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第6章「霧の観測所」

明日の天気は、誰にもわからない。

だけど記憶は、未来を映すことがある。

写したはずのものが、まだ起きていない現実に滲んでいくことがある。

それは祈りに近い—忘れぬよう願う記憶が、いつか紡がれる未来を照らす。


山道は次第に急になり、森林が薄くなっていった。頭上では雲が近づき、周囲に霧が立ち込め始めている。その霧は単なる水蒸気ではなく、何かの意思を持つように揺らめき、ルカとクロの周囲で渦を巻いていた。肌に触れる霧は冷たく、しっとりとした湿り気を帯びていた。だがその冷たさの中に、微かな温もりを感じることもあった。まるで誰かの吐息が混じっているかのように。


静江はこの霧について何か言っていたな—ルカは朽葉温泉からの別れ際の言葉を思い出した。「霧の濃さと記憶の鮮明さは比例する」と。それは夢写師の間では古くから伝わる知恵だった。写し世の記憶は、霧の中でより強く現世に干渉するという。


遠くで時間の軋むような低い音が響き、ルカの耳を震わせた。まるで古い時計の歯車が回るような、あるいは過去の時間が積み重なる音のようだった。それは木々の間を通り抜け、霧の中で反響し、胸の奥に届くような低い振動となってルカの体を貫いた。


「霧見気象観測所…どんな場所なの?」


ルカは息を整えながら尋ねた。声の欠片と願いの欠片が胸ポケットで微かに脈打つ。それぞれの喪失を思い出させるように。両親との最後の会話と初恋の記憶—どちらも今はルカの中から消え去り、その空虚が時折痛みとなって心を刺した。


そのたびに姉の顔を思い浮かべる。「私がチヨを助けられなかったのに、なぜ私は幸せな記憶を持ち続ける権利があるのだろう」—その自責の念が、彼女が感情を閉ざした真の理由だったのかもしれない。チヨを探す旅を始めて以来、記憶の欠片が少しずつ戻ってきていた。それは喜びであると同時に痛みでもあった。取り戻すことと失うこと。彼女はそのバランスの上に立っていることを感じていた。


「戦前に建設された山頂の観測所だ。長らく気象データの収集に使われていたが、現在は廃墟となっている」


クロは足を止め、遠くを指さした。峰の上に、小さな建物の輪郭が見える。まだ朧げだが、確かにそこにあった。


「あれか」


霧の中にぼんやりと浮かび上がる灰色の建物。古い無線塔が、天に向かって伸びている。建物全体が霧に包まれ、まるで写し世そのものであるかのようだ。霧の中から、かすかに人の囁き声が風に乗って届いてくる。過去の観測員たちの声なのか、それとも単なる風の音なのか判然としない。


「風見柊介の場所か」クロが小さく呟いた。


「風見?」ルカは不思議に思って尋ねた。


「十年前の封印の際に立ち会った男だ。科学者でありながら、写し世の存在を理解していた珍しい人物」クロの声には懐かしさとも尊敬ともつかない感情が滲んでいた。


鉄と石と古い木材の匂いが、霧の中から漂ってきた。そこには時間の重みと記憶の堆積が感じられた。遠くからは風が運ぶ湿った土の香りと、金属が雨にさらされるときの独特の匂いも混じっている。


「まだ遠いわね」


「あと二時間ほどだ。日が暮れる前に着くだろう」


二人は再び歩き始めた。チクワが突然、霧の中から現れ、先導するように前を歩いていく。ときおり立ち止まっては霧の方向を見つめた。その金色の瞳が光るたび、霧が微かに反応するように揺れる。クロの様子は少し落ち着いたように見えたが、やはり何か違和感がある。右目の紋様の青い光が、時折強まったり弱まったりしている。心の乱れを反映しているかのようだ。


「猫がまた戻ってきたな」クロは小さく呟いた。「彼も何かを感じているのだろう」


チクワは前方を見つめ、鼻を鳴らした。何かの匂いを嗅ぎ取っているようだ。そして突然、速度を上げて先に進み始めた。


「何か見つけたのね」ルカは息を切らして猫を追いかけた。


山道の岩の隙間に、小さな青い花が生えていた。チクワはその花の前で立ち止まり、花を前足で優しくなぞった。花弁が青く輝き、まるで欠片のような光を放っている。


「霧の花...」クロが静かに言った。「写し世の力が漏れ出す場所に咲く」


ルカはその花に近づいた。摘み取りそうになると、クロが彼女の手を止めた。


「触れない方がいい。花はそのままに」


「でも、これが何かの手がかりかもしれない」


「花自体が手がかりではない。それが咲く場所が重要なのだ」


クロは周囲を見回した。「霧の花が咲くのは、写し世と現世の境界が特に薄い場所だけだ。観測所に近づいている証拠だな」


「月影遊園地で、あなたも欠片を手に入れたわね」


ルカの言葉に、クロの肩がこわばった。右目の紋様が激しく明滅し、何かを思い出して苦しんでいるようだった。


「何を失ったの?」


「話したくない」


その素っ気ない返事に、ルカは眉をひそめた。第4章ではもう少し打ち解けていたように感じたのに、また壁を作り始めている。その冷たさの背後に、深い痛みが隠されていることをルカは感じていた。


「私は自分の失った記憶を話したのに」


クロは立ち止まり、ルカを振り返った。狐の面の下の表情は見えないが、その声には冷たさが戻っていた。


「すべてが等価交換とは限らない。お前は必要に迫られて話した。私は…それほど親密な関係だとは思っていない」


その言葉に、ルカは傷ついた表情を隠せなかった。目の奥で何かが揺れ動き、胸に痛みが走る。いつもなら感情を抑え込むところだが、今回は違った。両親との最後の記憶を失い、初恋の記憶も手放した今、彼女の心の中で何かが変わり始めていた。抑えていた感情が少しずつ溢れ出してくる。


