その十三
(九)
職員室の中はひっそりと静まって……。
学年主任の池田憲次は、ただ黙々と書類にペンを走らせていた。
定年まで、あと二年。もちろんそれまで働くつもりだったが、人生というもの、どこに落とし穴があるか分からない。
ここ数年、担任になることもなく、担当する数学の授業をすることも少なくなった。
学年の先生をまとめろと言っても、俺は事務職じゃないだ。教壇に立ってこそ、本来の力が発揮されるのではないか。池田はよくそんなことを思っていた。
この職員室にいる教師たちは、誰もが今学期いっぱいでの池田の辞職を知っている。ただ公になっていないから、余計なことは何も言わないのだ。
「池田先生、ちょっといいですか」
そう呼ばれて、池田はペンを止めた。
「どうしたんですか、沢村先生」
「いや、実は……」
沢村は口ごもっている。
「はっきりおっしゃっていいんですよ」
池田は笑顔で言った。「もう聞いていますよね。私、辞めることになりましてね」
「はい、突然の事で、びっくりして……。どうかなされたんですか?」
辞表が出されたとは聞いていたが、やめる理由を思い当たる節がない。家庭は円満だと聞いているし、今から転職……ということもないだろう。病気か、とも思うが、最近の健康診断の結果も百点満点だった、と本人が自慢していたではないか。
ただ一つ、沢村は気になることがあった。
「ご自分から辞めようと……」
「今辞めたら、今後の生活が心配ですよ。定年前に辞める人なんて、そうそういないでしょうからね」
「それならば、どうして辞表なんて」
「――はめられた。そう、罠にはまってしまったんですよ」
「罠に?」
沢村の顔が、一瞬曇る。
「この学校の中に、派閥があるのはご存知ですよね」
「もちろん知っています」
「沢村先生も、気をつけた方がいい」
「私も、ですか。それは……」
二人の声は押し殺したように、いや、ほとんど囁き合うような小声になっている。
「商業科の堂村誠次。どうやらPTAとつながりがあるらしい」
「堂村先生……。まさかPTAが、校長に余計なことを言ったとでも」
「その通り。――私がこの学校に赴任してくる前にいた学校で、ちょっと失敗しましてね」
池田は遠くを見るような目で言った。「生徒たちの金を着服した……事になったんです。そんなつもりはなかったんですけどね」
生徒たちから集めた現金。もちろん生徒たちの提案で集められた文化祭のための運営資金だ。展示物を仕入れるためにと、池田が預かることになったのだが……。
たまたまその日に購入したプライベートな美術品。その費用を、生徒の資金を使い込んだ、と訴えられたのである。
厳格な教師として知られていた池田だが、厳しくなるが故に、反発する生徒がいるのも仕方のないことかもしれない。
しかし、自分の言うことは全く聞かず、生徒の言い分しか聞かなかった学校側。挙句の果ては、自主退職という形にまでされてしまっていたのだ。
「今度は、中学校との癒着だそうです」
「癒着?」
「特定の生徒を優先的に入学させていることになっているようです。面接や入試の判定など、ほとんど私が担当していますからね」
「まさか、そんなことが……」
「全く、笑うしかないでしょう」
そう言いながら、池田は本当に笑い出した。しかし、もちろんその目は笑っていない。
「それで辞表を……」
「出さなかったらいろんな言いがかりをつけられて、クビ、ということになるんですよ」
と、池田は言った。「沢村先生に気をつけてと言ったのは、後任の問題です」
「はい。申し訳ありませんが、私もそのつもりでした」
沢村は、深く頭を垂れた。
順序からいくと、沢村が次の学年主任に任命されてもおかしくはない。もちろん実績だって作ってきたつもりだ。
しかし、だからといって、池田が退職するということの意味を考えると、喜んでばかりはいられないのだ。退職する――ではなく、退職させられてしまう……。
園田洋子の言葉も気になっていた。主任への依頼があったら「辞退してね」という、思ってもみない洋子の言葉だ。
「派閥の一角が、どうやら動き出したようです」
池田は、周りの教職員に悟られないように、それから先は、机の上に置いてあった白紙にペンを走らせた。
たどたどしい指の動き。しかしそれは、沢村にとって思いもかけない文字が連ねられていったのである。
〈次の学年主任 派閥の頭 堂村誠次 操る黒幕 園田洋子〉
そこまで書いた池田は、沢村を見上げて、小さく肯いたのだった……。
放課後になって、職員室の中では何やらざわついて……。
PTAのお偉いさんたちが、校長室の前でひしめき合っているところだった。
「待ってください! ちょっと待って!」
教頭があたふたとたじろいでいる。
「校長はどうしたのよ! どうして出てこないの?」
三角メガネのおばさんが、ここぞとばかりに叫んでいた。
「ですから、もうしばらくお待ち下さい。じきに、じきに戻りますから」
「戻ります戻りますって、さっきから何回言ってるの!」
「ですから、もうじき……」
「いい加減にしてよ!」
三角メガネはいきり立って、「校長はもういいから、池田先生を出しなさい!」
いつの間にか、命令形になっている。
「ちょっと待ってください。校長先生の許可がないと、話も何も……」
教頭としては、直接池田と話をさせても紛糾するばかりだ、と思っていたのである。
入学試験を担当する池田。一部の中学校と癒着しているという噂を聞きつけたPTAのおばさまたちが、真意を確かめようと押しかけて来ていたのである。
