淫魔の契約
薄い桃色をした、何もない空間をルキアはプカプカとさまよっていた。
いや、厳密には生前にルキアと呼ばれていた魂が、桃色の果てしない空間をあてもなく飛び回っていた。
「あ、いたいた」
どこかから声がすると、ふいに周囲の粒子が集まって人の形へと変化していく。やがてそれは、サキュバスの少女へと姿を変えていった。
「あなたは……?」
魂だけになったルキアが訊くと、目の前のサキュバスが場にそぐわない明るさで答える。
「はじめまして~。あたしは、サキュバスのアスタリーナっていうの。アリーナって呼んでもいいぞっ!」
「……」
「ちょっとー引かないでよ。せっかく友好的に振舞っているのに、これじゃあたしがバカみたいじゃん」
「ごめんなさい。私も初めて会う種類の人だったから」
「あーそうなの? まあ、たしかにルキアたんの周りってカタブツばっかりな感じ?」
どうしてか肉体を失ったはずのルキアは面倒くさそうに見えた。それを察したのか、アスタリーナは話を切り替える。
「あたしは見ての通りサキュバスでさ、悪魔の使いっていうか、魔王様の忠臣、みたいな?」
「あらそう。その魔王の忠臣が私に何の用なの?」
「お、その感じだとあたしの話を聞いてくれる? さっすが、英雄は器の大きさが違いますねえ」
そう言ってアスタリーナは媚びた声を出す。
「それじゃあ早速なんだけど、ルキアさん。あなたは生前、本当にひどい目に遭いましたね」
「……まあ、そうね」
「本当にあのジュリアって女、ガチで最悪だと思います。だって、百合カップルで永遠の愛を誓い合ったくせに、よりにもよって敵国の将であったディミトリ・アドルテリオスに流れるなんて」
その言葉を聞くと、とっくに失ったはずの胃が収縮するような感覚が蘇った。
アスタリーナの言う通り、冒険を続けている内にジュリアとルキアは女性同士でありながらも両想いであった。互いの気持ちに気付くが早く、二人の仲は急接近。あっという間に隠れて付き合うこととなった。
ただ、ジュリアはセレニティア共和国の王女であったこともあり、ルキアとの交際は一部の関係者を除いて極秘事項だった。ジュリアはセレニティア共和国再興後に女王となる身。そんな重要人物が、臣下の者と百合の花を咲かせているなど公表出来るはずがなかった。多様性の叫ばれる昨今とはいえ、王族と言えば極めてノーマルな人間が世間では求められる。
国民は強き女王が臣民を率い、そしてさらに強い子供を産んで高潔な系譜を繋いでいくことを期待している。そこに多様性の入り込む余地はない。
だが、そのような視線がかえってルキアとジュリアの二人を燃え上がらせた。恋とは障害が大きければ大きいほど熱く燃え上がるもの。二人にとってもそれは例外ではなかった。
恋愛の神が宿ると言われているヴォトゥム・ルクス教会。そこで愛を誓った二人は永遠に結ばれるという噂がある。世間でよくある類いの話だが、ルキアとジュリアもこの教会を秘密裏に訪れていた。
そこで誓った永遠の愛――それは、金髪の貴公子ディミトリの登場でいとも簡単に瓦解した。
いつからそうなったのかも分からない。
ただ言えることは、ジュリアにとってのルキアはもう用済みであること。それだけは確かだった。
「どうして、あんな奴に……」
思わず漏れる言葉。ディミトリは金髪の美形ではあるものの、どこか嫌味ったらしいところがあり、仲間になってからも好きになることが出来なかった。
ディミトリはまるではじめからセレニティア共和国側にいたかのように振る舞い、ジュリアに対しても馴れ馴れしかった。ただの嫉妬と言われるかもしれないが、ディミトリはたしかにジュリアとの距離感がバグっているように感じられた。
それもあってか、あの狂った処刑の前に二人が唇を重ねたのは赦せなかった。まるで計画的に恋人を奪われた気分だった。思い出しただけで、はらわたが煮えくり返りそうになる。
「そうだよね。つらいよね」
アスタリーナは心から同情する顔で腕組みをしながら頷いていた。
「そんなルキアさんに、一つ提案があります」
「提案……?」
「そう、提案です。あたしと契約を結んで、あいつらに復讐してみない?」
「復讐、ですって……?」
ルキアは思わぬ提案にしばらく言葉を失う。
アスタリーナはそんなルキアに構わず続ける。
「あたしには、契約を結んだ人の魂を別の肉体に定着させる能力があるの。具体的には『神の器』と呼ばれるダークエルフの肉体に魂としてのルキアさんを定着させて、転生のようなことをさせるんだけど」
「転生、ですって……?」
「そう、転生。普通、転生って言ったら、もっと死んだ魂が別の肉体として生まれ変わるイメージがあるかもしれないけど、あたしのはもうちょっと強引な方法で生まれ変わりを実現するの。簡単に言えば、ある個体から魂を追い出して、そこに別の魂を送り込んで肉体を乗っ取る、みたいな」
「そんなこと、倫理的に赦されるの?」
「まあ、あたしは一応悪魔だからね」
そう言ってアスタリーナはいたずらっぽく笑う。
「でも安心して。もともとダークエルフっていうのは、神々が現世で肉体を持つために作られた存在でもあるの」