「わかったわ。もう聞かない」


歩き出そうとしたルカの腕を、クロが掴んだ。その手は冷たかったが、同時に震えていた。右目の紋様が弱々しく光り、内面の葛藤を示していた。


「だが…」


彼の声がわずかに柔らかくなった。狐面の下から漏れる息が、冷たい霧の中で白く凝縮する。


「チヨのことを知りたければ…それは話せる」


ルカは振り返った。クロの態度の変化に、心が少し温かくなるのを感じた。


「姉のこと?」


クロの右目の紋様が強く脈打ち、彼の声には懐かしさと痛みが混じった。霧の中で彼の姿が一瞬、別の形に見えたような気がした。人間と狐の境界が曖昧になり、その輪郭が変容していくようだった。


「チヨは…優しかった。誰よりも繊細で、誰よりも勇敢だった。彼女は写し世の声を聞き、応えることができた」


クロは言葉を選びながら、ゆっくりと語った。その声は過去の記憶を辿るような、遠い響きを持っていた。


「彼女には特別な力があった。写し世と触れ合い、そこに残る記憶と対話できる能力だ。お前のように写真を通してではなく、直接...」


ルカの中で、かすかな記憶が呼び起こされる。チヨが廃墟で佇み、誰もいないはずの空間に語りかける姿。それはいつの記憶だろう。曖昧な映像だが、チヨの笑顔と優しい声が心に蘇る。「ルカ、この声が聞こえる?」と問いかける姉の表情。それは二人が小さかった頃、父のカメラを持ち出して遊んでいた日の記憶だろうか。


「確か...姉は小さい頃から、誰も見えないものを見ていたわ」


ルカは霧に包まれた道を見つめながら言った。「私には見えなかったけど、姉はいつも『あの子が呼んでる』って言って、古い神社や廃屋に入っていった」


チクワが足元で鳴き、ルカの足に身体を擦り寄せた。金色の瞳が青く輝き、チヨの記憶に反応しているようだった。その背中の毛が一瞬、霧に反応するように立ち上がった。


「当時は恐がっていたのに、今ではその能力を羨ましく思う」ルカは小さく笑った。「でも、姉の力は彼女を孤独にもしていた。家族からも離れていくようになって...」彼女の声が途切れた。


「彼女の封印を解きたいのは…」クロは言葉を選ぶようにゆっくりと続けた。「それが彼女の望みだったから?それとも…お前自身の望みから?」


ルカは答えられなかった。本当のところ、自分でもわからない。姉を取り戻したいという願いは純粋なものだが、同時に封印を解くことの意味を完全には理解していなかった。そして、解いた後に何が起きるのかも。


「両方…かもしれない」ルカは正直に答えた。「姉に会いたい。でも、それだけじゃない。何かを取り戻さなきゃいけない気がするの。私自身のためにも」


クロは静かに頷いた。右目の紋様が安定した光を放ち、彼が何かを理解したことを示していた。


二人の間に、再び沈黙が訪れた。山道を登り続けること一時間。霧はさらに濃くなり、視界は五メートルほどに狭まっていた。風の音が次第に変わり、人の囁きや遠い笑い声のように聞こえ始めた。過去の記憶が霧に閉じ込められ、風に乗って彷徨っているかのようだ。


「明日の天気、晴れるかな」「風速を記録しろ」「霧の濃度が最高値だ」「七時四十二分、記録せよ」


断片的な声が、霧の中からルカの耳に届いた。それは過去の観測員たちの声なのか、それとも彼女の想像なのか。不思議と「七時四十二分」という時刻が繰り返し聞こえる気がした。


ルカは立ち止まり、懐中時計を取り出した。針は七時四十二分を指したまま、動いていない。だが、何かが違う。


霧が濃くなるたび、ルカの胸ポケットの懐中時計が、かすかに脈打つように揺れた。それは、目に見えぬ時の歯車が、音もなく軋み始める音だった。そして、秒針が—確かに、ほんの少しだけ—動いていた。


「おかしいわ…」


「どうした?」


「時計の…針が、少し動いたような…」


クロは時計を覗き込んだ。確かに、秒針がかすかに動いている。それは儚い希望のように、微かに時を刻み始めていた。


「封印が弱まっている証拠だ。急がねばならない」


クロの声には焦りが混じっていた。右目の紋様が青く輝き、狐の面の下の表情がこわばるのを、ルカは感じ取った。その焦りは単なる急ぎではなく、何か重大なものへの恐れのようにも感じられた。


「時間の流れは一定ではない」クロが言った。「写し世と現世の境界が薄れる場所では、時計は不規則に動く。特に七時四十二分という時刻には、何かの意味があるのだろう」


観測所へ向かう道のりで、ルカはチヨの欠片について考えていた。すでに手に入れた「声の欠片」と「願いの欠片」。胸に残る喪失感と、これから待ち受ける「時の欠片」の代償。これ以上、大切な記憶を失うことへの不安が彼女の心をよぎった。


道はさらに険しくなり、時折岩場を登らなければならなくなった。霧の中では方向感覚も狂いがちだ。ルカはチヨのことを考えながら歩いた。姉はこの道を歩いたことがあるのだろうか。封印の前に、欠片を集めたのだろうか。


霧の冷たさに、ルカは身震いした。肌に触れる霧は、まるで生きているかのように感じられ、時に優しく、時に鋭く彼女の体を包み込む。その中に記憶が宿っているような、奇妙な感覚。


チクワが前方で立ち止まり、低く唸った。その金色の瞳が霧の中の何かを見つめている。背中の毛が逆立ち、尾が警戒するように左右に振れていた。


「本当に正しい方向?」


「ああ。私は霧の中でも道を見失わない」


クロの自信は、なぜか不安を煽るものだった。彼の足取りは確かだったが、まるで来たことがあるかのように迷いがなかった。


「まるであなたはこの霧の一部みたい」


その言葉に、クロは振り返った。狐の面の下の表情は見えないが、何か強い感情を抑えているように感じられる。右目の紋様が一瞬、強く明滅した。


「その表現は…悪くない」


彼の右目の紋様が青く光り、霧がその光に反応するように渦を巻いた。まるで霧の一部が彼に従うように、彼の周りで舞い始める。風にのってチヨの遠い笑い声が、一瞬だけルカの耳に届いた気がした。


