怒りの硫黄――3――
私はただ寝転がっていた。
体のどこに力を入れても
義肢がうるさく軋むだけだ。
私の意識は存在感と同じように
たちまち薄くなっていった。
皆の姿も声も遠く離れていくかに思えた。
そんな中、微かな声を耳にする。キサメの声だ。
「ハルカタ。」
今の彼女はどうやら本来の人格のようだ。
それも最早意味のないことだが。
もう何も言わないでほしい。
これでいいのだ。これが私の末路だ。
この私に相応しい最期だ。
「この世界は何?
この世界が何なのか、分かる?」
「分からない……世界とは何だ……
私とは……生きるって何だ……」
私にはもう興味のない問答だ。
こうして問い返すのも、
疲弊しきった精神が勝手に
口走っているからにすぎない。
世界が何かなど本当は分かり切っている。
一目瞭然だ。
まず兄。
何もかもが思い通りになっている兄は
精神の絶頂を迎えている。
兄の勝利と成功によってあるがままの現実が
あるがまま保たれる。
兄は何も変えることはしない。
天を覆う黒煙は兄の高揚に共鳴し大きく渦巻く。
校舎の炎は益々激しく燃え上がる。
『赤鬼』たちは相変わらず奇声を上げて踊っている。
炎であり光であり叫びであるように、
人間存在と世界との合一であるように。
生徒たちは何をしているのかよく分からない。
何をやっても何だかんだ言おうとも結局は
立ちすくんでいるだけにしか見えない。
みんなも僕と同じで要は死にかけているのだろう。
竜侏儒たちはあまりに人間的な
その本心を隠さない。
ある個体はプライドを守ってふんぞり返り、
別の個体は兄の足元にひれ伏している。
生徒会長はナイフを使って
拘束を解こうとしている。
だが血で手が滑って上手くいかない。
自分だけなら逃げだせるはずなのにそうしないのは
まだこの場を治められるつもりでいるからか。
思えばあまりに健気で純粋な、
作り物めいた善人であった。
それは彼女の真の姿であり
死んでも変わることはないのだろう。
「そうだ……これが私の世界だ。
キサメ、あなたは異世界から来たのでしょう?
つまり異世界人という訳だ。
ようこそ異邦人、私の世界へ。
あなたもここで生きよう。
もう逃れることはできないし、逃げる必要はない。
これは普通。これがいつも通り。
別に何もおかしくない。異常はない。
いつもと同じ。これが日常。これが現実。」
私は熱狂する皆の足元を這って、
キサメの近くまで寄った。
「みんなおかしいのは苦しいから。
不幸だからだ。
それは人間の力ではどうしようもないことだ。
みんな苦しいんだ。
でもそれは仕方のないことだ。
人に火を放てば燃えてしまうくらい
当然で仕方のないことなのだ。
兄さんだって、本当はいい人なんだ。
優しい人だよ。魔が差しただけなんだ。
兄さんだけじゃない、
誰だって本当はみんな優しいんだ。
今ここで馬鹿騒ぎしてる人間みんなが
元々は強くて思いやりのある人間ばかりだったんだ。
でも苦しければ死ぬし、
人をいじめたり人を殺してしまうことだって
あるんだ。」
キサメの髪を掴んで、
彼女の耳にこれでもかというほど吹き込んでやる。
「絶対助かる保証なんてものは
この世にはないものだ。
神もヒーローも本当の友達も存在しない。
誰もが寄る辺のない地獄に住んでいるんだ。
そのことに気づくか気づかないか、
気づかないふりをするか、
それだけが人間にできることなんだ。
それが生きるということなのだ。
だから、死ねば楽になれると信じるしかないんだ。
だからただただ祈るんだ。
だから戦うことをしないんだ。
だから逃げることを諦めるんだ。
だから考えるのをやめるんだ。
だから自分の価値なんて期待しないんだ。
だから死んだように生きるんだ。
だから簡単に死んでいいんだ。
だから心なんていらないんだ。
だから何も愛さないんだ。
だからロボットを目指すんだ。
だから泣いちゃ駄目なんだ。
だから――」
「うるさい! 祈りなんてしないで!!」
キサメは自分の中の何かが切れたように、
機敏な動きで私の髪を掴み返しまくし立てた。
「あなたの信念なんて髪の毛一本ほどの重さもない。
今ここで一番忌まわしいのは、あなたよハルカタ。
あなたのその頭の中にあるものは
ここにある火や硫黄や汚い口を利く人や
どの化け物よりも何百億倍も汚らわしい。
何が『戦うことを止める』よ。
お兄さんに配慮した友達に気を使った、
よく我慢した、たくさん謝った、
媚びてへつらって見逃してもらったとか
もらわなかったとか、
そんなことどれだって無意味よ!
そんなことが上手くいったとして、
でもそれが何だというの?
そんな虚しい望みが叶ったその後は?
それは処刑よ。それは死よ。
聞きなさいハルカタ。
誰もが、誰もがあなたを拷問し
処刑する権利を持ってる。
権利者しかいないの。
そして誰もがあなたと同じように
拷問されていくし、いずれ処刑される。
例外の人なんていないわ、
ここにいる人いない人、私も、
あのお兄さんだって全然例外でも何でもない。
誰もが処刑される。
どんな判断も選択も関係なくそうなるの。
あなたはただただ自分の正しさを
証明しなければならない。
それこそ夜明けなのよ、
それこそあなたが本当に待ち望んでいたものなのよ。
だからこそあなたは知っていたのよ。
他のあらゆることには何の意味もないって。
他の人と違うところがいくつあるかなんて
何の意味もない。
人に期待するのも人を呪うのも
どれも等しく馬鹿げたことよ。
火事、兄弟の死、それが何だというの?
人助けとか人付き合いとか人殺しとか、自殺とか、
不幸な境遇とか、そんなものが何だというの?
健常者、病人、義肢、異常者だとか
異世界人だとか幽霊だとか。
将来、学校、友達、社会、葬式とか
実験とか魔法とか神とか。
そんなことどもが何だっていうの?
全然重要じゃあない。
どれもただのおしゃべりでしかないわ。
こんなことどもによって周囲を理解しようとか、
周囲から理解してもらおうとか、
そんなのは一番くだらない嘘よ!
今この場においては全てが幻想なのよ!
あなたの戦い以外は!」
キサメは私の髪の毛を離し、
うつ伏せになって全く動かなくなる。
私も震えるばかりでまともに動けない。
右目がどんな炎よりもどんな夏の日差しよりも
温かくなっていく。
「だ、だから……だから我慢するんだ……
だから……だから、それで……ええっと……」
「……」
私は喋るのをやめ、
体の調子に気を使いつつ恐る恐る立ち上がった。
義手の付け根が焼けるように痛む。
撃ち抜かれた生身の足が死んだように重く、
力が入らない。
喉が引きつりっぱなしな上に
煙の影響でちくちくして二重の痛みを感じる。
頭の中で流れる血は押し寄せる炎のようだ。
全身が灰のように熱い。
暑くてだるい。たくさん敵がいる。
みんな笑う。兄は遠い。
「そうよ、あなたは知ってる、
夜明けの時が来たことを。
あなたはこれをずっと待っていた。
他のことは何も見えないはず。
これこそあなたの人生の始まりであり
最後なのだから……」
私は歩き出した。
200PV突破! 読んでもらえてうれしい! なので次話も続けて投稿します!