葬送行進――4――
その時外から悲鳴が響いた。
下の階かららしかった。
皆が一斉に耳を澄ませたので再び教室内が静かになった。
響きは一人のものではない。ガラスが割れ、机を投げるような穏やかならぬ物音を伴っている。かつてない規模の大喧嘩だと思った。
「何この音? てか声? 怖っ。」
「これってすぐ下? 図書室?」
「なんでだよ、ちげーだろ
図書室こんなとこにねーよ」
「知らねーし」
「おい、下の窓! 下の窓スゴい! 何か爆発した! 見たか!?」
何人かが席を立ってベランダに向かう。
そのざわめきの後、ほとんど間を置かずに非常ベルのけたたましい音が鳴り響いた。それに続いてアナウンスが放送される。
「――……授業中失礼します。先ほど普通科第一校舎二階の中等部一年E組教室にて火災が発生しました――」
「火事じゃぁー!!」「ははは」「うっせ」「え? 第一校舎? この校舎じゃなくて?」「授業中じゃないけどねー」「ウケる」
「――規模が大きく延焼の可能性があります。第一校舎の生徒の皆さんは教員の指示に従い速やかに避難してください。これは訓練ではありません。繰り返します、第一校舎の……」
「火事火事火事ィ!」「教員いないって。」「運動場行けばいいんだろこれって?」「この声って誰?」「自動で喋るヤツだろ」「これ避難訓練?」「本番」「ホントに火事?」「どっから出るんだっけ?」「どこ行くんだっけ?」「教師来るまで待つの?」
気の早い数名はもう教室を出ている。
「運動場集まった後にそのまま帰れるんかな? 授業あるの?」「帰りたーい」「鞄持っていった方がいい?」
一時限目が始まるより早く早退できるかもしれない。もし下校できるなら葬式にも余裕で間に合うだろう。火事を喜んではいけないのは分かっているが今は救われた気分だ。
「荷物は富士谷に持っていかせよう。」
「えーやだー富士谷に触られたくない」
「ははは」
「触られたくないってさ! どう思う!?」
「無視すんじゃねえ!」
「富士谷早く行けよ!」
私は後ろから蹴り飛ばされて前へつんのめる。
「大袈裟だなぁいちいち」
「せこい性格が滲み出てんぞ」
「性格悪いんだよお前」
「ひゃははは」「言えてるー」
皆が足音を忙しく立てながら私を避けて先へ行く。私は最後に教室を出た。
「うーわ廊下暑ーっ!」
「水分だけじゃ駄目だよ、塩分もいるんだよ……」
「運動場集まった後にそのまま帰れるのかな? 授業あるの?」
「じゃあ私持ってくるよ。みんなのも、荷物何があったっけ?」
廊下に出ると他のクラスの同級生や上の階の上級生と合流しあっという間に人波に呑み込まれた。その凄まじい賑わいが嫌で、やはり教室で人気が減るのを待とうかとも思った。だが避難先でクラスごとに集まる時に私だけ遅れてくるようなことがあったらまたあれこれ悪態吐かれてしまうだろうと想像し、急ぐことにした。
「何でさっさと進まねーんだよ! 前の方何やってんだよぉ!」
「汗すごいねー」
「ヤバい、めっちゃ暑い。絶対40度超えてるわー」
「これ新しいヤツ? この前俺と買ったヤツ?」
「さっき先輩いたよ。部室のカギどうするか聞いて……」
「何見てきてんだよ気色悪いっ」
「今なんか凄いことなっててさー、ってかサイレンうるさすぎなんだけど! もう切れよって話!」
むせ返るような人間たちの体臭とは別に微かに煙のような不審な臭いが鼻を突く。火事と聞いたがための先入観のせいかと思っていた矢先、甲高い叫喚が廊下の向こうから聞こえた。
集団の先頭かららしかった。何か言っているようにも聞こえる。人語としては聞き取れないが酷く興奮しているのが伝わってきた。揉め事がまだ続いているのか、別件なのか気になった。
「何してんの? ケンカ?」
「あっちの方から行かねー? 東口の方から……」
「俺ちょっと見てくるわー、おい、お前どけ邪魔っ!」
「今撮ってまーす、撮ってまーす。撮影始まってますぅ。ははは……」
「あそこの、今怒られてたの富士谷だろ? 歩き方キモくねぇ? きひひひひ……」
