第7章「光の教会」
色が光を通すとき、祈りに似た影が生まれる。
私は、写す者としてしか世界を信じられなかったけれど、信じることで見えるものも、あるのかもしれない。
光は真実を照らし出す。
だが、時に真実は目を焼くほどに眩しい。
それでも、見なければならない。闇の中で手探りするよりは。
山小屋を出た朝、空はまだ靄がかかっていた。三人の足跡が露に濡れた草地に残る。空気は冷たく湿り、肌に触れると生きた存在のような感覚があった。ルカは胸ポケットを確かめた。三つの欠片と封筒が、ちゃんとそこにある。それぞれの欠片から波紋のように広がる喪失の感覚—両親との最後の会話、初恋の記憶、チヨの見た最期の夢。失われた記憶の痛みとともに、彼女の心に宿る希望。
胸ポケットに触れると、欠片たちが鼓動のように脈打ち、微かな温もりを感じた。父のカメラを握る手の感触と、母の遠い笑顔が記憶の片隅によみがえり、彼女の胸を締め付けた。ひとつひとつの代償を支払うたび、何かを失う痛みとともに、チヨに近づく喜びが彼女の中で混ざり合う。感情を抑えることで生きてきた彼女の心の中で、氷が少しずつ溶け始めているようだった。
「姉を救えなかった自分を許せない」—その思いが長い間、彼女の心を縛り付けてきた。だが今、欠片を通して垣間見た姉の姿とあの一瞬の温もりが、その鎖を少しずつ解き放っているように感じられた。
チクワは先を行き、時折振り返っては金色の瞳をルカに向けた。その毛並みが朝の光を受けて一瞬青く輝いた。猫の足跡は露の中に小さな星型の模様を描き、進んでは消え、また新たな模様を作っていく。霧の中での動きは気まぐれでありながら、どこか意図的でもあった。
「山中の廃教会までは、半日の道のりです」
風見蓮が地図を広げながら言った。朝日を受けて、彼の丸眼鏡が光る。その向こうの瞳には、昨日の霧の道を渡った興奮が残っている。彼はメモ帳を取り出し、昨日見た時の欠片の様子をスケッチしていた。鋭い線と繊細な影で描かれた図は、写し世の断片を捉えていた。
「これは祖父の理論と一致します。霧の濃度と記憶の波動は比例関係にあり、時の狭間が現れる条件を満たしていました」
蓮の指が図を辿る。図には波線とともに数式が書き込まれ、まるで波の性質を計算しているかのようだった。「時の狭間」という言葉の横には「記憶の共鳴点」という注釈があった。
「時の狭間って何なの?」ルカは昨日感じた不思議な感覚を思い出しながら尋ねた。
「祖父の理論では、現世と写し世の境界が最も薄くなる領域です」蓮は眼鏡を直しながら答えた。「通常、記憶は現世から写し世へと一方通行で流れていきますが、特定の条件が揃うと、写し世の記憶が現世に漏れ出し、両者が交わる空間が生まれる。それが時の狭間です」
蓮は話しながら、指先でノートに波の干渉パターンのような図を描いていた。その真剣な眼差しと知的好奇心に満ちた表情は、チヨを思わせるものがあった。純粋な探究心が、彼の言葉に説得力を与えていた。
「でも時の狭間と写し世の違いは?」ルカは自分の体験を整理するように質問した。
「時の狭間は一時的で、条件に依存します」蓮は考えながら答えた。「月の力や霧の濃度が変われば消える。一方、写し世は常に存在する別次元。ただ見えないだけで」
クロが少し離れた場所から加わった。
「時の狭間は月夜の幻影のようなもの。見え、触れられるが、朝には消える。写し世は常に隣にある鏡の国。見えないが、常に影響を与える」
彼の説明は簡潔ながら詩的で、右目の紋様が青く輝いていた。まるで個人的な経験から語っているようだった。
「どんな場所なの?山中の廃教会」
「明治期に外国人宣教師によって建てられた教会です。戦時中に放棄されましたが、カトリック様式の小さな礼拝堂で、ステンドグラスが美しいと言われていました」
ルカは蓮を見つめた。彼の知識は豊富だ。単なる情報ではなく、そこに興味と敬意が混ざっている。まるで自分の目で見たかのような生き生きとした描写だった。
「詳しいのね」
「祖父のノートに記録があって…」蓮は少し照れたように微笑んだ。「実は子供の頃、一度だけ祖父に連れられて行ったことがあるんです」
「覚えているの?」
「ほとんど覚えていません。ただ、ステンドグラスから差し込む光が、床に虹色の模様を描いていたのを覚えています」
蓮の目が遠くを見る。記憶を追いかけるように。その瞳には、知的好奇心と同時に、祖父への愛情が映っていた。
「祖父はその光を見て、『これが記憶の波紋だ』と呟いていました。当時は意味がわかりませんでしたが、今なら写し世と現世が重なる場所では光の波長も変化すると理解できます」
クロは少し離れた場所で、じっと二人の会話を聞いていた。彼の右目の紋様が時折明滅し、その青い光が彼の内面の揺れを映していた。蓮の言葉に反応するように、紋様が強く脈打った。
「写し世と、写祓と、欠片—すべては繋がっている」クロは低い声で言った。「光の波長は記憶の振動と共鳴し、それを捉える者が、夢写師だ」
遠くから時間の軋むような低音が聞こえ、微かに地面が振動した。それはまるで、大地に刻まれた古い記憶が揺り動かされたかのような音だった。春の木々の匂いに混じって、微かに花の香りがし、遥か昔の記憶の断片が風に乗って流れるようだった。
「行きましょう」
