その十四
(十)
〈堂村先生、生徒指導室まで来てください〉
校内放送が鳴り響いた。
それまで沈黙の中、立ち止まっていた教師たちは、やっと現実に呼び戻された。
三年生であれば進路指導に使うのだが、一年生を担当している堂村は、進路ではなく生活指導に使うことが多い場所だ。
「何でしょうね、こんなときに」
堂村は舌打ちをしながら言った。「何か問題ごとですかな」
「助けを求めてるんじゃないですか。誰かにいじめられたとか」
と、沢村が言った。
「またいじめですか。いい加減にしてほしいですね。こんな平和な学校なのに」
「まだ分かってないんですか。実際に――」
「やめましょう、沢村先生。いじめは、子供たちに限ったことじゃない」
池田憲次が、そう言って沢村を制した。
「何か勘違いしていませんか。池田先生のことは――」
と言い掛けた堂村だったが、園田洋子が遮るように間に入って来た。
「それより先生、早く行かないと」
「ああ、分かってる。――それじゃ、後で」
沢村にチラリと目をやった堂村は、踵を返して歩き出した。
残った洋子は、自分が置かれた立場をやっと気づいたように俯いていた。
派閥の存在は、この学校の教職員であれば、誰だって知っている。大まかに言えば、成績向上を優先するか、生活態度、個人の自主性を重んずるかという、教育的私見の問題から派生したものだ。
成績向上に重点を置いている派閥の領袖が、堂村誠次。そして、人間としての育成を重んずる派閥のリーダーが、不祥事問題を取り上げられた池田憲次だったのである。
もちろんこれは、それぞれの派閥がもつ基本理念ではあるのだが、分裂したのはそれだけではなかった。
池田と沢村が玄関から出ると、
「沢村先生、ちょっと待ってください」
と、洋子の呼ぶ声が聞こえた。
「池田先生。すみませんが、私……」
「ああ、構いませんよ。僕は先に帰りますから」
と言って、池田は肯いた。「でも、気をつけた方がいい。大ケガする前に、こっちから手を打たないと」
「分かっています。――もう、気持ちの整理はついていますから」
と池田に言っても、沢村と洋子の関係を知っているわけではない。しかし、公私共に沢村の気持ちを分かっているのは、この池田だけなのである。
池田が行ってしまうと、洋子が出て来て言った。
「どういうことなの? 池田先生の後任、あなたに決まったそうじゃない」
「そんなの、まだ先の話じゃないか。それに、まだ俺と決まったわけじゃないよ」
とは言ったものの、そんな話を聞いたのは初めてだ。
「だって……私、言ったわよね、辞退して、って」
「それは話が来てからだろう。それに、この有り様だって……」
思わず声が大きくなってきた沢村。しかし、ここは学校だ。「いや、すまん。ここじゃなんだ。君とゆっくり話がしたい」
「話しって――今さら話すことなんてないわ」
「八時に、いつもの店で待ってるよ。来てくれないか」
すぐには返事が返ってこない。
しかし、しばらく俯いていた洋子だが、思い直したように顔を上げると、
「分かったわ。必ず行くから、待ってて」
と言って、歩き出したのだった。
――まだ多くの生徒が残っていたのだろう。校門には数人の仲間たちと談笑しながら帰路につく複数の姿があった。
そんな中、腫れた顔を隠しながら、まるで得体の知れない魔物から逃げるように校門を駆け抜ける生徒がいた。
無我夢中なのだろう。目の前の洋子に気づかず、ぶつかる寸前でつまずいて転んだ。
「中野じゃないか。また誰かに……」
沢村が近づこうとしたが、
「危ないだろ! 気をつけろ、チャビ!」
洋子が一喝した。
「中野、どうしたんだ、その顔は」
沢村が駆け寄って、「誰にやられたんだ。杉田か」
と、抱きかかえながら言った。
「階段で……階段から転んで……。本当です。嘘じゃありません!」
