第十一話 ハートの絵文字は思わせぶり
「では改めて」僕は輝耶の頭の上に手を置き、紹介した。「我が妹、竹見輝耶だ」
頭の上に乗せた手はすぐに振り払われた。まったく、つれない。
見ると輝耶は大層不服そうな顔で――不服も何も、何もかも事実であるのに――そっぽを向いている。宇野さんと誠は驚きに表情を固めていた。
無理もない。なにしろ輝耶は自慢の妹で、僕の妹とは思えぬほど器量が良く、また纏う雰囲気もかなり違う。生まれつき色素の薄い明るい茶髪をツインテールに結び、釣り眼気味のこれまた色素の薄い瞳はいつも好奇心に光っている。悪戯っぽい笑みを浮かべさせたら恐らく右に出る者はいないであろうこの子悪魔もやはりクラスでは人気者であるらしく、兄としては嘆息に尽きない。僕とは全く、示し合わせたかのように正反対の人間である。
「もうっ、やめてよお兄ちゃん」
何度も振り払われては頭の上に手を乗せる僕に耐えかねて、輝耶は苛立った声を上げた。それから、「お兄ちゃん」といつも通り僕のことを呼んだことを恥じ入るように下を向いた。誠がそれを聞いて戸惑いがちに言葉を紡いだ。
「お……お兄ちゃん……。マジか、マジなのか」
「マジだとも」
「いやしかし、初耳だぞ、妹がいるだなんて」
「口止めされてたからな」僕は輝耶を見遣った。「俺が兄だということが、恥ずかしいらしい」
「……まぁ気持ちは分かる」
「分かるなよ」
さて、ところで事態はまだ始まったばかりである。まだ未解決の問題が残されている。いや、しかしその前にまだ他に解決されるべき、というよりは処理されるべき問題が残っている。
「しかし輝耶、お前の想い人がこいつだとはな。言ってくれれば協力したのに」
「協力なんていらないもん。というか、お兄ちゃんがまともに協力なんてできると思えないし」
「そうでもないぞ。なんなら今からでもして見せよう。誠、どうだ? うちの妹」
「どうだと言われてもな……」
「だそうだ、諦めろ」
輝耶は無言で僕を睨みつけた後、誠の腕を強引に掴み取り、組んでしまった。まるで悪者から守ってもらうべく彼氏に頼っているみたいに。
「……まぁ悪者役ならお手の物だし敵役なら適役だし、普段なら買って出るところだが」昼休みにも限りがある以上、そう無駄話ばかり繰り広げているわけにもいかない。「今は本題に入ろう」
「本題?」
輝耶は不審げに首を傾げた。
「もう一度、あの声を出してみろ」
「あの声? なんのこと?」
「ハートマークの声だ」
「は?」
輝耶はさらに首を傾げる。見たところとぼけているような気配は無い。それに今の今まで連発していたのに、今更隠す理由もあるまい。
ということは、恐らく自覚が無いということである。ハートマークはまったくの無意識に発音していたのだ。
「ふぅむ、自覚が無いとなると厄介だな。意図的に出せるものではないということだろうし、となると……」僕は宇野さんに目配せをした。「あとはお若い二人で、ということになるかな」
「ま、待ってくれ」
「お前な、こんなかわいい女の子とデートできるんだから、しかも兄公認なんだからむしろ喜べよ。だいたい人の妹をとんでもない生き物呼ばわりして――」
「ば!言うなよ」
「ひどーい、先輩そんなこと言ったんですか? 輝耶泣いちゃいます……デートしてくれないと」
「わ……わかった、わかったよ。するよ……デート」
というわけで僕は兄としての責務を果たした。たじたじに弱った誠を引っ張って行く輝耶は、帰りがけにそっと「サンキュ」と呟き、悪戯っぽく笑いかけてきた。
僕の自慢の妹は、そこだけは僕に似て、なかなかに強かである。
所変わって学校近くの竹取公園、時は過ぎ去り放課後。誠と輝耶は絶賛デート中、僕と宇野さんは絶賛尾行中である。
とはいえ、もうすでに尾行をする意味はほとんど無くなっている。なにしろハートの声はデートが始まる前からひっきりなしに聞こえているし、誠のたじたじな様子もしっかり見届けたのだから。
「どう思う? 宇野さん」
「うーん、なかなか手強いね。古杣君はなびきそうにないよ」
「いや、そうじゃなくて、あの声だよ」
そう言っている間にも、ハートマークがそのまま、音声として僕の耳に飛び込んでくる。
「♡」
今までの人生で一度も聞いたことの無い音だが、何故だかあの音がハートマークを示していることが本能的に分かる。まるで強引に頭の中を書き換えられたような、変な心地だった。
「あの声、完全にハートだよね」
「……そうだね」
「どう思う?」
「どうって言われても……とにかくあれも私の能力と同じく、物事の理を外れる現象であることは間違いないだろうね」
「そのとおり。しかもこれまた宇野さんの能力と同様に、この世界を解き明かす鍵となり得る情報を孕んでいる」
「うん、それは私にもわかるよ」緑の生い茂る茂みから誠と輝耶の様子を窺いつつ、思案するように宇野さんは目を細めた。「記号が声として表現される、ということは、つまりこの世界がそれができる種類のメディアを使った創作物だということ」
「そのとおり。そしてそれができるのは――」
「声が文字として表現されるような、小説や漫画。つまりこの世界は小説や漫画の中の世界ということになる」
「ま、無声映画で台詞が字幕として表現されてる可能性も無くはないけどね。とにかく、そういうこと」
この世界の正体が、また一つ明らかになった。僕の妹、竹見輝耶の物語への介入はそのような意味を持っている。
そして、僕がいま考えているのはそのことである。
僕達が今後の方針としてギャグ方向を設定したのが二日前、つまりギャグキャラの登場を期待し始めたのが二日前である。そして早くも今日、新たなキャラクターが僕達の物語に乱入して来た。
このことに、一体なんの意味があるのか。
つまりは神の意志が、僕には気になるのである。
このタイミングで、この世界が恐らく小説か漫画の世界だと仄めかすことにどのような意味が、そして意図があるのか。
単純なギャグ路線を支持している――ようにはどうも思えない。確かに輝耶の能力は今のところかなりふざけたものでギャグ成分を多分に含んでいるようにも思えるが、しかし同時に重要な情報も含んでいる。
二日前に僕が誠に話した作戦の内、最後に提案した「このまま作戦」。つまりこれまでのように僕の何事も複雑に考えてすべてを明らかにしようとするような姿勢に宇野さんや誠に付き合って貰う作戦、今までのややこしいことをさらにややこしく考える態度を続ける作戦を支持しているように、そういう神の意志の表れであるように、僕には思える。
ふとデート中のお二人に目を遣ると二人してクレープを食べていた。この竹取公園はわりに大きな公園で、ああいったものもよく売りに来る。輝耶は不意を突いて誠の手にあるクレープのクリームを舐め取り、「この味は……嘘を吐いている味だぜ……」と得意げに言った。どういう会話の流れなのかは聞き逃したが、その台詞は、ある漫画に出てくるわりに有名な台詞だ。
そこで僕は、僕が誠から借りていた漫画を輝耶が読みたがったことを思い出した。そしてなるほど、と思った。こういう裏があったのか、と。
どうやら我が妹、竹見輝耶の恋心は本物らしい。
であるなら。
そこで僕は極めて重要な決心をした。
それは「このまま作戦」の決行であり、これまで踏み込んでいなかった領域への思考の進行であり、妹の恋への本格的な介入であった。