ
黒煙を背景にしてくっきりと浮かび上がる。
兄の指先だけがそれを支えているので
本当に浮いているように見える。
「見てみろ明朝。
ここはもっと明るくなるよ。」
兄が指を前方へ振る。
硫黄球は指し示されたその先へ、第一校舎へ、
空気の抵抗を存分に受けながら
緩やかに飛んでいく。
『赤鬼』たちの上げる絶叫が
幾つにも重なる立体の響きとなって
畳みかけるようにテンポを加速させていく。
天地が歌で満たされていく。
兄が火の玉を素早く投げつけ硫黄球に点火する。
硫黄球がたちまち真っ青に燃え上がり
一個の恒星になると涙を拭う私の手は止まった。
足も、呼吸も止まった。
目だけが生き生きとしてそれを見逃さなかった。
その短い時の間、私は硫黄球の姿に心を奪われ、
倫理も罪悪感も忘れ、
偉大さのようなものを感じた。
官能的美しささえ見出してしまった。
「もっともっと美しくなる。」
硫黄球が校舎に炸裂した。
青と白の眩しいモザイクの
たっぷりの具が弾け飛び校舎に被さって
おぞましい渦状の超現実を描き出す。
炎と硫黄が溶け合って校庭に流れ出し、
石畳も時計も噴水も儚く飲み込まれていく。
硫黄の泥は校庭と運動場を隔てる街路樹や
植え込みをも焼きながら
優しく柔らかく広がり通路を流れる川になる。
校舎からも硫黄が滝となって流れ落ちる。
真っ青になった第一校舎から
異物そのもののような、
骨に直接染み入るような音が
波の様に押し寄せてくる。
血の流れる音に似てなくもない。
熱風と生臭い悪臭が大気を細やかに震わし、
口の中から喉の奥まで苦いような、
甘いような危なそうな味に悩まされる。
「アア……ソンナ……ソンナコトガ……」
キサメに取り込まれた亡霊たちや思念が
キサメを介して嗚咽を漏らす。
死んだ皆もこの光景を見ているのだ。
その皆の中の誰かが信じられないと口にした。
しかし僅かに焼け残っていた日常の風景も
たった今完全に押し潰された。
まさに決定的一撃であった。
まさに必殺技であった。
『赤鬼』たちの歌の対位法が崩れ去り、
再び粗野な雄叫びが自由にこだまする。
兄は私の隣で壊れたように笑った。
「ははは、思っていたほどの威力は
なかったなあ……
せいぜい火の海になる程度か……
でも、ふふふっ、ふはははは、
ふははははははははははは!!
はーはっはっはっはっはっは!!!」
私はこの笑い声を知っている。
ある種の人間が聞かせる、
自分だけが気持ち良くなる笑い声だ。
人がこうやって笑う時は決まって
不可解な思い込みに
酔っている時であることを私は知っている。
今兄は妄想に耽っているのだ。
今や兄にとっては
何ものも現実ではないのだ。
「お前は救われなければならないよ。」
ぴたりと笑いを止めた兄が低くつぶやく。
独り言ではなく、私が聞いているという
確信を持って言っている。
「お前には絶対的な力が必要だ。
嘘や誤魔化しでは駄目なんだ。
破壊していく力だけがお前を幸福にする。
破壊と死こそ真理であり思考の対価だよ。
それこそが現実というものだ。
いい加減認めるんだ。
他人とは違うんだ、僕もお前も!」
「分からない……
これが私のするべきことなのか……
私は何故こんなところにいる……
これが現実なのか……
これが私の生きるべき世界なのか……」
兄の目配せで『赤鬼』が一体にじり寄ってくる。
私は屋上の縁へ落ちそうになるまで退く。
「怖くない、怖くないんだ明朝。
彼はお前を襲ったりしない。
傷つけたりなんてしないんだよ。
ほら手を伸ばしてる、
お前と握手したいんだってさ。
仲良くしてあげようよ、一緒になろう……」
兄が私を誘う。
その声は、絵本に登場する
優しい女性の台詞を読むかのよう……
突如爆音が轟いて、見えない何かが
『赤鬼』の体を引き裂いていく。
この音、この威力、銃だ! と私は思った。
「間一髪、ですかね。」
白煙たなびく大きなライフル銃を
構えて現れたのは生徒会長だ。
第二校舎洗面所前で会った時より
装備が増えている。
野球帽にゴーグル、
スカーフの下から
心なしか誇らしげな表情を覗かせている。
「下手な動きをすれば撃ちます!」
その警告に兄が舌打ちで応える。
それと同時に屋上にいる全ての『赤鬼』が
生徒会長に飛びかかる。
しかし生徒会長は例の手品で
一瞬で私のところまで来ると
私に肩を貸して起こしてくれる。
背後に回り込まれた形となった兄は、
振り向き様に明らかな不快の表情を見せる。
「生徒会長、貴様……」
「火と亡者を望む通りに操る……
恐ろしい力を手に入れたものですね隆己さん。
先ほどの校舎の大炎上も貴方の仕業でしょう?
自分が何をしているのか分かっていますか?」
「黙れ……」
「今すぐ火を消しなさい!
まだ人を殺す気ですか!?」
「殺す……それの何が悪い?
殺す、殺すね、そうだ殺すんだよ!
だって殺さないと不幸になるだろう!?
やりたいことやるには殺して従わせるんだよ!
どいつもこいつも文句しか言わない、
邪魔しかしないんだからな!
どんどん殺して
勝利していかなくちゃならないんだ!
みんなみんな殺してやる!
世界を滅ぼしてやる!」
「ふざけるな!」
生徒会長の叱責に対し、
兄が硫黄の塊を投げて応える。
ばらばらに飛び散ったそれが
眼前まで飛来するのを見たのを最後に
私は強い力で背中から引っ張られ
一瞬でその場から離れ去る。
と同時に視覚がはたと途絶え何も見えなくなる。
「会長どこへ行く!?
明朝! おい! くそっ……
馬鹿ばっかりだどいつもこいつも!」
そう兄が毒づくのを激流に流されるような
圧倒的な感覚の中で聞いた。