第一章 一段
夜、仕事が終わると、斉藤実乃里が必ずいくところがある。「たから書店」という本屋だ。彼女がこの街に引越してきたときに見つけた小さな書店で、店主の本田ニノとバイト1人で回しているようだ。小さいながらも品揃えは豊富で、実乃里お気に入りの場所だ。夜遅くまで開いているというのも、魅力の一つである。
「すみません」
今日は好きなシリーズの最新刊が10年ぶりに発売されるということで、仕事が終わるとまっすぐこの書店に来ていた。
「あぁ、はいはい。カバーは付けますか?」
おばさんは、実乃里が予約していた本を棚から出すと、ニコニコ笑いながら聞いた。カバーは「たから書店」オリジナルの和紙柄に招き猫の絵柄がついたもので、薄い桃色と臙脂色と藍色の三色がある。
「はい。臙脂色をお願いします」
実乃里は、ここのオリジナルブックカバーが好きで、文庫本や新書は桃色、単行本は臙脂色、そして漫画は藍色と決めていた。ほとんど毎週通っているため、店主のニノとは顔馴染みなのだが、人見知りの激しい実乃里の性格上、なかなか立ち入った話をすることはできない。今日も、カバーの色を指定して終わるはずだったのだ。
「ところで、新しい部屋は見つかった?」
ニノは、会計をしながら実乃里にそう聞いた。そういえば先日、何かのついでに新しい部屋を探しているという話をした気がする。実乃里は大学進学と同時に上京していたが、そのときから先に東京に出ていた姉の利乃華と一緒に暮らしている。しかし来年姉の結婚が決まり、部屋を出て行くことになったのである。
そこで実乃里は、せっかくならと書店と仕事場の近くに住みたいと考え、いい不動産屋さんがないかというようなことをニノに話していた。
「いえ、まだ。でも、せっかくなら、好きなところに住みたいので・・・」
「そうよね。あぁ、これお釣りね。そうそう、ここの不動産会社は、私の旦那の知り合いだから、気になる物件があったら声かけて頂戴」
「はい、ありがとうございます」
ニノは、不動産会社のパンフレットを本と一緒に袋に入れて実乃里に渡した。実乃里はぎこちない笑顔を浮かべながら、ニノに会釈をして帰ろうとした。
「ねぇ!この辺りに部屋探してるの?だったら、私とルームシェアしてくれない?あっ私、ここのアルバイトの木ノ下朔良っていいます。彼氏と住む予定でね、2LDKの部屋を借りたんだけど・・・別れちゃって。へへっ。でもああいうのって2年契約が基本でしょ、だから困ってて。あんな広い部屋に一人は寂しいし。家賃は月8万でちょっとお得なの。なんかね、駅からちょい遠めなのがネックみたい。でも、この書店には近いし、部屋はちゃんとリビングとは別に二つあるし」
「ちょっと待って。私、一緒住むなんて言ってない」
怒涛のごとく話す朔良を止めると、実乃里はそう言った。そもそも姉との共同生活で、ルームシェアは懲りているのだ。ましてや他人と同じ部屋に住むなど、実乃里には考えられない選択だった。
「ダメかな?水道代・光熱費込みで一人月5万。来年から私夜間学校に通う予定だから基本寝に帰るだけになると思うし…お姉さんには迷惑かけないよ?」
「そういう問題じゃないの。そもそも、会って間もない他人と一緒に暮らすって言うのがちょっと・・・」
店内で押し問答していると、ニノが二人の間に割って入ってきた。
「まあまあ。朔ちゃん。大事なお客さんに、いきなりそんなこと言ったら押し売りみたいよ。もう少しゆっくり、考える時間も必要でしょう。
すみません。悪気はないんです。でも朔ちゃんは良い子ですし、もし部屋が見つからなかったらということで、考えてあげてください」
店主にニノに丁寧に頭を下げられてしまい、実乃里は分かりました。考えてみます。と思わずこたえ、店を後にした。
会って間もないと朔良には言ったが、実乃里は彼女のことを知っていた。いつも元気に店内をくるくる動いて働いている女の子だ。新刊を出したり書架の整理をしたり、することがなさそうなときは店の内外を掃除している。ちらりと耳にした話によると、高校卒業後専門学校に行くお金を貯めるためにバイトをしているという。おそらく、そのお金がある程度貯まったのだろう。なのに、彼氏と住むために無駄に大きな部屋を借りたり、別れたから誰か一緒にという考えというか、考えの足りなさというのが実乃里には理解不能だった。