第六話:霊水の真実と、契約破りの罪
【霊水か、朱羅か】
霧隠の社、本殿裏の泉。千歳は、目の前の石像(神官の姿をした守護者)と、結界の外から響く朱羅の緊迫した叫びに、板挟みとなっていた。
「穢れた者は霊水に触れるな!この水は、**『呪いを増幅させる劇薬』**となる。鬼に渡せば、世界の破滅を早める」
石像は錆びた声で繰り返す。その言葉の霊力は重く、千歳の体力と精神を蝕んでいく。
千歳は神刀を握りしめた。彼女の「願いを聞き分ける力」が、石像の言葉の裏にある真実を読み解こうとする。
(この石像の願いは「世界の秩序を守ること」。霊水は確かに、朱羅の憎しみが増幅すれば劇薬になる。でも、その憎しみすら、「契約が破られた」ことへの悲しみが核にあるはず!)
千歳は石像に向かって叫んだ。
「その契約とは何!?なぜ朱羅の血が、奇跡の桜の代償になったの?あなたは真実を知っているでしょう!」
石像は沈黙した。その沈黙は、霊力の消耗で限界に近い千歳にとって、致命的な時間だった。
『チトセ!早くしろ!山脈の主が来た!もう限界だ…!』
朱羅の声が、もはや命令ではなく、助けを求めるような悲鳴に近い響きを帯びて、千歳の頭に流れ込んできた。
千歳は迷いを捨てた。
「私は朱羅を信じる!私の願いは、彼の呪いを**『奇跡』に変える**こと!」
千歳は石像に斬りかかるのではなく、持っていた古文書の写しを石像の足元に投げつけた。
「この古文書には、『霧隠の霊水は、「真実の願い」を映す鏡である』と書いてある!あなたが本当に秩序を守りたいなら、その願いを私に見せて!」
【石像の記憶と契約の罪】
千歳の言葉は、石像の守護者の核を突いた。石像は動きを止め、その瞳が青白い光を放った。
『見よ、巫女。これが、奇跡と呪いの真実だ』
千歳の頭の中に、膨大な情報が一気に流れ込んできた。
それは、神代の記憶。神々が世界を去る前、人間との間に結んだ**『安寧の契約』**の光景だった。契約は、人間が心に抱く「負の感情(憎悪、貪欲)」を神々が定期的に浄化し、代わりに人間は「神々の定めた秩序」を守るというものだった。
しかし、人間はすぐにその契約を裏切った。神々の秩序を破り、私利私欲のために奇跡の力を利用し始めた。
『朱羅(彼)は、神と人間の血を引く、最初の契約の監視者として生み出された。契約が破られた時、彼の身に、破られた契約の全ての代償、即ち「人間への呪いと憎悪」が刻み込まれたのだ!』
朱羅の呪いは、彼自身の罪ではなく、人類全体の「裏切り」の罪を背負わされたものだった。彼の血が奇跡の桜の代償となるのは、桜が「契約破りの罪」を清算するための最後の装置だからだ。
(朱羅の憎しみは、世界を救うために背負わされた、あまりにも重すぎる贖罪だった!)
千歳は涙を流した。朱羅が自分を「呪われた存在」と嫌悪する理由が、痛いほど理解できた。
【劇薬の入手と巫女の賭け】
「石像よ、霊水は劇薬ではない!霊水は、朱羅の**『呪いを浄化する』力**を持っているのね!呪いが増幅するのは、朱羅が、その憎しみに耐え切れずに命を絶った場合だけだ!」
千歳の叫びが、真実の霊力となり、鈴の音と共に本殿に響き渡った。
石像は、ついにその抵抗を諦めた。霊水を守るための言霊が解け、千歳は泉に近づくことができた。
千歳は霊水をひしゃくで汲むと、迷わず口に含んだ。霊水は清涼で、消耗した千歳の体内にわずかな活力を与えた。
(この霊水は、朱羅の憎しみを鎮める鎮静剤にはなる。だが、呪いを解くには、あと二つの霊水と、桜が咲く瞬間の**『真実の奇跡』**が必要だ)
霊水を小さな瓢箪に詰め、千歳はすぐに結界の入り口へ引き返した。
【朱羅の窮地と共闘】
結界の外。状況は最悪だった。
朱羅は、夜叉の山脈の主とされる巨大な**「ヤマオロチ(山大蛇)」**と対峙していた。ヤマオロチは数十メートルもの巨体で、黒い毒の霧を吐き出しながら、朱羅の黒い霊気を打ち破ろうとしている。
朱羅は傷だらけだった。彼の霊力は、毒霧とヤマオロチの圧倒的な質量に押し負け、限界に達していた。
「チッ…ここまでか。…これで、呪いと憎しみは、永遠に解けぬ」
朱羅が諦めかけたその時、結界の光の向こうから、千歳が飛び出してきた。
「朱羅!これで憎しみを鎮めて!」
千歳は結界の外へ飛び出すと、すぐに瓢箪の霊水を、朱羅の口元に持っていった。
「馬鹿な!劇薬だったらどうする!」
「劇薬じゃない!これは、あなたの**『呪いの核』**を鎮める水よ!信じて!」
朱羅は千歳の強い眼差しに抗えず、霊水を飲み込んだ。
霊水は、朱羅の体内で、彼の全身を巡る怨念の霊力と激しく衝突した。朱羅は激しい苦痛に顔を歪ませたが、次の瞬間、その黒い霊気が一時的に、澄んだ雪の色へと変化した。
「…力が、安定した…!?」
朱羅は驚愕した。憎しみが増幅する代わりに、彼の力は純粋な**「破壊」**の力として制御可能になったのだ。
千歳は、朱羅の背中を支えながら叫んだ。
「憎しみじゃなくて、破壊に力を使いなさい!あなたの呪いは、『裏切りを滅ぼす力』!目の前のヤマオロチは、山脈の秩序を乱した『裏切り者』よ!」
朱羅は、千歳の言葉を**「起動キー」**として、再び力を解放した。雪色の霊気は、ヤマオロチの巨体めがけて収束。
「『鬼哭』――断罪!」
朱羅の霊気が、巨大な黒い剣となってヤマオロチを貫く。ヤマオロチは断末魔の叫びと共に、山脈の岩を砕きながら谷底へと落ちていった。
【旅の再開と次の目的地】
戦闘後、朱羅の霊気は再び黒に戻ったが、その瞳には以前のような虚無感はなかった。彼は霊水を飲んだことで、憎しみに支配される時間が短くなったのだ。
朱羅は、千歳を乱暴に抱き上げた。
「なぜ、そんな命懸けな賭けをした」
「私は巫女だもの。あなたの**『真実の願い』**を叶えるために、命を懸けるのは当然でしょう」
朱羅は何も言えず、千歳の肩に顔を埋めた。
「次の目的地は…**『火ノ国』**だ。二つ目の霊水は、神々の『罰』が降り注ぐ、灼熱の社にある」
千歳は古文書の写しを朱羅に見せた。そこには、次の霊水の神社の名が記されていた。
二人の間には、以前の「監視と被監視」ではなく、**「運命共同体」**としての確かな絆が生まれ始めていた。奇跡の旅は、黄昏の時代の、最も危険な場所へと続いていく。
第六話完




