河童(3)
群青がおりてくる直前の真紅との共存空間。色彩揺蕩う感傷の折、風情のないPC橋にその人はいた。
短めの黒髪、透き通る赤銅色の瞳、自分たちとは異なり手足の長い体型で黒ずくめに黄金色のボタンが目立つ。
その人の表情は憂うでもなく、憤るでもなく、凪いだ水面のような平穏さのみがあった。
もし、もしも自分が水面の向こう、少し揺らいでみえるそちら側に行ったらどのような表情になるだろうか。
彼らからすれば異形の身である自覚はあった。
侮蔑か将又恐怖か、良い感情ということはないだろうとそう考えていた。
だから、立ち去ろうとするその瞬間、その人が小さく手を振ったのを見たとき、仰天してぶくぶくと沈んでしまった。
その表情は愛嬌こそなかったものの穏やかさに変わりなく、その瞳は確かに自分を見つめたのだから。
腑に落ちた感情は、甘く温かく切ない。恋と呼ばれる代物だった。
どこか、その目的地へ近付くごとに湿度が上がっていくのを肌でも呼吸でも感じる。
緊張で息が上がりそうになるのを堪えて、ふっふとリズムを刻んだ。無心になって河童の背中を追うことに集中する。
急にぱあっと視界が開けて、思わず深く息を吸ってしまった。鬱蒼と蔦の這う樹木が散見される山奥の水源は、様々な生き物の匂いが入り混じって少し生臭い。
「ここ、か?」
尻子玉から出る光の帯は視界に広がる沼の奥、見える限りでは中洲のような、土のある場所を示しているようだ。沼の周辺は靄がかかっていて向こう岸まで見渡すことはできないし、中洲の様子も定かとはいえない。
深く息を吐いて、呼吸を整えた。
「よし」
河童は子供と尻子玉を振り返り、ゆっくり嘴を動かした。
「あの子を呼んでまいります。沼には決して入らないでください。あまり水面を見つめるのもやめておくべきです。安全のために」
子供はじろじろ見つめかけていた目線を慌てて空に彷徨わす。
「うん、約束する」
その応えを聞くと、河童はしっかり頷いてとぷんと、水に潜っていった。
「ようやくだね。大丈夫?」
「こっちの台詞だ。今は友好的だが、俺の尻子玉を抜いた奴らだからな。油断すんなよ」
出発したのは午前中だが、後数時間で日も暮れる。タイムリミットだって迫っていた。
数時間にも感じる数分が過ぎ、靄の奥からどんぶらこどんぶらこと何かが水面を移動してくる。
段々と近付いてきて確認したそれは果たして、尻子玉から出ている光の先につながるもので、学ランをきた少年の身体であった。
「俺の身体!」
強く明滅する水色の尻子玉。
河童二人がかりで水面から上げられて、地面の上に寝かせられた少年の身体には傷らしい傷などはなかった。ただ、ぼぅっとどこを見ているのかわからない半開きの目で意識のない様子である。
「ああっ、彼の御方!よかった!本当によかった……」
水先案内人をしていた河童とは違い、高く滑らかなソプラノトーンの声は不思議と耳によく残る。
「繋がっています。この御魂の健やかさならまだお戻りになることができます」
ああ、本当によかった、と尻子玉を見つめる女河童は嘆息する。
「普通、一度腑抜けになったらそう簡単に元には戻らないものですが、どごぞで修行を積まれたので?」
グッと首の向きを変え、キッと女河童が隣の河童を睨みつけた。
「貴方がこんなことをしなければ、彼の御方はこのような危機に見舞われず、今日もあの橋をお通りになっていたことでしょう。妾のためなどという詭弁はもう聞きません」
女河童は怒っていた。対する河童は頷きこそしたものの、すっかり縮こまり、心做しか皿の輝きも失くなっている。
「重々、小生の身勝手と身に沁みました。この度はみなさまにご迷惑をおかけし、まことに申し訳ないことと存じます」
ぶくぶくと半分水に沈んでいきそうになりながら、それだけの言葉を話して河童は更に小さくなった。
「謝罪はひとまずわかった。許すも許さないも後回しだ。とにかく俺を元に戻してくれ」
「はい、誓ってすぐにお戻しいたします。どうぞ御方を、尻子玉をこちらへお渡し願います」
子供は少し躊躇した。
信じるべきか、否か。
彼は本当に戻ってくるのか。
色んな悪い予想が頭を過って、差し出そうとする手を押さえ込まんとした。
「これしか手はねえ。俺を信じろ」
明滅するそのやけに頼りげのある丸い石を子供はやっとの思いで女河童の水かきのある掌にのせた。
「御方……ではまいります!」
えいや、とそれは勢いよく、少年のお腹の辺りに尻子玉を押さえ込んだ。
