その八
(五)
玄関の呼び鈴が鳴って、中野良子は炊事の手を止めた。
光一の父である中野隆司は、出勤前の朝食と格闘している。寝起きの悪い隆司は、箸を持つのももどかしいほど朝は苦手なのだ。
「誰だ、こんな朝っぱらから……」
「何言ってるの。早くしないと遅れるわよ!」
良子は焼き上がった目玉焼きをテーブルに置いてから、玄関へと走って行った。
こんな時間に誰だろう。朝からの来客はほとんどないのだが……。
良子は戸惑いながら玄関のドアを開けた。
「おはようございます。あの……」
男は戸惑っていた。
見たことがある。いや、どこかで会ったことが……。
「――あのう、もしかしたら、先生……」
「はい、光一君の担任で――」
「沢村先生! ごめんなさい。久しぶりなものだから、つい忘れて」
良子は慌てて頭を下げた。何しろ家庭訪問のときに一度会っただけなのだ。思い出すのに時間がかかるのは仕方ない。
「風邪の具合はいかがですか。三日も休むなんて初めてのことですからね」
「ご心配をおかけしまして……。もう大丈夫ですわ。さっき元気よく出掛けて行きました」
「おや、もう行ったんですか」
「ええ、お友達が迎えに来てくれましてね」
「友達?」
沢村は一瞬、戸惑った。友達と登校するようなことは今までなかったからだ。いつも一人で数人分のカバンを提げて、校門の近くで持ち主に渡すという光景を、沢村は何度か目撃していたのである。
「誰が迎えに来たんですか?」
「ええと……。杉田――そう、杉田君とか、って言ってましたわ」
「杉田ですか!」
「感じのいい子でねえ。あんなにいいお友達がいたなんて、全然知りませんでした。この家にあの子の友達が来たことなんて、今までなかったんですよ」
良子が喜んでいることは、その表情を見れば誰にでも分かるだろう。
まだ登校するには早過ぎるような時間だ。もしものことを考えて、沢村は早めに来てみたのだが……。
もし中野光一がいじめられているとしたら、要注意人物は杉田哲夫だ、と沢村は思っていたところなのである。
「杉田に会ったのは、初めてですか?」
「ええ。ちゃんと挨拶もできるし、利口そうな子でしたわ。光一の身体を気遣ってくれましてね。顔のアザなんかも心配してくれて……」
「アザ……と言いますと?」
「三日前に、自転車で転んだらしいんです。全くドジな子供ですからね。よく転んで怪我をしてくるんですよ」
良子はそう言って笑った。
しばらく考えていた沢村だったが、良子の顔を見返していぶかしむように訊いた。
「本当に自転車から転んだんですか?」
「――と言いますと?」
「いや、はっきりしたわけじゃないのですが。例えば、誰かにいじめられた、ということは考えられませんか」
「いじめ……ですか? さあ、光一は何も言いませんから」
良子の顔が、心配そうな表情に変わった。「あの子がいじめられていると……」
「いえ、決してそういうわけでは……。もしかしたら、ということです」
沢村は慌ててそう言った。母親に余計な心配をかけてはいけないと思ったからだ。
「――何かあったんですか。だって、わざわざ先生が来てくださるのも珍しいことですし。そういえばあの子も最近、おかしなところがないわけでも……」
「いじめの情報があるのは事実です。しかし、真実を見ることができません。光一君が標的になってるんじゃないかと心配になりまして」
と、沢村は言った。
しかし、この問題を言わない方がよかったのか、沢村は言ってしまった後に後悔した。まだ証拠を摑んだわけではないのだ。
「いや……ご心配なさらないで下さい。はっきりしたわけではないですから」
と、母親を落ち着かせて、「この三日間、光一君はずっと家にいたんですね」
「はい……と思いますが……」
良子は戸惑って、「私が夜の仕事をしているものですから、いるのかいないのか、さっぱり……」
と、うつむきながら言った。
夜の仕事をしているからといって、引け目を感じることはない。逆に、人様が遊んでいる時間に仕事をしているのだ。もちろん朝昼は、普通の家庭と何ら変わらぬ家事もこなしているのだから……。
「分かりました。元気になったのであれば、もう心配することはないでしょう。安心しました」
沢村はそう言って、「何かありましたら、いつでも学校の方に連絡してください」
挨拶を済ませた後、良子に一礼して出ようとした。
「あの……本当に光一はいじめられていないんでしょうか」
「大丈夫です。すべて私が……」
そう言って歩き出した沢村だが、却って母親を不安感の中に陥れたようで、気が引けてならなかったのである。
中野光一の家を出た沢村は、その角を曲がったところで、出会い頭に少年にぶつかった。
その反動で転がってしまうほど、歩くことに神経を集中することができなかったのか……。
「おっと、ごめんなさいね。大丈夫?」
沢村は自分が痛いのも構わず、慌てて起き上がって少年に駆け寄った。
「は、はい……いえ。――先生! 沢村先生じゃないですか。どうしたんですか!」
その少年は、商業科でバスケ部の岡田浩二だった。
沢村は岡田の腕を引いて身体を起こした。そして、岡田の手から落ちたノートを拾い上げようとしたが、
