その五
(三)
「誰がやったんだ……。俺は何も聞いてないぞ!」
一時間目の沢村が務める日本史の授業の後、休み時間となったA組の教室の中は、今までにない険悪な空気が漂っていた。
「やったのは俺と典雄なんだけど……。だってあいつ俺の言うことに逆らって、チャビの事もバラしてやる、って言いながら暴れ出したんだ」
村上勇一はそう言いながら、髙木典雄の腕を引っ張った。
「そうなんだよ。岡野の野郎、二、三発ぶん殴ったら職員室に向かって走り出しやがって……。追いかけたんだけど、間に合わな――!」
杉田哲夫の足が、典雄の腹にめり込んだ。とっさに勇一も身をかわす。
他の生徒たちは教室を出て行ったまま、何事も起きていないような顔で無関心を装っていた。
「たかが岡野じゃないか。お前らそんな雑魚を相手にして嬉しいのか」
「だって、パシリはチャビだけじゃ間に合わなくて……。岡野なんか適役じゃないか。だから少しずつ調教しようと思ってたんだ。そしたらあいつ……」
勇一はそう言いながら震えている。どうやら哲夫は本気で怒っているらしい。
「弱いからといって侮るな。弱い奴ほど、窮地に立ったときの爆発力は凄まじいものがあるんだ」
「でも、チャビだって……」
「あいつは弱いわけじゃない。力だってあるし、本気で喧嘩したらお前らだって勝てるかどうか分からないんだぞ」
哲夫の話は、いつものような威圧するような口調ではない。何となく自分に言い聞かせるような含みがあった。
「まさか、そんな……」
「――あいつは中途半端なだけだ。ビクビクしてるだけで、自分の意思を押し殺しているから何でもいやとは言えない。だから、いじめられても、使われても、ただ我慢して時が経つのを待つしかないんだ」
哲夫は教室の隅にいる光一に視線を送った。「でも、あいつは違う。岡野は本物の弱虫だ」
朝礼の沢村の話は、哲夫にとって寝耳に水だった。光一のことだったらそれなりに対処できるが、自分が知らない間の出来事が、哲夫の思考を鈍くさせていた。
「――まあ、いい。岡野もいなくなったんだ。後はあいつが病院で喋らないように、お前らがしっかり見張っとくんだな。任せたぞ」
哲夫はそう吐き捨てて、教室のドアを力任せに開けた。哲夫の大きな声と共に、廊下に出ていた生徒たちが一瞬にして静まり返った。
「お前らも分かってるだろうな。岡野みたいになりたくないだろう。妙なことは考えるな。たとえ俺がいなくても、あいつらがいるんだ」
哲夫は教室の中をあごでしゃくりながら、怯えている生徒たちに言った。
しかし誰も返事はしない。ただ何も言わず下を向いたまま、哲夫と目が合うことを恐れていたのである。
教室の中がざわついている。
哲夫が振り向くと、典雄が廊下の窓から顔を出した。
「哲夫君、ちょっと来てくれ」
「どうした、何かあったのか」
教室に入った哲夫は、窓から校庭を見下ろしている仲間たちに近づいた。
「ほら、あいつだよ。バスケ部の岡田。こっちを見て嗤ってやがるんだ」
勇一が苦々しげに言った。
哲夫が窓の外を見下ろすと、岡田が数人の仲間たちと共に、腕を組んで、嘲笑うようにこっちを見上げている。
「何か企んでいるんじゃないのかな。あの野郎、ふざけやがって」
典雄がそう言って、校庭につばを吐き捨てた。
「――チャビ、ちょっと来い」
哲夫に呼びつけられた光一の手から、数冊の教科書がこぼれ落ちた。二時間目に使う教科書を、いつも持ってこない勇一たちのために、隣のクラスから借りて来たものである。
「は、はい!」
光一は慌てて拾い始めたが、
「そんな物はどうでもいい。こっちに来てみろ」
「な、何か……」