「チヨ…?」ルカは思わず声を上げた。


「気のせいだ」クロが言った。だが彼の右目の紋様は強く脈打ち、その言葉に嘘があることを示していた。


夜がすでに近づいていた。石ころの多い山道はより険しく、足を踏み外しそうになる。岩壁には幾つもの古い刻印が施され、風雨にさらされながらも判別できるものもあった。「壬午年雪七尺」「天明飢饉記念」など、過去の災害と人々の記憶が岩に刻まれていた。


「祈りのしるしね」ルカはそれを指さした。「父が言っていたわ。昔の人々は重要な記憶を石に刻み、後世に伝えたと。特に天災は忘れてはならないから」


「記憶の形を変えて保存する。写し世に近い考え方だ」クロが同意した。「だが、時が経つと文字は風化し、いずれ読めなくなる。写し世の記憶も同じだ。等しく風化していく」


さらに登ること三十分。突然、霧の中から人影が現れた。ルカは驚いて立ち止まった。写し世の住人だろうか。


「誰かいる…」


クロも足を止め、警戒の姿勢を取る。彼の右手がわずかに震え、紋様の光が強まった。チクワが毛を逆立て、低く唸りながら前方の霧を見つめる。その瞳がさらに鋭く光り、身体が弓なりになった。


霧の中から姿を現したのは、一人の若い男性だった。二十代前半、長身でやや痩せ型。茶色の髪を後ろで軽く束ね、丸眼鏡をかけている。彼は手に古い地図を持ち、首から双眼鏡をぶら下げていた。服装は現代的で、写し世の住人というよりは生きた人間のようだ。


「あ、人がいた」


男性は驚いたように言った。その声は穏やかで知的な響きがあり、霧の冷たさの中にも温かみを感じさせた。


「こんな山の中で会うとは思いませんでした」


ルカとクロは警戒を解かない。この場所に人がいることが不自然だった。クロは一歩前に出て、ルカを守るような姿勢を取った。チクワは男性の足元を注視し、まだ唸り声を上げている。


「あなたは?」


「風見蓮です。霧見気象観測所に向かっているんですが…」


男性 — 風見蓮の笑顔は、霧の中に咲く一輪の花のようだった。危うく、けれど真っ直ぐで、人を引き寄せる力を持っていた。その目には知的な光と、どこか純粋な好奇心が輝いていた。チヨの目に似た、真っ直ぐな光。


ルカは一瞬、その目に見覚えがあるような奇妙な感覚を覚えた。かつて見たことのある光、でも思い出せない。それは、欠片によって失われた記憶と関係があるのだろうか。


「風見?…もしかして風見柊介さんの…?」ルカは思わず尋ねた。クロが先ほど呟いた名前を思い出したのだ。


蓮の目が驚きに見開かれた。「そうです、祖父の孫ですが…どうして祖父の名前を?」


「偶然ではないな」クロが静かに言った。「このような場所で、この時期に、風見の孫に出会うとは」


「あなたたちも観測所へ?」


クロが一歩前に出た。狐の面が霧の中で不気味に浮かび上がる。その面から漏れる冷たい視線が、蓮を評価するように見つめていた。


「何の用だ?」


蓮は眉を寄せた。クロの敵意に気づいたようだが、それでも冷静さを保っている。彼の瞳には警戒と同時に、知的な好奇心も見えた。


「随分と警戒的ですね。祖父の遺品を回収しに来たんです。彼はかつてあそこで働いていた」


ルカとクロは顔を見合わせた。クロの右目の紋様が明滅し、その光が面の下の感情を表すようだった。チクワは唸るのを止め、蓮の匂いを嗅ぐように近づいた。猫の警戒が解けたことに、ルカは安心した。チクワは写し世の存在に敏感だった。蓮が危険な存在でないことを、猫の行動が示していた。


「祖父さん?」


「ええ、風見柊介。最後の気象観測員でした」


蓮は懐から古い写真を取り出した。霧見気象観測所を背景に立つ中年の男性。白衣を着て、真面目な表情をしている。写真に映る男性の眼差しには、鋭い観察力と知性が感じられた。まるで霧の向こうに何かを見ているかのような、鋭く澄んだ瞳だった。


「祖父は五年前に亡くなって、記録や機材がまだ観測所に残っているんです。大学の研究にも使えるかと思って」


ルカは写真を見て、警戒を解いた。彼の話は整合性があるように思える。また、蓮の瞳に映る誠実さと知性は、偽りのないものに感じられた。その透明な視線に、ルカは心を動かされた。


しかし、クロはまだ疑いの目を向けていた。右目の紋様が勢いよく脈打っている。チクワは蓮の周りを一周し、もう敵意は見せていなかった。むしろ、親しげに足元に擦り寄るような仕草さえしていた。


「あなたも気象学者?」


「大学院で気象学を勉強しています。祖父の記録を整理しながらね」


蓮は再び笑顔を見せた。どこか純粋で、誠実さを感じさせる青年だ。彼の目にはチヨに似た、真っ直ぐな光があった。ルカは瞬間的に既視感を覚えた。チヨと一緒に過ごした夏の日、霧の小道を歩いた記憶の断片が頭をよぎる。井戸の水音と姉の笑い声が耳に蘇った。


