第一話 非実在青少年の心得
宇野ゆかりは人気者である。
長い黒髪に整った顔立ち、姿勢が良くすらりとしたプロポーションを自由自在に操りこなし一挙手一投足が一々優雅、それにしては言葉遣いだけはどこか幼くて親しみやすさを感じさせながらも日常のふとした瞬間にミステリアスさを垣間見せる。彼女の奥深い魅力を僕の拙い語彙で無理矢理表現するならば、多分そんなところだろう。
高校2年の1学期がちょうど始まる頃に転校してきて、高校3年となった今まで僕は彼女と同じクラスだったのだけど、そのことを彼女が知っているかどうかは定かでない。
彼女はいつもクラスメイトに囲まれていた。いつも楽しげに笑っていて、僕のような薄汚れた目からみてもその笑顔に嘘は無い。
僕のような日陰者とは一線どころか五線も六線も画す誰にでも好かれる正真正銘の人気者、それが彼女、宇野ゆかりである。
そんな彼女と、最近僕はよく話をする。無論人目に付かない場所でだが、人目を気にするのは何も僕の暗いキャラクターと彼女の評判の不整合のみを考慮してのことではない。話の内容が何よりの問題なのだ。
僕と彼女は、自分たちが住むこの世界を現実の実在だとは考えていない。
現実の実在というのがそもそも定義が難しいのだが――なにしろ一般に実在でないとされる例えば書物の中の物語だって、架空の物語という形でこの世界に存在していることは間違いないのである――とにかくそんな問題は後回しにして、僕たちはそんな風に考え、あるいは信じているのである。
何故そのような素っ頓狂な発想に思い至り、あまつさえ確信するまでに至ったのか、それはやはり僕と彼女に起因すると言わねばなるまい。
僕の性格と彼女の能力に、起因する。そう言ってしまうよりほかにない。
この際僕の暗くてどうしようもない性格は置いておくとして、彼女の能力についてまずは話しておこう。
ずばり、端的に言ってしまうと、彼女の能力は「時間遡行」である。更に砕けた言葉を使うなら、「タイムトラベル」あるいは「タイムスリップ」あたりだろうか。とにかく、そういうわけで、彼女は過去に戻ることができるのだ。
僕は、そのことを思う度ついつい溜息を吐いてしまう。天が二物を与えた、どころの騒ぎではない。正直なところ彼女の能力を前にすれば彼女の美貌さえ霞む、それほどの桁に外れた能力である。だのに、彼女は美貌さえ持っている。片や僕はこんな有様で、そうなるともうこの世の不公平を嘆かずにはいられない。神様はどうしてこうも性格が捻じ曲がっているのだろうか、まるで僕みたいに。
そう、そういえば、それが問題なのである。何がって、つまり「神様」である。
僕と彼女は、この世界が偽物であると確信し、ほぼ同時に神の実在を信じることを決めた。それらは連関した物事であるように、僕と彼女には思えたからである。
この世が偽物なればこそ、それだけにいっそう、世界の創造者は存在するはずである。何故なら、創造者の不在はすなわち宇宙からの自然発生を意味し、それは物事の理である物理により純粋にもたらされた「本物」の特権だからである。
とはいえ、そんな御託は言葉遊びのきらいも多少あって。結局のところ偽物の世界の創造者も自然の被造物であるべきなら、偽物の世界も自然の被造物と呼べなくはないし、創造者無き虚構だって全くあり得ないというわけでもないのだから、結局のところそれらはすべて言い訳で、だから僕たちは今のところ「ただ信じている」それだけなのである。
まぁそうは言ってもそれこそ言い訳のようなもので、実際に考えてみるならば、この世が偽物ならまずもって世界の創造者即ち神は実在すると見るべきだろう。必然ではなくとも蓋然ではある、のである。
とにかく、そういうわけで僕と彼女は「この世界が偽物であること」と「この偽物の世界に創造者、つまりは神がいること」を今のところ信じるに至った。
そしてそれが、一体なんだというのだろう?
