その九
(六)
日もとっぷりと暮れて、人影も少なくなった道を一人で歩いていた村上勇一は、不機嫌そうに石ころを蹴飛ばしていた。
いつもの自宅へ帰る道ではない。杉田哲夫に叱られて、自分のカバンを光一の家に取りに行っているところである。
「何で俺がチャビの家に行かなきゃならないんだよ……」
そう呟きながら、「面白くねえ!」
思いっきり石ころを蹴飛ばしたつもりだったが、運動神経が鈍いせいか、空振りして転んでしまった。
「くそう! チャビの奴!」
悪いのは自分なのに、何でも光一のせいにしてしまう。
しかし、勇一が気になっていたことは、そんなことよりも、哲夫の豹変振りだった。
光一が学校を休んでいる間に、何かあったのだろうか。勇一は学校でしか哲夫に会うことはない。暴走族に入っていることは知っているが、まさかそこに光一が参加していたなどとは、知る由もないのである。
「今晩は……あの……」
チャイムを鳴らした勇一は、開いたままになっている玄関から声をかけた。
「はいはい、どちらさんかな?」
応対に出たのは光一の父親である、中野隆司だった。
「あの……光一君は……まだ、帰ってませんよね」
「ああ、たぶん部活で、遅くなるんじゃないかな」
「実は、僕のカバンを光一君に預けてあるんです。それを受け取りたくて来たんですが……」
「カバンを? ――わしには分からんなあ。光一の部屋に置いてあるのかな」
「ええ、たぶん」
勇一としては何とも言いようがない。相手に合わせるしかないのだ。
「だったら、中に入って持っていきなさい。光一には、わしが後で言っとくから」
と、中野隆司に言われて、勇一は光一の部屋へと案内された。
雑然としたその部屋の隅に、勇一のカバンが転がっている。何となく部屋を見回してみると、本当にバスケットがすきなのか、有名なプロバスケ選手のポスターが至るところに貼ってある。勉強机の上にも、バスケをテーマとした漫画の本が山積みされていた。
勇一が自分のカバンを取り上げて部屋を出ようとしたとき、足下に落ちている紙切れに目が止まった。
「これは……」
勇一は、思いもよらぬ出来事に一瞬当惑した。中野隆司の足音が聞こえて、慌ててその紙切れをポケットにねじ込んだ。
「カバンはあったかね」
「は、はい」
「ゆっくりしていけばどうだ。そのうち帰って来るだろう」
「いえ、僕ももう帰らないと……。お邪魔しました」
と勇一は、逃げるように飛び出して行ったのである。
光一の家を出て、少し離れた所にある街頭の下で立ち止まった勇一は、ポケットにねじ込んだ紙切れを取り出して開いてみた。
「まさかあいつが、こんなことを……」
それは、杉田哲夫に対する襲撃の計画案が、事細かに記されていたのである。
と言っても、この紙切れは下書きにしていたものらしい。黒く塗りつぶされた所や、書き換えられた所もあるし、途中から千切れてしまって、大事な日程などは読み取ることができなかった。
しばらく考え込んでいた勇一は、複数の人の気配を感じて視線を上げた。
「な、何だ、お前ら……」
八人、九人……いや、十人はいるようだ。同じ高校生風でもあるが、帽子を深くかぶり、マスクをしていて顔は分からない。
気がつけば、勇一はいつの間にかその集団に取り囲まれていた。
「――村上か」
リーダー格と思える男が、一歩進んで勇一の前に立った。
「だ、誰だよ……お前……」
相手が一人であれば、多少はハッタリでもかましてしまうところだが、大人数ともなれば、むやみに行動することは命取りになる。
「何してるんだ」
「何、って……。お前に関係ないだろ!」
「関係ないことはない。お前に会いたかったんだよ」
男はそう言いながら、声を殺して笑っていた。
「卑怯じゃないか! 一人じゃ俺の前に来れんのか!」
と言ったときには、勇一の身体はアスファルトの上に突っ伏していた。
どうやって投げられたのか分からないまま、勇一の身体は無数の足に蹴りつけられている。
苦悶に喘ぐ勇一は、何の抵抗すらできない。助けを求めようと思っても、口を開く少しの時間さえ与えてくれなかった。
「どうだ、苦しいか」
「やめてほしかったら、涙を流して土下座してみろ」
と言いながらも、一方的な暴行は続いている。
「何だよ、情けねえ。いつもの元気は空威張りかよ」
一人の男がかがみ込んで、「お前、金持ってないか。ちょっと拝借するぞ」
と言って、勇一のポケットをまさぐり始めると、紙幣と間違えて取り出したその紙切れを、街頭の明かりにかざしてみる……。
「何だ、こりゃ?」
と言ったその顔が、一瞬険しく曇った。
