水没する夢
見渡す限りの稲穂が、黄金色の波となって午後の陽光にきらきらと輝いていた。
刈り入れを待つ田んぼに囲まれた一本道を、私は乾いた秋風を頬に受けながら、ただ一人で歩いていた。
異変は、何の前触れもなく訪れた。
音もなく、不意に、世界の輪郭が歪んだ。足元を見ると、透き通った水が音も立てずに地面から湧き上がり、瞬く間に私の足首を浸していく。驚いて立ち止まったときには、水位はすでに膝を越えていた。
黄金色の稲穂を沈めていく水はどこまでも透明で美しい。しかし、泳げない私にとっては恐怖そのものだった。水かさは恐ろしい速さで増していく。胸を突く焦燥感に突き動かされ、私はすぐ近くにあったコンクリートの電柱にしがみついた。
「うわー、何なんだこれは……!?」
冷たい電柱をがむしゃらによじ登る。だが、上昇する水の速度は私の必死の抵抗を嘲笑うかのようだった。腰を追い抜き、胸を濡らし、やがて冷徹に私の頭上を覆い尽くした。
ごぼり、と視界が完全に水の色に染まる。
私はパニックに陥り、手足をめちゃくちゃに動かしてもがいた。電柱から手が離れ、身体が浮き上がる。息が詰まる、死ぬ、そう思った瞬間――私は奇妙な違和感に気づいた。
苦しくない。
いくらもがいても、肺が焼けるようなあの苦しみが一切ないのだ。冷たいはずの水は、まるで誂えたように私の肌に心地よく馴染んでいる。
私は動きを止め、そっと息を吸い込んでみた。吸い込まれたのは水ではなく、確かに清涼な空気の感覚だった。
「……大丈夫だ。」
落ち着きを取り戻すと、胸を占めていた恐怖はすうっと退いていった。それどころか、この水の底に何があるのかという、深い好奇心が湧き上がってきた。私は意を決して、水の奥深くへと身体を反転させ、思い切って深く潜っていくことにした。
どこまでも透明な水の中を、滑るように落ちていく。
やがて、ゆらゆらと揺れる水底の闇の中に、巨大な影が見えてきた。
目を凝らす。それは、どこか見覚えのある学校の校舎だった。鉄筋コンクリートの四角い建物が、静まり返った水底にひっそりと佇んでいる。
引き寄せられるように近づいていくと、3階の一角にある部屋に、ぽつりと灯りがついているのが見えた。水中に滲む、蛍光灯のような冷たくて白い昼光色の光。
その部屋のすぐ真下、2階の窓が、誘うように大きく開け放たれていた。私は迷わずその窓をくぐり、校舎の中へと滑り込んだ。
廊下も教室も、すべてが水に満ちた静寂の世界。私は天井を見上げた。そこには、潜水艦にあるような丸いハッチが備え付けられていた。
手を伸ばし、ハッチのレバーを回す。重い扉が上へと開いた。
私はそこから、思い切って顔を突き出した。
「ぷはっ……!」
激しく水をきって顔を出すと、そこは先ほど外から見えた、あの灯りの点いた部屋だった。
驚いたことに、ハッチの境界を境に、そこには一滴の水もなかった。部屋は心地よい空気で満たされ、かすかにエアコンの稼働する静かな音が響いている。快適に管理された、完璧な地上の空間。
濡れた顔を拭いながら床へ這い上がると、部屋の奥からいくつかの気配を感じた。
「あ、先生!」
「本当だ、先生が来た!」
声のする方を振り向くと、そこには高校生と思われる女の子たちが数人、机を囲んで座っていた。彼女たちは一様にホッとしたような、嬉しそうな笑顔を私に向けている。
「えっ……いや、私は先生じゃないよ。そもそも教員免許持ってないし。」
私は慌てて首を振った。自分はただ、水に追われてここまで逃げてきた迷い人に過ぎない。
しかし、彼女たちは互いに顔を見合わせると、悪戯っぽく、けれど確信に満ちた口調で言い張った。
「何言ってるんですか、先生。先生でしょ?」
「そうですよ、学校に入ってくる大人と言ったら先生に決まってます。私たちずっと待ってたんですから。」
そんな無茶苦茶な...とは思ったものの、まっすぐな瞳でそう言われると、胸の奥の古い引き出しが、音を立てて開いたような感覚がした。
先生? 私が?
思考の霧がゆっくりと晴れていく。不思議なことに、彼女たちの言葉を拒んでいたはずの私の心に、全く別の記憶がじわじわと染み渡ってきた。
(そういえば……私は、ここの先生だったかもしれない。いや、確かにそうだ。ここでこの子たちに、何かを教えていたはずだ……)
あんなに鮮明だった「泳げない自分」や「水への恐怖」が、まるで遠い昔の夢のように薄れていく。代わりに、目の前の少女たちの名前や、彼女たちと過ごした穏やかな日々の感触が、確かな体温を伴って蘇ってきた。
「……お待たせ。ちょっと迷子になっちゃってね」
自然と口から出た言葉に、彼女たちは「もう、相変わらずなんだから」と楽しそうに笑った。
私は勧められるままにパイプ椅子に腰掛け、彼女たちの輪に加わった。窓の外は、相変わらず深い青色の水の世界が広がっているはずである。けれど、この白い光に満ちた部屋の中にいる限り、水に対する恐怖も、底知れぬ不安も、私を脅かすことはもうなかった。
たわいないお喋りと、少女たちの屈託のない笑い声が部屋を満たしていく。
私は、自分が心の底から求めていた居場所にようやく辿り着いたことを知り、深く満たされた心で、穏やかに流れる時間をいつまでも楽しんでいた。
最後に投稿してからもう8年以上経っていたのですねー。その間、私はひたすらジタバタと足掻くように生きて参りました。久々に何か書いてみる余裕(時間的、精神的な)ができたので投稿してみます。




