その四
「おはようございます!」
毎朝教室で行われる朝礼の風景である。生徒たちは立ち上がって一礼した。
「おはよう」
担任の沢村も挨拶して、普通科A組の名簿を教壇の机に広げた。
クラス委員の着席の号令の下、だらだらと生徒たちが座り始める。子供に限らず、社会人になっても朝の八時半という時間は、まださっきまで見ていた夢に未練を残しているものだ。
「おいおい、しっかりしろよ。二学期ももうすぐ終わりだ。気合を入れろ。みんな揃ってるか」
沢村はゆっくりと教室内を見回した。「いない奴は手を挙げろ」
「そんな無茶言わないで下さいよ。幽霊に手を挙げろって言うんですか」
元気のいい生徒が笑いながら言った。
「よし、みんないるようだな。それでは今日の予定を――」
「待ってください先生。岡野がまだ来てません。あいつ、今まで遅刻したことなかったのに……」
教室の中が少しだけざわついたが、それと同時に異様な雰囲気が漂い出したのを、沢村は見逃さなかった。
普通科A組は男子生徒ばかりのクラスで、C組D組にだけ女子生徒が在籍している。色気のない男ばかりの集団は、見栄も好色も何もない、男臭い箱の中にいるようなものだ。
さまざまな視線が飛び交っている中を、沢村は神経を尖らせて、一人ひとりの動向に注目していた。
「岡野は今日から学校には来ない。昨日、岡野の両親が来て、学校を辞めさせてくれと言って来た。本人がそう望んでいるらしい」
「あいつ辞めたんですか? 学校に来るの、楽しみにしてたのに……」
岡野と仲の良かった生徒が、突然の知らせに驚いていた。
「岡野は大ケガをしているそうだ。誰かに暴行を加えられて現在入院しているんだが、誰にやられたのか、何も言わん。おそらく見返りが怖くて我慢しているだけとは思うんだが……」
教室の中が静まり返った。「最近の岡野の行動を知っている奴はいないか。何でもいい、知っていたら教えてくれ」
沢村は懇願するように生徒たちを見回した。いじめが存在することは感じていたが、標的になっているのは中野光一だけだと思っていたのである。もちろんいじめる方も、このクラスにいるはずだと目論んでいた。
生徒たちは凍りついたように動かない。それどころか沢村と目を合わせようとすることもなかった。
「他のクラスか、どこか違う学校の仕業じゃないんですか。俺たちにそんな怖いこと出来るわけないじゃないですか」
村上勇一が、眠い目を擦りながら元気のない声で言った。
「いや、別にお前たちを疑ってるんじゃない。ただ、この学校の中に弱い者を脅かすグループがあると思っている。いわゆるいじめだ。そのいじめの有無を俺は知りたいんだ」
「いじめなんかないですよ。先生も知って入る通り、みんな仲良いでしょう。いじめどころか喧嘩もしないんですから。岡野が怪我したって言うけど、あいつドジだから自転車からこけたんじゃないんですか」
杉田哲夫の手下、髙木典雄が笑いながら言った。――この男、哲夫グループの軍師のような役割をしているしたたかな男だ。
「中野、お前はどうだ。何か知らないか」
沢村は、顔を伏せたままの光一に矛先を向けた。もちろん、言葉が返ってくるとは思っていなかったのだが……。
光一は少しためらってから言った。
「岡野君のことは僕には分からないけど、この学校にいじめる人なんていません。みんな優しい人たちばかりです」
沢村は何も言わず、光一を見ていた。真剣な眼差しで沢村に視線を送っている光一だが、明らかに何かに怯えていることは沢村にも分かっていた。ただ、光一を操るロープがどこから伸びているのか、それを探りたかったのである。
「ほらね、チャビ君も言ってるじゃないですか。そんな奴がいたら、俺たちがぶっ飛ばしてやりますよ。いじめなんて卑劣なことを……」
と、勇一が言った。
「そのチャビという言い方も、良いもんじゃないな。あだ名で呼ぶのも一つのいじめにつながると思わないか」
沢村は勇一だけではなく、クラスの生徒たち全員に問いかけた。今やこのクラスだけではなく、学校中の生徒からも本名で呼ばれることは少なくなっている。時には教師の中にもあだ名を呼称する者もいた。
「そんなことありませんよ。親しみを込めたニックネームじゃないですか。チャビだって喜んでますよ。な、チャビ!」
隣の席に座っている典雄が、光一の顔をのぞきながら言った。光一の背中に、勇一が手に持っているコンパスの針がチクリと刺さったが、沢村は何も気がついていない。
「僕はチャビって呼ばれた方が嬉しいです。みんな仲良くしてくれるし……。僕のことは気にしないで下さい」
「もしかしたら、商業科の奴らじゃないかな。ほら、最近バスケ部の岡田浩二が良く来てたじゃないか、こっちの校舎に。何となく怪しいと思ってたんだよ。な、チャビ」
と、典雄が同意を求めた。
「う、うん……」
背中の針が、光一に返事をさせる。
「よし、分かった。何か知ってる奴がいたら、あとで職員室まで来てくれ」
と、沢村は言ってから、「そろそろ起きた方がいいんじゃないか、そこで眠ってる奴。授業開始の時間だぞ」
座ったまま目を閉じている生徒にチョークを投げつけた。沢村のいつもの懲罰だ。しかしその生徒は、素早い動作でそれをかわした。
「ちゃんと起きてますよ。あまりにも馬鹿げた話なんで、期末テストの計画を立てていたんですよ。目を閉じたままのイメージトレーニング、勉強にも活用できるんですね。初めて知りました」
杉田哲夫はそう言って立ち上がった。「早く授業を始めてください。明日からの試験に間に合いません」
沢村は何も言わなかった。確かに杉田の成績はクラスのトップだし、授業を急ぐのも分からないではない。
しかしこの時、沢村は何かを見たような気がした。いや、何かを感じていたのである。