数分ほど足止めを食らうも喧騒は収まらずむしろ拡散しているようだった。しかしどれほど気になっても人の頭以外のものを見ることはできない。私は人ごみを押し退けて進む勇気もなくただその場に突っ立っていた。周りにはへらへらしている者たちがいる。この状況を面白がっているのか、もしくは私に絡んでこようとしているのかもしれない。
「引き返せ! 歩くな! 走れーっ!!」
外から大勢の怒鳴り声が私たちに投げかけられてきた。窓の外を見ると中庭に十数人の教師たちが集まっていた。
「おい、おい! 駄目だっ! そっちは駄目だ!」
「みんな戻って! 非常階段から行け! 正面には行くな!!」
「島田先生! 島田先生! 生徒を美術室の非常階段に誘導してください! そっちは……」
「危ないぞぉ―!! 戻って!! 戻って!!」
のろのろと避難する生徒の怠惰を叱っている、のではないらしい。身振り手振りを交えて叫ぶその姿から尋常ならざる必死さを見て取れる。最近赴任したばかりの気の弱い英語教師まで血相変えて何か言っている。前方では殺されるとか殺すとか穏やかでない単語が喧騒となって飛び交っている。一体何が起こっているというのだろうか。ただの小火ではないのか? 事態は深刻なのだろうか?
「外で戻れって言ってるって! 戻れってさ!」
「何なのこれ? そんなに燃えてるの? 火事ヤバいの? え?」
「警報うるさい! よく聞こえないんだけど!」
「分かれて! 私から後ろは西側の階段から行って! 戻って戻って!」
前方の混乱が更に大きくなり、また教師たちの指示を理解したからか周りが皆引き返そうと踵を返し始めた。私もその勢いに押し流されるように元来た道を戻ることになった。説明は誰からもなく、意味も全く分からないまま、ただただ謎めいた悲鳴と罵声に追い立てられるだけだった。
「何何何!? 何?」
「どこ!? 非常階段!? どこ行くの?」
「直通階段だってさ」
「何だよ直通階段って! 分かるように言えよ!」
「先生の電話番号って知ってる? 誰か知ってる人いる?」
「外で言ってたんだよそうしろって!」
「ねえ火事起きてる?」
「知らねー! 早く行けって!」
「誰かいたずらで警報鳴らしてんじゃね?」
どこか近くで起きた爆発らしき音と衝撃が
校舎全体を揺さぶり、皆に緊張が走った。
加速する人並みのうねりに揉まれ
私は前へ前へと押し出された。
窓際からも離されてしまったのが不満だった。
「ヤバい今の! なんか爆弾とかじゃない?」
「きゃああああああ!! ああああああっっ!!」
「は? 何?」
「ちょっとどけよ! 遅いボケ!」
「ねえ! どこにいるの!? どこ!?」
「倒れる!」
遠くではない、すぐ隣で悲鳴が上がった。窓の外から隙間風にも似た大きな唸りが轟いた。誰かが落とした携帯電話か何かを踏んづけてバランスを崩しそうになる。後ろで女子が悪態を吐いている。私はできるだけ大きな声でごめんなさいと呟きながら先を急いだ。集団の流れは非常階段のある美術室の前で止まった。
「きゃあああっ、やあああああああっ!!」
「誰の? 誰の悲鳴?」
「転がれ! 転がって火ぃ消せ、おい!」
「何何? 何騒いでんの?」「怖い」
「消せ! 消してやれ早く! そっち行ったぞ!」
「押すな! 押すなって! ちょっと! 危ない!」
「こっち来る!」
「ははは!」
前方で一際大きな騒ぎがあるようだ。私の前の人混みが激しく蠢きだす。近くの人々も騒ぎ出す。ざわめきが迫ってくる。巻き込まれそうだと思った私は何とか後ろへ下がろうとした。その時喧騒が最高潮に達した。同時に、まるで人々が私に道を譲るように廊下の脇に身を引き、私の視界がさっと開けた。そして私はそれを目撃した。
「ギャアアアアアアッッ! オアアアアアアアッッッ!!」
それは人間だった。同時に炎であった。
全身を真っ赤な炎に包まれた、まさしく火達磨となった人間だった。火達磨がその恐るべき姿のまま身も竦むような奇声をあげて群衆を掻き分け、私の眼前まで迫って来たのだった。
