その三
(二)
金曜日の放課後、一年生の担任教師が職員室に集まって、生徒たちの生活態度についての職員会議が行われていた。
この光洋学園高校、見かけ上はまじめな生徒たちで埋め尽くされた進学校なのだが、最近、高校生の裏での非行行為が盛んである事が取りざたされていたのである。
学年主任の池田憲次が、各担任から提出された生徒たちの現況報告を見ながら、なにやらブツブツと呟いていた。
「さて、何が問題なんですかな……。全体の成績は上がっているし、停学になるような非行を犯した生徒はいませんね。クラブ活動は盛んだし、野球部は県大会優勝。テニス部も柔道部も、そこそこの成績を上げている。しかもあのバスケット部が県大会の決勝まで行っているそうじゃないですか。この会議は必要ないような気がしますがね」
池田はそう言って、深く溜息をつきながら、つけたばかりのタバコを灰皿に押し付けた。
「待ってください。子供たちというのは、大人には分からない世界を作っているものです。先生も子供の頃そうじゃなかったですか。親や先生たちに分からないように悪戯をしたことがあるでしょう。現在ではメディアやインターネットの影響もあって、悪戯どころか犯罪に近い非行を繰り返している生徒もいるはずです」
光一の担任である沢村俊雄が、主任の池田に詰め寄った。
髪型や服装の乱れだけではなく、見た目だけでは分からない生徒たちの学校外での行動を追及しようと、沢村が呼びかけた職員会議だったのである。
「私は別に問題ないと思いますが……。ただ、弱者と強者の隔たりが出来てきたのは分かります。でもこれは、弱い立場の生徒がどこまで自立できるか、私たちに与えられた職務だと思ってますがね……」
商業科A組の担任、堂村誠次が発言した。
「それはどうかしら。強い弱いは生徒たち個人の問題ですし、もちろん性格の違いで様々なグループが出来てもおかしくはありません。むしろ、弱者と言われている生徒たちの方がおかしいのではないでしょうか」
普通科B組の担任、園田洋子が、機嫌が悪いのか、ぶっきらぼうに言った。学年全体の中で、洋子が担当している国語の成績だけが著しく低下していたのである。もちろん自分のせいだとは思っていない。教師生活八年目、三十歳を少し過ぎたばかりの独身女教師は、こんな会議があると、自分だけが責められそうで面白くなかったのだ。
「さて、沢村先生が言うような子供たちの非行があるとすれば、どのようなことをしているのか具体的な例を挙げていただきたい。第三者からの情報といっても、証拠がない未確認なものばかりじゃないですか」
主任の池田が、沢村に視線を移してから言った。
「確認は出来ていないにしても、酒タバコ、万引きや恐喝、不純異性交遊など、例を挙げればきりがありません。それに、いじめの問題は重要な課題だと思います」
「沢村先生は、この光洋学園にいじめが存在すると言うのですか」
「その通りです。うちのクラスの中野光一がいじめられています。以前、他の生徒が知らせて来たことがありますが、陰湿ないじめに遭っているようなんです。まだ確認は取れていませんが……」
沢村はそう発言したが、この場の雰囲気が自分を受け入れようとしていないことを感じていた。
自分の授業が進めばいい、学校内でまじめにしてくれればいい、学校の運営が成り立てばそれでいいんだ、といった考えが、職員室の中で蔓延していたのである。
「そんなことよりも、生徒たちではなく、先生方の方に問題があるんじゃないですか。最近、何やらよからぬ噂を耳にしますがね……」
池田がメガネの奥から、園田洋子をジロッと見た。メガネをズリ下げて見られるのは、あまり気持ちのいいものではない。その奥にある人間のいやみが見えるような気がするからだ。
洋子は何も答えず、ただ書類に目を通していた。
「よからぬ噂とは、どのようなことですか?」
堂村が池田に訊いた。
「あくまでも噂ですから、私も信用しているわけではありません。ただ、先生方のプライベートに関わることですから、この件を議題にするのはやめた方がよさそうですな」
池田はそう言って、再び報告書に視線を移した。「さて、何でしたっけ……」
結局、一時間もの時間が費やされた会議は、何も結論が出ないまま終了していた。
帰路に就く先生、クラブの顧問に赴く先生。職員室に残った沢村は、、自分の机に向かって、集められた報告書の詳細を見直していた。
「――まだ帰らないんですか。何もそこまで思い詰める必要はないと思うわ。生徒たちだって、そんなに悪い子なんていないわよ」
園田洋子が、沢村の肩を叩いてそう言った。職員室に残っているのは、いつの間にかこの二人だけになっていた。