近づいて来た光一の胸倉を摑んだ哲夫は、その身体を窓枠から押し出そうとした。
「あの岡田の態度は何だ。俺を挑発してるのか」
と、哲夫は顔を近づけて言った。「お前が知らないはずがない。言ってみろ!」
「待ってください! ぼ、僕は何も知りません。本当です!」
「最近お前は岡田の言いなりになっているそうだな。俺を裏切るつもりか」
「そんな、そんなことありません」
「だったらここで岡田の悪口を言ってみろ。あいつに聞こえるような大きな声で言え。バスケ部が決勝で負けたのは、岡田がデブで、のろまのせいだ、と言ってみろ」
襟首を摑まれた光一の頭が窓から飛び出して、岡田と視線が合った。しかし光一の口からは何も言葉が出なかった。
岡田は嗤っている。それだけではない、声を出して高笑いを始めたのだ。
光一の体が震え出した。高い所から落ちる、という恐怖感からではなかった。
光一だけにしか分からない、岡田に頼まれたあのこと。それが哲夫にバレた時の映像が、光一の脳裡に鮮明に浮かんでいたからである。
突然身体を引き込まれて、光一は教室の床に投げ飛ばされた。
「やっぱりそうか。――チャビ、後でたっぷりお説教だ。お前もいい度胸して来たぜ……」
哲夫はそう言い捨てて、再び窓の外を睨んだが、岡田は笑いながら自分の教室へと帰り始めていた。
「さあ、どういうことか聞かせてもらおうか、チャビちゃん」
典雄の声を合図に、光一は数人の男たちに囲まれていた。
「――何してるの、あなたたち! 授業が始まる時間でしょ。早く席に着きなさい」
二時間目の国語の教諭、園田洋子が、教室に入って怒鳴った。いつの間にかチャイムが鳴っていたらしい。それほどまでに動揺していたのだろうか、哲夫は自分の不甲斐なさを悔やんでいた。
「すみません、園田先生。僕たちあまりにも仲が良いもんでね、始業のチャイムに気がつきませんでした」
と、哲夫が言った。
「遊んでる場合じゃないでしょ。明日の試験、大丈夫なの? さあ、座った座った」
と、洋子は語気を強めて言った。「おい、チャビ、何泣いてんだよ。お前、男だろ。しっかりしろよ!」
床に座り込んだまま、薄っすらと涙を浮かべている光一に気がついて、洋子は優しくない口調で言った。洋子は生徒を説教するとき、なぜか男口調になる癖がある。
「何でもありません。気にしないで下さい」
「誰かにいじめられたのか? 制服、真っ白じゃないか」
「違います。自分で転んで……」
「お前もドジなやつだな。――誰かいじめた奴がいるんじゃないの。正直に言いなさい!」
他の生徒たちに向かって、洋子はそう叫んだ。
「本当です。僕、自分で転びました!」
そう言った光一は、哲夫たちが何事もないような顔で自分たちの席に座っている姿を見ながら、屈辱な思いを噛み締めていた。
「ま、どっちにしても、お前がしっかりしなきゃダメなんだよ。いじめる奴がいたら、逆に殴り返してやりなさい。そうやってメソメソしてるからいじめられるんだよ。分かったか!」
洋子の一喝で、教室の中にクスクスという笑いが漏れていた……。
全員が着席して、少し遅れの授業が始まった。今日の予定は、明日からの試験に出るかもしれない、重要なポイントを教えてもらう大事な授業なのだ。
洋子は今まで教えてきた課題を、黒板に箇条書きにしながら説明していた。
「それじゃ、ここを読んでもらおうか、二十三頁の頭から。――チャビ、読め」
光一はギクリとして一瞬体が硬直した。やはり予感的中だ。
「あの……。ごめんなさい。僕、教科書忘れて……」
「お前、学校に何しに来てるんだ。勉強したくないのか」
「いや、それが……」
