三杯目 DRY MANHATTAN
科学技術によって合理・道理が煌々と世界を照らす、現代社会。
お伽噺や昔話に登場した、怪しく不思議な闇の世界は消えたのか。
巷にはやる魔法の話や妖怪の話は、消え失せた闇の世界を、人々が懐かしんでいるからなのか。
闇の世界は消えたのか。
はてさて、話は少々変わりますが、昔は語られなかった現代病。乾燥肌に不眠症。スマホ依存に精神病。闇夜の不思議と役目をとって変わったように次々と現れる。
なぜなら、それは科学技術も照らしえぬ、人の心の闇から生まれたものだから。かつて、闇の不思議として語られて、今は現代病として語られる。
人の心の闇の世界。
けれど、でしょうか。だから、といいましょうか。
それを厭う必要はありません。何故ならば、人に心があるのは当たり前の事なのだから。そこから生まれた病もまた、畏れながら、愉しみながら付き合うことはできるのです。
闇がまどろむ小さなバー。
今宵訪れるはどんな闇。さぁ。カウベルが来客を告げますよ。
DRY MANHATTAN
さらさらと、静かな雨音をバクコーラスに、カツカツとヒールが軽快にリズムを刻む。働く女性と銘打った、どこかの雑誌から出てきたような女性がこの軽快な音の奏者だった。流行の服を身にまとい、背筋を伸ばし、真っ直ぐに歩いていた女性ではあるが、欠けたアスファルトの隙間にヒールをとられて、かくりと足を止めた。
彼女に声をかける人はいない。
道ゆく人々は無関心に彼女を追い越して行く。
それは、当たり前の光景ではあるのだけれど。
今日の彼女は、少しだけ疲れていた。
他人の無関心に。
少しだけ、疲れていた。
彼女は、小さくため息をつくと、ふと細い路地へと視線を走らせた。ちらちらとまたたく、看板。
「Bar ~ Black Cradle」。
彼女は、少し首をかしげると、一瞬逡巡したあと、いつも通る道から少しだけ脇に外れて、路地へと入り、その店の扉を押し開いた。
カラン、カラン
カウベルが静かに来店を告げる。何故か夜闇に包まれた外よりも、薄暗い店内に彼女は一瞬目を眇めた。
「いらっしゃいませ。」
小さな店内の、古ぼけたバーカウンターの向こうから、バーテンが静かに声をかける。ふと手元をみると、ふっくらと良く乾いたタオルが差し出されていた。
「あ、ありがとう。」
「どうぞ、傘をこちらに。」
奇妙な小男が乾いたタオルと引き換えに、雨に濡れた傘をそっとあずかる。彼女は、肩と鞄を軽く拭ってから、三歩歩いてカウンター前のスチールへと腰をおろした。
誰もいない小さな店内に彼女はそっと目を走らせた。
「なんだか、貸切みたいね。」
「はい。ただいまの時間はお客様だけの時間です。」
バーテンの気障な台詞に彼女はふっと口角をほころばせた。怪しいような店にバーテンに給仕。なのに、不思議と落ち着く心に、彼女はふっと肩の力を抜くと、カウンターに頬杖をついて話すともなしに口を開いていた。
「やんなっちゃうわ。月曜から雨続き。服はぬれるは、鞄はぬれるは、靴はぬれるは。ほんと、やだ。」
雨が嫌な訳ではないのだが、口をついて出たのはこのところの天気への愚痴。
どうにかすればどうにかなることへの愚痴を、どうにかしようとも、どうにもならない事への愚痴へ転化して、どうにもならないと理屈をつけるのは、どこどなく生き難い人生を笑って過ごすための作法。
それに、無関心な同意を示して、相手の心に触れない事も、自分が傷つかずに生きていくための作法。
けれど、バーテンはそんな作法を無視すると、きっぱりとした顔で言った。
「雨は今宵までです。今夜の月が雨雲を連れて帰るので、明日の朝からは、晴天続きになりますよ。湿った夜は今宵までです。」
