♯3 夢の在り処、いずこ
ジョー・ヴァルハラ博士は史上最年少、十五歳でその年の生物学の賞を総なめにした経歴を持つ天才生物学博士だ。六年前まで新東都科学大学付属研究所にて遺伝子学長として研究を続けてきたらしく、科学雑誌に論文を載せたのは一度や二度ではない。遺伝子学界の彗星――彼は長い間そう呼ばれ続けていた。あのとき、彼が拘束されるまでは。
「人間はね」
Uスクエア行きの天空電車に乗るなり、ヴァルハラは切り出した。
「変化を恐れるものなんだよ。君たち人型機械とは違ってね」
「どういうことです?」
夕方四時、Uスクエアへ向かう乗客は指で数えられるぐらいしか乗っていなかった。発車までまだ七分ある。腕時計で確かめると、最後尾の二人乗り席に腰掛け、美紗は訝しむようにヴァルハラを見た。彼は夕焼けに染まるDEMO東都本部を眺めていた。
「君たちは変化を喜ぶだろう。当然だね、更新することでますます行動範囲が広がる。より社会生活に溶け込める。そうだろう?」
「まあ、確かにそうです。月に一度私の製造会社から更新が届きますが、改良してもらえるのならそれはありがたいことです」
「でも人間は違うよ。変化を恐れている。ありふれた日常を求めてる。変わり映えのない日常、それが続くことが何よりの幸せだと感じてるね。だからアクシデントを恐れる。そして、死を恐れるんだ」
「それが、何です?」
「君も知りたがっていたろう、僕が禁錮二千二百二十一年の判決を受けた理由を。理由はそれさ。人間が変化を恐れたために僕はあの場所に閉じ込められていたんだ」
ヴァルハラは吐き捨てるように言った。彼の眼は冷たかった。今まで研究材料として人間を専門に扱ってきた彼にとって人間とは実験材料として扱いにくい疎ましい存在でしかなかったのかもしれない。
でも変化を恐れるという概念が未だ理解できない美紗は納得できないまま口を閉じた。あとで帰ったとき、ハネダさんにでも聞いてみよう。でもあの人のことだから素直に教えてくれそうにないけど。
汽笛を模した電子音が流れ、天空電車は空に浮かぶ七色の光を放つレールの上を流れるように走り出した。
夕方の空から見る風景は人工物ながら雄大で美しい。高層ビルが立ち並ぶ辺りはガラスに紅の光が反射しそれが幾層にも重なる姿はまるでビル全体が炎に包まれているかのようで、例えは物騒だが芸術を見ているようである。帆暦最初の年に起きた天変地異により、ほとんどの自然が失われた世界の人間にはこれぐらいしか心の休めようがないのである。
美紗も夕日に染まる街を眺めながら、ヴァルハラのさっきの言葉を思い出していた。
――人間が変化を恐れたために僕はあの場所に閉じ込められていたんだ――
つまりヴァルハラは変化に関する研究を行っていたのだろうか。そして変化を恐れられたために禁錮刑を受けた。だがなぜそれが二千二百二十一年もの刑に値することになるのか。そんなことになる罪は、もしや世界の秩序を破壊しかねない罪を犯したとでもいうのだろうか。
秩序を破壊する研究って何かしら?