光一の教科書は、哲夫が平然として使っている。哲夫たちが使う教科書を他のクラスに借りに行ったものの、さっきのごたごたで、一冊だけ足りないことを忘れていたのだ。そういう時は、自分の教科書を差し出すしかない。そして、こんな時に限って指名されるのである。
洋子が教壇から降りて、光一に近づいて来た。
「やる気がないのなら、教室から出て行きなさい!」
教室の中に、まるで風船が破裂でもしたかのような乾いた音がした。
痺れた頬に手を当てた光一は、周りのくすくすと笑う声しか聞こえていなかった。
昼休みの昼食を終えた岡田浩二ら数人が、バスケ部室に集まって談笑していた。
いつもここで遊ぶ、というより、誰も邪魔する者がいない密室というのは、何でも話が出来る格好のたまり場となっていた。
「見たか、動揺した杉田の腐れ顔。嗤っちまうぜ、全く」
と、向井健吾が鼻で笑った。
「何も気づいてないようだな。いつかチャビが喋るんじゃないかと思ってたけど、まだ大丈夫らしい」
岡田はノートを見ながらニヤニヤと笑った。
「言いたくても言えないだろう。これがバレたら殺されるぞ」
「本当にここまでやってくれるとは、ありがたい話だ。チャビには無理だと思ってたからな。いつも杉田に睨まれてるし」
「しかし、間違いないんだろうな。もしチャビがでたらめに書いていたら、やばい事になるんじゃないか」
健吾が不審な目でそのノートを見返していた。
「どうだ政雄、間違いなかったか」
部室の隅で漫画本を見ていた西村政雄に、岡田は訊いた。
「大丈夫、寸分の狂いもない。よくぞここまで書けたもんだ」
「何だ、もうここに行って来たのか? 早いなあ」
健吾は、仲間たちの行動の早さに舌を巻いた。
部室前の廊下を走り抜ける数人の足音が聞こえて、部室の中に緊張が走った。誰にも聞かれてはいけない、密談の最中なのだから。
足音が遠ざかるのを待ってから、岡田は慌てて隠したノートをシャツの中から取り出した。
「ということは、ここでやるのか。場所が分かったんなら、早い方がいい」
そう言った健吾の目が輝いている。以前、村上勇一に不意打ちでやられたことがあるのだ。仕返しをするには、頭である杉田を潰さない限り、手の出しようもない。
「慌てるな、これだけじゃダメだ。あいつはバカじゃない。ここでやるのは簡単だが、後のことを考えて徹底的に潰さないと……」
岡田はそう言って、転がっていたボールを拾い上げると、力任せに壁に向かって投げつけた。
「ということは、普通科の奴らだけじゃなく、暴走族の方も……」
健吾が一瞬、怯んだような表情を見せた。哲夫が所属する暴走族は、この町では名の通った大きな集団だ。もちろん走るだけではなく、凶悪な暴行を繰り返しながらの行軍なのである。
「心配するな、手は打ってある」
「暴走族に知り合いがいるのか? まさか岡田も暴走族に……」
「バカやろう! 俺は集団でしか行動できないような虫けらは嫌いなんだよ」
「じゃあ、チャビか。あいつをスパイにして」
「まあ、そんなところだ。――言っとくけど、チャビはな、お前らみたいな臆病者じゃないぞ。本当に窮地に立たされたら、何をするか分からない。〈窮鼠猫をかむ〉というだろ。お前らも気をつけろ」
岡田はそう言って部室の中にいる全員を見回した。そして床にノートを広げると、続けて話し始めた。
「とにかくみんな集まれ。とりあえずこの場所は頭に叩き込んでおかないと」
集まった仲間たちに、岡田はノートをペンで指しながら説明し始めた。
ノートには、哲夫の自宅までの道のり、そしてその周辺の地図、ましてやその家の外観までが、詳細に描かれていたのである。