一杯目 その店の名は・・・
一杯目 その店の名は・・・
ネオン煌めく街の中。星々が不在であっても、街の灯りが夜を充分以上に飾り付けている。
家族か恋人か友人か、あなたを待つ人がいる人々は、光を目指し光の中だけを歩いていける。
けれど、誰も待つ人がいないあなたは、もしかすると気が付いているのかもしれない。光の届かぬ路地裏を。路地裏の影にある、甘い闇を。それは、きっと街灯の無い田舎の闇よりも、いっそ黒々と濃密な闇である。けれど怖れることはない。幼い頃に怯えたお化けはそこにはいない。そこには優しいお伽噺など無いのだから。そこにあるのはただの闇。光を認識した人だけが、感じることのできる闇。
ああ今日も。どこにでもある都会のどこにでもある路地裏にその店は営業している。
光のささぬ闇の世界に、その店は営業している。
カウンター6席のみの10坪にも満たない小さな店の名前は・・・。
骨董品と言えば聞こえがいいが、ただの古ぼけた扉を、いつものように小男は磨いていた。
面倒だし、綺麗になるとは到底思えないが、細かな意匠の彫り込まれたこの扉は、毎日からぶきしてやらないと途端にご機嫌を損ねてしまう。
「ふっ、ふぅぅ~。」
足台から降りて最後の仕上げにと、真鍮製のドアノブを磨き上げると、小男は一仕事終えたとばかりに、つるりと頭を撫であげた。禿げ上がった頭がドアノブ以上にきらりと光る。
「まったく、毎日、毎日、貧乏ひなましですわ。」
台詞とは裏腹の、あっけらかんと声と、これまた酷くのんびりとした仕草。
小男は、仕立てはいいがどこか古めかしいデザインのスーツをぴっと伸ばすと、扉の脇にある郵便受けをぱかりと開いた。
「ありゃりゃ。まいったね~。」
郵便受けの中にちょこんと座っている白い封筒を見つけると、小男は困ったように眉をしかめた。
小男は封印がされた手紙をちょいと摘みあげ、宛名を読むと、芝居がかった仕草で溜息をついた。
「とくそく、と、くそく。とっととくそく。まったく、とれるとこならどこでもいいって、その根性があっぱれですわい。」
小男は小粋な仕草でパチリと指を鳴らす。
すると、足台と拭き掃除に使っていた布が存在意義を失ったかのように揺らめいて消えた。
小男は、今度は少し腰を振りながらパチリパチリと2回指を鳴らし、満足そうに自分の仕事の成果に頷くと、ステップを踏むように、軽快な足取りで扉の中へと消えていった。
誰もいなくなった、細い路地裏に、まろやかな灯りがともる。煌々と街を照らす光とは違う、珈琲に入れた蜂蜜のような灯り。その灯りは、古めかしい扉と、真鍮のドアノブを撫でながら、看板を照らす。
その店の名は、Bar ~Black Cradle~