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チャビ!  作者: 伝次郎
18/20

その十八


         (十三)


 知らなかったのは沢村だけか。いや、池田もその話を聞いてびっくりしていた。

 その日は朝から騒然としていて、職員室の中では、二人の結婚話で持ちきりなのだ。

 職員会議の中で、教頭から報告があったのである。

 もちろんお互い独身なのだから、縁があれば結婚してもおかしくはない。しかし堂村は四十過ぎの男やもめだし、まだ妻を亡くしてそう長くは経っていない。再婚するにしても、まだまだ先のことだと思っていた。

 園田洋子とて、いつ嫁に行ってもいいほど、長い間独身生活を続けている。しかし、今まで浮いた話を聞いたことがない。男嫌いだ、いや、あいつはレズだ、なんて噂はよく耳にしていたことでもあった。

 素直に祝福する者、他人事だと知らん顔する者また、面従腹背で祝辞を述べる若い先生もいる。

 始業のチャイムが鳴って、職員室の出入り口が慌ただしくなった。

「――どう思いますか」

 沢村は小声で言った。

「やっぱり……というしかありませんね」

 池田が肯く。「しかし、ここまでやるとは……」

 全く呆れた、とでも言わんばかりだ。

「いずれにしても、厄介なことになりそうですね」

「さあ、授業が始まりますよ。早く行った方がいい」

 周りを見回しながら、「また、とんでもない噂が立ちそうだ」

 と、池田はため息を漏らしていた……。

 職員室の中は閑散として、残っているのは一部授業のない先生や事務職員だけの、咳払いさえためらうような静かな空間が広がっている。

 池田は、最後の事務整理をしなくてはならない。

 そう、彼の仕事はあと一週間で終わりだ。

 机の書類に目を通していると、ゆっくりと足音が近づいて来る。

 最近までは嫌悪感すら感じていたスリッパの擦れる音。しかし今では、薄汚れた人間模様の姿を見下ろすように、悠然と構えることができるようになっていた。

「池田先生。ちょっとお話が……」

 顔を上げると、凍りつくような教頭の顔がそこにあった。

「何でしょうか。引継ぎのことなら、ご心配なさらなくても」

「いえ……実は、ご相談が」

 と、ためらいながら、「会議室まで来ていただけませんか」

 教頭らしからぬ言い方だ。

「分かりました。この書類、片付けてからでもいいですよね」

「ええ、もちろん。――では、待ってますよ」

 軽く会釈すると、教頭は足早に出て行った。

 ――何が相談だ、今さら。どうせ後任の問題か、PTAへの対応のことだろう。

 立つ鳥跡を濁さず。そんなこと分かってるさ。

 会議室のドアをノックすると、すぐにそのドアは開けられた。

「すみません、忙しいところを」

 教頭のこんな言葉は、初めて聞いたような気がする。

「何でしょう、ご相談とは」

「実は……。以前、池田先生は、この学校にいじめがあるといってましたよね」

「以前ではなく、現在もあります」

「その話、聞かせてもらえませんか」

「どうしたんですか。何か問題が?」

 二人はとにかく座ることにした。

「大変な情報が入りましてね……」

 しばらく声を失っていた教頭は、「近く、乱闘があるらしいんです。ある生徒から、私にところに電話があって……」

「乱闘?」

 意外な言葉に、池田が身を乗り出す。

「普通科の一年に、杉田哲夫という生徒がいますよね。その杉田を襲撃するというのです」

「――誰がですか?」

「それが、同じクラスの中野光一のグループらしいのですが……」

 グループ? 光一の話は沢村から聞いていたが、あの子は単独でいじめられていたはずだ。

 仲間がいるとすれば、それは……。

「中野は、誰と襲撃するっていうのですか」

「ええと、村上勇一、髙木典雄、それと……」

 杉田の仲間だ。そんなことはありえない。

 おそらく偽の情報だろう、と池田は思ったが、

「誰から電話があったんですか?」

 それ次第では、堂村新主任を押さえつけてでも動かなければならない。

「それは――」

 池田の目が、キラリと光った。

 ――あと一週間。それまでは、俺は学年主任なんだ。

 早く授業が終わってくれ。そして沢村と話をしなければならない。

 池田は自分でも分からないうちに立ち上がっていた……。



 机の上にばらまかれたゴミ。明らかに誰かの仕業に違いない。

