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第二話 未成年の喫煙は人生に悪影響を及ぼす

 遠く夜景が淑やかに輝き、空には雲が走っている。星はぽつぽつと見えるか見えないかくらいの弱い光を放ち、都会の夜空の典型を映し出している。

 7階建てマンションの一室からのこの夜景は濡れたように冷たいガラス窓に隔てられていて、対照的に明るく暖かな室内の光景が透明に重なる。そして僕の視界の真正面には、ちょうど今過ぎ去ろうとしている遠くの電車の光と、景色全体を睨みつけるようにして神経質な目を光らせている僕がいた。

 その顔は幾分不明瞭ながらも、戸惑いと緊張の色ははっきりと見て取れる。僕の震える指先には真新しい煙草が一本挟まれていた。

 ガラス窓に映る僕はそれを咥え、テーブルの上のライターに手をかける。緑色の透明な、安っぽい100円ライターだ。

 僕は震える手を自覚しながら、慎重にライターの火を点ける。何度か失敗して、ようやくゆらゆらと揺れる小さな、しかし恐ろしげな火が目の前に現れた。

 窓に映る火はひときわ眩しく光っている。視界は自然とその火を中心にして組み立てられ、赤々と燃える実物と虚像はあたかも世界の中心であるかのようだった。

 今日の放課後、宇野さんにあれほど口煩く言っていた僕は、こともあろうに今これから煙草を吸うつもりでいる。

 もちろん突然世の中の不条理がやりきれなくなって非行に走ろうと思い立ったわけではない。

 試すためだ。

 この世界が本当に偽物なのか。神は本当にいるのか。この世界は創作物の中の世界なのか。僕たちは物語の登場人物なのか。そのすべてを僕は一挙に試すつもりなのだ。

 当然ながら宇野さんはこのことを知らない。完全なる僕の独断専行だ。

 そもそも、僕は例えばこの世界が創作物の中の世界であるなどということをほとんど信じていない。彼女には専らそう信じ込ませはしたが、僕自身は心の内で殆ど信じてはいなかった。

 この世界が偽物であるにせよ、創作物の中の世界などというのは、あまりに馬鹿げ過ぎている。ありえない。

 僕が考えるに一番可能性として大きいのは高度文明の実験場、というところだろう。それなら彼女の持つ能力のような通常考えられない現象についても説明がつくし、現代のそれはともかく未来に現れると予想されるような理想的な物理の範疇を超えるものではなくなるだろう。創作物の中などという仮説は、彼女の能力が何らかの未発見の物理法則に従うもので、ここは現実世界だというような説よりさらに可能性が低いだろう、と僕は見ている。

 なにしろ、馬鹿げてる。だって現に僕には僕の感情があるし、今目の前に映っているごく簡単なありふれた景色だって言葉などでは正確に言い表せない。僕の恐ろしく複雑で恐らく大半は意味さえなさない感情や精神、それから僕の目に映る精巧な景色やその他の五感で感じ取られるすべてを、表せるメディアなどあるだろうか?

 そんなものはあり得ない。

 いや、あり得なくはない。今はなくとも未来にはもしかしたら生まれるかもしれない。だが、そんなことに何の意味があるだろう。

 現実は粗雑で、実際のところ無駄な情報にあふれている。どのような現実主義に根差した創作物であれ、現実をそのまま、何の情報も欠落させず、記号化もせず表現する作品など、そもそも作品としての体を成さない。そんなものはもはや表現とは言えない。

 だいたい未来の技術によってはじめて成り立つ仮説なら、もっといいものがある。どのような点から見ても、この世界が創作物の中だという仮説には「うまみ」がないのである。

 小説はただの文字の羅列で、漫画はコマの中に入ったただの絵と台詞である。他の創作物だって大抵は映像的な表現であり、その本質は表現された後の意味であり表現する手段である光子である。どれにしたって、そこに精神や現実が宿り世界を形作るようなことは起こり得ない。

 また、創作物には、作品には、受け手が必要でありその実像はむしろ受け手の脳内において完成する。受け手の脳内で再構成され、形作られた意味こそが、真の作品の姿なのだ。

 だからあらゆる創作物においてリアリティは結局のところただの手段である。単なる付加価値に過ぎず、それを突き詰めることには意味が無いばかりか、突き詰めてしまえば作品の作品としての意義を失う。

 僕の体は決してインクや光子の集合体ではないし、その証拠にこんなにも膨大で無駄な情報を蓄えている。この世がもし創作物なら、その創作物内の僕は――そこに登場するとしてだが――全くの別人というよりほかに無い。創作物の中の登場人物として、この僕は絶対に存在しえないのだ。

 もちろん宇野さんだってそうだし、他の誰だってそうだ。彼ら彼女らに共通する、有する情報の膨大さをカバーしきれるようなメディアは現在存在しないし、有する情報の無駄さを堪え切れるような根気は未来の技術においてさえ存在しえない。

 あるとすれば、それはもはや作品ではなく。ただの現象で、恐らくは実験だ。実験においては何よりもその情報の正確さこそが重視されるし、無駄なものは無駄なまま保存されなければならない。作品・創作物とは正反対の性格を有し、だからこそ今の状況に非常にそぐなう。

