第八話 救いの道
「世界を……」宇野さんと誠が共に、驚きと共に僕の言葉を復唱する。「変える力……?」
「そうだ、世界を変える力だ」
そもそも今回の実験を行おうと思った理由、僕の興味を惹いたものは、この世界――あるいはその作者――とパラドクスとの関係である。
宇野さんの時間遡行能力の詳細、それは間違いなく知るべきことだし知りたいことだったが、それとて半分ほどはパラドクスへの興味が支えるものだ。なにしろ能力が他でもない、時間遡行なのだから。
タイムパラドクスについて僕は少し前まで考えないようにしてきたし、考えなくてもいいように行動して来た。しかしそうしなければならなかったのは、当然ながらそうしなければ考えて考えて考え尽くしただろうからだ。興味の無い事なら、敢えて無視するまでも無い。興味があるからこそ、それも途轍もない量の興味だからこそ、考えないよう自分に言い聞かせる必要があったのだ。
しかしもうその必要はない。そんな努力は必要ない。示されたからだ、実験によって。
タイムパラドクスは――起きなかった。
例えば宇野さんが「いなかったよ」と答えなかったなら、「いたよ」と答えたなら。自分は未来から過去へ戻ってきた経験を持たないのに未来から来た自分を見たと言ったなら。そしていざその帳尻を合わせるために今こそ未来である今から過去へ戻らねばならぬという時に「やっぱやめた」――そんな気を起こしたら、どうなるだろうか?
確かに未来から過去へ戻ってきた自分を見たのに、未来においてその行動を自分でしなければ、それは言うまでもなく矛盾である。ある種のタイムパラドクスである。これは時間遡行が「未来予知」ならぬ「未来既知」であることと関連する。既知であるがゆえにその事実を覆せるということ。覆されてしまえばそれはもはや既知とは言えぬということ。例えば――。
例えば未来予知能力を持つ人間がいたとしよう。その人間がある日、自分の未来を予知してみる気になる。今まではなんとなく怖くて手を出していなかった領域に手を出したとする。「五日後自分は車に乗る。そのせいで交通事故に遭って死ぬ」という予知結果を得たとする。その人間は怖くなって、五日間車に触れるどころか外へさえ出なかった。そしてそのおかげで交通事故に遭うこともなく、それから50年も生きた。めでたしめでたし。だが、そんな場合、未来予知はあったと考えるべきだろうか? それはないだろう。予知は成就しなかったのだから。車に乗らなかったし死ななかったのだから。これが未来予知能力が抱え得る矛盾である。
これと同じような矛盾が時間遡行にも現れ得る。少し形は違うが、同じような本質を持つ矛盾である。
だが、この矛盾は、このパラドクスは――現れなかった。
それが答えである。
これが実験結果である。
「そして実験の結果が出たなら、次にすべきは考察だ」
それから僕は宇野さんと誠に今回の実験結果から僕が僕なりに考察した、仮説を話しだす。
「これは仮説だ。絶対ではない。他の可能性もあるかもしれない。だが俺としてはなかなかいい線いってるんじゃないかと思う」
「それが、世界を変える能力……」
「そう。もはや勿体ぶらずに言おう。宇野さんの能力は時間遡行ではない、世界改変能力だ。世界の状態を絶えず保存し、発動に際してはそれを再生する。俺はこの能力を、祈りを込めて、こう呼ぶことにする――」
宇野さんの、彼女の能力は僕達にとって脅威だろうか? 恐怖だろうか? 僕達の他愛のない日常に突如立ち現れた奇妙で理不尽な暴力だろうか? いや。
「救いの道」
さて、僕の最高に格好良い瞬間も終わったところで、説明を始めよう。
彼女の能力「救いの道」は何度も言うように世界改変能力である。ある世界を違う世界へ、書き換える能力である。
では何を何に書き換えるのか。まず変える対象は、もちろん「今この世界」である。能力を発動した瞬間の世界の状態である。では何に書き換えるのか。それもこの世界である。ただし過去のこの世界である。