彼の言葉で、三人は山を下り始めた。霧梁県の山々は緑濃く、道は時に険しくなる。蓮はそんな道もどこか慣れた様子で歩いていく。彼の歩みには自信があり、時折立ち止まっては周囲の風景をスケッチした。観察眼は鋭く、科学者の視点と芸術家の感性が融合しているようだった。
ルカは彼の背中を見つめながら、風見蓮という男の存在について考えていた。彼は普通の人間でありながら、写し世の存在を理解し、受け入れる特別な視点を持っていた。それは彼女にとって新鮮であり、同時に心強いものだった。
「蓮さんは、山登りが得意なの?」
「ええ、祖父の仕事を手伝うようになってからです。山の気象観測には、体力が必要でしたから」
彼は振り返って笑った。その表情には、どこか懐かしむような感情が見えた。
「何かあったの?」
「いえ…ただ、おじいさんとの山歩きを思い出しました。いつも天気のことを話していて…『空を見上げるな、雲を見ろ』と」
その言葉に、ルカは思わず空を見上げた。そこには薄い雲が流れ、風の流れを視覚化しているようだった。確かに、雲の動きを見れば、これから何が起こるかが予測できるかもしれない。
ルカは心の中で、その言葉を反芻した。空ではなく雲を見る。見えるものではなく、変化するものを観察する。それは写し世を捉える心構えにも通じる。蓮の祖父は、科学者でありながら写し世の存在を理解していたのだろう。
「風見さんのおじいさん、とても興味深い人だったのね」
「ええ。変わり者と言われていましたが、私には世界で一番賢い人に思えました」
蓮の笑顔には明るさがあったが、その奥に微かな哀しみも感じられた。祖父の死を今も受け入れきれていないような、そんな表情だった。
「祖父の死には…不思議なことがあったんです」彼は急に声を落とした。「五年前、彼は観測所で亡くなりました。その日は霧が異常に濃く、彼の遺体の周りには青い粉のようなものが…」
彼は言葉を切った。話すべきか迷うような表情があった。
「青い粉?」
「ええ。最初は何かの観測物質かと思いましたが、分析しても正体不明でした。それに、祖父の遺体は不自然に老化していたんです。まるで時間が急速に進んだように」
この言葉に、クロが振り返った。彼の右目の紋様が強く明滅し、何かを感じ取ったような反応をしていた。
「それは…影写りの粉の残滓かもしれない」クロが言った。
「影写りの粉?」蓮が食い入るように尋ねた。
「影写りの粉は時間を操作する力を持つ。特に欠片の力と組み合わせると、強力な効果を生む。寿命を縮める力もある」
クロが説明すると、蓮はノートに急いでその言葉を記録した。彼の眼鏡の奥の瞳が、科学者としての好奇心に輝いていた。
「祖父は何かの実験をしていたのかもしれません。彼は最後の日記に『時間の解放』について書いていました」
蓮はノートから紙切れを取り出し、そこに書かれた複雑な方程式を指さした。「祖父の遺した最後の計算式です。『時間の波動』と『記憶の粒子』の相関関係について…」
クロとルカは顔を見合わせた。風見柊介の死と欠片、そして影写りの粉の関係は偶然ではないようだ。三人の間に短い沈黙が流れ、それぞれが自分の考えに沈んだ。
クロが彼らに追いつき、蓮を見つめた。面の下の表情は見えないが、その姿勢には何か特別な関心が表れていた。チクワもクロの足元に戻り、彼の周りを一周して鳴いた。その鳴き声には、警告と安心が混ざり合っていた。
「風見柊介は…特別な目を持っていた」
蓮は驚いた表情でクロを見た。
「祖父を知っていたんですか?」
クロは言葉を選ぶように間を置いた。右目の紋様が不規則に明滅し、内面の葛藤を示していた。その面の下で、何かを思い出して苦しんでいるようだった。
「直接ではない。だが、その名は知っている。十年前の…封印の時に、彼はいた」
蓮の目が輝いた。まるで宝物を見つけたかのように。
「やはり!祖父のノートには、あの夜の記録がありました。『七時四十二分に時の狭間が開いた』と。彼は霧梁県全体で発生した記憶の異常について調査していたようです」
彼はバッグから古びた手帳を取り出し、黄ばんだページを開いた。「この図表では、封印の夜に霧梁県全域で気圧の異常な低下が記録されています。そして、青い粒子状の物質が大気中に増加したというデータも…」
「今はその話をする時ではない」
クロは話題を切り、先に進んだ。彼の背中には、抱え込んだ何かの重さが感じられた。その肩の強張り方に、ルカはクロが風見柊介の死に何らかの関わりがあるのではと疑い始めた。クロはチヨの封印の夜に何を見たのだろう。風見柊介と共に、どんな真実を目撃したのだろうか。
チクワは彼の後に続き、時折振り返っては蓮とルカを見守るようだった。猫の瞳は風景と同じように霧がかっていたが、時折青く光り、写し世の存在を感じ取っているようだった。
三人は森を抜け、開けた丘に出た。そこからの眺めは素晴らしく、霧梁県の山々が連なる様子が一望できた。空気は清々しく、肺いっぱいに吸い込むと生命力が体内に広がる感覚があった。
「あそこです」
蓮が指さす先に、小さな白い建物が見えた。木々に囲まれた小高い丘の上に立つ教会。その尖塔だけが、木々の間から顔を覗かせている。光を受けて輝くステンドグラスの一部が、遠くからも確認できた。
「近そうに見えるけど…」
「実際には、まだ三時間ほどかかります」
