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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

私、山家の偏見ー歴史エッセイ

松代藩に関するアレコレ

作者: 山家
掲載日:2026/06/14

 私の別作品、「カナリス提督(以下、略)」の中で、栗林忠道将軍を登場させましたが。


 栗林将軍の背景等を調べていく中で、栗林将軍が、松代藩の郷士階級の出身なのを改めて知りました。

 更に言えば、歴史に関する細かな小咄を、これまでの私の人生の中で拾い集めてきた中で、松代藩については様々な小咄を見聞したのを思い起こして、エッセイにまとめることにした次第です。


 尚、私なりに出来る限りは、このエッセイを書く際にネット等で小咄の裏取りを図りましたが、そうは言っても、裏取りが出来ないことが、多々あります。

 それにネット等の情報が、何処まで信用できるのか、という問題までもあります。

 そうしたことから、話半分以下で、このエッセイに書かれている小咄の内容については考えて下さるように、私としては平にお願いします。


 そもそも論になりますが、松代藩は、戦国時代では屈指といえる著名武将家といえる真田家が、ほぼ江戸時代を通じて藩主を務め続けた藩になります。

(細かい話になりますが、松代藩は真田家が藩主になるまでに、何度も藩主になる大名家が変わっているのです)


 真田家としての初代松代藩主は、真田昌幸の長男にして、真田信繁(幸村)の兄になる真田信之です。

 そして、松代藩としての真田家は、外様大名と考えられている方が多々おられるようですが、それこそ初代藩主の真田信之の頃から、れっきとした帝鑑間詰めの譜代大名だったとか。


(この辺り、一部の資料では、8代藩主真田幸貫が、8代将軍徳川吉宗の男系曽孫であり、又、老中松平定信の庶長子であったのを、養子として迎えたことから、外様大名から譜代大名になった、というモノもあるのですが。

 

 私としては、初代藩主の真田信之の正妻、小松姫が徳川家康の養女であったことから、真田信之の頃から、譜代大名格とされていた、という説の方が正しいのでは。

 だからこそ、譜代大名として松代藩は、8代将軍徳川吉宗の男系曽孫である真田信貫を8代藩主として迎えられた、という説が正しい気がしてなりません。


 後、小松姫も、色々と小ネタが多い方でもあります。

 例えば、真田家の一部の資料等では、小松姫は徳川家康ではなく、徳川秀忠の養女として嫁いだ、とされていることが多いとのことです。

 ですが、諸説ありますの世界ではありますが、通説では小松姫の方が徳川秀忠より年長とされており。


 更に言えば、1587年に真田信之と小松姫の婚姻が成立したようなのですが、この時の真田信之は、1566年生まれの21歳、小松姫は1573年生まれの14歳、一方、徳川秀忠は1579年生まれの8歳です。

 

 当時は豊臣秀吉が天下統一を果たそうとしつつある頃で、一説では秀吉の命令によって、年下で徳川家当主でもない徳川秀忠の養女になって、小松姫が真田信之に嫁ぐとか。

 幾ら何でも、真田家が軽んじられるにも程があるのでは、と考える私の感覚はオカシイのでしょうか)


 後、譜代大名といっても、色々と内部では差別がありました。

 安祥譜代、岡崎譜代、駿河譜代の分け方が、一般的と言えるのでしょうが。

 他にも願譜代というモノまであり、外様大名から譜代大名に転じた例が、脇坂家等であります。

 そして、松代藩、真田家は、駿河譜代扱いだったようです。

(この辺り、資料によって差異があるので、いわゆる諸説アリマスの世界ですが)


 そんな初代藩主の頃から、色々と小ネタが出て来る松代藩ですが。

「真田、日本一の兵」という異名を、実は幕末まで保ち続けた藩でもあります。

(そもそも、松代藩と真田信繁(幸村)は関係が薄い、というツッコミの嵐が起きそうですが)


