その六
カバンを三つ抱えた光一は、息を切らしながら小走りに付いて行くのが精一杯だった。自分のカバンも入れたら四つということになるが、いつものことを考えれば、今日は少ない方だ。
学校の裏門を出て、哲夫たちの後を追う。
毎日の日課ではあるが、ここから駅までの道のりは、光一にとってどれほど長く感じているか、誰にも想像することなど出来ない。
杉田哲夫のすぐ後ろを歩く。光一の後ろから、村上勇一と髙木典雄が、ふざけ合いながら、傘をヤリに見立てて光一の背中を狙ってくる。背中に背負ったカバンを狙っているが、傘の先はその間を縫って、時に背中に当たった。
激痛が走るが、声には出さない。誰も助けてくれないし、笑われるだけだ。
しかし、三回目に飛んで来た傘は、光一の体をかすめてしまった。その尖った傘先が、哲夫の左肩に当たったのだ。
「いてっ!」
哲夫が立ち止まる。
傘を投げた村上の顔から血の気が引いてきた。ま、まずい……。
「ご……ごめん、哲夫君!」
「――誰が投げた」
哲夫は振り向いて、そう言った。
「チャビを狙ってて、手元が……」
「こんなもんが当たったら、痛いに決まってるだろ」
哲夫は傘を拾い上げた。
飛んでくる。投げ返して来るだろう。村上は哲夫の性格をよく知っている。たとえ日頃仲良くしていても、キレたら何をしてくるか分からない。
「ごめん、ご――」
突然、哲夫が傘をスッと差し出した。
「気をつけろ」
そう言って、哲夫は歩き出したのだ。
村上と髙木は、呆気に取られていた。もちろんそれを見ていた光一もである。
「それから、お前ら先に帰れ。俺はちょっと寄る所がある。チャビ、一緒に来い」
「は、はい」
村上と髙木は、わけが分からず突っ立っていると、
「早く帰れ!」
哲夫が一喝した。
二人が光一からカバンを受け取り、走り去ると、哲夫はゆっくりと歩き出した。その後を、光一は付いて歩く。
「――チャビ」
哲夫が背中越しに言った。
「はい」
「学校、面白くないだろ」
光一は黙っていた。
「俺も面白くない。分からんだろうな」
何かあったのだろうか。いつもの哲夫と様子が違う。
しばらく二人は黙ったまま歩いていた。
どこで切り出そうか。光一はここ何日も悩んでいたが、今しかない。
光一は思い切って声をかけた。
「哲夫さん、あの……」
哲夫が立ち止まる。
「どうした。お前から話し掛けて来るなんて珍しいな」
「実は、お願いがあるんですけど……」
光一は、自分を落ち着かせようと、何度も大きく息を吸い込んだ……。
(四)
クラシックな雰囲気が漂う洒落たショットバーの中は、宴会やパーティーから抜け出して来たようなカップルたちが、朝までの予定でも話し合っているのか、仲睦まじく囁き合っている。
古い木材を使った椅子、長い年月の傷跡が残るカウンター。その上には色鮮やかなカクテルが並べられ、薄暗いと感じるほど明るさを落とした照明が、更にカップルたちの頬を上気させているようだった。
若者が多く集まるこの店の小さなテーブル席に、ここの雰囲気には似つかわしくないカップルが、まるで討論会でもしているような難しい顔で向き合っていた。
「とにかく、あの学校の体質はおかしいと思わないか。何だか、自信がなくなって来そうだ……」
男はそう言って、こんな場所で誰も飲まないような燗酒に口をつけた。
「もう仕事の話はやめてよ。ここは学校じゃないんだから」
園田洋子の大きな声に、周りの客が振り向いた。久しぶりのデートだというのに、ちっとも楽しませてくれない沢村俊雄の言葉に嫌気が差してきたところだ。
「やっと二人っきりになれたのよ。池田先生ったら酔っ払っていつまでも帰らないし、あなただって三次会に連れて行かれようとするし……」
洋子はうつむきながら言った。
沢村は周りの眼を気にしながら、洋子に顔を近づけた。
「そんなに怒るなよ。仕方ないだろう、池田先生には聞いてもらわないといけない話もあるし、僕たちがこうやっているところを見られたら、後先どうなるか」
「何怖がってるの? あなたが臆病だからそんなふうに見られるのよ」
「しかしね……」
「池田先生に何を話すのよ」
「だからこの前も言ったように、いじめの問題だよ」
「まだそんなこと言ってるの。いじめなんてないし、たとえあったとしても、弱い生徒に問題があるのよ」
「それは違うね。現に中野だって……」
と、沢村が言いかけると、洋子は身を乗り出して、
「あなた、出世したくないの?」