蓮は古い地図と現代の地図を比較し、計算していた。彼は地図と実際の景色を何度も見比べ、位置関係や距離を正確に把握しようとしていた。その分析力は科学者のそれだった。
鳥のさえずりが遠くから聞こえ、森の香りが風に乗って流れてきた。この山々の景色は、何百年もほとんど変わらずにあり続けてきたのだろう。風の歴史。石の記憶。大地に刻まれた時間。
三人は再び歩き始めた。道は次第に人の手が入っていない獣道になり、進むのが難しくなる。時折、蓮が古い地図を確認しながら、方向を修正した。チクワは時々立ち止まっては、地面の匂いを嗅ぎ、道を確かめるように鳴いた。その鳴き声は風に消え、遠くのこだまとなって返ってきた。
「この道、昔は巡礼路だったそうです」
「巡礼? キリスト教の?」
「いいえ、元々は山岳信仰の道で、後にキリスト教の巡礼路として再利用されたようです」
蓮はノートに何かを書き込みながら続けた。ページの隅には、蔓のような線が描かれ、その周りに小さな文字で「信仰の地脈」と書かれていた。
「祖父の理論では、古くからの聖地には『記憶の結節点』があるそうです。人々の想いが何世代にもわたって蓄積された場所。それが写し世との境界を薄くする」
彼はノートをめくり、地図を広げた。そこには霧梁県の主要な神社仏閣が印され、青い線で結ばれていた。「祖父はこれを『記憶の地脈』と呼んでいました。信仰の場所に残る集合的記憶が作る磁場のようなものです」
クロが珍しく会話に加わった。彼の声には知識の深さと、それを長く見てきた者特有の落ち着きがあった。
「混交信仰だ。日本とヨーロッパの宗教的要素が混ざり合っている」
「そうみたいですね」蓮が頷いた。「祖父のノートには、この教会が建てられた場所は元々、山の神を祀る祠があったと書かれています」
クロの右目の紋様が明滅した。その光は何かを思い出したように強くなったり弱くなったりした。
「記憶は土地に刻まれる。異なる信仰が重なれば、その力はさらに強まる」
クロの言葉には説得力があった。まるで自らもその一部であるかのように、写し世の原理を説明する彼の声には権威があった。クロはただの「狐神の片割れ」なのだろうか、とルカは疑問に思った。彼の知識は深すぎる。まるで、写し世そのものであるかのように。
ルカは周囲を見回した。確かに、道端には古い石碑や、朽ちた鳥居の跡が見える。様々な時代の祈りが層となって積み重なった場所—それがこの山なのだろう。どこからともなく、古い祈りの声が風に乗って聞こえてくるようだった。山の神への祈り、キリストへの祈り、過去と現在が重なる音が、微かに耳を震わせる。
足元の石には摩耗した文字が刻まれ、触れると冷たさの中に古い記憶の余韻を感じた。空気にも独特の匂いがあった。土の湿り気と草木の香りに混じって、かすかに香木の残り香がした。それは古い記憶の香りだった。
「宗教が混ざるとき、記憶も混ざる」
クロの言葉は謎めいていた。ルカは彼の横顔を見た。狐の面の下で、何を考えているのだろう。時に見せる知識の深さは、単なる「狐神の片割れ」としては説明できないものだった。
昼過ぎ、三人は最後の急な坂を登り、ようやく廃教会の前に立った。
「ここが…」
かつては美しかったであろう白い礼拝堂は、今では苔と蔦に覆われていた。屋根の一部が崩れ、正面のドアは半ば壊れている。それでも、ゴシック様式の尖塔と大きなバラ窓は、かつての荘厳さを伝えていた。
肌で感じる空気も変わった。この場所には独特の雰囲気があり、厳粛さと神聖さが混ざり合っていた。教会の周りは不思議と静かで、鳥の声も風の音も遠くなったように感じる。しかし、耳をすませば、かすかに聖歌のような響きが建物内部から漏れ出していた。
「驚くほど…保存状態がいいわね」
風化した石壁は苔に覆われ、金属部分は錆びていたが、建物の構造自体は驚くほど無傷だった。それは「時間」が特別な形でこの場所に存在している証拠かもしれなかった。
「戦時中に放棄されたとはいえ、信者たちが時々訪れていたようです」
蓮が言った。「最後の礼拝は昭和二十年だったとか」
彼は小さなカメラを取り出し、建物の写真を撮り始めた。蓮にとって、この旅は祖父の遺志を継ぐ研究の旅でもあるようだった。シャッター音が周囲の静寂を破り、そのたびに建物から微かに光が漏れるように見えた。
「光の欠片があるからだ」
クロが言った。彼は光から距離を取り、影の中に佇んでいた。右目の紋様は暗く、まるで光を避けるかのようだった。その姿は不安定で、時々輪郭がぼやけ、写し世に溶け込もうとしているようにも見えた。
「クロ…大丈夫?」
ルカが尋ねると、クロはゆっくりと頷いた。
「光の記憶が…強すぎる。俺の中の何かを呼び覚ます」
彼の声には苦痛と懐かしさが混ざっていた。右目の紋様が激しく明滅し、面の下から微かに若い女性の声が漏れているかのように聞こえた。まるでクロの中に、別の存在が潜んでいるかのように。
「そういえば…光の欠片は、どこにあるの?」
「ステンドグラスの中だ。赤い薔薇の模様の中心に」
ルカは見上げた。確かに、祭壇上部のステンドグラスには大きな薔薇の模様があり、その中心が特別に明るく輝いていた。光の筋が放射状に伸び、まるで生きているかのように脈打っている。一瞬だけ、その薔薇の模様がチヨの笑顔のように見えた気がした。
「あんな高いところ、どうやって取るの?」