彼女はバーテンをまじまじと見ると、笑い声を漏らした。ただの天気の話の愚痴に、こうも真面目に返されると、なんだかもっと言葉を交わしてみたい気になってしまうのは、少し疲れているからだろうか。
「ふふふ。奇妙なバーテンさんね。ドライ・マンハッタンをいただける?」
彼女の言葉にバーテンは重々しく頷くと、酷く真剣な顔でカクテルを作り始めた。カクテルを作りながら洒落た会話の一つ、というのが正しい気もするが、むしろ真剣に自分の注文したカクテルを作る姿は、彼女には酷く気持ちの良いものに思えた。会話の無い時間が、無関心ゆえではなくて、自分に飲ますためのカクテルへの並々ならぬ関心の為だから、こそばゆくも嬉しいのかと、彼女はバーテンの手元を見ながら口角を緩ませた。
「Dry Manhattanでございます。」
透明のグラスに注がれた、透明の液体を一口すする。
「うん。やっぱり、これが好き。美味しいわ。」
「渇いているからでしょうか?」
バーテンの言葉に、彼女は目を丸くした。Dryつまり、辛口。ではなくて、乾いた、と言う事だろうか。バーテンの癖に、とんだ間違いではあるが、「渇いた」と言う言葉は、彼女の心にぴったりと落ち込んだ気がした。
「そうね。渇いてる、かも。でも、「渇いた」って嫌いな言葉よ。バーテンさん、気を付けて。乾燥を目の敵にしている女の子。今どき、沢山いるんだから。かくいう、わたしも、その一人。ドライ・アイに乾燥肌、髪の毛なんかも、水分が無くてぱっさぱさ。眼医者、エステに美容院通い。だけど、たいして効果無し。ほんと、やんなっちゃうんだから。」
でも、一番渇いているのは心かしら。体の一番奥にあるはずなのに、正しい生き方をするほどに、表面だけはとりつくろって、ますます無関心になっていく、自分と他人に、心が渇いている。それを、肌や目や、髪なんかの渇きに転化して、気が付かないようにしているのは、今日も正しく笑うため。
彼女の心を知ってか知らずか、バーテンは落ち着いた声でこう言った。
「それは仕方ありません。世界がこれだけ渇いていれば、目も肌も、髪の毛だって、乾燥します。」
「渇いている?雨なのに?コンクリ固めの道路には、雨水も染み込めないから、あちらこちらに水たまり。湿度は連日120%。」
「渇いておりますとも。ネオンライトが太陽より煌々と世界を照らし、もはや昼も夜も無し。雨雲も連日の残業にうんざりして、恋人の月の住処にしけこむとの事。いやはや、照らされた現実とその足元にできた陰は、湿度ゼロパーセントの不毛の砂漠。」
「雨雲は月と恋人なの?面白い事を言うわね。それに、そうなの?現実は不毛の砂漠なの?」
「さようです。照し出された赤裸々な現実は、そこにあるがままの姿で認識されます。あえて、神や悪魔、奇跡や呪いといったものを創りだして説明されることは無くなりました。科学的に説明可能か説明不能か、その二項だけ。割り切られた世界には、それ以外のものが生まれることはありません。不毛、乾燥、かぴかぴ砂漠。
一方、理解しがたい現実や、受け入れがたい状況を説明するために、人の心から生まれた闇は、じめじめの湿潤地帯。神や悪魔が跋扈して、奇跡や呪いがふりかかる。望めば、世界だって生めるくらい湿度たっぷりの豊かな湿地。」
「あら、どこかで聞いたことのあるような話だわ。確かに、今のこの世、科学的に説明できない事象を、本気で化け物や呪いや奇跡の仕業だって信じる人はいないのかも。エンターテイメントとして楽しむことはあってもね。そう、闇は消えてしまったのね。 」
「そのような事はございません。人に心がある限り、闇はけして消えることは無いのです。ほんのわずかな隙間をぬって、生まれては消え、消えては生まれる。例えば、疲れて渇いた心の隅などに。」
