その二十
(十五)
こんなこと聞いていないぞ。山登りなんて、バスケットに必要なのか?
山といっても、町外れにある小高い丘のようなものだ。
スポーツマンは走る事に慣れているかもしれないが、村上勇一と髙木典雄にとって、坂道を自転車で走るということは、今までにない大変な運動量なのである。
山の中腹まで(といっても、ほんの少しの距離だが)行くと、そこから山頂までの石段がある。上り口の広場に集まったバスケ部員たちは、キャプテンの号令の下、一気に駆け上がり始めた。
「こんなこと、いつもやってんのか?」
息を切らしながら木陰に自転車を止めた勇一は、バスケ部の連中に気づかれないように、典雄を林の中へと引き込んだ。
「そんなこと知らねえよ。でも、学校の中よりは却ってよかったんじゃないかな」
典雄も肩で息をしている。
「とにかく、チャビが降りてくるのを待つしかなさそうだな」
「ああ。しかし、覚悟はできてるんだろうな」
と、典雄は山頂を見上げながら言った。
「もちろんさ。今まで我慢して来たんだから」
勇一が言っている言葉は、典雄としても共感していることでもあった。
――日頃から二人で話しをしていたことだった。
高校に入学して間もない頃は、学力とは別に、腕力や悪力(不良組織を繋ぐ握力とも)が大事である。ボスを決めるためのトーナメント式のケンカが、夏休みに入るまで陰々と繰り広げられていく。身近なクラスメートから始まって、隣のクラス、そのまた隣。そして他の科へと広がって、学年での強弱が決まっていくのである。
一対一のケンカに負けることのない杉田哲夫。しかし集団をまとめるリーダーの資質があったかといえば、それとはまた違う。ただ力で押さえつけられ、仲間外れにされるのを恐れた勇一や典雄らの集合体が、哲夫をトップに押し上げていたのかもしれない。
心の中では、面白くない、楽しめない、気を使いたくない。何をするにしても、哲夫の顔色をうかがっていなければならないのだ。
威張ってんじゃねえよ!
沸々と煮えたぎるその気持ちを、今ここに晴らすことができるのだ。
「――おい、下りて来たぞ!」
典雄が見上げると、息を詰まらせながらもテンポのいい足音が近づいて来た。
広場に集まるバスケ部員。
勇一と典雄の視線は、まだ見えない光一の姿を、遠い山頂へと向けていた。
最後尾から追いかけるように走っていた光一は、中腹辺りで立ち止まることになった。先頭を走っていたキャプテンが、石段に腰を下ろしていたのである。
通り過ぎていいものか、ためらいながら速度を落とす光一に、
「チャビ、ちょっと……」
待っていた、と言わんばかりに、キャプテンがその名を呼んだ。
「はい」
「まあ、横に座れ」
逆らう理由もなく、光一は腰を下ろした。
「キャプテン、みんなが下で――」
「待ってると思うか? そんな奴がいたら、夜のパーティーを楽しみにしているバカな野郎どもくらいだろう」
キャプテンは石段から目を離して、「――行くのか?」
と、光一の顔を見て言った。
即答できず、光一は黙ってうつむいている。
キャプテンが北村とつながっていることは、岡田から聞いていたことでもある。今日の引退式だって知っているはずだ。うかつにものは言えない。
「今日、ここに来たのはな、お前を守りたかったからなんだよ」
「僕を……守る?」
「いろいろ動きがあるようだな。北村さんがぼやいてたよ」
真冬の山の風は冷たい。木々は枯れ果て、麓から吹き上げる冷気は、光一の上気した体を十分に冷やしているようでもある。
キャプテンの言葉は柔らしくもあり、優しさを感じるものでもあった。 しかし光一には、自分の身体を温める言葉、心をほぐす話にはなっていなかった。
「――今日の目的を言ってみろ」
と、キャプテンが訊いた。
「北村さんの引退――」
「その後だ。――本当にやるのか?」
「あの……」
「もしやるんだとしたら、邪魔するつもりはない。もちろん北村さんだって同じだ」
「ちょっと待ってください! その話――」