「一緒に行きませんか? この霧の中、一人で行くより安全でしょう」


クロは警戒的なままだったが、ルカは頷いた。何かが彼女の直感を揺さぶった—この出会いは偶然ではないという予感。チクワの態度も、その直感を後押ししていた。


「静江さんが言っていたわ」ルカは小さく呟いた。「旅の途中で導き手が現れる、と」


「そうね。私たちも観測所に向かっているの」


「目的は?」


「…研究よ」


ルカは曖昧に答えた。完全な嘘ではなかったが、本当の目的は話せなかった。蓮はそれ以上追及せず、頷いた。彼の瞳には理解があり、無理に踏み込まない思慮深さが見えた。


「じゃあ、ご一緒しましょう」


三人は山道を登り始めた。チクワが先頭を歩き、ときどき立ち止まっては蓮の方を振り返る。蓮は地図を見ながら進み、時々会話を交わす。彼の話し方は論理的で、同時に熱意に満ちていた。


「この辺りは霧が深いことで有名なんです。祖父は『霧の中に過去と未来が見える』と言っていました」


その言葉に、ルカは思わず足を止めた。それはまさに写し世の本質を表していた。蓮の祖父は、科学者でありながら写し世の存在を感じ取っていたのだろうか。


「興味深い考えだ」


クロが珍しく会話に加わった。その声には警戒心と共に、微かな関心も混じっていた。彼の右目の紋様が蓮を評価するように明滅していた。


「彼は…特殊な能力を持っていたのか?」


「能力というか…」蓮は言葉を選ぶように間を置いた。「祖父は異常に正確な気象予報ができたんです。特に霧の発生と消滅について。地元では"未来を予知する気象学者"と呼ばれていました」


「面白いわね」


ルカは本心からそう思った。写し世に関わる能力を持つ人間は珍しい。彼女自身、夢写師としてその世界と関わることができても、チヨのように直接対話することはできなかった。科学者でありながら予知能力を持つ祖父を持つ蓮に、彼女は共感を覚えた。


「それで、彼の記録を研究しているんですか?」


「ええ。祖父は暗号のような記録を残していて…解読しようとしているんです」


蓮の話は次第に熱を帯びてきた。彼の瞳が輝き、手振りが活発になる。その姿は、何かに取り憑かれたような情熱を感じさせた。科学者の冷静さと、探求者の熱意が混ざり合い、独特の魅力を放っていた。


「祖父は気象パターンと人間の記憶の関係性について研究していました。彼の仮説では、霧の濃さと記憶の鮮明さには相関関係があるそうです」


ルカは驚いた。これは夢写師の知識と重なる部分がある。彼女の祖母も同じようなことを言っていた気がする。霧に包まれると、写し世の記憶が現世に漏れやすくなる。それは夢写師の間では常識だった。


蓮がそれを科学的に研究していたと知り、ルカは心の中で何かがつながっていくような感覚を覚えた。科学と神秘の境界。それはルカの世界とも、どこかで繋がっていた。


「例えば?」


「霧が深まると人々は過去の記憶を鮮明に思い出し、霧が晴れ始めると未来の予感が強まる…そんな研究です」


蓮は目を輝かせながら続けた。彼の声には科学者の冷静さと、探求者の情熱が混ざり合っていた。


「祖父は霧梁県の気象データを50年以上記録していて、その中に周期的なパターンを発見したんです。特に七時四十二分という時間に、霧の濃度が最大になる日があるという…」


クロが急に足を止めた。右目の紋様が強く脈打ち、彼の身体が緊張で固まった。チクワも同時に立ち止まり、クロの方を見つめた。


「その理論…どこで発表された?」


クロの声には緊張が混じっていた。蓮の祖父の研究が、何か重大な意味を持つことをクロは理解したようだった。


「発表はされていません。祖父は正式な論文にはしませんでした。"科学的根拠に欠ける"と言われるのを恐れていたようです」


蓮は肩をすくめた。その仕草には科学者と神秘主義者の間の葛藤が表れているようだった。


「でも彼のノートには膨大なデータがあります。私が解読して、いつか形にしたいと思っています」


会話をしている間に、霧が少し薄くなってきた。そして突然、目の前に霧見気象観測所の建物が姿を現した。


「着いたみたいね」


三階建ての古い建物。コンクリート造りで、戦前の堅牢な建築様式が残っている。屋上には風速計や無線塔が立ち、側面には階段が這うように伸びていた。窓の多くは割れ、壁面には苔が生えている。建物全体からは時間の重みと、どこか神秘的な雰囲気が感じられた。


霧が流れるように建物を包み込み、その輪郭を幻想的に浮かび上がらせていた。壁面に生えた苔や蔦が時間の流れを象徴し、割れた窓ガラスから覗く内部の暗がりは、過去の記憶が眠る深淵のようだった。


風が運ぶ匂いは、古い金属と湿った石材の匂い。そこには過去の時間が染み込んでいるようだった。風が建物を通り抜けるたびに、かすかな囁き声のような音が聞こえる。記録する鉛筆の音や、観測機器が奏でる律動的な音、古い天気図が風にめくれる音が、風の中から聞こえてくるような錯覚を覚えた。


「ずいぶん古いのね」


「ここは戦前から戦後にかけての気象観測の重要拠点でした。特に霧梁県の異常気象の研究に貢献したんです」


蓮は懐かしむように建物を見上げた。彼の目には深い愛情と尊敬の色が浮かんでいた。


「子どもの頃、何度か祖父について来たことがあります」


蓮の瞳には、幼い日の記憶と祖父への敬愛が映っていた。彼にとって、この廃墟は単なる研究対象ではなく、個人的な思い出が詰まった場所なのだった。


「祖父は特別な壁画を見せてくれたんです」彼は急に思い出したように言った。「壁に描かれた霧の波紋の図。幼い目には不思議なパターンに見えましたが、祖父は『これは時間の流れの地図だ』と言っていました」


三人は建物の入り口に向かった。扉は鎖で固定されているが、錆びて弱くなっている。蓮が鎖を引っ張ると、簡単に外れた。


「鍵が壊れてるわね」


「そうですね。地元の子どもたちが忍び込んだりしているみたいです」


扉を開けると、中は薄暗く、埃が舞っていた。廊下には落ちた天井材や壁紙が散乱し、床には小動物の足跡が残っている。廃墟の静寂は、どこか時間が止まったかのようだった。


空気は冷たく、湿っており、カビの匂いと古い紙の香りが混ざっていた。ルカは思わず身震いした。この場所には確かに「記憶」が染み込んでいた。写し世の力が強い場所特有の、時間が層になって積み重なる感覚。