 戊辰戦争の際に、松代藩は10万石の石高にも関わらず、約3000人の兵を出兵しています。

 しかも、それら全てが、いわゆる足軽、郷士身分までも含みますが、士族と言える存在だったとか。

 10万石の石高で、幕末段階で約3000人の兵を出せる士族を養い続けたとは。


 戦国時代、大よそですが石高1万石に付き300人の武士、兵を出せるのが基準と言えたそうですが、幕末期でも、それだけの武士、兵を松代藩は戦時に集められたとは。

 それこそ戦国の遺風を松代藩は保ち続けた、と評されて当然のレベルでは無いでしょうか。


 全くの余談に近い話になりますが、忠臣蔵で知られている赤穂藩5万3000石の士族は、約300人程だったとのことです。

 長州藩、毛利家にしても、幕末の際の幕長戦争、いわゆる四境戦争の際の兵力ですが、37万石の石高の中で、士族が占めたのは3000人に満たず、残りはいわゆる奇兵隊、農民等の士族以外から兵を集める事態になっています。


 そうしたことから考えると、松代藩の士族が如何に多かったといえるのか。

 私としては、呆れる想いさえもしてしまいます。


 最もその代償は、それなり処ではすみませんでした。

 何と一石取りの武士(流石に郷士階級ですが)まで、松代藩士にはいたとか。

 

 さて、ここで問題です。

 江戸時代、武士の俸給(?)として、何人扶持というモノがありますが。

 この際の一人扶持は、どれだけでしょうか?

 この何人扶持というのは、日給制で一日米五合が支給されるということです。


 更に言えば、江戸時代はいわゆる旧暦ですので、閏月が19年の間に7回入ることになり、その為に日給制だと年によって、最終的な年間給与が変わってくるのですが。


 取り敢えず、昨今の暦に従えば、基本的に一年間に一石八斗二升五合が、一人扶持には必要です。

 つまり、一石取りということは、ほぼ半人扶持で、自活できるどころではない俸給ということに。


(更なる補足をすると、一日に米を五合も食べられない、と言われそうですが。

 江戸時代は、副食、いわゆるおかずが乏しい食事が当たり前でした。

 更に言えば、後述しますが、倹約の一環として、松代藩では「おかず禁止令」が出ていた程です。


 そして、この頃の成人男性が生活するとなると、1日2500キロカロリーが、基本的に必要です。

(現代と違い、移動は徒歩が基本、又、仕事となると力仕事が当たり前の時代です)

 そして、米一合は、約500キロカロリーです。

 だから、一日に米五合を食べる必要があるのです)


 そんな低額の俸給で、武士、郷士になって何の利益がある、と言われそうですが。

 江戸時代なので、腐っても鯛というか、武士なので、いわゆる苗字帯刀が、松代藩の郷士になれば、日本中で公然と認められるという名誉があるのです。


 そして、松代藩にしてみれば、一年に一石という低額俸給で、いざという時、戦時には訓練に励んでいる(筈の)武士、兵を集めることができるというメリットがあるのです。


 ですが、これには当然ながら、代償が避けられません。

 松代藩は、領内を流れる千曲川の氾濫に苦しめられた側面もありますが、これだけの大量の武士、兵を集めて養う以上、財政危機に苦しめられる事態に追い込まれざるを得ませんでした。


 幾ら「百年兵を養うは一日これを用いんがためである」という名言があるとはいえ、それこそ貧国強兵ではありませんが、モノには限度があるのです。

(更に言えば、百年どころか二百年以上も松代藩は続いて、兵を養い続けたのです)


 そのために、藩士の俸給半減といえる「半知借上」が、1729年から断続的に始まり、1741年以降は恒常化したといっても、あながち間違っていない惨状が、松代藩では引き起こされています。

(ということは、一石取りどころか、実収入は五斗取りという武士まで、松代藩には存在したことに)


 尚、こうした事態を無くそう、と小説等でも取り上げられている恩田木工民親らは奮闘していますが、そもそも藩士を大量に抱えている以上、どうにもなりませんでした。

(どこぞの国が、大量の軍事費で財政を傾けつづけるのと同じで、藩士を削るしか無いのですが、それが出来ない以上は、打つ手が無いのです)