「杉田はおそらく知らないから心配することはない。それもあいつの運命だからな」
と、キャプテンは言って、「しかし、やめるなら今だ。後のことを考えてみろ。お前は担ぎ出されているだけなんだぞ。学校の中も暴走族の中も、いつか分裂してしまう。そして次にのし上がってくる奴は、誰かを犠牲にしなくてはいけないんだよ」
そこまで言うと、キャプテンは身体の向きを変えて、光一を正面から見て、
「それがお前だ」
と、言った。
次にのし上がってくる奴……。
今まで台頭していたのは誰だろう。
そんなことは考えるまでもなく、杉田哲夫であり、暴走族では北村武志。
そして哲夫に対抗しているのは、岡田でもあるし、族の田上だろう。後は哲夫をよく思っていない岡田の連れだったり、田上を慕う一部の少年たちだ。
――しばらく、光一にとって息苦しい沈黙が続いた。
「キャプテン、どうして知っているんですか?」
「何を、だ。俺は何も知らないよ」
「だって……」
知ってるから言ってるんじゃないか。誰に聞いたのか、それだけでも教えてもらいたい。そうでないと、今日の計画は実行前から失敗したことになる。
「知らないことにした方がいいんだろう。だからお前も聞かなかったことにしろ。別に邪魔するつもりはない」
キャプテンはそう言って、「学校の中も今は物騒だ。――誰かが密告したらしい」
「密告?」
「教員たちがうろうろしてるから、うまくお前を連れ出したかったんだよ。よかったじゃないか、学校から出られたんだから」
先生たちまで……。しかし教師の耳に入るとしたら、光一がいじめられている、ということだろう。
だったら俺は被害者のままで、庇ってもらえるというのか。
「――今日の練習はこれで終わりだ」
と、キャプテンは立ち上がった。
「待ってください! 僕……どうすればいいのか……」
光一もすがりつくように立ち上がった。
「お前の好きなようにしろ。ただし、あくまでも自分の意思で行動するんだ。分かったか。自分の意思で、だぞ」
そう言うと、軽快な足取りで石段を駆け下りていくキャプテン。
光一は動揺していた。
もう遅い。船は出てしまったんだから……。
一人になった光一は、ゆっくりと石段を下りて行く。
――勇一と典雄が、待ってましたと言わんばかりに立っている。
光一は微笑みながら、二人に近づいて行った。
どうしたんだろう。立場が逆転したようだ。
いつの間にか、光一は先頭を歩いていたのだった。
「長い間、お疲れ様でした」
事務の女の子が、大きな花束を抱えて池田の前に歩み出た。
職員室の中に、長年の労をねぎらう拍手が鳴り響いた。
「ありがとう。こんな形で辞めていくのは誠に残念ですが、思いを残したままこの場を去ります」
池田は周囲を見回して、「今までありがとうございました。後は……後は皆さんにお任せしたい。この学校を、この学校の本質を見直してください。子供たちの姿を、もう一度見直してほしい。それは学校のためでもあり、子供たちのためです」
と、力説するように言葉を発した。
深く頭を垂れると、最後に残った荷物、黒い擦り切れたカバンを持って、様々な意味が込められた拍手のカーテンを潜って職員室を後にしたのだった。
結局、何も解明されないまま池田は辞めてしまうのか。
今日で――いや、正確に言えば明日までであるが――光洋学園高校を退職する池田に、放課後の職員室で、ささやかな送別会が開かれていたのである。
正直というか冷淡というか、池田の姿が見えなくなると、何事もなかったように職員室の中は静まり返った。クラブの指導へ行く先生、書類を整理する先生、また、あっさりと帰ってしまう先生も少なくない。
沢村が追いかけるように飛び出すと、池田はちょうど自分の車に乗り込むところだった。
「池田先生、待ってください!」
駆け寄った沢村は、閉まりかけたドアを掴んだ。
「こっちじゃありませんよ。助手席に乗ってください」
池田が助手席のロックを外す。
