その十六
「だから、理由を訊いているんですよ、理由を」
教頭は、今にも噛み付きそうな勢いだ。
「ですから、悪気はなかったんです。教育的指針の問題です。現実を全く見ていないじゃないですか、あいつら」
沢村も興奮していた。
手を出したのはもちろん悪かったと思っている。しかし、堂村や洋子は現実逃避しているとしか思えない。いじめの問題だって、中野の顔を見れば分かることじゃないか!
「あいつらって……あなた教師でしょう」
「教師だから言ってるんです」
「暴力を振るったんですよ、しかも生徒の前で」
「生徒が暴力を振るっているのは黙認して、教職員たちの問題だけ取り上げるんですか。いじめられた側は、ただ我慢するしかないんですか!」
そう言って、沢村は机を叩きつけた。
「まあまあ、待ちたまえ。もっと冷静になりなさい」
今まで黙っていた校長が、見かねて言葉を発した。
ここは校長室の中だった。
沢村が洋子を殴ったところにいた教頭。そして、生徒たちからも情報が入っている。校長としては、即刻審議しなければならない重要な問題だ。池田の問題でPTAがうるさく騒いでいる真っ最中でもあるのだ。
「沢村先生。理由はどうあれ、暴力はいけません。しかも校内だ」
校長は、冷静――なのだろう。
「申し訳ありません。しかし、校長――」
「実は池田先生の後任、沢村先生に決めていたんですよ。長いこと頑張ってくれてますからね」
「待ってください。池田先生の処遇、もう決定なんでしょうか」
「そうするしかないでしょう。信用問題ですよ。当校ではね『疑わしきは罰する』というのが昔からの習わしです」
そう言って、校長は机の引き出しから茶封筒を取り出すと、その中から薄っぺらい紙を引き抜いた。
「沢村先生、これを見てください」
教頭が受け取って、沢村の前に差し出した。
「――どういうことでしょう」
「そこに書いてある通りですよ。もっとも、温情的な処置だとは思いますがね」
「私まで、クビですか……」
それを見た沢村は、ただ呆然とするばかり。
「そうと決まったわけではありません。しばらく様子を見るつもりです」
ためらうように、校長は言った。「卒業式までは、頑張ってもらわないとね」
そして、長い沈黙。まるで校長室には誰もいないように……。
「――誰が、何を我慢すればいいんでしょうね」
その声が、校長や教頭に聞こえたのか、沢村には分からなかった……。
暴走族の騒音はいつものことだ。俺だって慣れて来たさ。しかし、高校生が繁華街を歩くということが、こんなにスリルがあるとは……。
悪ぶっているくせに、その世界を全く知らない岡田なのだ。
――三日前のこと。北村の話は、岡田にとって意外なことである事には違いない。
俺にどうしろというのだろう。
杉田哲夫を暴走族から追放する……。
奥の小部屋で二人っきりになった岡田に、それまでとは違った北村の言葉を聞いたのだった。北村の引退と共に、次のリーダーの座を狙っている杉田を失脚させようというものだったのである。
族の仲間たちの手前、自分の後継者として杉田の名前を挙げていたのは事実だ。力も度胸も杉田を上回る奴はいない。統率力も問題ないだろう。
しかし、北村の本音は、本当に後継者にしたい人物がいるというのだ。
「――その男と協力して、俺の引退と同時にやってくれればいい」
北村は小声で、「もちろんやるのは哲夫だ。俺も協力する。そうすればうちも安泰だし、君も本望が遂げられるんじゃないのか」
と言って、岡田の肩を叩いたのだ。
どんな世界でも、実力でのし上がった奴が勝ちなのだ。
エンジンの爆音を遠くに聞きながら、岡田はその小屋のドアをそっと開けた。
誰もいる様子はない。北村が一人で待っているはずなのだが……。
岡田はゆっくりと中に入って行く。
静まり返った廃屋の中に、足音だけが小さく響いている。
奥の部屋に小さな明かりが灯っていた。岡田は近寄って覗き込むと……。
「――遅かったじゃないか」
背後から声がして、一瞬、背筋が伸びた。
「あの……北村さんは……」
振り向くと、見知らぬ男が立っていた。
「お前が、岡田……君かな?」
「ええ、まあ……そうですが」
「北村さんに呼ばれて来たんだよな」
「――北村さん、いないんですか?」
「俺に会いに来たんじゃないのか?」
と、男は言って、「いや、俺が会いたかったんだ。仲良くしようじゃないか」
岡田の肩に手を伸ばすと、小部屋へと導いて行った。
この男が、北村が言っていた後継者なのか……。
「あの、あなたが――」
「そう、田上だ。俺もびっくりしたぜ、北村さんがあんなこと言うとはな」
三日前のあの日、深夜遅くに帰った田上に、北村は言ったのだった。
「後継者はお前だ」
と。そして、「哲夫をやれ。仲間もいる」
という言葉を……。
田上は素直に喜んだ。後継なんてどうだっていい。とにかく杉田哲夫を叩きのめしたかった。
「調べは済んだのか?」
「はい、大まかなことは」
「だったら早い方がいい。――と、その前に、まずは挨拶代わりだ」
そう言った田上は、ポケットから取り出した煙草を差し出した。
異様な臭いが辺りに漂う。
「お前、やったことあるか。やっと手に入れたんだ」
断ることもできず、出されたライターの火でくすぶる煙草。
――普通の煙草ではない。
何度か煙草に手を出したことのある岡田だが、こんなに脳髄を刺激させるような煙は初めてだ。
岡田はいつの間にか、体が宙に浮くような錯覚さえ覚えていたのだった……。