その二
体育館の裏にプレハブの大きな小屋がある。体育系の部室が集合している建物だ。
その中のバスケ部の部室で、光一は一人、ユニフォームの洗濯をしていた。
手を休めて考え事をしていると、突然ドアをノックする音が聞こえた。光一はギクリとして立ち上がる。
「は、はい!」
そっとドアが開いて、男が顔をのぞかせた。
「あれ、一人か? 他のメンバーは?」
「何だ、びっくりさせるなよ。みんなは体育館で練習してるよ。明日の試合は負けられないからな。今まで散々やられてるし、そろそろ見返してやらないと県大会も危ないんだ」
光一の唯一と言っていい友達の上村亮二だった。もちろん誰も知らない。バレたら光一の二の舞だ。亮二もそれを怖がっていたし、光一も巻き込むことはしなかった。
「お前は練習に行かなくてもいいのか。もちろん立場は分かるけど……」
「俺が洗濯しなかったら、どうなるか分かってるだろ。こうやって一人でいるときが、一番平和なんだ、俺……」
光一は苦笑いして、アイロンのスイッチを入れた。
「それより明日、公休なんだろ。バスケの試合が終わったら、ゆっくり休めるじゃないか」
「どっちにしても同じだよ、あいつがいるんだから。杉田哲夫と岡田浩二……。俺が休めるところなんて全くないんだよ、この町じゃ」
こんな話を人が聞いたら驚くだろう。光一の愚痴は、この亮二にだけしか話したことがなかった。
「思い切って学校辞めたらどうだ。まだ二年以上もあるんだぞ。お前、耐えられるのか」
「たったの二年じゃないか。たったの……」
自分に言い聞かせるように、光一は小さく呟いていた。
外から足音が聞こえてきて、バスケ部室に近づいて来る。光一の合図で亮二が慌ててロッカーの裏に隠れたとき、勢いよくドアが開いた。
「チャビ! そろそろ練習終わりだ。体育館に行って片付けて来い」
メンバーの向井健吾が言った。「それから昨日、ボールの整理してなかっただろう。岡田君、怒ってたぞ。俺は知らねえからな」
「だって、キャプテンがそのままでいいって言ったんだ。だから僕……」
「言い訳するな! とにかく岡田君が呼んでるから、早く行って謝ってきな」
力任せに投げつけられたボールが、光一の顔で方向を変えた。弾んだボールは亮二の足下でバウンドしている。亮二はただ足を震わせているだけだ。
「でも、まだ洗濯が終わってないし、キャプテンが……」
「どっちにしても同じだぞ。岡田君は虫の居所が悪いんだよ。なぜだか分かるだろ。明日の試合は負けられないし、それ以上に気になってるのは、あの杉田哲夫だ。お前が杉田にいいように使われてるのが気に入らないんだよ」
光一は返す言葉もなく、メンバーのユニフォームにアイロンをかけ始めた。
この向井も岡田のグルだ。下手なことを言うと岡田に筒抜けになるし、どうせ練習が終わると、上手くシュートできなかった鬱憤を、光一の体に発散させられるのは分かっていることだった。
何も言わない方がいい。
「とにかく、すぐ体育館に行け! 早くしないと二十発が三十発になるんだぞ。何なら殴られる練習でもしていくか」
向井がそう言って、指を鳴らしながら近づいて来た。
「わ、分かりました。分かったからやめてください」
いつもの癖で、両手で頭を庇いながら光一は言った。しかし激痛が走ったのは、頭ではなく太ももだった。
向井は気にすることもなく、部室から出て行った。
しばらく立てないまま足に感覚が戻るのを待っていた光一に、ロッカーの裏から出て来た亮二が申し訳なさそうに声をかけた。
「ごめんな、助けてやれなくて……」
「いいよ、いつもの事だから。これくらい慣れてくれば痛くないもんさ。それより俺、行かなくちゃ。――亮二は早く帰った方がいい。早くしないとメンバーがここに帰って来る。見つかったら大変だ」
光一はそう言って歩き始めた。
亮二は光一が足を引きずりながら歩いている姿を見ても、かける言葉もなく、ただ同情する気持ちを抑えて見ている事しかできなかった。
