第3話 夜のあたり台
仕事から家に帰っても静かすぎて眠れない。
狭い団地の天井を眺めながら、スマホの画面を何度もスクロールしている。
「オンラインカジノ」という広告バナーが、やたらと目についた。
最初はバカにしていた。どうせ詐欺でしょ。
けれど、"一発逆転"とか"自宅で楽々高額当選"とか、そんな言葉に、心の奥がピリッと痺れる。
夜の暗闇のなかで、私の指は勝手にバナーをタップしていた。
スマホの画面に現れたのは、派手な色のビデオスロット。回転するリール、並ぶシンボル、演出が始まるたび、画面がぎらぎらと光る。
最初はただ眺めているだけだった。
けれど、「最低入金で今すぐプレイ」という案内に、ほんの少しだけ財布の口を緩めた。
その瞬間、世界が変わった。
指先が震えていた。
「......もっと、もっと......!」
スマホ画面のスロットが回るたび、脳みそが痺れる。頭の中が真っ白になる。
やれる、まだやれる、まだ全部失ったわけじゃない。
残高の数字が跳ねるたびに、呼吸が浅くなり、汗が額を流れる。
「いける、いける! ここでやめたらバカだ!」
勝ちが出れば叫び、負けが続けば歯ぎしり。スマホを持つ手が、爪が食い込むほど力んでいた。
「来い......来い......! 今しかない、これがラストチャンス......」
もう誰も、何も、見えていない。家も娘も、生活も、全部どうでもいい。
「ここで勝てば、ここで全部取り返せば、私の人生が......!」 息をするのも忘れるほど、スロットの回転だけを見つめていた。
「これで見返せる。今まで馬鹿にしてきたやつらも、娘も、全部ひっくり返せる。」
当たった。
画面が光る。数字が跳ねる。
「やった、やった、来た、やっと来た!」
思わず声が漏れる。目の前の数字が増えた瞬間、世界が自分のものになった気がした。
でも、すぐに思う。
もっとだ、もっともっと、まだ終わらない。
勝った金を失うのが怖いから、さらに大きく賭ける。
「このまま続ければ、もっと増える。もっと、もっと」
「クソ......なんで当たらない。昨日は当たったのに......この画面、絶対操作されてる。」
負けが続く。
でも、やめられない。
やめたくない。
「さっきまで勝ってたんだから、また当たるはず」
「今やめたら、さっきの勝ちも意味がない」
「もう少し、もう少しだけ」
当たり前のように、全部、飲み込まれる。
「止まらない、止めたくない、終わりたくない」
「もう一回、もう一回、もう一回......」
残高がゼロになる。
また入金する。
また負ける。
また入金する。
運が尽きるのは早かった。当たる、負ける、当たる、負ける。最後は、何も残らない。
気づけば、手元の貯金も、娘の学費も、全部、ビデオスロットの中に消えていた。
それでも、「あと一回だけ」と、画面を回す手を止められなかった。
「数字がゼロになった瞬間、何も感じなかった。ただ、もう一回、指を動かしただけだった。」
カードで入金する。
限度額まで使い切る。
別のカードで入金する。
また限度額まで使い切る。
翌朝、請求書の数字を見て、初めて現実が見えた。
でも、夜になると、また画面を開いている。
「昨日負けた分を取り返さなくちゃ」
「今日こそは勝てる」
「やめるわけにはいかない」
まるで自分が、"金を生む機械"の中に入り込んだようだった。普段は他人に譲ってばかりなのに、このときだけは誰にも邪魔されたくなかった。
もう誰にも止められない。私自身でさえ。
私は、"当たり台"の中で回され続ける人生だったんだ。
気づけば、画面の光に照らされた自分の顔が、知らない人間みたいに歪んでいた。
乾いた笑いが漏れ、涙が滲みそうになる。
それでも、指が止まらない。
でも、今夜も画面を開く。
光が踊る。
音が鳴る。
指が動く。
心臓が跳ねる。
また負ける。
また入金する。
また負ける。
また入金する。
気づけば、何時間も経っていた。
首が痛い。
目が乾く。
でも、やめられない。
「次は違う」
「次は当たる」
「次は大当たり」
私は画面の中で生きている。
画面の中でしか生きていない。
画面の外の世界なんて、もうどうでもいい。