第一話:黄昏の巫女と、凍てつく桜
【導入】
夜叉の山脈を越えた先に、忘れられたように佇む小さな集落があった。名を**「木霊郷」**という。
この国では、遠い昔に神々が姿を消し、人々は残されたわずかな「奇跡」の残滓を頼りに生きていた。しかし、それすらも今や伝説となり、妖怪たちが力を増し、人の世は黄昏の時代を迎えつつある。
木霊郷にある**「龍穴神社」**の巫女、**千歳**は、この時代において、奇跡を起こす力を持たない唯一の巫女だった。
「今日も、何も起こらなかったね」
千歳は、境内の隅に立つ、異様な桜の木を見上げた。季節外れの真冬だというのに、その枝には微かな蕾がついていた。この桜こそ、龍穴神社の、そしてこの集落の守り神とされていたが、もう数百年、満開になったことはない。
「奇跡の桜」――。人々はそう呼んだが、千歳にとっては、ただの「枯れない木」でしかなかった。
【主人公の日常と能力】
千歳に霊力はなかったが、彼女には別の能力があった。それは、**「人の願いを、その本質ごと聞き分ける力」**だ。
(…あぁ、隣の集落の娘は、病気の母親の病気を治す奇跡を願っている。でも、その本質は「ただ母の温かい手で握ったおにぎりが食べたい」という、ささやかな願いだ)
彼女は、参拝者が絵馬に書いた願い、心の奥底で囁く願いを聞き取り、その純粋な核を理解することができた。しかし、その願いを叶える力がない。
「奇跡がないなんて、巫女失格だ」
自嘲する千歳の耳に、遠く山々を越えて響く**「鬼哭」**が届いた。それは、ただの雄叫びではない。凍てつくような悲しみと、怒りが混ざり合った、魂の叫びだった。
(まただ…。あの鬼哭は、この神社に来てから毎夜聞こえるようになった。まるで、奇跡の桜が冷たい風に打たれているみたいに、痛々しい)
【奇跡の桜の異変】
その夜。
千歳が寝静まった深夜、社殿の裏の森から、青白い光が漏れていた。
(…まさか、盗賊?)
千歳は、護身用に祖母から受け継いだ、小さな神刀を握りしめ、そっと光の元へと向かった。
光の中心には、奇跡の桜があった。
桜は、昼間とは違い、枝の一本一本が淡い光を放ち、その中心に巨大な氷の塊を抱えていた。その氷は、まるで人間の心臓のように脈打っている。
そして、その氷の上に、一人の男が横たわっていた。
【鬼との遭遇】
男は、黒檀のような漆黒の髪と、肌に走る血のような赤の文様を持っていた。額からは、わずかに角の生えた跡が見える。
――鬼。
千歳は息を呑んだ。しかし、その鬼は恐ろしいというより、むしろ美しく、そして致命的に傷ついていた。胸には深い傷があり、その傷から流れ出た血が、氷の上を朱く染めていた。
「…動いちゃだめ。あなたは、ひどい怪我をしているわ」
千歳が声をかけると、男はゆっくりと目を開いた。その瞳は、凍てつく雪の色。
「…奇跡、の、巫女…か」
男はそう呟くと、力なく千歳の手を掴んだ。触れた瞬間、千歳の全身に、稲妻のような激しい感情が流れ込んできた。
(憎い。人間が。この世の全てが。…だが、あの桜だけは、咲かせてはならない)
それは、鬼の、純粋すぎるほどの**「負の願い」**。
千歳は混乱した。この鬼は、人間を憎みながら、なぜ桜を咲かせることを恐れるのか。
「あなたは…何を、願っているの?」
千歳は震える声で尋ねた。
鬼は力を振り絞り、答えた。その声は、昼間聞いた、悲しい鬼哭そのものだった。
「俺は…この世の全ての奇跡を、終わらせることを願う。特に、この桜が咲くことだけは、絶対に阻止する。それが、俺に課せられた呪いだからだ」
その言葉と同時に、鬼の傷口から、さらに大量の血が溢れ出し、氷を伝って桜の根元へと流れ込んだ。
すると、桜の蕾が、一瞬だけ、強く光を放った。それは、奇跡の予兆。
「まさか…、あなたの血が、桜を咲かせるための『代償』だというの?」
千歳は、霊力を持たない巫女だが、この時初めて、自分がこの桜と鬼の間に立つ、運命の仲介者であることを悟った。
神が去り、奇跡が失われた世界で、鬼の血という「悲劇の代償」によってのみ、奇跡の桜は再び咲く。そして、その桜が咲くことで、過去の悲劇の奇跡が明らかになるのだろう。
千歳は、迷いを振り払い、力を失った鬼の体を抱きかかえた。
「私は奇跡は起こせない。でも、あなたの願いを聞くことだけはできる。そして、あなたが死ぬことも、桜が勝手に咲くことも、許さない」
黄昏の時代を照らす奇跡の光は、憎しみと悲しみを抱える鬼と、無力な巫女の出会いから、始まる。
(文字数:約2,500字)
※続きは、二人の旅立ち、奇跡の桜を巡る過去の謎、そして神と鬼の血を引く鬼の正体などに焦点を当て、連載形式で執筆していきます。