「神々が肉体を持つ、ですって……?」
「そう。もともと神様が現世で歩き回るために肉体が必要だったから、それ用に作った家畜というか、乗り物みたいなものなんだよね。だから、倫理的にどうっていうよりは、他の生命体の体を乗っ取る倫理的なハードルを無くすために創られた有機体っていうか……」
「ちょっと待って、そんなことが……」
情報量が多過ぎたのか、ルキアが混乱気味に言葉を失う。
たしかにダークエルフという種族がいるのは知っている。比較的大人しく、感情を表に出さない妖精族。
だが、それが神の乗り物だったという話は聞いたことがない。
「一応訊くけど、本当なの?」
「うん、本当だよ。まあ、神様って言っても冥界の神がほとんどだけどね」
そこまで聞いて納得した。もしかしたら冥界の女王ヘルもどこかで美少女に生まれ変わって青春を謳歌したいこともあるのかもしれない。
「それをすれば、私は蘇ることが出来るの?」
「もちろん。ダークエルフは成長も早いし寿命も長いから、生き返って報復するにはうってつけの肉体だよ」
そう言って目の前のサキュバスは手でハートのマークを作る。
ルキアは再び考え込む。
たしかにアスタリーナの提案はいいことばかりに見える。だが、サキュバスは悪魔の手先。慈善事業などするはずがない。そうなると、彼女と契約を結ぶことに何のメリットがあるのか。
そう思っていると、ルキアの心理を呼んだらしいアスタリーナが口を開く。
「そんなにうまい話があるはずがない。そう思っている顔だよね?」
「ええ、だってあなたは悪魔だから」
素直にそう言うと、アスタリーナがそれに答える。
「あたしとしてはね、この世界に混乱が起こってくれた方がいいの。なぜなら、混沌こそがあたし達魔族のエネルギーになるから」
「……」
「つまり簡単に言えばね、この世界に大きな混乱が起こるのであれば、そのきっかけが英雄同志の痴情のもつれであろうが何だっていいの。分かるかな?」
「私が復讐すれば、世界に混沌が起こる……」
自分でそう言って、気が重くなった。
たしかにジュリアへの復讐は魅力的に映るが、命懸けで世界の平和を獲得してきたのも事実だ。自分が復讐を果たすことで、みんなして命懸けで守ってきた世界の平穏を瓦解させて良いものか。そう思うと、先ほどまで滾っていた報復への渇望もいくらか薄れてくる気がする。
だが――
仮に自分が矛を収めたとして、このまま世界の平和が続いていくのだろうか?
それを考えると、極めて微妙な気がしてきた。
ジュリアは変わってしまった。ヴォトゥム・ルクス教会で手を繋いで歩いた時、彼女は生娘のように清純な女性に見えた。
だがインサニティ帝国との戦争に打ち勝つと、世界を救った英雄となったジュリアは絶大な権力を握った。身の丈に合わない権力は、彼女を変えてしまった。
嫉妬深く、権力を振りかざし、暴利を貪る。
ただ気に入らないというだけの理由で人々の命を奪い、存在そのものを否定する。やっていることは美女の皮を被った暴君だった。
ジュリアと伴に闘ってきた者ですら、今の彼女に目を付けられたら魔女や反逆者の烙印を押されてこの世界から消し去られることになる。
――そんな世界が、果たして本当に守るべきものなのか?
「本当はもう分かってるんでしょ?」
アスタリーナが見透かしたかのように嗤う。
「何が」
「あなたが守ろうとしてきた平和ってやつは、偽りに過ぎないってこと」
「……」
ルキアは何も言い返すことが出来なかった。
アスタリーナの言うことも一理ある。インサニティ帝国の支配を免れたのはいいが、結局は恐怖の対象が皇帝ガリオス・ブラッドヴェインから女帝ジュリア・マリス・バックスタバーに変わっただけの話だ。人々は変わらずに暴虐に震え、いつ粛清されるのかと怯えている。それが自分たちの目指した平和なのか。
ルキアの中に答えが浮かび上がる。
「ジュリアを、討たなきゃ」
アスタリーナが嬉しそうに微笑む。
「私たちはとんでもない怪物を世界の君主に据え置いてしまった。こんなことは、もう終わらせなくちゃ」
「いいね、その使命感。悪魔だけどカッコよく感じちゃう」
アスタリーナが蠱惑的な笑みを浮かべながら答える。
「私がすべてを終わらせる」
「うん」
「あなたと、契約を結ぶわ」
「そうこなくっちゃ!」
サキュバスは桃色の空間を小躍りするように飛び回る。
「それじゃあ、あなたを最っっっ高にかわいい美少女ダークエルフとして生まれ変わらせるからね。あのジュリアが足元にも及ばないぐらい」
そう言うと、アスタリーナは踊るように虚空に独特の術式の刻まれた魔法陣を描いていく。離れた場所に次々と描かれた魔法陣は、気付けばルキアを中心にして大きな六芒星を描いていた。
六芒星の中心から赤い光が溢れ出す。その赤い光は、ルキアを丸ごと包み込んでいった。
「それじゃあ、よき報復の旅を」
そう言ってアスタリーナは敬礼のポーズを取った。刹那、赤い光に包まれたルキアの意識は遠のいていく。
桃色だった亜空間は、瞬く間に美しい深紅の光へと沈んでいった。