「大丈夫です! 自分でやりますから!」
そう言うと、沢村が取り上げようとしていたノートを、奪い取るように摑んだ。見られてはまずいことでも書いてあるのか、沢村は訝って岡田を見据えた。
拾ったノートをカバンにしまい込んだ岡田は、
「すみません、ちょっと急いでいるもんで……」
と言って、歩き出そうとしたが、
「学校はそっちじゃないぞ。どこかに行くのか?」
と、沢村に訊かれて立ち止まる。
「友達と待ち合わせしてるんですよ」
岡田は振り向いて、「先生こそ、何してるんですか?」
「俺のクラスの生徒が休んでたから、迎えに来たんだが……」
「休んでた、って――もしかしたら、チャビ……」
「お前も中野と待ち合わせなのか? もう学校に行ったそうだが」
意外な、という顔をして、沢村は言った。
「えっ! もう行ったんですか?」
「友達が迎えに来たそうだ」
「友達って?」
「杉田だよ。――お前は商業科だから、分からないかな」
「杉田……」
その名前を聞いて、岡田の顔色がスッと変わった。
「どうしたんだ」
「――いえ、何でもありません」
岡田は気を取り直したように、「それじゃ、学校で会いましょう!」
と言って、先を急ぐように駆けて行ったのだった。
午前八時半の登校時間を知らせるチャイムが鳴り始めると、学校の近くでは、短距離ランナーの如く全力疾走で校門を駆け抜ける生徒が何人かいるものだ。
遅刻常習犯の村上勇一も、いつものように疾走していた。
チャイムが鳴り終わるのと同時にゴールテープを切った勇一は、息も絶え絶えで教室にたどり着いた。
教室の中を見回した勇一は、先に来ていた中野光一の姿を見つけると、
「チャビ! 俺のカバンはどうした!」
と詰め寄って、「どうして外で待っていなかったんだよ!」
いかにも噛み付きそうな様子だ。
「いや、それが……」
言葉に詰まった光一に、勇一は、
「この野郎!」
と言って、殴り掛かろうとした。しかしその手が振り下ろされようとしたとき、勇一の腹に激痛が走った。
「やめろ。――余計なことはするな」
杉田哲夫の足が、勇一の行動を制止したのである。
勇一は床に転がった。
「哲夫君――どうしたんだよ」
「チャビに手を出すな。分かったか」
聞いて驚いたのは、他でもない、光一だ。
震えている光一に、勇一を見下ろしながら哲夫が訊いた。
「こいつのカバン、どうした」
「それが、僕の家に……。だって、突然哲夫さんが来たから、びっくりして忘れてしまいました。――ごめんなさい!」
光一はそう言って、勇一に頭を下げた。
「勇一! お前はチャビにカバンを持たせてるのか」
「ああ、いつもそうじゃないか。哲夫君だって、チャビに持たせてるだろ」
「俺はいいんだよ。――他にいるか? チャビにカバンを持たせてる奴は」
と、周りを見回して、「何人分、持って来るんだ?」
哲夫は光一に訊いた。
「今日は五人分――いや、六人分でした」
「六人分か……。お前ら! 明日から、自分のカバンが自分で持って来い!」
哲夫が一喝した。
教室の中にいる生徒たちは、哲夫の変わりように驚いている。そもそも光一を率先して使っていたのは、この杉田哲夫なのだ。〈ご褒美〉と名付けられた暴力も、哲夫の命令でやっていることだって少なくないのである。
その哲夫が、光一を庇っている。どうした心境の変化なのか、勇一たちは、言葉もなく哲夫を見ていた。
「分かったか!」
「ど、どうしたんだよ、哲夫君……」
勇一が小さな声で訊いたが、
「カバンだけじゃない。パシリも、暴力も、今後いっさい禁止だ。もし、チャビに手を出すようなことがあったら、俺が黙っていないということを忘れるな」
哲夫は勇一を睨みつけて、「こいつは今までのチャビじゃない。本当の男になろうとしているんだ……」
そう言って、自分の席に着いたのである。
光一はただ呆然と哲夫を見ていた。――どうして哲夫が自分を庇うのだろう。無理を言って暴走族に入れてもらったからか? 哲夫から逃げずに、自分から食らいついているからか? いや、違う。そんなことぐらいで態度を変えるような男ではない。しかも光一の行動は、岡田浩二との密謀の上での事なのだ。もしそれが分かっているのであれば、今ごろ光一は、半殺しにされているはずだ。
それじゃ、他に何か……。
しかし、自分から哲夫に訊くわけにもいかない。それは、自ら墓穴を掘るようなものだから……。
「チャビ! 一時間目の授業は何だ」
哲夫はいつものように訊いた。
「ええと――日本史です」
「俺の教科書は」
「ちゃんと用意してあります」
「ああ、ありがとう」
と珍しく礼を言って、光一から教科書を受け取った。
「それから、今日のお昼は、何が……」
「そうだな。ホカ弁のカレーにでもするか」
「カレーを。分かりました。大急ぎで行ってきます」
と言って、光一が自分の席に着こうとすると、
「それから、買って来るのは俺の分だけでいいからな」
と、哲夫は言ったのである。
いつもと変わらぬ同級生の上下関係。
しかしその光景は、仲のいい友人のじゃれ合いにも見えていたのだった……。