私は声すらあげられず皆と同じように後ずさった。咄嗟の行動だったので後ろの人間に配慮もできずかなり強くぶつかる。怒られるのを想像して怖くなったが次の瞬間にはそんなことはどうでも良くなった。暴れる火達磨は勢い余ったからか、私のすぐ傍の女子生徒を捕まえて抱き着いたのだ。
「きゃあああ!! いやあ、いやああああっっ!!」
「ンンンギャアアアアアアアーッッ!! ウワアアアアアアーッッ!!」
「何やってんだこいつ! おい!」
「おいおいおい!」
「何してんだ! やめろ! やめさせて誰か!」
女子生徒は抱き着かれた勢いでその場に倒れた。彼女は泣き喚きながら必死にもがいたが火達磨はそれを力づくで押さえ込む。しかも、まるで逃げられなくするかのように廊下の隅へと全身を使って押し付ける。周りの教師や勇敢な男子生徒たちがあれこれ叫びながら火達磨を蹴りつけ、脱いだ衣服で力一杯に叩く。しかし火達磨は叫びを上げながら頑なに女子生徒にしがみついて抵抗する。それの纏っている炎は消えるどころかますます勢いを増し哀れな女子生徒を呑み込んでいった。漂う焦け臭さのせいか、辺りの異様な熱気のせいか、私は息が詰まりそうだった。
「やめてぇ! やめでぇぇぇぇぇっっ!!」
「ワアアアアアアア!! ウガアアアアアアアッッ!!」
「何やってんだよこいつ!! ふざけんじゃねーぞ!」
「消火器! 消火器は!? 誰か、見てるだけの奴が持ってこい!」
火達磨はあらん限りの光と力を生贄の少女に注ぎ込む。
二人の人間は強い輝きと加熱によって一つの影になっていく。互いの叫び声が重なるとそれに応えるように炎が更に激しく燃え上がる。それは一つの自己主張、意思の象徴のようだ。火達磨の、その呪わしき火の意思だ。それは自らこそ人間の、この世界の在るべき真の姿であることを訴えている。雛形の実在を説いている。自分は正しい、自分以外は偽物だ、自分を見習え、焼き尽くしてやる、そのような融合と排他と同化への異常な執着。
暴力の肯定と賛美。
光波による交響楽。生と死の矛盾。
完全なる火の勝利――そのように私には思えた。
私は冷静になった錯覚に陥り、自分の背中や脇腹を伝って落ちていく汗の滴を1つ2つと数えている。
神経が異様に研ぎ澄まされ、さながら野生の動物に変身した気分だ。何をどうするかを考えることがまるで些末事のようにさえ思われた。
「やめろ! 引きはがせ! みんなで!」
「下がって! みんな近寄るな下がれ!」
「捕まえろ! 殺せ!!」「いや殺すな!」
ようやく誰かが消火器を持ってきて火が消された。
火達磨は火どころか命まで失ったみたいに力なく転がった。解放された女子の方には彼女の友人らしき人々が周りに集まって名前を呼んだり泣き咽んだりした。かなり派手に燃えていたので死んだのかもしれない。
「うわあああああん! ああああああああぁぁ……」
「前の人急いで! 後ろ怪我人いるから! 早くしろ!」
「さっき何してたんだお前! 何で何もしなかったんだ! 言ってみろ!」
「ちょっと消火器の粉かかったんだけどー、サイアクー」
「俺もだよ、この後ろの奴が邪魔で避けれなかった」
「もういい早く行け! 何してんだ、さっさと進め!」
人々の話を聞いていてようやく私は興奮から覚めた。だが感じたのは安堵ではなく舌打ちしたくなるような疲労だった。気づくと辺りが妙に暗くなっていた。窓の外で膨大な量の黒い煙が日差しを遮るほどに立ち上っているのが見えた。学校が夜のように、普段と違う馴染みのない姿になろうとしているのだった。この学校の生徒たちがいつも見せるヘラヘラしたりイライラしたりする以外の非常時の表情や身振りが、私に日常と呼べるものが今まさに失われつつあることを予感させた。そしてその予感はすぐに当たった。すでに当たっていた。
「ウアアアアアアァァァァァーッッ!! ギオャアアアアアアアッッ!」
再び混沌とした怒鳴り合いが非常階段の方で沸き起こり、先頭を行っていた生徒たちがつまづきそうな勢いで引き返してきた。それに続いて新たな火達磨が現れるとその場の皆が青ざめた。
「来た! 来たぁ! ヤバい!」
「みんな燃えてる!」
「きゃあああああああ!