しかし、その静寂の中に、かすかな囁き声が混じっていた。過去の観測員たちの声が、時間の層を超えて漏れ出しているかのよう。「明日は雨だ」「霧の予報を出せ」「七時四十二分、記録せよ」…風に乗って断片的な声が響く。


壁にはいたるところに観測データが残されていた。日付と時間が記された古い気象図、等圧線の描かれた地図、霧の濃度を示すグラフなど。それらは大部分が風化していたが、いくつかはまだ判読可能だった。とりわけ目立つのは、「七時四十二分」という時刻が赤で何度も丸で囲まれた記録だった。


「注意して歩いてください。床が抜ける場所もあります」


蓮が先導し、三人は中に入った。チクワも彼らの後に続き、鼻を鳴らしながら床の匂いを嗅いでいた。廊下を進むと、広い部屋に出た。観測室だろうか。壁一面に計器や図表が並び、中央には大きな作業台がある。


「ここが祖父の仕事場です」


蓮が言った。彼は作業台の引き出しを開け、中身を確認し始めた。引き出しから古びたノートや黄ばんだ図表、フィルムケースなどが次々と出てくる。彼の手つきには、大切な宝物を扱うような丁寧さがあった。


「記録ノートを回収したいんです」


ルカはクロに目配せした。欠片はどこにあるのだろう。クロは小さく頷き、部屋を探索し始めた。彼の右目の紋様が青く光り、その光が部屋の隅々を照らすようだった。まるで写し世の残響を探るかのように。チクワも何かを感じたように、部屋の端にある棚の方へと歩み寄った。


観測室全体からは、科学と神秘の奇妙な融合が感じられた。精密な計器と手書きのメモ、数値データと詩的な気象描写。風見柊介は明らかに、合理的な科学者であると同時に、見えない世界を感じ取る直感の持ち主でもあったのだろう。


老朽化した机の上には、写真立てがあった。埃をかぶり、ガラスが割れているが、写真は健在だった。そこには蓮の祖父と、小さな男の子—おそらく幼い蓮—そして女性が写っている。女性の顔は光の反射で見えなかったが、白い小袖のような衣装を着ているようだ。


ルカは壁の計器を見て回った。気圧計、湿度計、風向計…すべて古く、機能していないように見える。金属の表面には錆が浮き、ガラス部分には埃が厚く積もっていた。だが一つだけ、針が動いている時計があった。どこかで聞こえる心音のように、秒針だけが微かに脈打っていた。


「この時計…」


「あぁ、それは祖父の自慢でした」


蓮が近づいてきた。彼の顔に興奮の色が浮かぶ。埃をかぶった古い時計にも関わらず、その針だけは生き続けていた。


「特殊な機構で、湿度と気圧の変化に応じて針の動きが変わるんです。普通の時計ではない」


ルカは時計を見つめた。その針は正確に七時四十二分を指している。胸ポケットの懐中時計と同じ時刻。偶然ではないことは明らかだった。時計の文字盤には霧を表す波打つ模様が刻まれ、その上を針が微かに震えながら進んでいた。


「七時四十二分…」


「そうです、正確にそうです」蓮の声が驚きに満ちる。「祖父がよく言っていました。"七時四十二分に霧が最も濃くなる"とね」


ルカとクロは顔を見合わせた。これは偶然ではない。クロの右目の紋様が強く脈打ち、その青い光が時計の文字盤に反射した。時計の周囲の空気が微かに震え、時間の波紋が広がるように見えた。


「その時間に…何が起きるの?」


「祖父によれば、写し世との境界が最も薄くなるんだそうです」


蓮の言葉に、ルカは息を呑んだ。彼が「写し世」という言葉を知っているとは。しかも、それを自然に口にした。ルカの目が大きく見開かれ、クロも明らかに緊張した様子だった。


「写し世…?」


「ええ、"記憶の世界"とも呼んでいました。祖父は科学者でしたが、同時に…独特の感性を持っていたんです」


蓮は祖父のノートを取り出し、ページをめくった。そこには細かい字で書かれた観測記録と、奇妙な図表が並んでいた。数値データの横には、詩的な文章や神秘的な記号が書き込まれている。科学と神秘が、奇妙な調和を保ちながら共存していた。


「祖父の記録によれば、霧の濃度は記憶の波動と比例関係にあり、特定の条件下では現実と記憶の境界が溶ける」蓮はノートの一節を読み上げた。「彼の理論では気圧変動と集合的無意識が共振し、そのピークが七時四十二分に訪れる」


ルカは蓮のノートを覗き込んだ。そこには天気図と共に、複雑な幾何学模様が描かれていた。中心部分には「記憶の結節点」という言葉があり、霧梁県の地図上に複数のマークが付けられていた。その一つが霧見気象観測所だった。


「何かの暗号のようね」


「そうなんです。祖父は科学と、見えない世界の橋渡しをしようとしていました」蓮の声には尊敬の念が滲んでいた。「私もそれを継ごうとしています。見えないからこそ、測定し、理解したい」


クロが部屋の隅から声をかけた。


「ここに何かある」


振り返ると、クロは小さな扉を示していた。書類保管庫のようだ。チクワがその扉に前足をかけ、低く唸っていた。金色の瞳が青く輝き、扉の向こうに何かを感じ取っているようだった。