今日、学校を辞めていくはずの池田の目が、まるで新任教師が初めて授業に挑むときのように、鋭く輝いている。
「中野の行方、分かりましたか?」
車に乗り込んだ沢村に、池田が訊いた。
「たぶん、山の走り込みに行ってるんじゃないかということです」
「行きましょう。早くしないと、間に合わないかもしれない」
といい終わらないうちに、車は走りだしていた。
結局、学校では何も起こらなかった。それはそれでよかったのかもしれないが、襲撃の密告はがせネタとは思えない。今まで懸念していたいじめ問題が、やっと顔を出そうとしているのだ。
授業がない池田は、朝から情報の収集に奔走していたのだった。
車は町を抜け、その山の麓まで来ていた。
「ここだ。この石段を上っているはずです」
池田はそう言って肯いた。
「誰もいませんね。もう、帰ったんでしょうか」
と、沢村が車から降りようとすると、
「沢村先生、あれは……」
石段を下りて来る二人の人影が見えた。
「村上と高木じゃないか……。やっぱりそうか」
急いで飛び出した沢村は、「おい、待て!」
と、声をかけた。
ぎょっとする二人。意外な人物と出会ったとき、人間の体というもの、自分の命令に従わないものだ。
唖然として立ち止った二人に、
「中野を知らないか。ここでトレーニングをしてると思ったんだが」
いつもと変わらぬように、沢村は笑顔で訊いたのだが……。
「先生、大変ですチャビが――チャビが殺されるかもしれません!」
村上勇一がうろたえながら言った。それを見た典雄も、取ってつけたように追随してくる。
「どうした。何があったんだ」
「哲夫君が、チャビを殺す計画をたててる、って……」
「杉田が? ――いつだ。どこでだ!」
「工場です。暴走族のたまり場になってる、街中の廃屋で……」
そう言って、勇一は沢村にしがみついた。
沢村は詳細を訊いた。
たまたまここに来ると、バスケ部の連中が騒いでいたという。その中で、光一が哲夫の襲撃から守ってほしい、と岡田に嘆願しているのを目撃したというのだ。
すべてを聞いた沢村は、地平線に沈んで行く太陽を見ていた。
何かが起こる。明日の太陽が昇る前に、大きな事件が起きることを、沢村は本能的に感じていたのだった……。
気まずい雰囲気だった。
それもそのはず、校長室に呼ばれるということは、生徒だけではなく、教師にしたってあまり気持ちのいいものではない。
ただ静かに書類に目を通している校長の前で、堂村と園田洋子は、校長の次の言葉を待つしかなかった。
どうして呼ばれたのか、何となく分かっていた。池田が解任されることは、PTAと教員たちで決めたことだ。しかし池田の不祥事ははっきりしたものではない。あくまで噂だけのものだ。ただ、調査委員と称して池田を窮地に追い込んだのは、事実上この二人だったのだ。
もちろん不審に思っている先生もいて、真意を明らかにしてほしい、と校長宛に嘆願書が提出されていたのである。そこにいじめの問題が露呈して、校長自ら動き出していたのである。
「――だから、いじめがあった、というわけですね」
校長は書類から目を離さないままで言った。
「あるかもしれない、ということです。ただ、それを隠している先生もいるんじゃないかと思って……」
と、園田洋子。
「それが、池田先生だというんですか?」
「そうです」
堂村が横から口を出す。「それに、沢村先生もおかしい。発覚したら、監督責任で自分の立場が危うくなりますからね。かなり前から分かっていたことを、今まで隠していたようなんです」
しばらくの沈黙があってから、校長が顔を上げた。
「――分かりました。一刻も早く調査してください」
「もし、何か問題ごとでも起きたら……」
と、洋子は言いよどんだ。
「その時は、担当教師に責任を取ってもらう。それでいいでしょう」
校長はそう言って肯くと、さっさと出て行ってしまったのだった。
堂村と洋子の目が合った。
何も言葉はない。いや、何も言う必要もないだろう。
――校長室を出た堂村に、一人の男子生徒が頭を下げた。