その十一
(八)
その日の、一時間目終了後……。
国語の授業が始まる直前、中野光一の机の周りは、村上勇一を中心に数人の男たちに囲まれていた。
光一は椅子に座ったまま、声も出せずにただ震えていた。
――始業前、光一に対する勇一の暴行は、今までにない凄惨なものだった。腫れた顔、流れ出る鼻血は止まらず、泣き叫ぼうとする声さえも出させてくれなかった。
まだその時点では何も言わなかった勇一だが、今ここで、どうして殴られるのか、その理由を仲間に聞かせるようにして、光一を問いただしていたのである。
「だからお前は、岡田とグルになって、何か計画を立てている。違うか」
「知りません……」
「俺は昨日、お前の家にカバンを取りに行ったんだ。お前の部屋にな」
勇一は詰め寄って、「そこに何があったと思う」
と言われても、光一には何のことやらさっぱりと分からなかった。勇一が見つけ出した紙切れは、とっくに処分してあると思っていたのだ。
しかし、勇一の顔の傷は、岡田のグループにやられたことは間違いないだろう。
ということは、その時に自分のことを喋ったのだろうか。でも……。
「哲夫君を裏切ろうと思っている。いや、裏切るどころか襲撃だ」
「まさか――そんなこと、僕にできるわけが……」
「ちゃんと書いてあったんだよ! お前の秘密の紙切れにな」
勇一はそう言って、赤く腫れた光一の頬を弾いた。
聞いていた髙木典雄が、ごくりと生唾を飲み込む。杉田哲夫に逆らうということは、大げさに言えば命を捨てる、ということにもなりかねないのだ。
「本当か、チャビ!」
典雄は身を乗り出して、「お前もいい度胸してきたぜ」
と言って、光一の肩口を蹴飛ばした。
光一はただ硬直したまま、何も言えずに黙っている。バレているとしても、自分からは何も話さない方がいい。黙秘権――があるのかどうかは分からないが――を強行するだけだ。どっちにしても暴行されることは、今までの経験でいやというほど思い知らされているのである。
問題は、哲夫だった。自分の席に座ったまま、相変わらず難しい本を読んでいる。
「何を企んでいる。あの紙切れには、哲夫君が一人になったところを何人かで襲撃するようなことが書いてあったんだよ」
「哲夫君を? 間違いないのか」
典雄が勇一に訊いた。
「ああ、チャビの部屋にあったんだ。何人か名前も書いてあったからな」
と、勇一は言ってから、「お前の名前もだぞ」
「俺もか。どういうことだ」
典雄が光一を睨みつける。
「こういうことじゃないのか」
勇一は腫れた自分の顔に手をやった。「俺の名前が一番上に書いてあったんだ。一人ずつやってしまおう、ってことだろう。な、チャビ」
もうだめだ! 何もかもバレてしまっている。――どうすればいい。土下座して謝ってみるか。といって、それくらいで許してくれるはずもない……。
「哲夫君。どうするんだよ、こいつ」
勇一は、何も言わない哲夫に少々イラついていた。いつもなら、一番先に光一をいたぶっているはずだ。
「なあ、哲夫君――」
「うるさい! 今いいところなんだ。邪魔するな」
哲夫は本から視線を外さないで言った。
「哲夫君……。だったら、俺たちがやってもいいんだな」
「やるって――何をやるんだ」
「お仕置きだよ。チャビに対してのな。もちろんご褒美なんていう生易しいもんじゃないぜ」
聞いている光一は、その言葉一つひとつが暴力となって、震える体を更に硬直させていた。
「このまま黙ってはいられないぞ」
典雄が言うと、
「好きなようにしろ。チャビも考えがあるんだろ。それなりの覚悟はできているはずだ」
「哲夫君は、何もしなくていいのか?」
「うるさい! 邪魔をするなといっているのは分からないのか!」
哲夫はそう言って、またその本を読み始めたのだった。
静かになった教室の中では、淡々と国語の授業が進められている。冗談一つ言うでもなく、園田洋子は教科書を読み進めていた。
ある文学を題材とした文法の授業だが、まじめに読むだけではなく、少しは面白くした方が子供たちには分かりやすいこともあると思うが……。
至って教育熱心な園田洋子は、笑いを取るより点数を取ってほしい、という考えしかない。もちろん漫談ではないのだから、笑いに重点を置く必要もないのではあるが。
「――分かりましたか。何か質問がある人は手を挙げて」
洋子は生徒たちを見渡したが、教室の中は静まり返ったままだ。「では、次に――」
「先生……あの……」
おずおずと手を挙げた生徒がいる。
「はい、何か質問ですか?」
「いえ……その……」
そう言って、ただ、もじもじとしている。
「言いたいことがあったらはっきり言いなさい! 何だよ、チャビ!」
しばらくうなだれていた光一だが、席を離れて、ゆっくりと教壇に近寄った。
うつむいたまま、ただ下を向いている。何か言おうとしているが、どうやら言葉に出せないようだ。
「何だよ、ションベンか?」
洋子の言葉が男勝りになる。
「いえ……あの……」
光一は思い切ったように顔を上げて、「先生! 好きです! ぼ、僕と結婚して下さい!」
洋子はしばし呆然としていた。何と言ったんだろう。
――結婚? 確かに私は独身よ。でも、何だって高校生からプロポーズされなきゃいけないの? そんなに飢えているように見えるのかしら……。