「あぁ、コレクションルームですね」


蓮が言った。


「祖父の個人的な収集品が保管されています。特に異常気象の記録や…」


彼は言葉を切った。何か言いよどむ様子がある。蓮の表情がわずかに曇り、迷いの色が浮かぶ。眼鏡の奥の瞳が揺れ、何かと闘っているような表情だった。


「何かあるの?」


「…実は、祖父はある特殊な現象を記録していました。十年前の夏至の夜に起きた、霧梁県全域での"記憶の異常"について」


ルカの心臓が早鐘を打った。十年前の夏至…それはチヨが封印した夜と同じだ。胸ポケットの欠片たちが、共鳴するように脈打つ。ルカの意識の奥で、何かがつながり始めていた。すべては偶然ではない。蓮との出会いも、この場所も。


「どんな記録?」


「霧梁県の住民が一斉に"何かを忘れた"という報告です。特に久遠木周辺で顕著だったとか」


蓮はコレクションルームの扉を開けた。中は狭く、壁一面に棚が設置され、記録用紙や小さな機材が整然と並んでいる。部屋の空気は異様に冷たく、埃の匂いに混じって何か異質な香りがした。それは春の雨の後の土の匂いのようでもあり、冬の霜が降りた朝の空気のようでもあった。時間そのものの香りと言えるかもしれない。


「すごい…」


部屋の中央には小さな台があり、その上にガラスケースが置かれていた。中には青い結晶—時の欠片がある。それは淡く脈打ちながら光を放ち、周囲の空気を明滅させていた。欠片の存在が時間の流れを歪め、部屋の空気がわずかに波打っているようだった。チクワが欠片に向かって前足を伸ばし、金色の瞳が青く輝いた。


「これは…」


蓮はガラスケースに近づいた。クロの紋様が強く光り、彼の体から緊張が伝わってくる。まるで何かを恐れているかのように。ルカは彼の横顔を見た。狐面の下でどんな表情をしているのか、想像もできなかった。だが、その姿勢には明らかな警戒感があった。


「祖父の最大の謎です。彼はこれを"時の結晶"と呼んでいました。"過去と未来を繋ぐもの"だと」


クロがルカに目配せした。欠片を見つけたのだ。だが、蓮がいる状況でどう取り出すか。ルカは困惑した表情をクロに向けた。相手を欺くことに慣れていないルカにとって、これは難しい状況だった。


「触れても大丈夫なの?」


「祖父は…特別な場合にだけ触れていたようです。何か儀式のような…」


蓮は言葉を選びながら続けた。彼の目に閃きが走り、表情が真剣になる。その瞳には鋭い観察力と、何かを悟ったような理解が宿っていた。


「あなたたち…普通の研究者ではないですね?」


ルカは驚いた。蓮の観察力は鋭い。さらに、彼は恐れるというより好奇心に満ちた眼差しを向けていた。その目には、同志を見つけたような喜びさえあった。


「何が言いたいの?」


「僕は小さい頃から、写し世のことを祖父から聞かされてきました。記憶の世界、境界の薄さ…そして、それに関わる人々のこと」


彼は真剣な表情でルカを見た。その目には純粋な好奇心と、何かを見いだした喜びがあった。


「あなたが次の夢写師か。橋爪の娘」


「あなたは…私の家系を?」


ルカの声が震えた。蓮が自分の正体を知っていたとは。それはどういうことなのか。クロの右目の紋様が激しく明滅し、彼も明らかに動揺していた。チクワは静かに座り、二人の会話を見守るように耳を立てていた。


「もちろんだ。私の祖父は五十年以上、この地にいる。影向稲荷の神主とも交流があったし、夢写師の存在も知っていた」


蓮の声には確信があった。その瞳は、科学者の冷静さと、神秘への畏敬を同時に湛えていた。


「チヨという名前…祖父のノートにもあります」蓮は興奮を抑えられないようだった。「"橋爪ルカ——封印の継承者"という記述と共に」


その言葉に、ルカは息を呑んだ。蓮の祖父は、自分のことを知っていた。そして「封印の継承者」という言葉に、胸が締め付けられる思いがする。


「私たちは…封印された何かを解き明かそうとしています」


蓮は頷いた。彼の表情は真剣で、しかし怖れはなかった。


「"神の欠片"を探しているんですね」


その言葉に、ルカとクロは言葉を失った。チクワは耳を立て、鋭く蓮を見つめた。


「なぜそれを…」


「祖父のノートに書かれていました。"神の力の九つの欠片"について。そして、それを集める方法と、代償について」


蓮は再びノートをめくった。そこには欠片の形状や性質が詳細に記録されていた。「声」「願い」「時」「光」「影」「封印」…その他いくつかの言葉が並んでいる。風見柊介の几帳面な筆跡で書かれた記録は、科学的データと神秘的な描写が絶妙に融合していた。


「祖父は欠片のことを研究していた…」ルカは驚きの表情を隠せなかった。「どうして?」


「祖父は…封印の儀式の目撃者だったからです」


その言葉に、クロが強く反応した。右目の紋様が激しく光り、彼の体が震えた。狐面の下から、荒い息遣いが聞こえてきた。


「柊介…あの日、いたのか」


クロの声には、思いがけない感情が混じっていた。懐かしさ、痛み、そして微かな希望。彼の姿勢からは、急に姿勢を正したような緊張感が伝わってきた。


「ええ、祖父は科学者として現象を記録するつもりでしたが…その日見たものは科学では説明できなかったそうです。それからは、科学と超常の境界を研究するようになった」


蓮は部屋の奥の棚から、古い革製のノートを取り出した。ページをめくると、そこには精巧なデッサンと共に記録が残されていた。


「封印の夜、空気中の湿度が急激に変化し、霧が放射状に広がった。そして七時四十二分、月明かりが最も強くなったとき…」


蓮は中央のページを開いた。そこには神社の境内と思われる場所が描かれ、白い着物を着た少女—チヨだろうか—が描かれていた。少女の周りには霧と光が渦巻き、九つの小さな光が放射状に飛び散る様子が記録されていた。


