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チャビ!  作者: 伝次郎
13/20

その十三


            (九)


 職員室の中はひっそりと静まって……。

 学年主任の池田憲次は、ただ黙々と書類にペンを走らせていた。

 定年まで、あと二年。もちろんそれまで働くつもりだったが、人生というもの、どこに落とし穴があるか分からない。

 ここ数年、担任になることもなく、担当する数学の授業をすることも少なくなった。

 学年の先生をまとめろと言っても、俺は事務職じゃないだ。教壇に立ってこそ、本来の力が発揮されるのではないか。池田はよくそんなことを思っていた。

 この職員室にいる教師たちは、誰もが今学期いっぱいでの池田の辞職を知っている。ただ公になっていないから、余計なことは何も言わないのだ。

「池田先生、ちょっといいですか」

 そう呼ばれて、池田はペンを止めた。

「どうしたんですか、沢村先生」

「いや、実は……」

 沢村は口ごもっている。

「はっきりおっしゃっていいんですよ」

 池田は笑顔で言った。「もう聞いていますよね。私、辞めることになりましてね」

「はい、突然の事で、びっくりして……。どうかなされたんですか?」

 辞表が出されたとは聞いていたが、やめる理由を思い当たる節がない。家庭は円満だと聞いているし、今から転職……ということもないだろう。病気か、とも思うが、最近の健康診断の結果も百点満点だった、と本人が自慢していたではないか。

 ただ一つ、沢村は気になることがあった。

「ご自分から辞めようと……」

「今辞めたら、今後の生活が心配ですよ。定年前に辞める人なんて、そうそういないでしょうからね」

「それならば、どうして辞表なんて」

「――はめられた。そう、罠にはまってしまったんですよ」

「罠に?」

 沢村の顔が、一瞬曇る。

「この学校の中に、派閥があるのはご存知ですよね」

「もちろん知っています」

「沢村先生も、気をつけた方がいい」

「私も、ですか。それは……」

 二人の声は押し殺したように、いや、ほとんど囁き合うような小声になっている。

「商業科の堂村誠次。どうやらPTAとつながりがあるらしい」

「堂村先生……。まさかPTAが、校長に余計なことを言ったとでも」

「その通り。――私がこの学校に赴任してくる前にいた学校で、ちょっと失敗しましてね」

 池田は遠くを見るような目で言った。「生徒たちの金を着服した……事になったんです。そんなつもりはなかったんですけどね」

 生徒たちから集めた現金。もちろん生徒たちの提案で集められた文化祭のための運営資金だ。展示物を仕入れるためにと、池田が預かることになったのだが……。

 たまたまその日に購入したプライベートな美術品。その費用を、生徒の資金を使い込んだ、と訴えられたのである。

 厳格な教師として知られていた池田だが、厳しくなるが故に、反発する生徒がいるのも仕方のないことかもしれない。

 しかし、自分の言うことは全く聞かず、生徒の言い分しか聞かなかった学校側。挙句の果ては、自主退職という形にまでされてしまっていたのだ。

「今度は、中学校との癒着だそうです」

「癒着?」

「特定の生徒を優先的に入学させていることになっているようです。面接や入試の判定など、ほとんど私が担当していますからね」

「まさか、そんなことが……」

「全く、笑うしかないでしょう」

 そう言いながら、池田は本当に笑い出した。しかし、もちろんその目は笑っていない。

「それで辞表を……」

「出さなかったらいろんな言いがかりをつけられて、クビ、ということになるんですよ」

 と、池田は言った。「沢村先生に気をつけてと言ったのは、後任の問題です」

「はい。申し訳ありませんが、私もそのつもりでした」

 沢村は、深く頭を垂れた。

 順序からいくと、沢村が次の学年主任に任命されてもおかしくはない。もちろん実績だって作ってきたつもりだ。

 しかし、だからといって、池田が退職するということの意味を考えると、喜んでばかりはいられないのだ。退職する――ではなく、退職させられてしまう……。

 園田洋子の言葉も気になっていた。主任への依頼があったら「辞退してね」という、思ってもみない洋子の言葉だ。

「派閥の一角が、どうやら動き出したようです」

 池田は、周りの教職員に悟られないように、それから先は、机の上に置いてあった白紙にペンを走らせた。

 たどたどしい指の動き。しかしそれは、沢村にとって思いもかけない文字が連ねられていったのである。

〈次の学年主任 派閥の頭 堂村誠次 操る黒幕 園田洋子〉

 そこまで書いた池田は、沢村を見上げて、小さく肯いたのだった……。


 放課後になって、職員室の中では何やらざわついて……。

 PTAのお偉いさんたちが、校長室の前でひしめき合っているところだった。

「待ってください! ちょっと待って!」

 教頭があたふたとたじろいでいる。

「校長はどうしたのよ! どうして出てこないの?」

 三角メガネのおばさんが、ここぞとばかりに叫んでいた。

「ですから、もうしばらくお待ち下さい。じきに、じきに戻りますから」

「戻ります戻りますって、さっきから何回言ってるの!」

「ですから、もうじき……」

「いい加減にしてよ!」

 三角メガネはいきり立って、「校長はもういいから、池田先生を出しなさい!」

 いつの間にか、命令形になっている。

「ちょっと待ってください。校長先生の許可がないと、話も何も……」

 教頭としては、直接池田と話をさせても紛糾するばかりだ、と思っていたのである。

 入学試験を担当する池田。一部の中学校と癒着しているという噂を聞きつけたPTAのおばさまたちが、真意を確かめようと押しかけて来ていたのである。

 職員室の窓からこの光景を見ていた教職員たちは、それぞれの考えも大きく二分されていた。

 教師としての立場、親としての立場、そしてまた、教師といえども組合員としての立場がある。組合というより、派閥と言った方がいいだろう。

 池田の噂の真相ははっきりしていないが、〈上の者〉がそう言っているのだから、間違いはないのだろう。そういった考えが、転勤のない私立高校の教師たちの一部に存在しているのだ。

