その十二
「一気にやるしかなさそうだな」
岡田浩二が、小さな声で言った。
「すまん……。俺が顔を見られたばっかりに……」
向井健吾が、情けなさそうにうなだれている。
「マスクを取られていなくても、俺らだってことはすぐに分かるさ」
「しかし、村上の野郎、あの紙切れを見ちまったからな。杉田を襲撃するってこと、もう本人の耳に入っているはずだ」
「ああ、今ごろチャビはボロボロになってるだろう。あの杉田が黙っているはずがない」
商業科の岡田のクラスで、昨日の村上勇一襲撃の経緯を聞いていたところである。勇一への暴行は成功したものの、向井のマスクが剥ぎ取られ、その正体があらわになったのだ。ましてやあの紙切れを村上が持っていたということなど、岡田にとっては寝耳に水だったのである。
「チャビの野郎、みんな喋ってしまうんだろうな」
向井は心配そうな顔をしていた。
「喋ってもおかしくはない。人間、誰だって、暴力は怖いもんさ」
「でも、もしそうなったら、今までの計画もパーじゃないか」「――待て!」
岡田が窓から身を乗り出した。「見てみろ、ほら」
そう言って、教室の窓の外に目をやった。向井もその方向を見る。
「あれは……」
「ふん、あいつも頑張ってるじゃないか」
中庭を抜けて、正面の校舎に飛び込む中野光一の姿が見えていた。
逃げているということは、すぐ後から追いかけている勇一たちの顔を見れば察しが着く。双方とも必死の形相だ。
「職員室に逃げ込むらしいな」
と、向井が言った。「でも、やばいんじゃないか」
「何がやばいんだ?」
と、岡田が訊いた。
「だから、チャビが……」
「俺たちのことを喋る、と言いたいんだろう」
「もしそうなったら、昨日のことや俺たちの計画だって台無しだ」
「心配するな。あいつは喋らん」
「どうしてそう言えるんだよ」
「よく見てみろ」
窓の外を見つめたまま、「喋りたくても、おそらく無理だろう……」
と、岡田は言った。
職員室のドアまで、あと数センチ。
このドアを開ければ、今までの苦しみから解放されるだろう。何もかもぶちまけて、この光洋学園の実態を暴露してやる。学校を辞めたっていい。でもその前に、悪い奴らには仕打ちをしなくてはならない。悪は滅びる。いや、誰かが滅ぼさなければならないのだ。
このドアを開ければ……。
ドアに手がかかる寸前、光一の背中を何かが触った。
誰だよ、邪魔するな!
光一はかまわず手を伸ばす。
しかし、届かない。
そして光一の身体は――職員室とは逆の方向に引きずられていったのだった……。
「――なめた真似しやがって!」
気がつけば、光一は自分の教室の真ん中にうずくまっていた。
「お前のやったことが、どういうことだかわかっているんだろうな」
いきなりパンチが――飛んで来なかった。
暴力、いじめ。それは、肉体的に及ぼされるものだとは限らない。こうやって、無言の中の静まり返った教室。光一を囲んだ男たちの静かな息だけが存在する空間は、痛みを通り越した暴力となって光一を圧迫していた。
光一の太ももに、パチンと弾ける小さな痛みが走った。――輪ゴムである。指で絞って皮膚の上で弾かせると、小さいながらも強烈な痛みを与えることができる。
「チャビちゃん。職員室に、恋人でもいるのかな?」
輪ゴムを持った勇一の手が、光一の首に触れる。「キスマーク、付けてあげようか」
指にかかったゴムが、小さな音を響かせてはじけた。小さいながらも――小さいからこそ、人間が感じる痛みというものは敏感に反応するものだ。
「大冒険だぜ、チャビ! 洋子ちゃんに会いに行ったんだろう」
髙木典雄が、わざとらしくからかった。
「哲夫君、どうする、こいつ」
勇一が、無関心を装っている哲夫にわざとらしく言った。
哲夫は、なぜか突然笑い出した。
「どうしたんだよ――哲夫君」
「おかしくてよ」
高笑いさえ始めて、「この本さ。コメディーなんだよ、これ」
と言って、また読み始めた。
「そんなことじゃなくて……。チャビは密告しようとしてたんだぜ」
「何を密告するんだ」
「だから、哲夫君や俺たちがいじめてるってことさ」
「いじめてる? それはよろしくないね。いじめはダメだよ、君たち」
哲夫は本を閉じて、「チャビ、こっちに来い」
光一には、哲夫の考えていることが分からない。職員室に走ったことや、村上勇一が襲撃されたこと。そして、岡田と密謀を企てていることも、哲夫の耳に入っているだろう。
いつもなら敏感に反応して何かしてくるはずだ。しかし哲夫は、怒ったような表情すら見せない。
「はい……」
哲夫に近寄って、光一は歯を食いしばる。
「今日の昼飯」
「――は?」
「今日の昼飯だよ。売店のパンでいいからな」
「でも今日は、ホカ弁の新メニューの発売日ですよ」
数日前から、哲夫が楽しみにしている新商品だ。
「実は、腹が減ってるんだ。今からちょっと行って来てくれないか」
「今から、ですか?」
「授業に遅れたら、トイレに行ってる、って先生に言っとくから、大丈夫だ」
少しためらった光一だが、
「分かりました。じゃ、行ってきます」
と言って、歩き始める。
「ちょっと待て」
哲夫が呼び止めた。「ほら、金」
差し出された千円札を、光一はポケットにねじ込んで、足早に教室から出て行った。
――勇一の頬の傷が、キリキリと痛み出したのだった。