「祖父はこれを『記憶の放射』と呼んでいました。九つの欠片が生まれる瞬間です」


ルカは息を呑んだ。封印の瞬間がこんな形で記録されているとは。チクワが低く鳴き、蓮のノートに近づいてきた。その瞳がノートに映る光に反応し、青く輝いている。


「それに、もう一つ…」蓮は恐る恐るページをめくった。「祖父は村全体が記憶を失う様子も目撃していました。"夕霧村"と呼ばれる集落です」


「夕霧村…」クロが小さく呟いた。彼の声には痛みが混じっていた。


「ガラスケースの欠片は…どこで見つかったの?」ルカは視線をそらすように話題を変えた。


「祖父が霧見山の山頂で発見したそうです。十年前の封印の直後に」


蓮はガラスケースを開け、慎重に青い結晶を取り出した。結晶は手のひらに乗せられると、より鮮やかに脈動し始めた。


「祖父はノートにこう書いています。『時の欠片は予知と選択の記憶を司る。触れる者に未来の断片を見せるが、代わりに最も重要な選択の記憶を奪う』」


蓮は結晶をルカに差し出した。


「祖父はこれをあなたに託すつもりだったのかもしれない。だから、観測所に保管し続けたんでしょう」


ルカは躊躇した。すでに二つの記憶を失っている。これ以上、大切な記憶を失うことへの恐れがあった。だが、チヨを救うためには必要な犠牲だと分かっていた。


「重要な選択の記憶…」


ルカは欠片を手に取った。その瞬間、冷たさと温かさが同時に彼女の体を走った。頭の中に光の流れが見え始め、過去と未来の断片が万華鏡のように交錯する。チヨが笑うところ、クロが面を外すところ、見知らぬ廃墟で何かを見つけるところ…そして光の教会?


頭に鋭い痛みが走り、彼女は膝をつきそうになった。何かが引き抜かれていく感覚。誰かと約束をした記憶、重要な決断をした瞬間が、砂時計の砂のように流れ落ちていく。


「チヨの…最後の夢…」


ルカの脳裏に、一瞬だけ光の残像が差し込んだ。それは、祭壇の上で横たわる少女の姿。白い着物を着た少女が、満月の下で微笑み、何かを夢見ている。その口元が動き、言葉を紡ぐ。「ルカ、わたしの選んだ道を…」


画像が霧のように薄れ、消えていく。痛みを伴いながら。


「姉が見た…最期の夢の記憶…」


ルカは震える声で言った。「封印の夜、チヨが最後に見た夢の内容。それが消えていく…」


彼女は床に膝をつき、頭を抱えた。欠片が冷たい光を放ち、時計の針が微かに動き始めた。部屋の空気が揺れ、時間の歪みが広がっていく。


蓮は驚いた表情でルカを見つめていた。彼の顔には恐れより、科学者としての純粋な驚きと、人間としての同情が混ざっていた。


「記憶の代償…」彼は小さく呟いた。「祖父のノートに書かれていた通りだ」


クロがルカに近づき、肩に手を置いた。その手は冷たかったが、同時に支えるような強さもあった。


「大丈夫か?」


「ええ…少し、めまいがするだけ」


ルカは立ち上がろうとしたが、足がふらついた。クロが彼女を支え、蓮も心配そうに近寄ってきた。


「休んだ方がいい。私の記録では、欠片の影響は徐々に和らぐはずだ」


蓮の言葉に、クロは驚いたような視線を向けた。


「風見柊介の孫は、やはり特別だな」


「祖父の記録を研究してきただけです」蓮は照れたように言った。「科学と神秘の境界を探る。それが私の使命です」


クロはしばらく蓮を見つめた後、頷いた。


「協力してくれないか」


「え?」


「写し世と欠片の研究に。そして…夕霧村の記憶を取り戻すために」


クロの提案に、蓮の目が輝いた。その瞳にはチヨに似た純粋さと、知性の光が宿っていた。


「もちろんです。祖父の遺志を継ぐためにも」


彼の返事は迷いのないものだった。科学的探究心と、神秘を理解したいという純粋な願いが、彼の決断を支えているようだった。


観測室の窓の外で、突然風が強まり、霧が渦を巻き始めた。窓ガラスが震え、建物全体が軋むような音を発した。チクワが毛を逆立て、窓の外を見つめながら低く唸っている。


「何かいる」クロが静かに言った。彼の右目の紋様が激しく明滅し、身体が緊張で固まっていた。


霧の中から、黒い影が見えた。人の形をしているが、顔は見えない。影は窓の前に立ち、じっとこちらを見つめているようだ。


「誰か…いる」ルカは小声で言った。


クロが窓に近づき、外を見た。右目の紋様が激しく光り、彼の体が警戒で固まった。


「観察者だ。欠片を求める者たちの一人。彼らは封印を守ろうとしている」


「私たちの敵?」


「必ずしもそうとは限らない。だが、欠片を集めることを望まない存在だ」


外の影は既に消えていたが、見られているという感覚が残った。これからの旅はさらに危険になるだろう。彼らは単に記憶の喪失だけでなく、実体的な敵とも向き合わなければならないのだ。


「では、次の目的地に向かおう」クロが言った。「明日は山中の廃教会だ。そこには『光の欠片』が眠っている」


ルカは微かに頷いた。彼女の頭はまだふらつき、失われた記憶の空白を埋めようと必死に働いていた。チヨの最後の夢…それがどんなものだったのか、もう思い出すことはできない。だが、何かとても大切な手がかりだったような気がする。


「今夜は、ここで休みましょう」蓮が提案した。「観測所には簡易ベッドがあります。祖父が泊まることもあったんです」


三人は観測室に戻り、蓮が古いロッカーから毛布を取り出してきた。汚れてはいるが、使えるものだった。チクワは窓辺に座り、外の霧を見つめている。その瞳が時折青く輝き、何かを感じ取っているようだった。


夜が更け、月が雲に隠れたり現れたりする中、三人は簡易ベッドで眠りについた。ルカの夢は断片的で、時間が混乱したものだった。チヨと過ごした幼い日々、遊園地でのカナの姿、そして祭壇の上のチヨ。だが、最後の夢の内容だけは、どうしても思い出せなかった。