子供はそれなら自分にだってできそう、と思ったが、恐らく尻子玉を抜くも戻すもその術は河童次第なのだろう。
少年の体がどくんと跳ねた。目が閉じられ、そして再び開くと、きゅっと眇められる。
「っづ、頭ぐらぐらする。起き上がれねえ」
「虫除けの術を用います。どうかそのまま暫し休まれてください」
「意識があるだけ凄いことでございます。大体は数日寝込みます」
女河童はまたキッと河童を睨めた。
「えっと、じゃあさ、これでやっとはじめまして?」
湿気を帯びた地面に膝をついた子供が恐る恐る少年の顔を覗き込む。
「ばーか、もうダチだろ。ここまで連れてきてくれてあんがとな」
グータッチを差し出す少年、子供ははにかむように笑って応えた。
その様子を眺めながら河童達は顔を見合わせる。
「本来、人の世の縁ある御方をこちらへお誘いするような無粋は許されません。それをこのわからずやは早とちりでとんでもないことをしでかしました。恨まれても仕方のないことです」
「恨むならば小生を!」
爛々とした目、河童は大きな声で主張をした。
「いいえ、因果というものがあります。元はと言えば、有情の隔てを理解しようとしなかった妾の罪。一時とはいえ、お側にあれる幸福を感受したこともまた罪深い」
少年は子供の手を借りてゆっくりと身を起こした。せっせと土埃を払うと、河童達に向き直り、居住まいを正す。
「それなら、あのとき手を振った俺も多少同罪になるんじゃないか」
女河童は震えて、じっと少年を見つめた。
「覚えておいでで……?」
「ああ、最初はバレないように気を付けてたんだけど、いるなあ、とは思ってた。軽率に踏み込んだ俺も悪かった。それでこの話は終いにしよーぜ」
赤銅色の目に瞋恚はまるで無かった。
「ご温情、痛み入ります」
「人間も捨てたものではないですね」
河童はとうとう皿の頭を水かきでパシリと叩かれた。いてて、と嘯き、水面に縮こまる。
「帰りは妾が案内いたしまする。お身体の調子は戻られましたか?」
屈伸したり伸脚したり、伸びをして身体を曲げてみたり、少年はひょいひょいと色んな動きをした。
「大丈夫そーだね」
「ああ、何とかな」
「では。人間が長居をして良いことのある御所ではございません。参りましょう」
ちゃぷりと女河童が川の流れとつながる場所へ向かう。子供と少年は並んでその後を追いかけた。
子供は少しだけ振り返り、河童に手を振った。河童は手を振り返すことはなかったが、それを拍子に水中へぱしゃりと消えてしまった。
帰りの道行は行きの道行の半分ほどに感じられた。全く同じ道のりである筈なのに明らかにかかる時間が少なかった。これも河童の妖術だろうか。
少し覚束ない少年の危ないところには子供が手を貸し、女河童はそれに速度を合わせて川を進んだ。
そして、陽の傾くとともに山の麓に辿り着く。
「名残惜しいと思ってはいけないのでしょう。わかってはいるのです。ごめんなさい。思い出に変えられるまでもう少しの時間をくださいませんか?」
女河童は少年に背を向けたまま、そう言った。
「ああ。もう手は振らない」
悪いな、と少しバツが悪そうに少年は約束した。
「ありがとうございます」
「……ここまでありがとう。んじゃ達者で」
「河童さん、元気でね、バイバイ」
山を出て歩く二人の背中が豆粒ほどに小さくなってもまだ女河童は見送っていた。
子供──晃と、少年──つばきは夕闇空の下、件の橋のたもとまで帰ってきた。
「お兄ちゃんさ」
心身ともに疲れ切って草っ原に座り込んだ二人、緊張の糸が切れたのかしばらく無言であった。そんななか、先に会話を切り出したのは晃だった。
「つばきでいいぜ」
「つばきはさ、よくこういうことあるの?」
少し顔を覗き込むようにして晃は問いかける。
「…………ある」
鼻の上の方を摘んで頭が痛そうな顔をしながらつばきは答えた。
「……大変?」
「泥まみれだし、身体はギシギシすっし、散々だな。けど──」
「?」
「今回みたいのは憎まれてのことじゃないからさ、ゆるせないこたないんだよ」
「そういう、優しすぎるのがいけないんだと思うなあ」
「っせ」
夜になる。
立ち上がった晃は格好良く手を差し出して、送るよ、と言った。その手を掴み、背に腹はかえらんねえから頼むわ、とつばきは言った。
案の定、少しだけ長くなりました。
あまり余計な事を書くと余談になるので手短に。
晃とつばきのお話はまた思いついたら書くことがあるかもしれません。その時はシリーズとしてマガジンにまとめようと思います。
ここまで読んでいただいた方に心からの感謝を。