「取る前に、守護者に会わねばならない」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、教会の奥から足音が聞こえた。三人が振り返ると、そこには一人の老人が立っていた。チクワは鳴き声を上げ、老人の方へと駆け寄った。
白髪の老人は、聖職者のローブではなく、質素な麻の服を着ていた。彼は杖に寄りかかりながらも、背筋はピンと伸びている。年齢は八十を超えているだろうか。深い皺が刻まれた顔には、長い年月の知恵が宿っていた。肌はパーチメントのように薄く、乾いていたが、目には知性と穏やかさが輝いていた。
「よく来たな、旅人たち」
老人の声は意外にも力強く、教会内に反響した。その声には権威と同時に、穏やかな温かさがあった。彼はチクワの頭を優しく撫で、「久しぶりだな、小さな使者よ」と囁いた。
「あなたは?」
「ジョセフ・ブラウンだ。かつてこの教会の司祭を務めた者さ」
ルカは驚いた。教会が放棄されてから七十年以上。そんな老人がまだ生きているとは。彼の身体からは独特の香りがした。古い書物のような匂いと、香木の芳香が混ざったような、時間そのものの香り。
「まだ…ここにいらっしゃるんですか?」
「ああ、戦時中も、戦後も、私はここを離れなかった。日本人の妻と共に」
老人—ジョセフは微笑んだ。その笑顔には温かさと同時に、何か秘めたものが感じられた。彼の目は深く、底知れない叡智を湛えていた。
「神の意志というものさ。さて、お前たちが来た目的は分かっている。光の欠片だろう?」
クロが一歩前に出た。彼の姿勢には警戒心があったが、同時に敬意も見られた。右目の紋様が安定した光を放ち、ジョセフを認めるかのように明滅した。
「どうして知っている?」
「この欠片を守るのが、私の使命だからさ。待っていたのだ、正しい者たちが現れるのを」
ジョセフはルカをじっと見つめた。その鋭い目は、彼女の内面まで見透かすようだった。まるで彼女の心の奥底に眠る秘密まで見えているかのように。
「あなたが次の夢写師か。橋爪の娘」
「あなたは...私の家系を?」
「もちろんだ。私は五十年以上、この地にいる。影向稲荷の神主とも交流があったし、夢写師の存在も知っていた」
ジョセフは杖で床を叩いた。その音が教会に響き、光の粒子が揺れるように見えた。反響音は通常より長く続き、頭上のステンドグラスを通過した光が、床に美しい波紋を描いた。その波紋が時間の流れを可視化しているようだった。
「写し世とは記憶が形を成す場所だ」ジョセフは静かに続けた。「人々の強い感情や集合的記憶が土地や物に刻まれ、それが独自の次元を形成する。特定の条件—霧、月光、儀式—がそろうと、その記憶は現世に漏れ出してくる」
彼の説明は簡潔でありながら、これまでルカが体験してきたことを的確に言い表していた。彼女の中で、写し世の概念がより明確な輪郭を持ち始めた。
「さて、欠片について話そう。だが、その前に……」
彼はクロを見た。その眼差しは、面の奥の素顔まで見通すようだった。
「お前の正体も知っている。狐神の片割れよ」
クロの右目の紋様が激しく明滅し、彼の体が緊張で強張った。まるで逃げ出す準備をしているかのように。チクワは彼の足元に寄り添い、低く鳴いた。その鳴き声は警告と慰めの両方を含んでいるようだった。
「心配するな。敵ではない。むしろ、理解者だ」
ジョセフはそう言って、祭壇の方へと歩き始めた。その歩みは年齢を感じさせないほど確かだった。床に落ちる彼の影は不思議な形をしており、時に若い姿に変わり、時に老人に戻るようだった。まるで時間の流れの中で揺れ動いているかのように。
「私に続いて」
三人は老人の後に続いた。祭壇の裏には小さな扉があり、そこから螺旋階段を下りた。地下室だった。
階段を下りるにつれ、空気が変わった。湿度が増し、壁から染み出る水滴が光に反射して小さな虹を作る。石の冷たさと、古い本の匂いが混ざり合い、時間が凝縮されたような感覚があった。階段の壁には浮き彫りが刻まれ、その模様が光の中で動いているように見えた。
「ここが私の研究室だ」
地下室は予想外に広く、整然としていた。壁には本棚が並び、古い書物が並べられている。中央には作業机があり、そこには紙や羊皮紙が広げられていた。キャンドルの灯りが柔らかな光を投げかけ、独特の雰囲気を作っていた。ルカの耳には昔の研究者たちの囁き声や、ページをめくる音が微かに聞こえるようだった。
地下室には厚い絨毯が敷かれ、足音を吸収していた。壁に掛けられた様々な国の十字架や、東洋の護符が混在する様子が、この場所の混交的な性質を物語っていた。天井からは古い懐中時計が幾つも吊るされ、それらは全て異なる時間を指していた。
「研究室?」
ルカは見回した。ここは単なる地下室ではなく、何世紀もの知識が集積された学問の聖域のようだった。
「ああ。私は司祭でありながら、研究者でもあった。東洋の神秘思想とキリスト教の共通点を探る研究をね」
ジョセフは本棚から古い書物を取り出した。その手つきには、書物への深い愛情が表れていた。表紙には金色の文字で何か書かれているが、それは既知のどの言語にも似ていなかった。本を開くと、ページから軽い青い光が放たれた。
「これを見たまえ」