さらりと流すように言った。
洋子の意外な言葉に、沢村はつい口をつぐんでしまった。
もちろん考えないことはない。誰だって出世したいという願望は持っているはずだ。
しかし沢村は、何もしないまま上司にへつらって、肩書きだけを狙うようなことはしたくなかった。教師たるもの、子供たちの人間形成を優先することが、沢村の信条としていることなのである。
「いじめの問題と出世、どう関係あるんだ」
「子供たちの世界に、大人が顔を出してはいけない部分があるんじゃないのかしら。子供は子供なりに、いろんな意味で過当競争を乗り越えなくちゃいけないと思うの」
「――大人は?」
沢村は怪訝な顔で訊いた。
今まで何度か密会を繰り返し、仕事や家庭から離れたわずかな時間を悦楽のためだけに過ごして来た二人だが、今日の洋子はいつもとは違う。何か心配事があるのか、洋子の表情は明るくなかった。
この店に入った時からそうだ。――半年前、新任の歓迎会が終了した後の帰り道、生活指導について上司と対立して、投げやりになっていた沢村に声を掛けた洋子と一夜を共にしたのだが、それからの洋子は、沢村にとって一種の安らぎの場としての存在だった。
それ以来、二人で落ち合うのがこの店で、学校では厳しい顔をしている洋子も、ここに来ると、まるで少女のような笑顔で沢村を迎えていたのである。
しかし今日の洋子は、いつもと何かが違っていた。
「――大人だってそうよ。まじめにやっているだけじゃダメ。人間を、しかも子供たちを相手にしている商売なんだから、ある程度は厳しく、それから要領よくやっていかなきゃ、いつか自分が潰されてしまうわ」
「商売ねえ……」
「あら、そうじゃない。私たちは教育をしてお金を貰ってるのよ。生徒たちの成績が上がってこそ、私たちの成績も上がっていくのよ。スポーツクラブが優勝しても、テストの点数が悪かったら何にもならいの」
「そうかもしれないけど、何だか納得いかないね。現に助けを求めている生徒もいるんだから」
「それって、チャビのこと?」
沢村はしばらく言葉を失った。
「――君は教師だろう。生徒にそんな呼び方をするのか」
「あら、可愛いニックネームじゃない。その割にはちょっと情けないけどね、あの子……」
「そうじゃないんだ。中野をそうさせている何かがあるはずなんだ。それを分かってやるのも教師の役目じゃないのか」
「あなたって、バカがつくぐらいお人よしなのね。――時には裏切りも必要なのよ」
洋子の言い方は、沢村の背筋を一瞬ゾクッとさせる響きがあった。今までの洋子とは何かが違う。ここまで沢村に讒言することはなかったし、妙な意味合いを含んでいる洋子の言葉が沢村には気になっていた。
「それで、今日はどうするの?」
単刀直入に、ホテルに行くのか行かないのか、と訊いているのである。
「そうだな……」
と、沢村は曖昧に言った。「明日の朝から、中野の家に行ってみようと思ってるんだ」
「チャビの?」
「この三日間、風邪で休んでいるんだが、ちょっと気になってね」
「あら、それはお気の毒に。――それじゃ、もう帰るしかないわね。行きましょ」
洋子は意外にあっさりと立ち上がった。
いつもの洋子なら「もうちょっと私のそばにいて!」と甘えて来る。妻子持ちの男にとってはつらい言葉なのだが、それがなんとも可愛く見えてしまうから困ってしまうのである。
沢村は残った酒を飲み干そうとしていると、洋子は伝票を取り上げてレジに向かって歩き始めた。
「ま、待てよ。俺が払うから」
沢村が慌てて追いかけると、
「結構です。いつもご馳走になってるだけじゃ気の毒ですから」
「どうしたんだよ。何をそんなに怒ってるんだ」
「怒ってなんかいないわよ。私もこれから予定があるの。早くしないと遅れるわ」
さっさと勘定を済ませた洋子は、沢村のことなど全く気にしていない様子で、その店から出て行った。
外に出ると、深夜の繁華街を横行闊歩する恒例となった暴走族の集団が、爆音を上げて通行人を刺激していた。
以前は週末にしか出没していなかったのだが、最近はクリスマスが近いということもあって、毎日のように暴走を繰り返している。パトカーのサイレンが聞こえてきて、クモの子を散らすように集団が消えて行った。所詮、イタチごっこなのである。
「ちょっと待てよ、洋子」
歩き出そうとしていた洋子に、沢村は慌てて声をかけた。
「あの連中に絡まれないように気をつけてね。あいつら、酔っ払いのおやじを狙ってるんだから」