「まだいたのか。早く帰った方がいい。また変な噂が立ってしまう。どこから見られてるか分からないんだから、学校内では気をつけないと危ないよ。俺たちの関係がバレたら、即刻クビだ」
「大丈夫よ、誰もいないんだから。それより噂って、やっぱり私たちのことよね。池田先生、私を見てたわ」
「まさか、今まで誰にも見られたことないんだから」
そう言った沢村は、辺りを見回して、机の書類をカバンにつめ始めた。
「そんなに怖がらなくてもいいじゃない。私は平気よ。たとえクビになっても、使ってくれる学校なんてどこにだってあるわ。――でも、あなたは無理よね。奥さんや子供がいるし、五十に近いおじさん先生を雇ってくれる学校なんて、ざらにはないわよね。クラブの顧問をしているわけじゃないし、それに――」
「やめろ! 俺をバカにしてるのか。最初に誘ったのは君なんだぞ。それに、お互いの立場を尊重して、職場や家庭を壊さないと約束したはずだ。君は独身だからいいかもしれない。しかし俺はね……」
そこまで一気にまくし立てた沢村の言葉を、洋子が唇に当てた指が止めた。そして、しばらくの沈黙のあと、誰かが廊下を歩いている足音が聞こえて、沢村は椅子に座った。
「今大事なことは、生徒たちの成績の向上よ。そのために私たちは努力してるんだから。いじめの問題もあるけど、いじめられる方をもう少し鍛えないといけないと思うの。強い人間を見るとビビッて近づけないなんて、全く情けないばかりだわ」
憤然として洋子が言った。
「教科書に載っていることを教えるだけが、教育じゃない。勉強も大事だけど、未熟な子供たちの人間形成の方が先決だ」
「そんなこと言うけど、この学校にいじめなんてあり得ないわ」
「君が知らないだけだ」
「現場を見たわけじゃないんでしょ。それに、中野光一に聞いたの、いじめられてること」
「訊いても答えるはずがない。見返りが怖いからな。しかし中野の目を見れば分かる。周りを気にしながらいつも緊張しているし、助けを求める心の叫びが満面に現われてるじゃないか。俺は助けてあげたいんだよ」
そう言いながら沢村は立ち上がってカバンを取り上げると、ゆっくりと歩き出した。
「待ってよ、帰るの? 今日は一緒にいてくれるんじゃなかったの」
「悪いけど、そんな気分じゃないんだ。それに、改めて君に話したいことがある」
振り返った沢村の顔がこわばっている。
「何よ。そんなに怖い顔しなくていいじゃない。――待って」
その時、ノックする音が聞こえて職員室のドアが開くと、一年生のひょろっとした気の弱そうな生徒が、申し訳なさそうに中をのぞいていた。ガタガタと震えているのは、外の寒さのせいだけではなさそうだ。猛獣に追われた小動物が窮地に追い込まれた時のような、悲壮感すら漂う表情で何かを求めているようだった。
「沢村先生! まだいてくれたんですね。よかった……」
よろめくように近づいて来たその生徒は、、洋子の存在など視野に入っていないのか、沢村の懐に飛び込んで来た。
「どうしたんだ、岡野。何があったんだ……」
岡野翔太は、沢村の背後に隠れるように回り込んだ。そしてその場にうずくまると、しゃくり上げるように泣き出した。沢村が担任をしているクラス、もちろん光一と同じ教室で学んでいる、おとなしい生徒だ。
「た……助けてください! 僕、殺されます……」
「だからどうしたんだと訊いてるんだ。誰かにいじめられたのか」
岡野を抱き上げながら、沢村は訊いた。
「実は今、教室で……」
岡野は泣きながら言った。「教室に残って、美術部に提出する絵の仕上げをしていたんです。出来上がった作品を見直していたら、あいつらが入って来て――あいつらが……!」
岡野の目がカッと見開いて、訴えようとしていた言葉が喉元で押しつぶされた。その目は職員室の出入り口を凝視して、痙攣でも起こしたように、身体全体を震わせていた。
「どうしたんだ、岡野!」
振り返ってみたが、沢村の視界にはいつもと同じ風景でしかない規則的に並べられた机、無意味なプリントが貼付された掲示板、そして、誰もいない出入り口のドアと窓しか目に入らなかった。
「言ってみろ! 誰かいたのか?」
「ご、ごめんなさい、何でもないです。――僕、帰ります。お願いですから、何もなかったことにして下さい」
そう言った岡野は、涙を拭きながら職員室を出て行った。廊下に出た後は、得体の知れない魔物から逃げるように、一目散に走って行ったのだった。
出入り口から嗤うように見ていた目。そして、その後の岡野の惨状など、教師たちには知る由もなかった。
もちろん岡野の痛切な悲鳴は、成績だけで生徒を判断するサラリーマン教師に囲まれた沢村には、聞こえるはずもなかった。