それは古い手書きの本で、『東方の神と西方の聖』と題されていた。ページを開くと、緻密な絵図と文字で埋め尽くされていた。挿絵はペンで細密に描かれ、金箔や彩色が施されていた。そこには写し世の光景や、影向稲荷の祭りの様子、そして九尾の狐の姿が描かれていた。
「私の生涯の研究だ。特に、"記憶"に関する日本とケルトの伝承の比較研究を行ってきた」
蓮が食い入るように本を見つめた。彼の顔には純粋な知的興奮が表れていた。
「これは...素晴らしい!」彼の声には興奮が滲んでいた。「祖父の理論と共通する部分がある。記憶の波動と聖地の関係性...」
彼はページをめくり、緻密な図を指さした。「この波動の数値分布は、祖父が『記憶の共鳴音階』と呼んでいたものとほぼ一致します。場所の特性と記憶が残留する強度の相関関係が、数学的に表現されています」
「風見柊介の孫だな?」ジョセフは蓮を見つめた。「目の輝きが似ている。彼もここを訪れたことがある」
「祖父が?いつですか?」
「十年前の封印の後だ」ジョセフは古い日記を指さした。「彼は封印の科学的側面を解明しようとしていた」
蓮の目が驚きと喜びに輝いた。「やはり!祖父はこの場所で何を発見したのでしょう?」彼は自分のノートを開き、祖父の古い方程式と比較した。「科学と神秘の接点...これが祖父の求めていたものだったのかもしれません」
ルカは驚いた。蓮の祖父は、チヨの封印について調査していたのだ。二人の出会いは、偶然ではないのかもしれない。チクワが彼女の足元で鳴き、耳をピクピクと動かした。何かを感じ取っているようだった。
「なぜ、そんな研究を?」ルカはジョセフに問いかけた。
老人はキャンドルの炎を見つめた。その瞳に過去の映像が浮かぶようだった。光の中で彼の顔は若返り、ときに別の顔—おそらく彼の妻—が重なるように見えた。
「信仰の真髄を見極めるためさ。すべての宗教は、人間の記憶と意識の働きに根差している」
彼は椅子に腰掛け、古い思い出を語るように続けた。声には歳月の重みがあったが、同時に若々しさも失われていなかった。
「私は純粋なキリスト教を布教するつもりで来日したが、日本の神道や仏教と接するうち、より深い真実があると気づいたのだ」
ジョセフは研究ノートを開き、ページをめくった。蓮が隣に座り、熱心にノートを覗き込む。ノートには宗教儀式の図解と、それに対応する物理現象の記録が並列されていた。「祈り=波動」「記憶=貯蔵」などの等式が書かれている。
「特に影向稲荷の狐神については、多くの調査を行った。その神は"記憶を司る神"。私の故郷アイルランドにも、似た神話がある」
クロが興味を示し、初めて光の中に一歩踏み出した。彼の狐面に映る光がステンドグラスの色を映し、一瞬だけ面の下の素顔が透けて見えたような錯覚があった。若い男性の顔に、女性の表情が重なっているようだった。
「ケルトの伝承にも?」
「ああ。"記憶の井戸"の伝説だ。知恵の泉とも呼ばれる」ジョセフの目が輝いた。「すべての記憶が集まる場所。飲むと知恵が得られるが、代償を払わねばならない」
クロの右目の紋様が鮮やかに光った。
「その代償とは?」
「片目の光だ」
その言葉に、クロの体が震えた。右目の紋様が激しく明滅し、彼は思わず面に手をやった。チクワは彼の足元に寄り添い、小さく鳴いた。
「片目...」クロは小さく呟いた。「私も代償を払った...」
彼の言葉は痛みに満ちていた。右目の紋様が強く脈動し、その光が部屋中に投影された。まるで彼の内面の苦悩が実体化したかのように。
ルカはジョセフを見つめた。その目は鋭く、知性に満ちていた。単なる司祭や研究者ではない—彼は何かの媒介者、境界の守り手のようだった。彼の存在そのものが、現世と写し世の接点なのかもしれない。
「あなたは...十年前の封印のことも知っているのですか?」
ジョセフは重々しく頷いた。彼の目には何世紀もの記憶が宿っているようだった。
「もちろんだ。私は立ち会わなかったが、その直後に知った。霧梁県全域で、多くの人々が同時に何かを忘れたのだから」
彼は古い地図を広げた。そこには霧梁県が描かれ、特定の地点が印されていた。地図の端には「記憶の結節点」という言葉と共に、複数の場所が示されていた。その中には久遠木や、山中の廃教会、そして「夕霧村」と名付けられた小さな集落も含まれていた。
「ここが封印の場所。影向稲荷の奥宮だ」
蓮が身を乗り出した。彼は自分のノートを開き、ジョセフの地図をスケッチし始めた。
「それが、祖父のノートに記録されていた"記憶の異常"ですね」
彼は自分のノートを取り出し、場所を照合した。彼のノートにも同様の地図があり、曲線で結ばれた点が記されていた。
「正確に一致します。祖父は気圧の急激な変化を記録していました。『記憶の波紋』と呼んでいましたが、それは時の狭間が開いた痕跡だったんですね」
「それこそが封印の痕跡だ」ジョセフは頷いた。「風見柊介も、その現象を観測していた。彼とも交流があったよ」
蓮は眼鏡を直し、さらに熱心にノートを取った。「では祖父は科学的手法で写し世を観測していたのですね。彼のノートにも『記憶の定量化』に関する研究がありました。祖父は看板形質計という装置で微弱な電磁波を測定していたんです」
「しかし、霧梁県にはもう一つ特別な場所がある」ジョセフは地図の北部を指さした。「夕霧村。十年前の封印以来、村人たちは自分たちの記憶を失っている。村の名前すら、公的記録から消えた」