 信じられないような光景は、体育の授業から帰って来た男たちを立ち止まらせた。

 ゆっくりと自分の机に近寄る。――こんな有り様を見るのは、入学以来、初めてだ。

 きっと怒り出して、暴れるんじゃないか――と、誰しも思ったが……。

「何だこれ! 誰だよ、こんなことしたの」

 そう言って、慌てて掃除し始める中野光一。

「いいよ、構うな。俺の机だ」

 分かっていたこと、とでも言うように、哲夫の顔は変わらない。

「いいです、僕がやります。座っててください」

 雑巾を持って来て、光一は散らばった弁当の残りかすをかき集めた。

「でも、本当に誰なんだろう」

「俺を面白く思っていない奴さ。例えば、岡田とか?」

「まさか、授業中に……」

「ああ、そんなことはないだろう。たぶん、身近にいるんじゃないのかな」

 哲夫はそう言って、呆然と見ている村上勇一に目をやった。

「哲夫君、まさか、俺がやったと……」

 勇一が進み出て来る。

「お前、途中、抜けてただろ。どこに行ってた」

「しょんべんだよ、小便。俺がやるわけないだろ」

「そうか。だったらいい」

「何で俺が疑われるんだ。チャビ! お前だろう。いじめられている腹いせに、こんな汚いまねしたんじゃないのか」

 勇一が、光一に摑みかかった。

「僕じゃありません! そんなことできるわけが――」

 言い終わらないうちに、光一は蹴り倒された。

 哲夫に疑われたのがよほど悔しいのか、勇一は再び拳を振り上げる。うっぷん晴らしは、光一にしかできないのである。

 光一の顔面に向かっていた拳、いや、手首を哲夫に摑まれた。

「やめろ。こいつに手を出すな」

 勇一の身体が引き戻された。

「どうしてだよ。何でチャビを庇うんだよ。こいつはみんなのペットじゃないか!」

「うるさい! いい加減にしろ!」

 哲夫は大声で怒鳴った。「勇一、お前が掃除しろ」

「何で俺なんだよ。チャビにやらせればいいじゃないか」

「チャビはな、友達なんだよ」

 哲夫はそう言った。「やっと友達になったんだ……」

 光一を抱え起こす哲夫。

 勇一はふてくされながら、哲夫の机を磨いていたのだった……。



「楽しみだよな今度の土曜日」

 バイクを運転しながら哲夫が言った。

 後ろに乗っている光一は、返事のしようもない。

 哲夫が言っているのは、リーダーの引退集会のことだろう。派手に暴れまくって、気持ちよく送ってあげる。はれて暴走族を卒業するのだ。

 しかしその後、哲夫は自分が襲撃されるとは思っていないだろう。

 そのステージを作っているのは、哲夫の腰に手を回した、光一自信なのだ。

「哲夫さん、僕……」

「あ、それから、今日の机のことなんだけど」

 光一の言葉など聞いていないように、「あれ、誰だと思う」

 哲夫の口調は、いかにも楽しげだ。

「――僕だと思っているでしょう。他にいませんよね」

「あれはな――俺なんだよ」

 そう言って、哲夫は笑った。

 今、何と言ったんだ? 自分で?

「でも、どうしてそんなことを……」

「ちょっとな。探ってみたかったんだ。最近、俺の周り、おかしいだろ」

 いつの間にか、工場の廃屋、「小屋」に着いていた。

 エンジンを切ってバイクから降りた哲夫は、ドアを開ける前に言葉を続けた。

「岡田はもちろんのこと、族の田上やその仲間、それに、勇一や典雄だって何を考えているのか分からない。最近あいつらに冷たく当たってるからな」

 と言った哲夫は、しばらく黙ったまま言葉を探しているようだった。

「――なあ、チャビ。正直に言おうか」

 思い切ったように、哲夫は顔を上げた。

「何を――ですか?」

「実は俺、怖いんだよ。いつかやられるときが来るだろう。威張ってばかりいるし、俺に反感買ってる奴だっていることぐらい知ってるよ」

「そんなこと、僕には……」

「お前が一番知っているはずだ。分かってるんだよ」

 光一は何も言わなかった。ただ黙って見つめるだけで。

 しかし光一は、なぜか怖くなかった。岡田との陰謀や田上の計略。それに加担していることだって知っているはずだ。そう、哲夫は分かってていっているのだ。

 僕を問い詰めればいいのに。今哲夫に詰問され、殴る蹴るの暴行を加えられたら――いや、その寸前にだってしゃべってしまいそうなのだ。

 ――殴られたい、蹴られたい。そして馬乗りになって、僕のことを罵ってほしい。もちろんマゾヒスト的な欲望ではなく、それが長いトンネルから抜け出すきっかけになるような気がしたのだった……。

