その十
(七)
久しぶりのデート……といっても、所詮は不倫であって、自分は教職の立場にある。早くこの関係を清算しなくては、と考えているところなのだ。呑気に喜んでいるわけではない。
しかしここ最近、密会――という言い方自体、あまり好きではないが――することも少なくなれば、自分に対する態度も変わって来ている。
沢村俊雄にとって都合のいい話ではあるのだが、何とも物足りなさを感じていたのも事実なのだ。
「久しぶりに、いつもの店で待ってるわ」
そう言った園田洋子の言葉を、その店、ショットバーのカウンターで燗酒を飲みながら、沢村は思い返していた。
「久しぶりに、か……」
近ごろ笑顔さえ見せなくなった洋子だが、放課後の帰り際に見せたあの微笑みは、別れ話を切り出そうという沢村の思いを惑わせるものでもあるのだが……。
「ごめんなさい。待たせたわね」
いつの間にか、洋子が沢村の肩に手を乗せていた。
「いや、俺も今来たところさ」
「そんなこと言って、ここに並んでいる燗ビンは、何?」
「あれ、こんなに飲んだかなあ。これ、俺のか?」
「記憶がなくなるほど飲んでるのね。それとも、歳のせい?」
二人は同時に笑った……。
久しぶりのプライベートな話に、沢村は気を良くしている。
少し酔いが回ってくると、何事にも楽観的になってくるのが、沢村の性格である。それが結果的に良くもなれば、悪くもなるというものだ。まあいいや、何とかなるだろう、明日になれば……。
そして朝、目が覚めたとき、「しまった!」ということが、今まで何度もあったはずなのだ。しかし性格というものは、そう簡単に変わるものではない。
今日だって洋子に誘われたとき、「もう会うのはやめよう」と断っていれば、簡単に済んでいたかもしれない。二人の関係を怪しんでいる先生だっているのだから、これ以上、深入りしない方がいいはずだ。
そんなことが分かっていても……。
「君とこうやって会うことができて、俺は嬉しいよ」
沢村はそう言いながら、ぬるくなった酒に口をつけた。
「あなたって、ちっとも変わらないのね」
と言った洋子の顔つきが変わっていた。「周りはどんどん変わっているのよ」
「変わってる――というと?」
「ほんとに鈍感なんだから……。今学期いっぱいで、主任の池田先生、学校辞めるって知ってるの?」
教職員としては重要な話なのに、沢村にとっては初耳だ。その言葉は、沢村を現実の世界に引き戻したのだった。
「――本当か?」
「ということは、次の主任……ということでしょ」
「いや、それは分かるんだが」
「その候補に挙がっているのが――あなた。つまり、沢村先生もそろそろ役職に、ってことになっているらしいの」
洋子の口調は、いたって平淡だった。
学年主任というのは、普通の会社では重要な部長クラスに当たるだろう。そのポストに就くということなど沢村はまだ先の話だと思っていたのだ。今は信条としている生徒たちの人間形成の方が先決だ。しかしいつかは主任に、教頭に、そして校長まで上り詰めたら……。
といっても、教職員の誰もが地位的な出世を望んでいるわけではない。第一線での教育に情熱を燃やしたり、クラブ活動で全国を目指すなど、教員の思いもさまざまだ。
「まさか……。俺より先に上がらなければならない先生だって、何人かいるはずだ。それに、まだ俺は何も聞いてない」
「まだ内々の話なの。だからまだ、誰も知らないと思う」
「知らない、って……君は誰に聞いたんだ」
と沢村は言って、洋子の顔に視線を送った。
「それは……。私もちょっと聞きかじっただけで、本当はどうなのか分からないわ」
「だから、誰に聞いたのかって訊いてるんだよ。主任が辞めるというのは分かる。しかし後任に俺の名前が出るのはおかしいだろう」
洋子はしばらく返事をしなかった。そしてカクテルを一口飲んで、
「あなたは主任になってもいいと思ってるのよね」
「どうしてだ」
「――もしもその話が直接来たら、辞退してくれないかしら」
と、洋子は言った。
「どうしたんだよ、その顔……」
髙木典雄が、心配そうに覗き込んだ。
「何でもないよ。放っといてくれ」
「だって、その傷……。誰にやられたんだよ」
「誰って……。今さら説明する必要ない!」
そう言った村上勇一は、自分の机にカバンを叩きつけた。
まだ始業には少し早い時間だ。遅刻しなかっただけでも驚くだけの価値があるのに、その顔が見るに堪えないほど腫れ上がっていれば、周囲の関心を引くのは自然の成り行きだ。
早い時間といっても、ほとんどの生徒は教室に集まっている。来ていないのは、遅刻常習犯の何人かだけだ。
全員が勇一に注目を集める中、ただ一人無関心に何やら難しい本を読んでいる男がいる。――そう、言わずと知れた、杉田哲夫だ。
「哲夫君――」
勇一はゆっくりと哲夫に近寄る。とその時、振り向いた勇一は、中野光一と視線が重なった。
その両目は見開いて、わなわなと震えている。
しかし勇一は、そのこと自体には関心を見せなかった。そして哲夫の耳元に顔を近づけて、何やらひそひそと話し始めたのである。
――光一には分かっていた。どうして顔が腫れているのか。誰にやられたのか。何の目的で……。
しかし、光一が関与していることは、まだ誰も知らないはずだ。ましてや哲夫にばれることは考えられない。自ら哲夫に食らいつき、暴走族まで参加しているのだ。そして、哲夫の態度は友好的なものに変わっていることだし、今さら勇一が何か言ったとしても、もしかしたら哲夫が助けてくれるのではないか、とさえ思っていたのである。
哲夫は本から視線を離さない。ただ勇一の話に、小さく肯いているだけだ。
話し終えた勇一はキッとつり上がった目を、光一に向けた。そしてゆっくりと近づいて来る。
反射的に、光一は立ち上がっていた。そして後退しようとしていた光一の腹に、勇一の足が力強く蹴り込まれたのである。
気がつけば。床にうずくまった光一の顔は、その足に踏みつけられていた。
「どうしてこんなことされるか、お前には分かってるよな」
勇一は少しずつ体重をかけながら、「言ってみろ!」
と訊かれても、光一が口を開けないのは、顔を踏みつけられているせいだけではなかった。
「ど……どうしてですか……」
「誰にやられたと思う」
「分かりません……」
「その連中にからんでいる裏切り者がいる。誰だか分かるか」
「分かりません……」
光一の腹がえぐられる。
「そうか、分からないか。だったらしばらく、お前の身体に訊いてみようか」
「本当です。僕は何も……」
と言ってみても、勇一の暴行は止まらなかった。
勇一の形相は、いつものそれとは一変している。誰も手出しすることも出来なければ、止めることすら出来ない。
哲夫が助けてくれるはずだ。――光一は、哲夫に視線を送ったのだったが……。
足がくい込む鈍い音.苦痛に喘ぐ光一の悲鳴。哲夫にも聞こえているはずだ。
しかし……読書にふける哲夫は、何を考えているのか振り向こうともしない。
本の内容が面白いのか、それとも、光一の惨状がおかしいのだろうか。
哲夫は、ニヤニヤ笑っていた……。