ルカとクロは顔を見合わせた。夕霧村—それは初めて聞く名前だった。村全体が記憶を失うとは、どういうことだろう。
「記憶を...失った村?」
「ああ。チヨの封印の代償だ。狐神の暴走を止めるため、村の集合的記憶が犠牲になった」
その言葉に、ルカの胸に痛みが走った。姉の封印は、一つの村の記憶を奪ったのか。どんな思いで、チヨはその決断をしたのだろう。
「では、その村は今も...」
「存在している。だが、住民たちは自分たちの過去を知らない。まるで時間の外に置かれたように」
クロの右目の紋様が不安定に明滅した。彼は窓の方を見て、まるで遠くの景色を思い出すように立ち尽くした。
「チヨは...責任を感じていた」彼は小さな声で言った。「彼女は最後まで、村の記憶を取り戻す方法を探していた」
ジョセフはクロをじっと見つめた。彼の目には理解と同情が浮かんでいた。
「お前は彼女の一部だな。だからこそ、記憶を集める使命がある」
クロは答えなかったが、その右目の紋様が強く輝き、彼の意志を示しているようだった。何かを隠しながらも、使命を果たそうとするその姿に、ルカは複雑な感情を抱いた。
「光の欠片は真実と啓示を司る」ジョセフは静かに言った。「それは隠された真実を照らし出す力を持つ。夕霧村の謎を解く鍵、それがこの欠片の意味だ」
ジョセフは蓮に微笑みかけた。
「君が彼の孫か。目つきが似ている」
「ありがとうございます」
蓮は照れたように微笑んだ。その表情には、祖父への誇りと、彼の研究を継ぐ決意が表れていた。彼はノートに熱心にジョセフの言葉を書き留め、時折質問を挟んだ。
「科学と神秘は、本当は一つなのではないか」彼は小さく呟いた。「祖父は科学で神を測ろうとしていたけれど、私は...」言葉は途切れたが、その目には決意が燃えていた。
「さて」ジョセフは話題を戻した。「光の欠片について説明しよう。これは"真実と啓示を司る欠片"だ。隠された真実を照らし出す力を持つ」
彼は壁の図を指さした。そこには九つの欠片が描かれており、それぞれに名前と特性が記されていた。図は古代の写本のように描かれ、金色と青の顔料で彩色されていた。
「九つの欠片は、狐神の九つの属性を表している。声、願い、時、光、影、心、形、霊、そして封印だ」
ルカは息を呑んだ。ここまで詳細な情報を持つ人物に出会うとは思っていなかった。そして、それらが彼女の探求と深く関わっているという事実に、運命を感じずにはいられなかった。
「欠片は狐神の力が強すぎたため、チヨが封印時に九つに分割した」ジョセフは続けた。「記憶を守り、狐神の暴走を防ぐために」
「私たちが探しているのは、最初の五つです」
「ああ、それで十分だろう。残りの四つは、既に決まった場所にある」
「どこに?」
ジョセフは蓮を見つめた。彼はルカの質問に直接答えず、研究ノートの別のページをめくった。
「風見よ、君の祖父は地図に特別な記号を使っていなかったか?」
蓮は目を輝かせた。
「はい!青いバツ印です。祖父の地図には、特定の場所にその印が...」
蓮はバッグから古びた手帳を取り出した。ページをめくると、霧梁県の地図が現れ、五つの場所に青いバツ印が付けられていた。一つは久遠木、一つは山中の廃教会、そして残りの三つが謎の場所に記されていた。
「祖父は使命を感じていたのでしょうか。このマークの意味を教えてくれなかったのに、なぜかこの手帳だけは私に残してくれました」
「それが欠片の在り処だ」ジョセフは静かに告げた。「彼も知っていたのだよ」
「どうして…祖父が欠片のことを?」
「彼はチヨの封印を目撃した。唯一の科学者として、その現象を記録した。そして『記憶の波紋』を追い続けたんだ」
ルカはクロを見た。彼は静かに闇の中に佇み、この対話を聞いていた。肩の力が抜け、かつての警戒心は薄れているようだった。チクワはクロとジョセフの間を行ったり来たりし、何かを感じ取ろうとしているようだった。時折、猫の背中の毛が青く光り、彼女の内面に何かの力が宿っていることを示していた。
「どうやって欠片を手に入れるのですか?」ルカは老人に尋ねた。
「それを話す前に、光の欠片の性質を理解しなければならない」
ジョセフは立ち上がり、壁の別の図を示した。それは教会の断面図で、ステンドグラスの構造が詳細に描かれていた。図の中には光の経路が線で示され、特定の点で交差している。交差点には「真実の結晶」という言葉が記されていた。
「光の欠片は、ステンドグラスの赤い薔薇の中心にある。だが、単純に取れるわけではない。試練がある」
「どんな試練ですか?」
老人の表情が厳かになった。その顔の皺が深まり、目に宿る光が強くなった。まるで別の存在が彼を通して語りかけているかのようだった。
「真実との対峙だ」
その言葉に、教会全体が微かに震えたようだった。ステンドグラスからの光が一瞬強まり、床の光の模様が鮮明になる。遠く、教会の天井からは聖歌の残響音が流れ落ち、すべての音が一つに重なった。
「ステンドグラスの下に立ち、光を浴びると、人は自分自身の"隠したい真実"を見ることになる。それを受け入れられなければ、欠片は手に入らない」
ルカは緊張した。自分の隠したい真実とは、何だろう。彼女の中に、恐れが芽生えた。チヨへの罪悪感?両親への思い?あるいは...自分自身の感情を抑え込んできた理由?