「ちょっと、池田先生はどこ?」

 三角メガネが職員室に乱入した。

「待ってください。ここに入ってもらっては困ります」

 教頭が慌てて止めようとしたが……。

「どうしたんですか? 私のことで、何か」

 当の池田が近寄ってきた。そして、「ここでは迷惑がかかります。どうぞ、応接室へ」

 と言って、自らその場所へと案内していったのである。

 応接室は職員室の真下、一階の玄関口の隣にあった。

「どうぞ、こちらへ」

 池田が促そうとしたが、

「どういうことだか説明してもらえます?」

 応接室に入るなり、三角メガネが詰め寄って来た。

「ですから、まず座っていただいて……」

 そんなに興奮したら、冷静に話だってできないじゃないか。といっても、一度かけられた疑惑は、そう簡単に晴れるものではない。

 とにかく座っていただいて……。

 事務員が運んで来たお茶を飲んで、三角メガネは冷静に話を……と思ったが、

「もちろん、辞職ですよね。けじめはちゃんとつけていただかないと」

 と言って、「ちょっと、お茶、もう一杯くれる?」

 まるで女王様気取りだ。

「分かっています。真実がどうであれ、こういう騒ぎになったのは事実です。ただ、もう少し時間を頂きたい。必ず責任は取るつもりです」

「時間なんて必要ないでしょ。今すぐ辞めなさい!」

 三角メガネは、興奮のあまり立ち上がって、「そりゃ、きれいな女の先生がいたんじゃ、辞めたくもないでしょうけどね」

 と、分かりやすい嫌味を言った。

「――どういうことでしょう」

「女の先生を追っかけ回しているそうじゃないですか」

 女の先生? はて……。

「私の疑惑は、それなんですか?」

「疑惑なんて、いっぱいあるじゃないの」

 二杯目のお茶を飲んだ三角メガネは、「園田先生に付きまとっているそうじゃないですか。可愛そうに。まだ独身なのよ、あの人……」

 園田先生? どうして俺が……。あんなガチガチのまじめ女。一緒に飯を食ったって、せっかくのご馳走もまずくなるだけだ。

 しかし、どうして今、その名前が……。あくまでも、中学校との癒着が問題となっているのではないか。プライベートの問題なんて関係ないはずだ。もちろん、そんな事実はないのであるが……。

 ――派閥? そうか、あいつらの差し金か……。

「今学期をもって、私は辞職させていただきます。しかし、あなた方が勘違いされていることがあるように思われます。それを追求するまで、しばらく待ってください」

 池田はそう言って、ソファーに腰を下ろしたのだった……。


 慌ただしかった職員室の中はようやく落ち着きを取り戻し、個々の先生方はやっと家路に就こうとしていた。

 クラブの顧問や課外授業など、職員室を出た後の方向はそれぞれに違っていたが、いつも決まって足踏みをそろえる顔は同じである。

 自分の問題が最優先していた池田憲次は、誰よりも早く職員室を出たつもりだったが……。

「もうお帰りですか。早いですわね」

 聞きたくもなかった園田洋子の声が聞こえた。玄関の横にある事務室から出てきたところだ。

「いろいろ問題がありましてね」

 と、池田は言いながら、下駄箱から自分の靴を取り出す。

「PTAですか? 大変ですね」

 ちっとも同情しているような声ではない。

「それだけならいいんですがね……」

「他にも、何か?」

「いやいや、大したことではありません。気になさらんで下さい。――では」

 と言って、靴を履いた池田は歩き出そうとしたが……。

 事務室の中からまた一人、書類を抱えて出て来る人影がある。その男は、池田の背中に言葉を投げかけた。

「いいですね、仕事のない人は。私もこんな早い時間に帰ってみたいよ」

 池田が振り返ると、商業科の堂村誠次がそう言いながら、園田洋子に何やら話しかけていた。

 この野郎! お前の仕業ということは分かってるんだ。――派閥の領袖、堂村誠次。これまでもこいつの差し金で、何人もの教職員が辞職や転職に追い込まれていたのだ。

 どうせ主任の座を狙っているのだろう。大して給料が上がるわけでもなければ、偉くなるということでもない。その立場に立ってみれば分かるさ。教壇に立つ喜びが、いかに大事だということが……。

 池田は何度も大声で叫びたかったが、今は何を言っても無駄だ。

「ここにいらしたんですか。探してたんですよ」

 外にいた沢村俊雄が、池田の姿を見つけて玄関に入って来た。

 堂村と洋子が同時に振り向く。池田は外を向いたままだ。

 ――沢村は、その場の不穏な雰囲気を悟った。

「どうしたんですか、沢村先生。またいじめですか」

 洋子と同様、堂村もいじめ問題には直視していないのである。

「そう――いじめになるんでしょうね。困ったものだ」

「何がですか? 力になりましょうか?」

「いえ、結構。いじめる側には、人の痛みなんて分かりませんから。――行きましょう」

 沢村はそう言って、池田を促した。

 ――玄関を出る瞬間、沢村と洋子の視線が重なった。いつもの目ではない。

 沢村は、何か底知れない不安を覚えたのだった……。


 

 



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