本人には聞けなかった。機嫌を悪くしているところに畳み掛けたりなんかしたら、ヴァルハラはもう協力してくれないだろう。それは困る。
もうその話は忘れよう。美紗は自分に言い聞かせ、何よりも大事なことに頭を戻した。
ドリーマーの暴走事件を止めることだ。
*
Uスクエアに向かったのは美紗の思惑ではない。ヴァルハラから行こうと言い出したのだ。Uスクエアは学術地域であり、大学・研究所及び養成機関がみっちり集結した地域である。東都の中枢はもちろん政治区画Aスクエアと商業区画Cスクエアだが、そこに次ぎ権力を持っている区画こそ、このUスクエアであった。名こそ知っていたものの美紗はここにくるのが初めてである。
駅に着いた天空電車が再び天に戻っていく様子を見送り、二人はUスクエアに足を踏み入れた。高層ビルの立ち並ぶDEMO東都本部周辺とは打って変わって、五階までの低い建物が軒を連ねる地域だった。この地域は都市部から離れたいわゆる田舎であることから土地は豊かにあるためだ。駅前ロータリーにある電光掲示板には現在四時三十分と表示されている。ヴァルハラは紙袋の中の薬カプセルを三つほど飲み終えると西に向かって歩き出した。
「どちらへ行くんですか?」
美紗も早足で後を追う。
「僕の研究所だよ」
「貴方の研究所って収監された時に没収されていないんですか?」
「確かにあの時、僕の全資産及び研究全てを剥奪されたね」
「なら、貴方の研究所は」
「逮捕される寸前、僕の意思を受け継いでくれた人がいるんだ。彼らが僕の資産と研究の一部を復活しておいてくれるはずなんだ。たぶん今も変わらずにいると思うんだけど。そうだ、電話貸してくれる? 連絡取るよ」
資産と研究の復活、おそらく電子マネーやデータファイルといった非物質であることは間違いない。物質ならば完全に抹消することは可能だが、非物質情報には抜け穴がある。情報サービス最大手NNN通信を始めとしたネットワークは西暦の枠をはるかに超えたシステムを提供し、巨大化したシステムは皮肉にも巨大化した抜け穴を作ってしまった。それを用いれば復活は可能である。
ANフォンを貸すと、ヴァルハラは手早い操作で音声通信を始めた。
「もしもしヴァルハラだ。今から十五分ほどで帰る。客人も一緒だ。格別のディナーの準備をしておくように」
相手の声は美紗には聞こえなかったが、一方的にヴァルハラが喋って通信を切ったようにしか見えなかった。相手にとってみれば禁錮刑を受けていたヴァルハラから連絡があることも、さらには帰ってくることも、客人を連れてくることもすべての理解に苦しむだろう。そもそも、格別のディナーが十五分でできるとは思えない。
困った人。
「さ、行くよ」
彼は静まり返った西の空へ向かっていった。
*
「ここだよ」
二十分後、ヴァルハラが指差したのはマンホールだった。全自動の都市部とは違って、点検を人間が行っているためこの辺りのマンホールと言えば直径六十センチほどの円形のものだ。表面にはUスクエア供給局の文字と、U57上水と固有記号が彫られている。
美紗はヴァルハラの返事を予想しながらも、恐る恐る尋ねてみた。
「この中、とでも?」
「なんだい、その人を見下したような目は? 逮捕された人間の研究所が未だ堂々と建ってるわけはないだろう」
ヴァルハラは屈むとマンホールの隅に掛けられたカバーを外した。中にはαからΩまでのギリシア文字が並んだタッチモニターがあり、四ケタの答えを求めていた。確かにマンホールの制御には個別につけられたパスワードを用いることとなっていた。というのも三十五年前に起きたサイバーテロの犯人の本拠地が地下水路だったからである。それ以来上下水を管轄する供給局水道課の人間しか入れないことになっているはずなのだ。
だがヴァルハラは四つのギリシア文字を迷うことなく選択し、マンホールを開放してみせた。
「パスワード、知っているんですね」
美紗は驚きとあきらめを混ぜた声で呟いた。
「昔、水道課に出向くことがあってね。その時にちょっと拝見したんだ」
自動的に収納されていくマンホールは十秒で大口を開けた。
中に降りると、そこには水族館のような空間があった。床がガラスで出来ており、流れる水が照明に照らされている。地下水道に入ったことは一度もないが、少なくとも上水の流れは綺麗だった。天井は美紗が立っても余裕があるくらいだから二メートル以上はあるだろう。トンネル型の空洞があちらこちらに根を広げているようだ。