彼女の能力には世界改変能力に付随してもう一つの能力が宿っている。保存機能である。彼女のこの能力は常に発動している。それは常にこの世界のその瞬間瞬間を記憶し保存している。つまりこの世界の過去を常に記憶し続けているのであり、何の為にかと言えばいつか世界をその過去の世界の状態へ書き換えるためにである。
「つまり宇野さんの能力は、現在の世界の――あえてこう表現するが――物理的状態を、予め記憶しておいた過去の世界の物理的状態へ変える能力だ。自分の物理的状態だけは変えない。だから宇野さん本人は改変前の世界の状態を覚えているし、だからこそ自分が過去へ行ったかのように錯覚する。いや、ある意味では確かにそれは時間遡行なのだろう。確かに周りの世界自体は紛れもない過去のものなんだから。自分が過去に戻るのではなく、世界を過去に戻す、というだけの違いだ」
それが、僕の考える彼女の能力の正体である。
今回の実験、宇野さんは「いなかったよ」と言った。「計画通らなかった」。当然である。彼女の能力は世界改変なのだから。世界を改変せぬうちから超常的な現象など起こる筈もないし、従って「未来から来た自分」などと出会える筈はない。宇野さんが世界を改変しない限り、この世界は普通の、ただの偽物の世界なのだから。
また彼女が過去に戻った(と思った)とき、彼女は自分と出会った。過去の自分と出会った。それも当然である。そこは過去の世界なのだから。その過去の世界に自分は確かに存在したのだから。
実際のところ、彼女の能力はその部分については選択可能なのだろうと僕は予想する。例えば宇野さんが僕に「私、未来から来たの」と言ったとき。あのときも彼女は未来から来た筈だったが、そのとき自分が二人になったという話は聞いていない。過去の自分と未来から来た自分とで二人になったとは聞いていない。黙っていたわけではあるまい。実際に二人にはならなかったのである。
彼女は能力により世界を改変する際、改変後の――つまり過去の――世界の自分に自分を上書きするか、あるいは上書きせずに残しておくか選べる――そう僕は予想する。
そこが分かれ道となる。つまり、改変後の世界に自分一人か、自分が二人か。
「まぁ大方はそんなところだ。これが今回の実験に対する俺の考察のほぼすべてだ」
「……なるほど」
「うぅ、頭が痛い」
「俺も正直なところ、くたびれたよ。まぁ俺の場合ある程度は前もって考えておいたことを実験しただけだから、マシではあるんだろうがな」
もうすっかり外は暗い。教室の蛍光灯が緑っぽい光を容赦なく放っている。窓の外遠くに夜景が広がり、銀色の冷たさと橙色の暖かさが混在している。僕はあくびをし、宇野さんと誠もつられてあくびした。
「帰るか」
「そうだね」
「ああ」
僕達は帰ることにした。すっかり夜遅くなってしまったので宇野さんを家まで送り届ける。その道すがら、僕は一人考える。
彼女の能力「救いの道」は確かに僕達の今の状況の何よりもの原因であり元凶だが、僕は今の状況をなんだかんだいって気に入っていたりもするし、でなくともそれは確かに救いの道だ。
この世界が漫画の中の世界なのか、アニメか、それともライトノベルか、他の何かか、それは分からないが、僕が彼女の能力につけた名前が示すように、彼女の能力によって僕等にとってのこの世界はある要素を持った。
ゲームである。
セーブ機能とロード機能、彼女のこの能力がある限り、僕達はほとんど何も怖くない。困った時には戻ればいいのである。過去に。セーブポイントに。
偽物の世界というあまりに残酷な世界に生まれ落ち、それを自覚してしまった僕達にとってこの世界を楽しむことは簡単なことではない。それはもう、簡単なことではない。それこそゲームのようでなくては。
そこまで考えて僕は苦笑した。そこまで考えてたんだろうな、と。
まったく、誰だか知らないが。
この世界の神ってやつは。
食えない野郎だ。