そう言った洋子は、いつもの帰り道ではない、クラブやバーが密集しているビル群の中に消えて行った。
呆然と立っている沢村の足下で、暴走族が投げつけた爆竹が炸裂した。我に返った沢村は、振り向いて、
「バカやろう! お前ら――」
と言い掛けた言葉が喉元で詰まった。いつの間にか散らばっていたはずの集団が、再びその勢力を取り戻していたのである。
数台の改造オートバイが、交差点の真ん中で、爆音を鳴らしながら周回を繰り返している。
四方に広がる道路には、青信号にもかかわらず、前に進めない車の列で渋滞しようとしているし、歩道から溢れた若者たちのギャラリーは、暴走族を煽り立てるようにバカ騒ぎを繰り返していた。
爆竹を投げたと思われるバイクが二台、アクセルを吹かしながら沢村に近づいて来た。
沢村は身の危険を感じて、早くここから立ち去らないといけないと思ったが……。
「おい、オッサン! 何ボーッと突っ立ってんだよ!」
鉄パイプを振り回しながら、後部シートに乗っている少年が叫んだ。
「大人はいいよな。酔っ払ってネーチャンに甘えてりゃいいんだもんな。金もあるだろうしよ」
オートバイを運転している金髪の少年がぼやきながら、二台のバイクで沢村を取り囲むようにして止まった。
「オッサン、楽しかったかい。襟元に口紅でも付けてんじゃねえのか」
「どれどれ、確認してみようか」
鉄パイプを持った男が、その棒で沢村のあごを持ち上げた。
「や、やめないか、君たち!」
思いっきり怒鳴ったつもりだが、沢村の声は小さく震えている。
「おっ、威勢のいいオッサンだぜ。どうやらこの鉄パイプと勝負するらしいな。あんたの骨と鉄パイプ、どっちが硬いかなあ」
そう言った男はバイクから降りると、腰に刺した刀を抜き取るような仕種で、ゆっくりと近づいて来た。
沢村は後ろに退がろうとしたが、もう一台のバイクに乗った少年が沢村の腰を弾き飛ばして、その身体は前のめりに突っ伏していた。
「ははっ、なんだ、やっぱりビビッてやがるぜ」
そう言った少年は、「なあ、オッサン、お願いがあるんだ。俺たちちょっとばかし金が足りないんだよ。哀れな俺たちに恵んでくれないかな、少しでいいからさ」
そう言いながら、ゆっくりと鉄パイプを振り上げた。
それが振り下ろされようとした瞬間、もう一台の後部シートに乗っていた少年が駆け下りてきて、鉄パイプを握り止めた。
「兄貴、待ってください。このオッサン、金なんて持ってないっすよ」
「何だ、今さらやめろってえのか」
「そんな顔してないでしょ。もっと金持っていそうなオッサンにしましょうよ」
そう言われた少年は、鉄パイプを握り直して、沢村に近づいてしゃがみこんだ。
「オッサン、持ってないのか、金」
「――ないよ! お前らなんかにやる金なんて、持ってるわけがないだろ!」
沢村の足は震えていたが、少年から目を離さないように気をつけながら言った。目を逸らしたら負けだ。
「ま、いいや。他をあたるか」
少年はそう言って立ち上がると、「どうだオッサン、俺たち、怖いか?」
沢村は答えなかった。いや、あえて答えないようにしたのである。こういう連中は、何を言っても付け上がるだけなのだ。
「じゃ、行くか。――オッサン! こいつに感謝しろよ。こいつが助けたようなもんだからな」
そう言った少年は、止めに入ったその男に鉄パイプを渡すと、
「このオッサンはお前に預けた。好きなようにしな」
と言って、再びバイクにまたがった。
いつもであれば、金を持っていないオヤジに対して、ある程度の暴行を加えるのがこのグループのしきたりになっているのだ。
「いいっすよ、兄貴。殴ったところで金が出てくるわけじゃない。行きましょ。――ほら、警察が!」
数台のサイレンの音が遠くから聞こえて来た。
みんながバイクに乗ってアクセルを全開させた。
少し距離を置いて止まっていたオートバイが、沢村の視界に入った。その後部座席に乗った少年と、一瞬目が合う。
沢村の体が、何かに反応した。それが何か、沢村には分からない。ただ、その目が、どこかで見たことがあるような、そんな気がしてならなかったのである。
数台のパトカーが交差点に差し掛かると、無数の爆竹が鳴り響いた。暴走族の中で決めてある撤収の合図だ。
改造バイクが四分五裂して行く中で、沢村の少し前で止まったままでいたバイクが、遅れて走り出した。
後部シートの少年は、沢村を見つめたままだった。