職員室の窓からこの光景を見ていた教職員たちは、それぞれの考えも大きく二分されていた。
教師としての立場、親としての立場、そしてまた、教師といえども組合員としての立場がある。組合というより、派閥と言った方がいいだろう。
池田の噂の真相ははっきりしていないが、〈上の者〉がそう言っているのだから、間違いはないのだろう。そういった考えが、転勤のない私立高校の教師たちの一部に存在しているのだ。
「ちょっと、池田先生はどこ?」
三角メガネが職員室に乱入した。
「待ってください。ここに入ってもらっては困ります」
教頭が慌てて止めようとしたが……。
「どうしたんですか? 私のことで、何か」
当の池田が近寄ってきた。そして、「ここでは迷惑がかかります。どうぞ、応接室へ」
と言って、自らその場所へと案内していったのである。
応接室は職員室の真下、一階の玄関口の隣にあった。
「どうぞ、こちらへ」
池田が促そうとしたが、
「どういうことだか説明してもらえます?」
応接室に入るなり、三角メガネが詰め寄って来た。
「ですから、まず座っていただいて……」
そんなに興奮したら、冷静に話だってできないじゃないか。といっても、一度かけられた疑惑は、そう簡単に晴れるものではない。
とにかく座っていただいて……。
事務員が運んで来たお茶を飲んで、三角メガネは冷静に話を……と思ったが、
「もちろん、辞職ですよね。けじめはちゃんとつけていただかないと」
と言って、「ちょっと、お茶、もう一杯くれる?」
まるで女王様気取りだ。
「分かっています。真実がどうであれ、こういう騒ぎになったのは事実です。ただ、もう少し時間を頂きたい。必ず責任は取るつもりです」
「時間なんて必要ないでしょ。今すぐ辞めなさい!」
三角メガネは、興奮のあまり立ち上がって、「そりゃ、きれいな女の先生がいたんじゃ、辞めたくもないでしょうけどね」
と、分かりやすい嫌味を言った。
「――どういうことでしょう」
「女の先生を追っかけ回しているそうじゃないですか」
女の先生? はて……。
「私の疑惑は、それなんですか?」
「疑惑なんて、いっぱいあるじゃないの」
二杯目のお茶を飲んだ三角メガネは、「園田先生に付きまとっているそうじゃないですか。可愛そうに。まだ独身なのよ、あの人……」
園田先生? どうして俺が……。あんなガチガチのまじめ女。一緒に飯を食ったって、せっかくのご馳走もまずくなるだけだ。
しかし、どうして今、その名前が……。あくまでも、中学校との癒着が問題となっているのではないか。プライベートの問題なんて関係ないはずだ。もちろん、そんな事実はないのであるが……。
――派閥? そうか、あいつらの差し金か……。
「今学期をもって、私は辞職させていただきます。しかし、あなた方が勘違いされていることがあるように思われます。それを追求するまで、しばらく待ってください」
池田はそう言って、ソファーに腰を下ろしたのだった……。
慌ただしかった職員室の中はようやく落ち着きを取り戻し、個々の先生方はやっと家路に就こうとしていた。
クラブの顧問や課外授業など、職員室を出た後の方向はそれぞれに違っていたが、いつも決まって足踏みをそろえる顔は同じである。
自分の問題が最優先していた池田憲次は、誰よりも早く職員室を出たつもりだったが……。
「もうお帰りですか。早いですわね」
聞きたくもなかった園田洋子の声が聞こえた。玄関の横にある事務室から出てきたところだ。
「いろいろ問題がありましてね」
と、池田は言いながら、下駄箱から自分の靴を取り出す。
「PTAですか? 大変ですね」
ちっとも同情しているような声ではない。
「それだけならいいんですがね……」
「他にも、何か?」
「いやいや、大したことではありません。気になさらんで下さい。――では」
と言って、靴を履いた池田は歩き出そうとしたが……。
事務室の中からまた一人、書類を抱えて出て来る人影がある。その男は、池田の背中に言葉を投げかけた。
「いいですね、仕事のない人は。私もこんな早い時間に帰ってみたいよ」
池田が振り返ると、商業科の堂村誠次がそう言いながら、園田洋子に何やら話しかけていた。
この野郎! お前の仕業ということは分かってるんだ。――派閥の領袖、堂村誠次。これまでもこいつの差し金で、何人もの教職員が辞職や転職に追い込まれていたのだ。
どうせ主任の座を狙っているのだろう。大して給料が上がるわけでもなければ、偉くなるということでもない。その立場に立ってみれば分かるさ。教壇に立つ喜びが、いかに大事だということが……。
池田は何度も大声で叫びたかったが、今は何を言っても無駄だ。
「ここにいらしたんですか。探してたんですよ」
外にいた沢村俊雄が、池田の姿を見つけて玄関に入って来た。
堂村と洋子が同時に振り向く。池田は外を向いたままだ。
――沢村は、その場の不穏な雰囲気を悟った。
「どうしたんですか、沢村先生。またいじめですか」
洋子と同様、堂村もいじめ問題には直視していないのである。
「そう――いじめになるんでしょうね。困ったものだ」
「何がですか? 力になりましょうか?」
「いえ、結構。いじめる側には、人の痛みなんて分かりませんから。――行きましょう」
沢村はそう言って、池田を促した。
――玄関を出る瞬間、沢村と洋子の視線が重なった。いつもの目ではない。
沢村は、何か底知れない不安を覚えたのだった……。