「ビビるんじゃないぞ」

 そう言って、哲夫はドアを開けた。「やるときも、やられるときも、自分のプライドを崩すんじゃない。お前も一人前の男になったんだからな……」

 小屋の中に入って行く哲夫。

 ――光一はしばらく、その姿を見つめていたのだった……。



「ですから、教頭が認めたんですよ」

 電話の向こうで、池田が叫ぶように言った。

「でも、いじめられているのは中野の方なんですよ。まさかそんなことが……」

 休み時間や放課後に話をしようと思っていたのだが、会議や来客のため、そのタイミングを失っていたのである。

 何度電話しても不在だった沢村を、やっと深夜になって捕まえることができたのだった。

「しかし、杉田が襲撃されることは間違いないらしい」

「いつなんですか? どうしてそれが分かったんですか?」

「今週の土曜日。教頭先生のところに、ある生徒から電話があったそうなんです。名前は言わなかったらしいんですが、中野と商業科の岡田が共謀して――」

 池田は一気に話そうとしたが、「――もしもし、沢村先生?」

「ああ、すみません。ちゃんと聞いてます」

 沢村の頭の中に、腫れた顔で泣きじゃくっている中野光一の姿が甦っていた。

 そういえば、以前中野の家を訪れたとき、近くで岡田と会ったことがあった。岡田の力を借りて復讐するとでもいうのか。

 しかし、どうして中野が……。

「商業科の生徒にも、バスケット部の生徒にも訊いたそうです。――白状した生徒がいたんですよ」

「それで、なぜ中野が悪くなるんですか」

「それは、暴行事件を起こそうとしている人物ですから、未然に防がなければいけないということででしょう。今なら父兄召還で済むかもしれません」

「親を呼んで、何を言うんですか。あいつはいじめられて来たことに対する復讐をしようとしているんですよ。それをやめさせたって、今までのいじめが続くだけじゃないですか」

 もしその襲撃の話が杉田の耳に入っていたとしたら、単なるいじめだけでは済まされないはずだ。

「沢村先生は、中野の襲撃を容認するというのですか」

「そうじゃありません! 中野がそこまでするきっかけとなったいじめをなくすのが、我々教師の役割じゃないんですか」

 沢村の声が、一段と大きくなった。真夜中だというのに、妻子が起きるどころか、近所にだって聞こえてるかもしれない。

 池田はそんな心配のせいか、返す言葉をなくしていた。

 ――杉田の仲間だった村上勇一と髙木典雄。それに中野光一が所属するバスケ部の岡田が絡んでいるいう。すべて光一をいじめていた主要人物ばかりだ。そいつらが杉田を襲撃する?

 そうなれば、杉田は学校の生徒全体を敵に回すことになるだろう。

 しかしそんなことは考えられない。主導権を握っていた杉田に、簡単に謀反の謀議が成り立つとは考えられない。

 光一をいじめていたのは杉田であり、そのグループの村上や髙木だ。

「この話には何か裏があります。いじめだけではない、生徒たちの、いや、人間の感情が絡んで……」

 沢村は自分でも何を言っているのか分からなかった。

「明日、もう一度確認しましょう」

 池田は力強く言った。「もちろん、いじめの問題から――ですよ」

 どうせこの学校は辞めるんだ。立つ鳥跡を濁さず? わかってるよ。

 だから、きれいにしなければいけないんだ。

「池田先生。どうせ僕も辞めるんですから、学校のために何か残しますよ。学校の、子供たちの将来のために」

 そう言った沢村の声は、教壇で情熱の限りを尽くして授業に取り組むときのような、熱い響きがあった……。



 

 


 

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