ぎゃあああああああ!!」
「戻れ! 来た道走れ! 非常階段は駄目だ! 外から来てるんだこいつら!」
「うわ! うわあうわあああちょっと」
「どけ! どけボケ!! 殺すぞ!」
今度の火達磨は一人や二人ではない。数えきれない群れを為している。彼らは手当たり次第に生徒たちへ飛びかかった。彼らは人を捕えると先の例と同じく油を注がれたように一層激しく燃え上がった。捕らわれ拘束された人々は泣いて助けを乞おうが怒りに任せて喚こうが関係なく生きたまま火炙りにされるのだった。
「イアアアアアアア! グァアアアアアーッッ!!」
「うわああっ! うわああ! わあああああああ!!」
「いやああっ! いやああああああああっっっ!!」
「熱い! 痛ぁっ!」
「誰かああ! 誰かあああー!!」
その場にいた教師が混乱を治めようと怒鳴り散らすがもう収拾はつきそうになかった。怒鳴り声もほとんど悲鳴に近かった。皆が悲鳴を上げていた。私はこの地獄絵図の如き惨劇に無関係でいられる者など一人もおらず、誰もが無差別に、平等に命を狙われていることを理解した。
「ギイイイイイイーッッッ! オワアアアアアアアア!!」
「死ぬー! 死ぬうぅ……」
「アアアアァァァァァー……ウアアアアァァァァァー……」
「ヒャアアアアアアアアアアッッ!! ギャアアアアアッッ!!」
「アウウウウゥゥー……ウウウウウウ……ウウウウウウウーッ!」
皆走り出した。私もその後に続いた。腰を抜かした人を気にかける余裕もない。背後からは悪魔じみた炎が迫る。直線の廊下に障害物はない。私は走るのが遅いので前を走る人々は邪魔にはならない。校舎中央の階段まですぐに着く。そこから下へ降りれば正面玄関に出る。外にさえ出たなら避難は終了だ。しかし運動不足のせいか、空気に煙が混じっているからか、気温が高いからか、すぐに息が上がる。みるみる皆から突き放される。後ろの様子は分からない。振り向く余裕がない。呼吸がおかしくなっている。動悸もだ。病気かと思うくらい汗が出る。肩がむず痒い。足が重い。朦朧として何も音が聞こえない。廊下を曲がって階段に出ると元気が出た。後はこれを降りるだけだ。一階まで駆け下りれば外に出られる、助かった。そう思った矢先だった。何かが私の背に触れた。
「どけ!」
男子生徒の声がして私は背中を押された。私は一瞬宙に浮いた感覚を味わった直後、階段を転がり落ちる。散々全身のあちこちを打ち付け踊り場へ投げ出された。その脇を大勢が通り過ぎて行く。私の荷物は蹴飛ばされて散らかる。私の後ろを走っていた人間がこんなにいると思わなかった。
「さっきからもたもた走りやがってこいつ……!」
「邪魔だ! 死ね!」
「もうそこまで来てるぞ!」
もうだいぶ煙が回ってきている。急がねばならない。私は立ち上がろうと手をつこうとする。が、何の感触もない。見ると腕がない。右肩から先が消えてなくなっている。鼓動が更に加速した。顔は火にも負けないくらい熱くなってくる。
落ち着かなければならない。右腕はおそらく――階段から落ちた衝撃で外れた――のだろう。走っている途中で付け根が痒くなった時無意識に『着脱ボタン』を押したのかもしれない。――外れた右腕は踊り場の縁で芋虫のようにのたうち回っていた――。私はそれを左手で拾おうとする。しかし体の右側が軽すぎて重心が取れず思うように動けない。いつもならこんなことはないのだが目先のものに手を伸ばすことすらうまくいかない。これこそ私の悲しい性であり、すなわち近くに人の気配があると緊張して慣れたこともできなくなるのだ。
「いつもはもっと簡単につけれるのに……」
「オオオ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ーッッ!!」
「キャーアアアアアア!! アアア! アアアアアッ!!」