バーテンの言葉に彼女ははっとする。けれど、バーテンは彼女の様子に気が付くことなく言葉を続けた。
「ですから、乾燥に悩むお客様は本日、当店にお運びいただけたのです。心の片隅でわずかばかり、闇を求められたので。何を隠そう、当店「Black Cradle」は闇の生まれ闇が還る揺り籠でございます。」
バーテンはそう言うと、どんと胸を張った。
「そして、そう。この私が、この闇の世界のマスター。闇の王でございます。」
バーテンの言葉に、彼女は拍子抜けしてぷっと笑いをもらした。
「あなた、王さまなの。ここは、闇の世界?いわゆる、魔王城?というわりには、おどろおどろしくないし、むしろ可愛らしすぎるサイズだけれど。」
彼女の言葉にバーテンは少しだけ悔しそうな顔をした。
「土地も城も大きさに比例して維持費がかかるのです。現代では。サイズはこの際置いておいてください。でも、おどろおどろしいと感じないのは、お客様がそういう気分だからでしょう。闇を感じるのは心ですから。例えば、暗い森の奥。怖いと思う時もあれば、癒しを感じる時もありましょう。つまりは、心しだいと言う事です。
お客様の心は、今は闇の湿度を求めてらっしゃる。だから、当店の雰囲気を心地よいと感じていただけるのでしょう。そして、当然に、私の作るカクテルも。何を隠そう、そのカクテル。アルコールと同じくらいに、湿度たっぷり、潤いたっぷりの闇もしっかり効いておりますから。美味しいと、お召し上がりいただけたのでしょう。如何です?渇き目、乾燥肌、傷んだ髪に、たっぷりと沁み込んで、飲むほどに、潤われたのではありませんか。」
バーテンは自分の胸に手をあてて、首をかしげて見せた。彼女も、自分の胸に手をあてて、目を閉じてみる。無関心に表面だけ触れ合って、だからかさかさと渇いていた心が、少し潤っているような気がしないでもない。
「うふふ。そうね。闇の王さまのバーテンさん。すると、この潤いの効果はどのくらい?」
「お客様が、ほんのり酔っておいでの間。」
「なんだ、存外短いわね。」
「お客様の心は明るく照らされておりますので。闇に束の間潤っても、あっという間に乾いてしまうでしょう。強く、軽く、素敵な心の形でございます。」
「渇いているのに?素敵な心なの?」
バーテンの言葉に彼女は目を丸くした。
「ええ。渇いた心は、闇から生まれた不条理を糾弾し戦う強さがあります。そういった心を持った人々が、因習、慣習といった闇の中から不条理を暴きだし、条理をといてきたのです。時に疲れて闇に侵されることもありましょうが、いつの間にか闇を追い出して、渇いて見せる。闇のなかに沈んでも、いつの間にか浮かび上がって、跳んでみせる。強く、軽やかな、素敵な心です。」
バーテンの言葉に、彼女は驚いて目を見開いた。彼女は、今日、疲れていた。どうしても、どうしようもないからと、そういうものだと、転化できない不条理が彼女の目の前にあったから。目を背ければいい、と思っていてもどこか心にひっかかり、どうにかできないものかと、あれやこれや動いてたおかげで、彼女はなんだか疲れていた。
「そう、かしら。でも、疲れちゃって。」
「そういう日もありましょう。なにも、闇は敵ではないのですから。闇の中で微睡んで、潤って、また、渇けば良いだけです。潤いましたか?」
バーテンの言葉に、彼女は空になったグラスに目を落とした。
「えぇ。また、渇いちゃうだろうけど。」
「潤いが必要な時はいつでもお運びください。あぁ、雨が。あがったようでございますよ。」
「あら、そうね。それじゃ、そろそろお暇させてもらうわ。美味しいお酒をごちそうさま。」
彼女はバーテンへと軽く手を振ると、軽い乾いた足取りで雨上がりの街へと消えて行った。