その十七
(十二)
すっかり気分がよくなった岡田は、鼻歌などを歌いながら自分の部屋のベッドに横たわった。
「――普通の煙草じゃないか」
と、田上は言っていたが、ある種のドラッグであることに違いない。
目が冴えるどころか、体中の血が沸き立つようだ。
――見かけは怖くても、話しをしてみれば結構いい人のような気がする。本気で暴走族のことを心配しているし、リーダーの北村が抜けた後の、人心の細かいところまで配慮している。
こんな俺と、手を組もうとは……。
岡田は、田上の熱弁を思い返していた。
と、枕元の携帯電話から、最近登録したばかりのアニメソングが流れ始めた。
チャビだ……。
「――あのう……もしもし……」
か細い声である。
「遅かったじゃないか。何やってたんだよ」
怒ってはいない。むしろ明るい声で、岡田は言った。
「すみません。なかなか抜けられなくて……」
「今から来られるか?」
「はい、もう大丈夫です。あと三十分もすれば……」
「よし、分かった。後を付けられるんじゃないぞ」
そう釘を刺しておいて、電話を切った。
行動を読まれているチャビだけに、岡田は余計に慎重になっているのだ。
まるで恋人が来るのを待っているかのように、岡田は息を弾ませていた。
自転車のベルが鳴った。
岡田は窓を開けて、辺りの様子をうかがってみる。
中野光一が一人でいることを確認して、小さな声で合図をした。
小さく手招きして、肯いている光一を、窓から招き入れた。
「よく出て来られたな。杉田はどうした」
「もう家に帰りました」
「早いな。今ごろみんな、街で騒いでるんじゃないのか」
「そうなんだけど……」
言っていいものかどうか、光一は迷った。
――今日は土曜日ということもあって、暴走族は大集合して大暴れしている。哲夫もいつも通り、小屋の隅で待機しているところを、北村武志に声をかけられて街に繰り出して行ったのである。
しかし、パトカーとの追っ駆けっこをしているとき、田上信弘が捕まりそうになったのだ。
裏道に廻ったのはいいが、警察もバカではない。予想外の場所に、覆面が一台、待機していたのである。田上はあっという間に挟み撃ちにされた。
そこに現われたのが、杉田哲夫。無数の爆竹を炸裂させながら、その路地裏にバイクを走らせて来た。光一は哲夫の指示通り、手に持っている小石を投げ飛ばす。一瞬のことに、警察官達は狼狽していた。
「急げ、こっちだ!」
哲夫の声で気を取り直した田上は、警察官の隙を見て窮地から逃れることができたのだった。
小屋に帰った哲夫と光一。
待っていたのは、もちろん……。
「――どうして助けたんだ。お前らしくもない」
と、田上の声。哲夫がいつも座っている場所に立っていた。
「どうして、って、仲間じゃないですか。助けて当然でしょう」
と、哲夫はすましている。
「礼を言わなきゃいけないんだろうな、俺」
「そんなもん、どうだっていいですよ」
「俺はなお前にだけは借りを作りたくないんだよ」
哲夫を面白く思っていないのは事実だが、こうなってくると立場が悪くなってくる。
「貸したつもりはありませんよ。これは俺の性分でね」
哲夫はそう言うと、自分のバイクを磨き始めた。
「――どうだ、これから一緒に走らないか」
と、田上が言うと、
「悪いけど、家に帰って勉強しないといけないんですよ。来週から試験なんでね」
と言って、哲夫はエンジンをかけた。「チャビ、お前はどうする?」
「僕も一緒に行きます。試験なもんで……」
北村に挨拶をした二人は集団から離れて行ったのだった。
何が試験なもんか! どうせ俺の襲撃案でも練っているんだろう。
田上はそう考えながら、苦虫を噛み潰していたのだった……。
「哲夫さんは、今ごろ試験勉強しています。この前の成績、クラスで二番だったんです。いつもはトップなのに」
光一はそれだけ言った。
岡田が小屋から出てくるところを目撃した光一に、哲夫は言ったのだ。おそらく自分を狙う田上と一緒にいたんだろう、と。
いつか二人して襲って来るはずだ。そう言いながら笑っていたのだった。
そのことを話していいものか。また、小屋から出てくるところを目撃したことだって……。
「らしくないな。爆音上げて勉強かよ」
岡田は、呆れている、といった様子だ。
「――それより、どうしたんですか?」
「何がだ」
「いえ、ここに呼ばれるなんて久しぶりだし」
「そうだな。――ま、足をくずせよ」
つい正座している光一なのだ。「実はな、いい話があるんだ」
岡田はそう言いながら、不敵な笑みを浮かべた。
光一が足を伸ばそうとすると、
「――仲間ができた」
と、岡田は言った。
「仲間?」
「最強の味方だ。チャビの調査は、間違っていなかったんだよ」
「学校ですか。それとも……」
「杉田のライバルがいるって言ってただろう。そいつだよ」
田上のことを言っているとすぐに分かったが、光一は黙っていた。
「もしかしたら……」
「その通り! 襲撃の計画も練ってある」
「襲撃、って……やっぱりやるんですか」
と、光一が訊くと、
「来週――。来週の土曜日だ」
岡田はきっぱりと言った。「その日の夜は、リーダーの引退集会があるそうじゃないか。その時にやる」
北村の引退セレモニーに、大通りの大行進と小屋での大宴会が予定してある。
光一もあらかじめ、そのことは聞いていた。
いよいよだ。今までの苦労は報われるのか……。
「チャビ、前祝いだ」
岡田はそう言って、飲み慣れないビールを二つのグラスに注いだ。
カチンとガラスが触れ合う鈍い音。
むせながら飲んでいる岡田に対して、光一は口をつけることもできず、震える手にこぼれたビールが流れていた……。
どうして俺までクビなんだ!