「――何を言ってるのか、自分で分かってるんだろうね、チャビちゃん」
「だから僕と、け、結婚を……」
「お前はバカか! 私を一生、食わせていけるだけの自信があるのか?」
「いえ……その……」
「なんて情けないことを言ってるんだよ。だからいじめられるんだぞ」
洋子は真顔になって、「もういいから、廊下に立っていなさい!」
苦虫を噛み潰したような顔をして、しぶしぶと教室を出る光一。
ドアを閉めた途端、教室の中は大爆笑に包まれた。
「バカじゃねえか、あの野郎。よっぽど先生のことが好きらしいな」
「先生、結婚してやってくださいよ。ボランティアと思ってさ」
勇一が、ニヤニヤ笑いながら言った。
「ふざけるのもいい加減にしなさい! どうせ誰かがやらせたんだろう」
洋子は机に教科書を叩きつけて、「さ、授業、続けるわよ。やる気がない人は、チャビと一緒に廊下に出ていてもいいんだからね」
と言ったその顔は、もう、いつもの教育者たる顔に戻っていた。
「次は、二十三頁。ちょっと難しいぞ、ここは。誰か読める?」
「はい、僕が読みます」
「さすがに出来る子は違うわね。――じゃ、杉田君、読んで」
指名された哲夫は、やや難解な文章を、いとも簡単に読み進めたのだった。
――結局、光一はその授業が終わるまで廊下に立っていた。
教室を出た洋子は、一旦光一とすれ違ってから立ち止まる。振り向いた洋子は、下を向いたままの光一に訊いた。
「――チャビ。本気で私と結婚したいと思ってるのか」
「いえ……いや……。はい……もちろん」
「いいわよ、結婚しても」
「――は?」
「もしそうなったら、夫婦生活が楽しみね。きっと毎日、お前の泣き顔を見ることになるだろうから」
もちろん冗談で言ったのだろうが、その目は笑っていない。光一には、洋子の姿が、まるで勇一の女バージョンに見えていたのだった……。
洋子の姿が見えなくなっても、光一はしばらく教室の中に入れないでいた。勇一たちがニヤニヤ笑いながら、光一が戻って来るのを待っているはずだ。
そして、続きがあるのだろう。
いつまでも廊下に立っていたって仕方ない。光一はためらいながら、教室へ入って行った。
――気がついた時はもう遅い。目の前に、勇一が投げつけた机が宙に待っていたのである。
避けようとした光一の背中に、落下する机が直撃した。
「何だよ、あのザマは! 抱きついてチューしろって言っただろ」
勇一が駆け寄ってきて、転がった光一の身体を踏みつけた。
「すみません……。僕には、どうしても……」
「これくらいでビビるんじゃないぞ。まだ始まったばかりだ」
勇一の表情は、ただいじめる、というだけの顔ではない。明らかに、憎しみがこもっている。
「さあ、第二ラウンドは、何して遊ぼうかな」
勇一は指を鳴らした。
「お願いです! もう勘弁してください!」
「俺の顔はどうするんだよ。この腫れた顔は。お前の仲間がやったんだ。お前がやらせたんだよ」
「僕は、何も……」
「俺の次は誰だ? もう決まってるんだろう。言ってみろ!」
自分がやられたということは、ここにいる連中はみんなやられるということになる。その最初の犠牲者が自分だったに違いない。おそらく一人ずつやられて行くのだろう。
あの紙切れに書いてあった数人の名前を、勇一ははっきりと憶えていた。
「典雄、気をつけろ。順番から行くと、今度はお前だ」
「俺が……。チャビ、本当か?」
髙木典雄の唇が、わずかに歪んだ。
「いつだ。――場所はどこだ」
光一に訊いてみた典雄だが、答えるはずもない。
典雄は、小さな蹴りを、光一の顔に見舞った。
光一は何の反応も示さない。
また足が飛んだ。二発、三発……しだいに力が入ってくる。丸く縮こまった光一は、顔を抱えて身を守ろうとするが――足の数が増えて来たようだ。
気がつけば、無数の足蹴りの中で、光一は悶え苦しんでいたのである。
激しい。激しすぎる。このままでは、本当に死んでしまうかもしれない。いつもいじめられているといっても、こんなことは初めてだ。
いつもであれば、暴力を振るうのは哲夫だけである。勇一たちは、哲夫の前では手を出すことは少ない。しかし、その哲夫は、何の関心も示さないように本を読んでいるだけだ。
「やめて……下さい。――助けて!」
光一が叫ぶと、あざ笑う声が聞こえて、
「チャビ! こっちを向いてみろ!」
指の隙間にある光一の目が、カッと見開いた。
勇一が持ち上げた机が、今まさに振り下ろされようとしていたのである。
「食らえ、チャビ!」
自分でも驚くような速さで起き上がった光一は、間一髪でそれをしのいだ。そして、無我夢中で教室を飛び出したのであった。
後は自分でも分からない。廊下を走り続け、一階までの階段を転がるように駆け下りて行く。そして、中庭を抜けて、隣の校舎に飛び込んだ。
どっちだろう。二階だったかもしれない。一瞬ためらった光一は、そこにある階段を一気に駆け上がる。
――あった! 廊下の一番奥に、〈職員室〉と書かれた札が下がっていた。
背後から、無数の足音が迫っている。早くしないと……。
光一は駆け出した。職員室までもう少しだ。
足音が近づいた……。
目の前に、職員室のドアが見えている。
光一はドアに向かって手を伸ばした……。