 そういったことから、倹約の見本とされる一汁一菜どころか、松代藩では、いわゆる「おかず禁止令」によって、一汁が当然とされる程の貧困が、多くの武士の間では当たり前になっていたとか。

 更に、どこぞのブラック企業の従業員ならば転職できますが、松代藩の藩士である以上、彼らの多くにとっては、転職等は思いも寄らないことです。


(転職等する、松代藩士で無くなるということは、武士ではなくなり、苗字帯刀を自ら捨てることです。

 更には時代的には当然のことですが、親子兄弟等の家族にまで、多大な迷惑が掛かることになります)


 そんな過酷な実情がありましたが、松代藩は、幕末に至るまで尚武の気風を保ち続けています。


 例えば、一部の方からは、半分ヤラセに近いことだったのでは、と疑問視されていますが。

 かつて某小説で取り上げられたこともあって、山浦真雄の名を高めた日本刀の荒試しを行なったのは、幕末といえる1853年の松代藩になります。


 そんな日本刀に拘っていたとは、松代藩の軍学は遅れていたのだ、と言われそうですが。

 松代藩は西洋兵学の導入に熱心で、そういった背景から佐久間象山等の人材を輩出しています。


 ちなみに佐久間象山は、身内と言える義兄の勝海舟等からも、何とも微妙な評価を受けていたのが、今に至るまで遺ってはいますが。

 鉄製の大砲を鋳造して、試射まで実際に行っているのが、史実として残っています。


 実際問題として、試射に失敗したのが、何とも私には言えませんが、それこそ明治新政府でさえ、最初期に陸軍が装備する大砲については、青銅製の大砲で妥協したことを考えるならば。

 試射を行なえるだけの大砲を鉄製で造れた、というだけでも佐久間象山は凄い、と私は考えます。

(現実を見て、行動するのが当然だ、と更に叩かれそうですが)


 そして、戊辰戦争の際、新政府、薩長側に立って参戦した松代藩兵ですが、佐久間象山らの影響から、藩士たちは西洋兵学をそれなり以上に学んでおり、又、装備等も充実していたことから、数々の武勲を挙げていくことになります。


 例えば、戊辰戦争の仲での北越戦線において、松代藩兵は薩摩兵や長州兵と共に肩を並べて戦い、特に朝日山の戦いにおいては、後に日露戦争等でも活躍した、若き日の立見尚文将軍率いる桑名藩兵や長岡藩兵の攻撃を、長州兵の指揮官である時山直八が戦死した後は、松代藩兵が最前線で阻止したとか。


 又、会津鶴ヶ城の攻防戦において、会津鶴ヶ城の開城を決断させた一因である砲撃を加えた部隊の中には、松代藩の大砲2門があったとか。


 そういった様々な武勲を挙げたことから、薩摩、長州、土佐に次ぐ3万石の賞典禄を、戊辰戦争の際に松代藩は、最終的に手に入れることになりました。


 正に百年どころか、二百年以上も兵を養ったのは、この一日の為であるといえる戦果でしたが。

 好事魔多し、この戊辰戦争の奮闘の為に松代藩の財政は完全破綻して、それを補う為の藩札発行から、領民の多くが生活苦から一揆を起こすことになって、松代騒動が勃発します。

 

 その為に、松代県は長野県に編入されると言う事態に。

 もしも、松代騒動が無ければ、松代藩が信濃では最大の藩だったことからすれば、長野県は松代県になっていたかも、と私は夢見てしまいます。

 御感想等をお待ちしています。

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― 新着の感想 ―
 松代藩と言えば幕末騒乱幕開け寸前に突如起こった大地震で藩領がめちゃくちゃ(地震の数年後に通りかかった清川八郎が「いまだ復興の兆し無し」と手紙に書き残してるぐらいズタボロなの泣ける)にされたせいなのか…
松代は観光で訪れた事がありますが、城下町の風情が残るなかなか良い街です。ちなみに、真田家14代当主、真田幸俊氏(慶応義塾大学教授)は、「真田十万石祭り」に鎧兜・馬上で参加され、祭りを多いに盛り上げられ…
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