ジョセフは彼女の不安を見透かしたように、優しく微笑んだ。
「恐れることはない。真実は時に痛みを伴うが、それを受け入れることで、人は成長する。光の欠片は、その過程を助けるのだ」
彼はルカの手を取り、静かに力を込めた。その手は年齢を感じさせるほど薄く乾いていたが、温かさと力強さがあった。
「さあ、準備ができたら、祭壇へ進みなさい」
ルカは深呼吸し、覚悟を決めた。クロと蓮の方を振り返る。クロは不安げに見えたが、頷いた。蓮は彼女を励ますように笑顔を見せた。
「大丈夫です。あなたなら...」彼の科学者らしい冷静さの中に、真摯な信頼の色が混じっていた。
蓮は彼女に小さな水晶のペンダントを手渡した。「祖父の形見です。『記憶の波動』を安定させると言っていました。今、あなたに力を貸してほしい」
その言葉に力づけられ、ルカは祭壇に向かって歩き始めた。床に落ちる光の模様が、彼女の歩みに合わせて形を変えるように見えた。心臓の鼓動が速くなり、耳に血の流れる音が聞こえる。
祭壇に立ったルカの上方には、巨大な薔薇のステンドグラスがあった。赤と金、青と緑の色彩が複雑に重なり、その中心には純粋な白い光が灯っていた。それが光の欠片に違いない。
彼女が見上げると、ステンドグラスからの光が強まり、彼女の体を包み込んだ。まるで別の空間に引き込まれるような感覚。周囲の音が遠ざかり、代わりに心臓の鼓動が大きく響く。
そして、光の中に映像が現れ始めた。
それはチヨと過ごした日々の断片。幼い頃、二人で遊んだ裏庭。チヨが笑いながらルカを追いかける。写真を撮る父と、見守る母。完全な幸福の瞬間。
しかし、映像は突然暗くなり、次に現れたのは別の光景だった。家族の不和。父と母の言い争い。暗い部屋で耳を塞ぐルカと、彼女を慰めるチヨ。
そして最も痛ましい記憶。チヨの変化。次第に遠くなる姉。写し世と会話し始め、家族から距離を置くようになった姉の姿。そして、その変化にただ黙って見ていた自分自身。
「姉さん、どうして...」
光の中で、ルカの声が響いた。それは記憶の中の言葉であり、同時に現在の思いでもあった。
「私、何もしなかった。何も...言わなかった」
真実が明らかになる。ルカが自分自身に隠していたもの—それは無力感だった。チヨの変化に気づきながら、何もできなかった自分自身への失望。そして、その後の自責の念から感情を抑え込むようになった事実。
「チヨを救えなかった...だから、感情を閉じ込めた...」
ルカの目から涙がこぼれ落ちた。光の中で、彼女の心に隠されていた思いが溢れ出す。
「姉さんが封印された後、私は自分も閉じ込めた。感じないように...」
光が強まり、暖かさが彼女を包み込む。それは非難でも裁きでもなく、ただの理解と受容の光だった。ルカは自分の真実と向き合い、受け入れ始めていた。
「でも、今は違う。記憶を取り戻す。姉さんを取り戻す。そして...自分自身も」
彼女の決意と共に、ステンドグラスの中心が開き始めた。そこから小さな結晶—光の欠片—が降りてきた。それは輝く青い石で、内部から虹色の光を放っていた。
ルカはその欠片を両手で受け止めた。欠片に触れた瞬間、体全体に暖かい波動が広がり、目の前の世界が一瞬だけ別の色で見えた。写し世の色彩。隠された真実の色。
そして、代償が訪れる。何かが失われていく感覚。記憶の糸が一本ずつ切れていく痛み。
「これは...何?」
彼女の脳裏に、一枚の古い写真のような映像が浮かんだ。それは彼女が知らない場所で、知らない人々との記憶だった。チヨと共に訪れた場所?両親との旅行?それとも全く別の記憶の欠片?
映像は薄れていき、やがて完全に消えた。「光の欠片の代償は"隠された真実の記憶"」—その代わりに、彼女は自分自身の心の真実と向き合う勇気を得たのだ。
光が弱まり、ルカは再び教会の中に立っていた。手には青く輝く欠片。クロ、蓮、ジョセフが彼女を見つめている。蓮の顔には科学者としての驚きと、人間としての感動が混ざっていた。彼は急いでノートに何かを書き留めながら、ルカを見守っていた。
「成功したね」
ジョセフが微笑んだ。彼の目には誇りに似た感情が浮かんでいた。
「あなたは真の夢写師だ。写し世の記憶を見るだけでなく、自分自身の記憶と向き合う勇気を持つ者」
彼はルカに近づき、彼女の肩に手を置いた。
「記憶は時に痛みをもたらす。だが、それを受け入れることで、人は成長する。チヨもそれを知っていたのだろう」
クロが近づいてきた。彼の右目の紋様は穏やかに輝き、彼自身も何かを理解したかのように見えた。
「お前は強くなった」彼はルカに告げた。「チヨも...喜んでいるだろう」
その言葉には珍しい温かさがあり、ルカは思わず微笑んだ。クロの本当の姿はまだ謎に包まれているが、その存在が次第に彼女にとって大切なものになっていることを感じていた。右目の紋様が脈打つように明滅し、クロの面の下で何かが揺れ動いているかのようだった。彼の手がわずかに震え、内面の葛藤を物語っていた。
蓮は彼女の変化に気づいたようだった。彼の目には驚きと敬意が浮かんでいた。
「何か...変わりましたね」彼は静かに言った。「光があなたの周りに」
彼は小さな測定器を取り出し、数値を確認した。「祖父の予測通りです。記憶の波長が安定化し、新たな共鳴点が生まれています。これを『光の共鳴』と呼ぶべきでしょうか」
「感じるんですか?」
「はい、科学では説明できないかもしれませんが...」彼は恥ずかしそうに微笑んだ。「祖父なら、きっとそれを『記憶の波動の共鳴』と呼ぶでしょう」
ジョセフはルカの手にある欠片を見つめた。
「これで四つ目だ。あと一つで、封筒を開ける資格が得られる」
彼の言葉に、ルカは驚いた。
「どうして知っているんですか?」
「影向稲荷の神主から聞いた。チヨは賢い子だった。彼女はすべてを計算に入れていたんだよ」
ジョセフは古い写真を取り出した。そこには若いジョセフと日本人の女性、そして少女のチヨが写っていた。写真の中のチヨは微笑み、カメラに向かって手を振っている。
「私の妻と私は、彼女を知っていた。影向稲荷で出会ったんだ」
ルカは写真を見て、胸が締め付けられる思いがした。それは彼女の知らないチヨの姿だった。写し世の力に目覚める前の、純粋な少女の姿。
「姉さんは、なぜ...」