「――おい、この紙切れ、どうしたんだ?」
リーダー格がそれを受け取って、勇一の髪を引っ張り上げて問いただそうとした。
「し、知らねえよ! お前らに関係ないだろ!」
と、勇一は叫んだ。「――お前ら、もしかして……」
勇一は手を伸ばして、男のマスクに手をかけた。
練習の終了後、部室に集まったメンバーに笑顔で語りかけるキャプテンの迫田洋二の姿があった。最後のクラブ活動なのである。
「みんな、よくやってくれた。県大会は惜しくも準優勝だったけど、本当にいい思い出を作ってくれたみんなに、心から感謝する。ありがとう!」
そう言いながら、メンバーの一人ひとりに握手を求めた。
「キャプテン、俺、寂しいっすよ……」
「あと一年、この高校にいてくれませんか。お願いだから、落第してください!」
そんな無理難題を言われるほど、迫田への信望は厚かったのだ。
迫田は苦笑いして、メンバーとの握手を続けていった。
「みんなの気持ちは嬉しいけど、俺がいつまでもいたんじゃチームの成長はない。後はお前らが強くしていく番だ」
そう言って、迫田が伸ばした右手が、岡田浩二の前で止まる。
「キャプテン……」
慕っているキャプテンだけに、さすがの岡田も目頭を熱くしていた。
「これからのバスケ部は、おそらくお前が引っ張って行くことになるだろう。実力もついてきたし、精神的な不安もなくなったようだ。プレーを見てればよく分かるよ」
「そんな、俺なんて、まだ……」
「ただ、お前に欠けているところは、統率力だろう。いくら自分が頑張っていても、チームを引っ張っていくような能力がなければダメだ。これは技術や学力じゃない。人間性なんだ」
迫田がこんな話をするのは、メンバーの中ではこの岡田だけだ。
「まだ、俺には分かりません」
「今は分からなくていい。お前がトップに立てば、いやでも分かるようになるもんさ」
迫田はそう言って、岡田の手を硬く握った。後は任せたぞ、とでも言っているように……。
メンバーとマネージャーから、はなむけの花束が迫田に贈られた。
後ろ髪を引かれるように、迫田は部室から消えて行く。静寂だけがそこに残った。迫田の存在がいかに大きなものだったのか、メンバーは改めて思い知らされたのだった。
――部室の中が静かになると、最後まで残って掃除をしているのは……。
「どうだ、何か変わったこと、なかったか」
と、岡田が訊いてきた。
「何か、って……。キャプテンのことなら……」
「キャプテンのことじゃない。あいつのことだ」
「あいつ……。はい、いえ。その……」
分かっていても、いつも言葉に詰まってしまうのは、中野光一の癖というものか。
「そろそろ動きがあってもいいころだ。杉田はバカじゃない」
岡田はユニフォームを脱ぎながら、まるで自分に言い聞かせるように呟いた。
光一をスパイに仕立てて杉田哲夫の身辺を調査させ、傍若無人に暴走族にまで入り込んだ光一を、あの杉田哲夫が不審に思わないはずがない。
しかし、何の動きも見えないことが、岡田にとっては不安だったのである。
「教室の中ではどうだ。相変わらず、いじめられてるのか」
「それが、逆に優しくなるし、他の人にも僕をいじめるな、って……」
「杉田が言ったのか?」
「はい。何だかそれが、怖くて……」
一番不気味に感じているのは、何といっても光一である。優しくなるというよりも、哲夫は本当の友人になろうとでもいうような接し方に変わっていた。教室でも、暴走族と走っていても、哲夫はいつも行動を共にし、時には冗談すら言うようになっていた。
しかし、真意は分からない。「本当の男になろうとしている」と、哲夫は言っていたが、どういう意味だろう。暴走族に参加しているからか。それとも哲夫に自らくらいついているからか……。
「なあ、チャビ。そろそろ始めようと思ってるんだ」
岡田が言った。
「始める……というと」
「あいつの住んでいるところや日常の動きが、お前のおかげである程度分かってきた。普通科の奴らを一人ずつ締め上げる。杉田は暴走族が絡んでいるから最後だ。なに、族といっても、どうせ下っ端だろ。学校内でけりをつけりゃ、何とかなるかもしれん」
岡田は自分なりに計画を立てているようだが、その話を聞いただけでは、光一には納得いくはずがない。犠牲になるのは自分なんだから……。
「――いつからですか」
光一は汗ばんで来た手を握って、まるでそこに杉田哲夫がいるような目で、部室の壁を睨みつけている岡田に訊いた。
「もう、始まっているはずだ」
「――というと」
「一人ずつ締め上げてやる……」
岡田はそう呟きながら、硬く拳を握り締めていた。