火達磨たちが追い付いてきた。彼らは十数段ある階段を躊躇いなく跳躍し、段差をすっ飛ばした。階段の使い方も分からないほど知能が低いのか、それとも強すぎる意思が真っ当な判断を許さないのか。軽く10体は超える大勢の火達磨が間隔も置かずに飛び込んできて積み重なっていく。衝撃で踊り場の床が大きく揺れる。ふわふわと火の粉が舞って、にわかに熱波が伝わり焦げた臭いが押し寄せる。彼らの着地は墜落に等しいもので、肉を打つ重たく生々しい響きを伴った。
私は踊り場の隅に自らの肉体を押し込めるようにして回避していた。足音と奇声を聞いた時点で右腕を取り付けることより回避を優先していなければ危うく下敷きにされる所だった。山積みになった火達磨は私に向かって不気味な叫びを投げかけてくる。普通の人間ならば大怪我を負って動けないだろうに、彼らに動きを止める様子はない。私に向って、文字通りその身を焦がして手を伸ばしてくる。
「これは一体……人間じゃないのか? 人間だったものなのか?」
見様によっては無理を推すことを強制されているようにも見える。強制? 何に? 何者に? どうやって? とにかくこの隙に階段を降りなくては。右腕はいつの間にか階下へ落ちてしまっている。急ぐのも大事だが、かといってまた階段で転ぶのは危険だ。それに足回りの痛みが中々引いてくれそうにない。これ以上怪我をしたら動けなくなるかもしれない。
私は何とか手すりに縋りつく。そこへ一体の火達磨がびっこを引いてじりじり詰め寄ってくる。片側の足が関節でない部分で折れ曲がっているがお構いなしのようだ。
私と火達磨の命を懸けた鈍重なる競争。舞台は階段。階下が遠くに思える。
ふと私の脳裏に階段を転がるというアクションシーンをこなす映画の俳優やスタントマンのイメージがよぎる。
「とるべき体勢をとれば階段を転がっても怪我をしないかもしれない……」
想像の中でそれを思い描き成功させると、ここから脱出できるという希望が見えてきた。肩をすぼめ、腕を曲げ、取れた右腕を抱きしめ、足は揃えて伸ばし、段に収まるように寝そべる。何となく転がりやすい体勢になったような気がしてくる。私は目を強く瞑って無事にやり過ごせるよう祈った。
「い、いける……かも……」
試しに最初の一段だけ転がるつもりでゆっくり体を傾けてみる。するとたちまち重力に引っ張られ、猛烈な勢いで階段を降りきり、勢い余って向かいの壁に激突する。
「うう……何故いけると思ったんだろう……だけどもうこれ以上痛い目には合わないはずだ……これで今日の分の不運は使い切った……多分……」
痛みは残るものの右腕を回収し何とか体の自由を取り戻すとすぐ隣に火達磨が落ちてきたのにびっくりして、また走り出す。下へ続く階段がすぐそこにあったのに降りそびれた。だが何とかなると思った。
「この人々は火を消されると動かなくなるようだ……火が消えるまで逃げ切れればっ……」
私は生き延びられるはずだ。義肢は燃えない。鉄を溶かせる温度ならともかく、人が燃える程度の熱では壊れることはない。義肢さえ壊れなければ私は生き延びられる。
「体全部が作り物だったらどんなにいいことか……」
突然サイレンが鳴りやむ。放送の開始を知らせるチャイムが鳴ってスピーカーにノイズが走る。
「――……全校生徒並びに教職員に告ぐ。今から声明を発表する。聞き逃すことのないようにしてほしい……」
音声マニュアルの自動アナウンスではない。肉声だ。しかも聞き覚えがある。私はまさかと思い、固まった。
「――聞こえるかな? 僕は富士谷隆己。高等部2年B組、出席番号は25番。今回の火事の放火犯だ。本日午前8時3分、僕が火を放って火事を起こした……」
兄だ。マイク越しだが間違いなく兄の声だと分かる。兄の声で、兄の名を名乗っている。しかし、兄が放火した? 意味が分からなさすぎる。兄は死んだのだ。兄が自殺したのは間違いないことだ。一体何が起こっているのだろうか? 新しい手口のいたずらか?