 まだまだ理由は並べ足りないが、とにかく今までに言ったような理由と、それからその他の理由があって、この世界が創作物の中だという可能性は限りなく少ない。また消去法で考えればこの世界が高度文明の実験場の中であるという可能性は高い、少なくとも僕の考えでは。

 だからこそ、僕は今目の前に揺れる火を咥えた煙草に灯そうとしている。犯罪を犯し、この世界の外側の世界にこの世界の正体を問おうとしている。

 僕の手は依然震えている。怖いのだ。

 なんのかんのと理屈を並べ立てようと、その並べ立てた当の本人である僕はただの一介の高校生だ。ガキで、おまけにひねくれ者ときている。それに、例えば高度文明を想定するならそれこそ、僕が2012年に生きる現代人だという条件からしてかなり不利だと言える。思い違いや考慮の不十分、無知や未熟は大いにあり得るのだ。

 だから僕は、少し怖い。いや、もしかしたらかなり怖いかもしれない。わからない。

 だけど僕はやらねばならない。早々にこの世界ワールドのこの人生ゲームの設定条件を見極めなければいけない。

 僕は暗い窓を睨みつける。睨み返す虚像をさらに睨み返す。僕は決心した。火をゆっくりと煙草に近づける。

 そのときだった。横合いから突如現れたコップ一杯の水によってライターの火は消えた。ちゅん、と音がした。

 煙草はびしょぬれで、僕の手もびしょぬれで、僕の顔にも飛沫がかかった。床には小さな水たまりができている。そして茫然とする僕の視線の先、僕の隣には、宇野さんがいた。

 「あぶないあぶない」

 「……犯罪は犯すなと言ったはずなんだけどな。住居不法侵入はよくないよ」

 「大丈夫、未来の君には許可取ったから」

 僕は眉を顰めた。

 「未来? ……そうか、なるほど」僕はみるみる晴れやかになる自分の表情を感じた「実験は成功か」

 「……君って人は……本当に……」

 宇野さんは震えていた。目には涙と怒りが溜まっていた。それから大きな文句も。

 「前の世界の君には散々言ったから黙っておこうかとも思ってたけど、そんなけろりとしてるのはもう我慢できない!」宇野さんは叫ぶように僕に言葉をぶつけた。「なんでそんな平気な顔してそんなことができるの? 死んだんだよ? 煙草を吸った未来の君は! いや、死んだなんてもんじゃなかった、誰からも忘れられて、消えちゃったんだから!」

 「へぇ、消えたのか、なるほど」僕は宇野さんの怒りさえ忘れたように頭の中の世界に夢中になった。「ふふん、わざとらしいねえ。それで宇野さんだけが最後まで覚えてたわけだ。もはや隠す気さえ感じられない。これは、ふふ、間違い無く神の仕業だな。ふふふ、面白い」

 「何が面白いの! もうっ!」

 そこでようやく僕は怒り心頭に発している宇野さんに気がついた心地がした。もちろん今までだって十分に認識していたはずだが、無意識に、いやむしろ意識的に思考の隅へ追いやられたような具合で、ある程度思考が固まった今になってようやく目の前の彼女を眺める余裕が出てきたという感じだった。

 「あれ、怒ってる?」

 「怒ってない!」彼女はあわててそっぽを向いた。「本当に、馬鹿じゃないのって、そう思っただけ!」

 「怒ってるようにしか見えないけどなあ……」

 僕は困ったように呟いたが、彼女に睨みつけられて媚びるような苦笑を浮かべた。怒りに燃える彼女の目にはうっすら涙が滲んでいた。まぁ、怖い思いでもしてきたのだろう。僕は少し彼女に同情した。

 「大丈夫、もう大丈夫だよ」いたわるような声の調子で、僕は言った。「俺はまだ、そう宇野さんのおかげで、煙草を吸ってない。だから消えない。もう大丈夫。忘れたっていいくらいさ。あんなもの――といっても俺は見てきたわけじゃないけど――ただの脅しなんだから。無意味だよ。ああ、その分じゃもしかしたら俺だって悪ふざけしたのかもな。せいぜい感動的な最期でも演出したんだろう。まったく、食えない悪ガキだよ」

 言いながら、僕は彼女の肩に手を置いた。気恥ずかしかったが、仕方がない、自分がしでかしたことだ、自分で尻拭いくらいしなければならない。

 「馬鹿」

 「ああ、馬鹿だとも」

 「大馬鹿」

 「そう、救い難い大馬鹿だよ」

 「おたんこなす」

 「その通りだ。よく正体を見破ったな」

 その後どれだけ罵倒されたか知れないが、僕は始終苦笑を浮かべ彼女をあやすようにずっと相槌を打っていた。

 しばらく彼女の罵言を甘んじて受け入れて、両親が帰って来ないうちに彼女を家に帰した。

 家に送り、帰る道すがら、僕は夜空を見上げ微笑んだ。

 それが何の微笑みであったか、僕にはちょっと分からない。ただ、僕や現状にはひどく不似合なそれだった。

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