立ち上がった光一は、夢中で散らばったカバンを拾い上げる。
「誰のカバンだ。持たされてるんだろう」
「いえ、ゲームです。ゲームに負けた人が持つことになっているんです」
「いつからだ?」
「いつ、って……。入学したときから――そう、この学校に来てからです」
光一の目が、鋭く光った。「先生、僕には構わないで下さい」
「そんなこと言っても、お前、ゲームに勝った事あるのか」
沢村の声が大きくなる。「勝つことなんかないんだろ!」
「――勝ちます。いつか、必ず勝ちます」
その言葉には、光一の中で沸き立つ執念のようなものが感じられた。
校門を駆け出す光一。沢村はその姿を見守っていた。
「階段から転ぶなんて、全くドジなんだから。運動神経ゼロなんでしょうね」
洋子がそう呟いた。
「本当に階段から落ちたと思ってるのか」
「当たり前でしょ。ゲームだって負けるはずよ。バカなんだから、チャビ」
と言って、洋子は振り向いた。「ねえ、沢村先生――」
「いい加減にしろ!」
沢村の平手が飛んだ。「まだ分からないのか!」
一体、何が起こったのだろう。ここは学校の正門の中じゃないか。洋子は咄嗟のことに、自分の頬が痺れていることさえ分からない。
数人の生徒たちが、見てはいけないものを見てしまったというような、驚いた表情をしている。生徒の暴力ではなく、教師が暴行を奮っているのだ。
呆然と立ち尽くす洋子を尻目に、沢村は歩き出した。
沢村の姿が見えなくなると、玄関から出てきたのは……。
「どうしたんですか、園田先生」
と、洋子に声をかけたのは、教頭先生。
「私……突然殴られて……。ひどい、ひどいわ!」
洋子はそう言って、大げさに泣き始めたのだった……。
体育館の中にこだまする、ボールが弾む音。
今度の練習試合のため、新しいチームでのフォーメーション作りの真っ最中だ。
「調子、上がってるじゃないか」
「絶好調ですよ、キャプテン。春の大会は優勝ですよね、もちろん」
リバウンドしたボールを奪い取って、岡田浩二は、ゴールに向かって投げた。そして、見事にネットに吸い込まれる。
「何かいいことでもあったのか?」
新キャプテンの近藤弘喜が、タオルを持って近寄った。
「何もありませんよ、僕はね」
タオルを受け取った岡田は、汗を拭きながら、「ただ、プライベートでは面白くなってきたのかな」
と言って、足下に転がってきたボールを拾い上げた。
「プライベートねえ……。あまりいい噂は聞いていないぞ」
「何ですか、それ」
投げようとしたボールを持ち直して、岡田は振り向いた。
「今日は来てないだろう」
「――誰がですか?」
「お前のペット」
「ペット? ――もしかして、チャビのことですか」
そういえば、中野光一の姿が見えない。
村上勇一に追われて、職員室に逃げ込んでいるところは目撃した。しかし、目前で捕らわれることは明らかだった。
ということは――もちろん、学校にはいられないほど顔が変形しているはずだ。村上だけではない。杉田が動くはずだ。
果たして、喋ってしまったのだろうか。それで、俺の前に来ることができないのか……。
「キャプテン、どこからそんな話を……」
「俺はこのチームを率いていかなければならないんだ。分かるか」
「それは分かりますが、それとこれとは――」
逆らうわけではないが、岡田はそう言いかけると、
「俺の知り合いにな、チャビのことを知っている奴がいるんだよ」
「そりゃ、学校の中にはいるでしょうね」
「俺の友達は、学校の中だけじゃないぞ」
キャプテンはちょっと笑って、「会わせてやろうか、そいつに」
と言って、岡田を促した。
「でもキャプテン、まだ練習が」
「もう練習は終わりだ。何時だと思ってるんだ」
窓の外は、もう真っ暗。
熱が入っていたのか、時間が経つのも忘れていたようだ。
「ほら、行くぞ」
近藤はそう言って、体育館を出て行った。