「彼女には特別な力があった。写し世と直接対話する能力だ。しかし、それは大きな責任も伴う」
ジョセフは遠い目をして、続けた。
「彼女は狐神の暴走を感じ取った。霧梁県の記憶が危険にさらされていることを」
「暴走?」
「ああ。記憶を飲み込み始めた狐神。それを止めるため、チヨは自らを犠牲にした」
クロの体が震えた。その反応に、ルカは彼が何か隠していることをますます確信した。
「次は影の欠片だな」ジョセフはルカに告げた。「地下鉄建設跡で待っている。影の欠片は"隠された過去"を司る。手に入れれば、あなたは真実に一歩近づく」
「だが、代償は重い」クロが続けた。
「"村の集合的記憶との繋がり"を失う」
ルカは考え込んだ。夕霧村—彼女はその場所と何らかの繋がりがあるのだろうか。集合的記憶との繋がりを失うとはどういう意味なのか。それでも、チヨを取り戻すために、次の一歩を踏み出す覚悟はあった。
「受け入れます」彼女は静かに言った。「代償を払ってでも、姉を取り戻す。そして、もし夕霧村の人々が記憶を失っているなら...彼らのためにも何かできるかもしれない」
ジョセフは満足したように頷いた。
「その気持ちが大切だ。記憶というのは単なる過去の断片ではない。それは自己の根幹であり、未来を作る材料でもある」
彼は壁に飾られた古い写真を指さした。そこには夕霧村と思われる小さな集落が写っていた。山々に囲まれた平和な村の様子。農作業をする人々、祭りを楽しむ子どもたち。
「この村は霧梁県の北部にある。記録上は存在しないが、実際には今も人々が暮らしている。彼らは自分たちの過去を忘れたまま、時間の外に置かれているようなものだ」
「いつか...彼らの記憶も取り戻せるのでしょうか」
「それがお前の旅の真の目的かもしれんな」ジョセフは穏やかに微笑んだ。「チヨを救うことは、村を救うことでもある。すべては繋がっている」
蓮が静かに前に出て、ジョセフに尋ねた。
「祖父は夕霧村で何を発見したのでしょうか?彼の最後の日記には『記憶の共鳴点が最大化した場所』と書かれていました。そして彼はそこで『時の逆行』に関する測定を行ったようです」
ジョセフは考え込むように目を細めた。
「彼は時間と記憶の関係性を探っていた。その研究は危険な領域に達していたかもしれない」
「どういう意味ですか?」
「写し世の力は、使い方を誤れば命を奪う。彼の死因は...」
ジョセフは言葉を切った。「それは別の旅の課題だろう」
ルカは光の欠片を胸ポケットに入れた。既に声、願い、時の欠片を持っており、これで四つ目だ。胸ポケットが温かく脈打つような感覚があった。
「もう遅い。今夜はここで休んでいくがいい」
ジョセフは彼らを地下室の奥へと案内した。そこには質素だが清潔な寝床が用意されていた。「明日の朝、地下鉄建設跡への最短ルートを教えよう」
三人は感謝してその申し出を受けた。クロは教会の隅に座り、瞑想するような姿勢を取った。彼の右目の紋様は弱く明滅し、彼の思考が遠くに向かっているようだった。チクワはルカの足元に寄り添い、安心したような表情で丸くなった。
蓮はノートに今日の出来事を記録していたが、ふと顔を上げてルカに微笑みかけた。
「不思議ですね」彼は静かに言った。「祖父が亡くなる前、『青い瞳の少女に会いに行く』と言ったことがあります。当時は何の意味か分かりませんでしたが...」
ルカは彼の視線に気づき、少し戸惑った。
「私の目は青くないわ」
「今は違います」蓮は真剣な表情で言った。「でも、欠片を手に入れた瞬間、一瞬だけ...あなたの目は青く輝いていました」
彼女は驚いて瞬きをした。自分の目が青く輝いた?そんな経験は初めてだった。かすかな記憶が蘇る。チヨの目が青く輝くことがあったこと。それは彼女が写し世と対話するときだった。
「影写りの巫女の証だ」離れた場所からクロの声が聞こえた。「チヨも同じだった。写し世の力を使うとき、目が青く変わる」
彼の言葉には、隠せない苦しみの色があった。右目の紋様が不規則に明滅し、何かの記憶に苦しむかのように面の下で表情が歪んだ。彼の右手がわずかに震え、拳を握りしめて感情を抑え込もうとする仕草が見えた。
ルカは思わず手で顔に触れた。自分の中に眠る力が少しずつ目覚めつつあるのだろうか。感情を解放したことで、チヨのような力が目覚め始めているのかもしれない。
「私は...姉のようになれるのかな」
彼女の呟きに、クロは答えなかった。だが、彼の右目の紋様が強く輝き、何かを伝えようとしているようだった。
蓮はルカの変化を見つめ、その表情には畏敬の念が浮かんでいた。彼のノートには「青い瞳の現象」と題されたページが開かれ、そこにはルカの姿のスケッチが描かれていた。科学者としての鋭い観察眼と、超自然現象への純粋な好奇心。それらが混ざり合った彼の視点は、ルカにとって新鮮な鏡のようだった。
「科学と神秘は、究極的には一つなのかもしれませんね」蓮は穏やかに言った。「祖父はそれを証明しようとしていたのだと思います」
彼はバッグから小さな測定器を取り出し、慎重にルカの周りの空気を調べた。「信じられないほど強い共鳴波形です。これは通常の電磁波では説明できない反応ですが...祖父の研究に従えば、『記憶の波紋』と呼ばれる現象かもしれません」
ルカは頷いた。科学者の孫と夢写師の孫。異なる道を歩みながらも、ここで出会ったのは偶然ではないように思えた。
「明日、地下鉄建設跡へ向かいます」ルカは決意を新たにした。「そして、五つ目の欠片を手に入れたら...」
「静江さんからの封筒を開ける」クロが言った。「チヨからのメッセージだ」
ルカは深く息を吸い込んだ。明日が来るのが待ち遠しくもあり、同時に怖くもあった。姉の言葉を読む時が、いよいよ近づいている。
教会の中に静寂が広がる中、ステンドグラスからの月光が彼らの上に降り注いでいた。様々な色の光が床に落ち、過去と現在が交錯する美しい模様を描いている。チクワが安らかに眠る中、ルカも少しずつ眠りに落ちていった。
彼女の夢の中で、光の道が広がっていた。その先には、白い着物を着たチヨの姿。姉は微笑み、手を差し伸べている。「もう少し...来て...」と囁く声が聞こえた。夢の中でさえ、失われた記憶の痛みを感じながらも、ルカは姉に向かって一歩ずつ近づいていった。
「待っていて、姉さん。きっと会いに行くから...」