目下のところ、実はそれが一番の問題である。
世界が偽物だ、なるほど。神が存在する、なるほど。で、だからどうしたというのだろう? その後の何物も、結局出てこないのである。
世界が偽物だったところで、神が存在したところで、僕たちにとっての世界はそのまま、何も変わらず回り続ける。そこには結局、不都合など無いし、仮にあったしてもその解決策がこのことによって提示されたわけではやはりない。
彼女にとって能力を得る前の日常は十分に充実していて幸福だったし、だからそんな人生がこれからも続くことに何の不満もない。僕にしたって自分の不幸や不遇を呪って生きてはきたものの、結局のところそんな世界に人生に居心地のよさのようなものは既に感じ始めていたし、世界に対して多少の不満はあれど憎しみといえるほどの感情は持ち合わせていなかった。だから二人とも、何を知ったところでそれを使って何かやりたい事柄をすぐには思い浮かべることができなかった。
ただし、そうは言っても「これを活かさぬ手はない」程度には僕も彼女も考えている。「これ」とはすなわち、彼女の特殊な能力であり、世界や神についての秘密である。
別に世界にも人生にも大した不満はないから大それたことを起こすつもりはないが、これを使ってちょっと面白いことの一つや二つ起してみようか。結局のところ頭の軽い若者でしかない僕と彼女は、なんのかんのと能書きを垂れつつも最終的にはそんな馬鹿みたいに賢明な結論を下した。
そしてそんな結論も、結局は何も生まなかった。具体的なことは何一つ。僕たちはこれから何をすべきなのか、したいのか、全然わからなかった。
「ここはベタに宝くじでも当ててみる?」
「待て、その前にやはり宇野さんの能力についてもっと知っておく必要がある」
「うのっちでいいよ、みんなそう呼んでるんだから」
「断る」
「なんで?」
「昔飼ってた犬の名前がうのっちだったんで、その名前を口にすると泣きそうになる。ああ、思い出しただけで目頭が熱く……」
「絶対に嘘でしょ」
「この世に絶対など無い」
「でもこの世はこの世じゃないんでしょ」
「そうだな……ふむ、確かにその通りだ。そう考えると確かに幼いころの愛犬うのっちの記憶は、やはり虚構であり嘘なのかもしれん」
「まだ言ってるよ」
「そんな話はどうでもよくてだな、とにかく能力について詳しく知っておく必要がある」
「まず名前をつけよう~」
「のんきな奴め……まぁ確かに名前は重要だ。しかし気をつけろよ、もし仮にこの世界の神が俺たちを見ていたら、このネーミング如何でこの後の運命が変わることもあり得るぞ」
「変なプレッシャーかけないでよ」
「圧力」
「は? ……もういいや、とにかく、そうだなあ、名前は……タイムリープ!」
「やめろ!」
「え? 駄目?」
「さっき言っただろ、ネーミングが大事だって! パクってどうする!」
「えー、だって好きなんだもん、時をか――」
「やめろって!」
「何よっ」
「事態を把握しろよ。前にも言っただろ、この世界は偽物であり虚構だがどういう形の虚構なのかは分からない、例えば漫画やアニメの中の世界だってこともあり得るんだ」
「だから?」
「もしそうだった場合、例えば俺達が著作権や他の法律に引っ掛かるような行いをして漫画かアニメが連載中止や放送中止になったら、この世界はどうなると思う?」
宇野さんの表情に一瞬恐怖が差した。
「……消える……?」
「わからん。わからんがとにかく良くないことが起こる可能性が高い。絶対に避けて通るべきだ」
宇野さんは黙り込む。その表情から察するに、一応納得はしてくれたらしい。
「当然ながら著作権だけが問題じゃない。最近はいろいろ世間の目が厳しいからな……まぁ現実の世界――つまりこの世界の外側の世界だが――でも同じことが起こってるかどうかは分からないが、可能性としては十分にある。俺達は、あらゆる可能性を考えて行動しなくてはならない。自分たちの身を守るために」
「具体的には?」
「そうだな……まず当然ながら法律は基本的に守らなければならない。時間遡行があるんだからこれから銃火器が出てくる展開も十分考えられるが、極力使用しない方がいいだろう。もちろん死んでは元も子もないからいざとなれば使うべきだが。その他とにかく殺人や犯罪になるようなことは避けろ」
「いや、そんなことしないよ」
「分からんぞ、いざとなればな。というより、いざとなれば殺す覚悟も持っておいた方がいいかもしれん。まぁ今のところは必要ないが。それから、絶対に煙草は吸うなよ、酒もだ」
「だからしないって」
「まぁそのあたりは信頼してるよ。まったく、よかったよ時間遡行者が優等生で。それから……そうだな、あとは……その、あれだ、なんというか……エッチな方面の……」
「は?」
「最近特に規制が厳しいからな。恋人は別に作ってもかまわないが、セックスは――」
そのとき、目の前に突然拳が現れた。すぐ後に猛烈な痛みが僕を襲い、気が付くと僕は地面に倒れていた。
「最っ低!」
「いやしかし重要なことなんだ。だいたい、なにも殴ることはないだろ。これも最近問題になってるんだぞ。暴力表現は控えろ」
「暴力表現じゃなくて暴力! それも正当な暴力だよ!」
「お、おま、言動には気をつけろ、正当な暴力なんてあるもんか、読者か視聴者が真に受けて事件起こしたら一巻にして一巻の終わりだぞ」
「うるさいっ! だいたい決まったわけじゃないんでしょ、漫画かアニメだなんて」
「それはもちろんそうだ。小説かもしれないし映画や劇や舞台かもしれない。もしかしたら物語でないかもしれない。そもそも俺達が小説で言うなら文章に、漫画で言うならコマに、映画で言うなら画面に入っている保証もない。ただ単にこの世界の他のどこかが舞台で、俺達は存在すら知られないようなただのモブかもしれない。それに作品にしたって公にされているものかどうかも分からない。現実世界の誰かが人知れず書いている物語なのかもしれないし、あるいは書かれもしていない脳内のただの妄想という可能性も無くは無い。それからもちろん創作物でない可能性もある。つまり高度文明が作り出した仮想宇宙とか実験場とか、いま思いつくのはそれくらいだが他にも可能性はあるだろう。あるいは、限りなく小さいとは思うが一つの可能性としてここが現実世界だという可能性も無くはない」
「あれ? それは無いんじゃなかったの?」
「今のところ超常現象は宇野さんの時間遡行だけだからな。それが実は物理的に説明できるものだったという可能性も……無くは無い。あるいは宇野さんが嘘をついている可能性も――いや、仮にだよ、俺は信じてるって、だから殴らないで、拳を下ろして」
「拳なんか振り上げてないよ!」
「例えば小説なら、さっき読者は宇野さんが拳を振り上げたと勘違いしたかもしれない。叙述トリックってやつだな。とにかく、こんな風にいろいろ可能性があるわけだから注意深く行動してくれ」
「……なんだか、すごく疲れそう。変な能力なんて持つんじゃなかったかも……」
「そう? 俺は結構わくわくしてるぜ?」
「のんきな奴め……」
そんなこんなで、僕たちの大袈裟に壮大で奇妙に矮小な日常は始まった。
一体これから、僕たちはどうなるのだろう。
それは神のみぞ知る。あるいは、神さえ知らないかもしれない。