「姉が選んだ道…それはどんな道だったの?」


彼女の問いかけは夢の中で反響するだけで、答えは返ってこなかった。代わりに、時の欠片が彼女の胸ポケットで微かに脈打ち、未来への道を示しているようだった。


翌朝、霧が晴れ始め、山の景色が見えるようになった。蓮は観測所の記録を何冊かノートに整理し、ルカとクロは次の旅の準備をしていた。


「光の欠片が教会にあるなんて、興味深いですね」蓮が言った。「科学と信仰の交差点…祖父なら喜んだでしょう」


彼の眼鏡に朝日が反射し、知的好奇心に満ちた表情が輝いていた。若い科学者の探究心と、見えない世界への敬意。その両方を持ち合わせた彼は、この旅にとって貴重な仲間になるだろう、とルカは感じた。


チクワが窓から飛び出し、外の石段に座った。遠くに見える山々を見つめ、何かを感じているようだ。ルカも窓の外を見た。霧の向こうに見える峰々、そして雲の切れ間から見える青空。感情を閉ざしていた彼女の心に、少しずつ光が差し込んできているようだった。


だが、窓の外の霧の中に、再び黒い影が見えた。人の形をした影が、じっと観測所を見つめている。


「また来た...」クロが小さく呟いた。


「何者なの?」ルカは声をひそめて尋ねた。


「観察者だ。彼らは欠片の動きを監視している。チヨの封印を守る存在かもしれないし...あるいは」クロの言葉は途切れ、彼の姿勢がさらに緊張した。


蓮が窓に近づき、外の影を見た。彼の顔に浮かぶ表情は、恐怖よりも科学的好奇心を示していた。


「祖父のノートにもありました。『黒い影の観察者』について。彼らは境界の守護者だとか」


「危険なの?」


「必ずしも敵ではない」クロが答えた。「だが警戒は必要だ。彼らは欠片を集めることを望まない。封印を維持したいのだろう」


蓮はノートを開き、何かを書き込んだ。


「行きましょうか」ルカは二人に言った。「次の場所へ」


山を下る時、蓮は祖父の記録をバッグに詰め込み、懐から小さな測定器を取り出した。それは懐中時計のような形をしていたが、針が複雑な動きをしている。


「祖父の発明品です。霧の濃度と時間の波動を測定する装置。これから役立つかもしれない」


クロはそれを興味深そうに見た。


「風見柊介は本当に特別な科学者だったな」


「はい。彼は『見えないものを測定する』ことが科学の本質だと言っていました」蓮は誇らしげに言った。「目に見えぬものだからこそ、その影響を測り、理解する。それが祖父の科学でした」


三人は山道を下りながら、次の目的地である山中の廃教会について話し合った。クロによれば、そこには光の欠片があり、「真実と啓示を司る」力を持つという。


ルカは胸ポケットの欠片たちを確かめた。すでに三つを手に入れ、代償として三つの記憶を失った。両親との最後の会話、初恋の記憶、そしてチヨの最後の夢。それぞれの喪失が、彼女の内側に空洞を作っている。だが同時に、その空洞が新たな感情で満たされつつあるようにも感じた。


「今後、欠片を見つける度に、私はもっと記憶を失うわね」


「そうだ」クロは静かに答えた。「だが、同時に何かを得る。それが欠片の本質だ」


「失うことで得る—」蓮がノートに何かを書き込みながら言った。「祖父の理論では、全ての記憶は失われるのではなく、形を変えて別の場所に存在すると言っていました」


風が柔らかく吹き、三人の髪を揺らした。下界からは、遠く鳥の鳴き声が聞こえ、日常の世界が彼らを待っているようだった。チクワは時折足を止め、何かを感じ取るように耳を動かしていた。その金色の瞳には、これから訪れる道程への予感が映っているようだった。


「今夜は久遠木に戻りましょう」ルカが提案した。「そして明日、廃教会へ向かいましょう」


視界の端に、再び黒い影が見えた気がした。だが、振り返ると何もなかった。ただ霧が渦巻いているだけ。それでも、誰かに見られているという感覚は消えなかった。


観察者は彼らを監視し続けている。封印の秘密が少しずつ明らかになるにつれ、新たな危険も近づいていた。ルカは決意を新たにした。どんな代償があろうと、姉を取り戻すために前に進むと。


山を下りながら、ルカはチヨの封印について考えていた。欠片を集めることが、本当に姉を救うことになるのか。そしてもし救えたとして、それは何を意味するのか。喪失した記憶の痛みと引き換えに、彼女は本当にチヨを取り戻すことができるのだろうか。


蓮の言葉が風に乗って届いた。「祖父はよく言っていました。『記憶と時間は平行線のようなもの。交わることはないが、常に共に進む』と」


その言葉が、ルカの心に残響した。失われた記憶と、これから集める記憶。それらはすべて、チヨを取り戻すための旅路の一部なのだ。時の欠片を手に入れたことで、彼女の中で時間の感覚も少しずつ変わり始めていた。過去と未来が交差するその瞬間に、彼女は立っているのかもしれない。


ルカは深呼吸した。山の空気は澄んでいて、霧はすっかり晴れていた。目の前には、次なる目的地への道が続いている。時の欠片が伝えた未来の断片が、彼女の心の中でゆっくりと意味を成し始めていた。


朝日が雲間から差し込み、三人の影を地面に長く伸ばした。それぞれが異なる思いを胸に、しかし同じ方向を目指して歩いていく。


山の稜線が彼らの眼前に広がり、その向こうに次なる試練と発見が待っていた。観察者の影が彼らを追いながらも、ルカは前進を続けた。時の欠片から感じる未来への予感と、失われた過去の痛みを抱えながら、彼女は歩みを続けた。


目的地までの道のりは、まだ遠い。だが、一歩一歩が確かに、チヨとの再会に近づいているはずだ。そう信じながら、彼女は新たな旅立ちの朝を迎えていた。

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