体育館の中から、ボールが跳ねる音が聞こえている。最後のシュートの打ち込みらしい。
出入り口から入った光一は、コートに一礼し、メンバーが集まったベンチへと駆け寄った。
「洗濯は終わったのか。いつまでやってんだ。もう練習は終わりだぞ。ボールを片付けたら、床を磨いて来い」
ベンチに座ったままメンバーの動きをチェックしていたキャプテンの迫田洋二が、光一の方を振り向きもせずに冷たく言い捨てた。
「分かりました」
「あ、それから――」
走り出そうとした光一を、キャプテンが呼び止めた。
「はい、何か……」
「最近、岡田の様子がおかしいんだ。動きが緩慢になっているし、ボールへの反応が鈍い。何か考え事でもしているのか……。お前、何か知らないか。岡田の悩みとか、問題事とか」
「さあ、僕にはちょっと……」
おそらく杉田哲夫の動向が気になっているのだろうが、光一からそのことは言えない。
「まあいい。何か分かったら教えてくれ。場合によってはスタメン落ちだ」
と、迫田洋二が言った。「分かるだろ、俺も高校生活最後の年だ。明日の試合、そして県大会はどうしても勝ちたい」
光一は何も返事することができず、キャプテンに一礼して、体育館の中に散らばったボールを拾い始めた。
その後ろ姿を突き刺すような視線を光一は感じている。もちろん岡田の眼差しだ。どうせ練習が終われば、岡田のかばん持ちをしながらチクチクやられることは分かっているのだから、何もここで機嫌を取る必要はない。ただ黙々とボールを集めていればいい。
練習終了の挨拶を告げた円陣が散らばって、メンバーは次々と体育館から出て行った。
光一は倉庫からモップを取り出し、一直線に床を磨き始める。そして、最後まで残っていた岡田が近づいて来る。――ほら、来たぞ!
「チャビ……」
いきなり怒鳴りつけられると思っていた光一は、元気のない岡田の声に戸惑った。
「――どうしたんですか。僕が昨日、ボールの整理をしてなかったから……」
「明日の試合が大事だということは分かってる。もちろん県大会もな。キャプテンにはいい思い出を作ってあげたいと思ってるんだ。しかし、どうしても気になることがある」
岡田は光一の顔を見て、「お前は誰の子分だ。俺か、それとも杉田か……」
と、言い淀んだ。体育館の中では、岡田がバウンドしているボールの音だけが響いている。
「誰の、と言われても、僕は……」
「まあいい。――それより、村上勇一というのは、杉田の手下か? 先週、俺のクラスの奴が村上にやられたんだよ。しかも不意打ちだ。その時に俺の名前が出たそうだ。チャビを使うな、チャビは杉田の子分だと捨て台詞を吐いていったらしい」
弾んでいたボールを両手で受け止めて、岡田は光一の方に向き直った。
「あまり気にしない方が……」
「チャビのことだけじゃない。あいつはこの学校全体を締めようとしているんだ。そのうち俺たちの商業科まで、杉田の触手が伸びて来るはずだ。その前に手を打たなければならない。――いいかチャビ、動きがあったらすぐ知らせろ。裏切りは禁物だ。分かってるよな」
「は、はい……」
鋭い目つきで睨まれた光一は、条件反射的に歯を食いしばった。いつものようにストレス解消のパンチが飛んで来ると思ったからだ。
「何やってんだよ。また殴られるとでも思ったのか」
トントンと音がして薄目を開けてみると、岡田はボールをバウンドさせて、離れたゴールポストに向かって投げた。ザクッと音がして、見事にネットに吸い込まれる。
岡田はニヤリと笑って光一に近づいた。
「実はお前に、やってもらいたいことがある。チャビにしか出来ないことだ。これは命令じゃない。俺からのお願いだ。ちょっと耳を貸せ……」
誰もいない体育館なのに、岡田は小声で耳打ちすると、光一の肩を軽く叩いて体育館を後にした。
一人残された光一は、震える足で、ただ夢中に床を磨き続けた。
――何かが動き始めている。だがどっちに転んでも自分の成れの果ては分かっていた。だからといって、何も行動できない自分自身にも、光一は情けなさを感じていたのである。