俺が何をした? たったビンタの一発じゃないか。
――もちろん暴力はいけない。それは生徒に対して、口を酸っぱくして言っていることだ。当然、暴力をふるった生徒に対しては、何らかの処分をすることが望ましい。
しかし、ビンタ一発でクビ……。
といっても、今学期いっぱいの様子を見てから、ということだった。いわゆる執行猶予みたいなものだろう。
それでどうなる。春になれば、いじめがなくなるとでもいうのか。
どうしていいのか分からない。こんなときは酒でも飲むしか……。
「――バカやろう! 邪魔なんだよ、どけ!」
よろけた拍子に、ぶつかった数人の若者の誰かがいきなり怒鳴った。
繁華街だけに、双方とも酔っているのだ。
「申し訳ない。つい、よそ見してて――」
と、言い終らないうちに、
「どけって言ってるだろ!」
いきなり拳が飛んで来た。
よろけながら、ゴミ山の中に倒れこむ沢村。
「世の中不景気なのは、こんなオヤジがいるからなんだろうな」
仲間の若者が言った。「懲らしめてやるか」
いつの間にか、沢村は取り囲まれている。
「やめろ……やめてくれ!」
恐怖――ではない。沢村は、腹の底から怒りがこみ上げて来た。
「お前ら、いい加減にしろ!」
と、立ち上がって、殴りかからんばかりだ。
集団の輪が縮まって来た。若者たちの目がギラついている。
沢村は拳を固めて振りかざすと――。
「やめないか、君たち。警察が来てるぞ」
と、たまたま通りかかった男が止めに入った。
若者たちが、一瞬ためらう。
「おい、警察だってよ。やめようぜ、バカらしい」
若者たちは、何事もなかったように立ち去って行ったのだった。
青くなって震えている沢村に、止めに入った男が言った。
「どうしたんですか。まだ殴り足りなかったんですかな」
我に返った沢村が振り向くと、
「――堂村先生!」
意外な人物が立っていたのだった……。
「やけ酒なんて、みっともない」
堂村は、無表情な顔で言った。「一般市民に八つ当たりするなんて、教師らしくありませんよ。学校にでも報告されたら、即刻クビだ」
「違います。あいつらの方からぶつかって来て……」
「でも、手を出そうとしていたのは、沢村先生、あなたですよ」
「ちょっと待ってください! 僕の方が先にやられたんですよ。だから――」
「だから、殴るんですか?」
会話が止まった。
――そりゃ、殴りたかったさ。クビになってもいい。この際、とことん暴れたいくらいなんだよ。
もういい。何を言っても無駄だ……。
沢村は、持っていたセカンドバッグがなくなっていることに気づいた。
辺りを探していると、
「これ、あなたのでしょ」
と、バッグを差し出す女の声。
「君……」
「よかったわね、無くさなくて」
園田洋子が、そう言って手渡した。
「こんなところで何をしているんだ」
「余計なお世話。プライベートなんだから、あなたには関係ないはずよ」
「待ってたんだぞ。この前だって、何を……」
沢村は詰め寄った。――クビになる原因となったあの日、いつものショットバーで洋子が来るのを待っていたのだ。
「必ず行くから」
という言葉を信じて……。
話したかった。すべてを話したかった。主任なんか辞退したっていいさ。俺は第一線で教壇に立てればいいのだから。
しかし、いじめの問題、そして池田先生の進退問題。それに――自分と洋子の関係を絶つということが、沢村にとってつらく思えてさえいたのである。
それだけでも、二人で話しを……。
「学校を辞める人と、何を話すっていうの?」
沢村は、洋子を見た。
「――そうか、今度はその男か」
関係ない振りをして立っている堂村を見てから、「いい馬に乗換えか。大したもんだ……」
と、沢村は言った。
「失礼なこと言わないで。そんな資格、あなたにはないでしょ」
聞いていたのか、堂村が近寄って来た。
そして……堂村の腰に手を回した洋子は、
「私たち、結婚するの。友人代表の挨拶、沢村先生にお願いしようかしら」
と言った。「でも、その頃は、先生じゃないんだ……」
園田洋子と堂村誠次。
二人の目は、いやらしく笑っていたのだった……。