第十四話 恋は生涯につきもの
その日の夜だった。
「お風呂あいたよ」とパジャマ姿の輝耶が、タオルで丁寧に髪を拭きながら知らせに来て、ついでのように「お兄ちゃんって、宇野先輩のこと好きなの?」と聞いてきた。
僕は呆れたような顔を作り、応えた。
「そんなことを言ってるうちは、お前は誠には相手にされないよ」
「どういう意味?」
むきになって対応する輝耶。どうやら、興味を別の方向へ逸らせることに成功したようだった。
「そのくらい自分で考えなさい。とはいえ、今思い当たらなくても別に不自然ではないがな」僕は風呂場へ向かいながら言う。「この世界の本当を知ってからまだ一日も経ってないんだから、これからいくらでも考えるがいいさ。しかし何にせよ、誠の心を射止めた後にも壁が立ち塞がってることは確かだ」
「射止めた……後?」
「ああ。ま、それ以前にまず射止めなくちゃ話にならんがな。ああ、そう、これは言っといてもいいだろう」僕は妹の恋路を邪魔する気は無いしむしろ応援する所存だが、しかしだからこそ残酷な忠告をしてやった。「あいつ、二次元にしか興味無いらしいぜ」
「それは知ってる」
僕は肩を竦めて風呂場へ入った。なかなか、あれでハードな恋路を歩んでらっしゃる。
僕は湯船に浸かり、気持ちよさに深く溜息を吐いた。
それにしても、まだ足が痛い。
僕が宇野さんに謝った後、僕は十数分に亘って正座させられた。公園の、地面にだ。
なんとも酷い話である。そこで僕は「今後実験と称する馬鹿な行動をとるときは、必ず私の許可を取ること」と約束をさせられた。破ればそれ以降完全に無視され、つまり宇野さんの能力とは関われないということなので守るほかないだろう。あれではもはや脅迫に近い。
などと思いつつ、本当に悪いのは自分であることも分かっている。僕は少々調子に乗り過ぎていたようだ。
それから僕は説明が中途半端になっていた著作権について、もう実験から結構日にちが経ったが未だ罰が下る様子はないので煙草と違って著作権に関しては神が許したと考えていいだろう、という僕の考えを確認した。ただしあまりやり過ぎると神の怒りを買わないとも限らないのでほどほどに、と言い添えておいた。
「とくに君、ほどほどにね」
と、すぐに宇野さんに言われてしまった。実のところ僕にとっては神の怒りより宇野さんの怒りの方が怖い。
ちなみに著作権にかかわる発言の解禁に一番喜んだのはもちろん誠で、大好きな漫画やアニメに関する何事も言えなかったおよそ2日間を「地獄のようだった」とさえ表現していた。このことに関してだけは誠も輝耶に感謝していたようだった。
風呂から上がった僕は牛乳をコップに注ぎ、ソファに寝そべり僕が誠から借りているライトノベルを読んでいる輝耶に聞いてみた。
「あんな奴のどこがいいんだ?」
「顔」
流石の僕も絶句した。
「いや、それならやめといた方がいいぞ。俺が言うのもなんだが、あいつの性格には難があり過ぎる」
「性格に難があるくらい難でもないよ。私を誰だと思ってるの? 竹見輝耶の兄の妹だよ?」
つまり性格の悪さには兄である僕で十分慣れてるから問題ない、と言いたいのだろう。まぁ、遺憾ながら、説得力はある。我が妹ながら、よくも僕の妹などやってられるものだと時々思うが、やはりそれだけのことはあるのだ。
「しかし実際問題どうするつもりだ? 相手は二次元にしか興味無いんだぜ?」
「知らないよ。別に恋愛するために恋してるわけでも、成就するから恋してるわけでもないんだから。私は恋をするために恋をしてるの。恋するほかにどうするつもりもない」
「ひゅう、分けて欲しいくらい男らしいね。恋に恋してるわけじゃないんだな?」
「うん、誠先輩に恋してる」
「よろしい、じゃ、勝手になさい。いや、勝手にはさせないよ。僭越ながら、応援させてもらう」
「それはどうもありがとう♪」
僕は牛乳を飲み、リビングを出た。
自分の部屋に入り、すぐにベッドに潜り込む。
豆電球だけ点けた部屋には時計の音が響いている。正確に時間を刻むその音は、その正確さゆえに幻惑の色を孕んでいる。
僕は眠気に妨害され、あるいは加速される思考を巡らした。
輝耶の恋は成就するだろうか。誠はあんなことを言っていたが、あいつには性格に難があるとはいえ二次元だけしか愛せないというのは少し信じがたい、いや、あいつの人格と比してそれほど違和感があることではないのだが、「二次元にしか興味がない」と言っていた時の誠の表情には何かしら裏があった気がするのだ。もう結構前の話なので記憶はあやふやだが。
しかし二次元云々が嘘だったとしても、既に輝耶に忠告したように壁は残っている。たとえ我が妹の魅力が誠に通じても、それでもなお壁はそびえ立つだろう。誠が、あのことに気付かぬ筈はないのだ。他でもないあの誠が。
この世界は偽物で、創作物の中の世界だ。だから――いや、みなまで言うな。これは僕にとっても無関係な問題では無いどころか、実際のところ今一番頭の痛い問題でもさえあるのだから。
なにしろ宇野さんが――いや、やめにしよう。この思考だって物語に描写されてる可能性があるのだ。もしそうなら、ここで何を考えるかによって今後の展開が大きく変わり得る。
つまりそこが問題なのだ。今後の展開が変わり得るということが。そのあまりにも世の理を無視した不条理が。
僕は宇野さんや輝耶のような能力は持たないが、しかしこの世界が偽物であることを認識しているし、ある程度はその事実を悪用する手立てさえ思いついている。これは恐ろしいことだ。
ことによると、どんな能力より暴力的な行いが僕には可能かもしれない。それを僕は知っている。しかしだからこそ、僕は冷静にならなければいけない。
この世界が物語であるという事実は、たったそれだけで狂おしいほどに暴力的だ。
例えば宇野さんの能力が、蝶の羽ばたきによりあらゆる結果に発散し得る筈の未来が悲劇へと収束し、ある筈の混沌が秩序に置き換わるという僕の危惧も、そこに端を発している。
収束、そうだ、収束。これこそがげに恐ろしき「物語」の容貌だ。
それに、もうひとつ、不自然なほどに避けてきた問題が、まだ触れていない問題が、ある。
しかし僕は既にその問いを発することを決めている。いつになるかは分からないが宇野さん達の前にその問いを突き出す決心を既に僕は固めている。
僕たちは生きているのだろうか?
僕はその問いと共に死のような眠りに落ちた。