「どこへ行くんです? こんなところに本当に研究所があるんですか」
「Uスクエアの最西地域、一昨年封鎖されてしまった地域を知ってるかい」
「封鎖地域のことですか」
「うん。あの地域は二年経った今も、ほぼ全ての人間の出入りを禁止されてる。封鎖からしばらくの間は人型機械や動物型機械に頼って調査していたらしいけど、今や中には誰もいないらしい。人間は飽きっぽいからね、調査をやめたのさ。でも表向きにはちゃんと、人間の出入りを禁止してる。だからこの地下水路からしか行けないんだよ。まあ仕方ないけどね、あの地域は未だ絶対安全とは言えない」
「それなのに博士は行くんですか?」
「あの地域に僕の研究所はあるんだ。だから行かないといけない。君もドリーマー事件の手掛かりを得たいのなら一緒に来るんだ」
封鎖地域にヴァルハラの研究所がある。これほど不思議なことはなかったが、封鎖地域なら資産や研究材料を隠すのにはもってこいだ。人間は入られない、いや入ると危険な地域。
十年も前となれば封鎖地域はUスクエアの中でも最先端の研究が行われる場所として有名だった。政府の後押しも受けたこの地域の研究は国家レベルとも言われた研究だった。かつては天空電車の発明、最速計算機U-PCの開発、そしてこの場所でドリーマーは誕生している。この場所にドリーマーのすべてがあると言っても過言ではない。きっとそのためにヴァルハラは封鎖地域に向かっているのだろう。
でも、ヴァルハラの研究は確かドリーマーとは無縁の研究だったはずだ。
それなのに、ヴァルハラの言うドリーマー事件の手掛かりは見つかるのだろうか。
*
封鎖地域についたころには最後の夕日も消えて、黒い空が辺りを覆っていた。封鎖地域には供給局からの電気供給もなく、この時間ともなると文字通り足元も見えないほどだった。目が慣れるまで辺りの様子はうかがえなかったが、目が慣れるとゴーストタウンの実態が見えてきた。
マンホールから出たところはガラスがほとんど叩き割られ、殴り書きされて読めない張り紙がここかしこに張られ、黄色いテープで門も扉も窓も封鎖された、巨大な施設だった。二階建てで平らな建物だ。西暦時代に建てられたような白い漆喰の壁、庭には研究に用いていたであろう種子植物がプランターからはみ出るぐらいの成長を見せていた。
門に書かれていた表札は、ヴァルハラ遺伝学研究所。
「ささ、見苦しいところだけど入って」
ヴァルハラに勧められるがまま門に張られたテープを剥がし取り、敷地内に入った。玄関の扉に張られている張り紙の文字は一言だけ読むことができた。
ジョー・ヴァルハラは人類の敵。
一体どういうことなのかと息を呑んでいた美紗の後ろから、ヴァルハラが顔をのぞかせた。だが彼は肩をすくめるだけで、テープを剥がし扉を開けた。背中を押された美紗は気に食わないまま玄関に入った。
中は自家発電が行えているのであろう、電気が供給され明るかった。室内は広くロビーのような空間で清潔感がありソファーが並べられていた。外の乱雑な風景とは違ってすっきりと片付いている。もしかして「ヴァルハラの意思を受け継いだ人」とやらが片づけていたのだろうか。ヴァルハラはロビーの右奥の第一研究室の扉を開いた。
「帰ってきたよ、皆」
その瞬間、第一研究室からロビーに向けて何か黒い影が五つほど通り抜けた。
五匹の黒い子猫だった。
でもただの子猫ではないことはヴァルハラに言われなくてもわかった。世話もなしに子猫が住み着いているわけがないし、第一ヴァルハラがこの家を出たのは子猫たちが生まれる前のことだろう。そのことを尋ねてみたら、子猫を五匹まとめて抱えているヴァルハラは今まで見せなかった崩れた笑みを見せた。
「この子たちは僕の実験の試験体だったからね。でも元気にしてくれていてよかった」
「ってことはこの子たちにディナーとかなんとか命令していたんですか?」
「何言って……そんなわけないでしょ。彼らは僕の大事な家族さ」
「じゃあ誰に」
「僕の奴隷さ」
背筋が凍る気配がした。咄嗟に振り返った先には、黒いタキシードを着た男と白いドレスを着た女が立っていた。美紗は目を疑った。幽霊かと思ったのだ。表情が全く表れず、石のように静寂に、いつ現れたのだろう物音ひとつさせなかった。彼らはヴァルハラが向くなり口を揃えて切り出した。
「旦那様、お帰りなさいませ。ディナーの準備はできております」