「――……君たちがその動機を知る必要はない。知っておくべきことは、君たちは僕から逃れることができないということ……君たちが何をするべきかは僕が指示する。だからここからは特に注意して聞くように……
――……僕には兄弟がいる。一つ下の弟で、この学校に通っている。今日も登校してきているはずだ。みんなにはその弟を探しだし第三校舎屋上まで連れてきてほしい。僕は乱暴な話し方が苦手だからお願いするような言い方をしているけど君たちに拒否権は全くない。君たちは逃げも隠れもできない。もしこの命令を無視するなら全員死んでもらう。」
兄に弟は一人しかいない。兄の一つ年下でこの学校に通う者、それはすなわち私だ。しかし私を友達に連れてこさせるとはどういうことだ? しかも拒否権がないだと?
「――僕は火も煙も思い通りに動かせる。君たちもすでに目撃している生きる焼死体がその証拠だ。僕が言っているのは今君たちを襲っている不思議な火達磨人間たちのことだよ。もう知っているはずだ……彼ら『赤鬼』たちは僕の忠実な下僕だ。だけど『赤鬼』たちはごく簡単な命令しか理解してくれないんだ。待機するか、人間を襲うかの二つしかできない。君たちの邪魔をしないためにはじっとさせていなければならないんだろうけど、君たちに学校から逃げられてしまっては困るのでそれはしない。君たちには火事の中を『赤鬼』から逃げながら弟を探し出すよう努力してもらう。何度も言うようだが君たちは逃げも隠れもできない。何人がかりでもいいからなるべく早く僕の弟を見つけ出すしか、君たちの助かる道はない……」
火達磨が『赤鬼』。
彼は富士谷隆己。死人が動く。
死人が喋る。私は生きている。
私は死んでいない、
いや、実はここは死後の世界で
私はすでに死んでいるのだとしたら……
「――弟の名前は富士谷明朝。
苗字の富士谷は富士山の富士に山と山の間を意味する谷、明朝という下の名は明るい朝と書いてハルカタと読む。名前こそ大仰だけど非常に臆病で疑り深く、それでいて危険な力を持っている。暴れられると手が付けられないだろうから穏便なやり方で連れ出す方が君たち自身のためでもあるだろう。」
自分のことを校内放送で全校に紹介されて、私は顔から火が噴き出しそうになった。この兄を名乗る男は何の目的があってこんなことをするのだろうか? 私が大仰な名前の持ち主であることと放火犯罪者の身内であることとが一挙に公開されてしまった。こんな仕打ち、処刑も同然ではないか。どうして死人が私を襲ったり私を辱めたりできるのだ? 人は死んだら消え去って忘れ去られるのではなかったのか? 私の常識や日常が兄の言葉で崩れていく。
「――では今から4時間だ。4時間以内、午前12時3分までに明朝が第三校舎屋上に現れなければこの学校もろとも皆焼き尽くす。我が校の校訓にもある通り智慧と体力と精神性を発揮すれば必ず解決できる。頑張ってくれたまえ。」
放送が終わった瞬間、私は廊下の角から曲がってくるクラスメートの友人たちの一団と鉢合わせになった。誰か人と会う前に私が自分から兄のところへ出向こうと思っていたのに、それも叶わないようだ。