第4章「失われた約束」
誰かの記憶に触れるたび、私は少しずつ沈んでいく。
まるで湯けむりの中に溶けてしまうみたいに。
でも、沈んだ先で見える景色こそが、きっとその人が最後に残したかったもの。
「ここに、まだ残っているかもしれない——」ルカの指先が、古びた地図の一角に触れる。その場所には、かすかに『朽葉温泉旅館』と書かれていた。「あの約束の場所、か…」
ルカは古い地図を指でなぞった。久遠木から東へ十キロほど、山間の細い道を進んだ先にある。かつては名湯として栄えたが、今は廃墟となって四十年。指先が地図の上を辿る間も、胸元の懐中時計が微かに脈打つように感じられた。時計の針は止まったままだったが、不意にルカの胸元で微かな震えを伝えた。——まるで、記憶が疼いたように。
「知ってるの?」
クロはルカの横顔を見た。右目の紋様が青く明滅し、彼の関心を物語っていた。風が吹き抜け、一瞬彼の輪郭が青緑の霧に溶け込むように揺らいだ。
「新聞で読んだことがある。四十年前に火災があって…」
言いかけて、ルカは首を振った。それは読んだ記憶ではなく、誰かから聞いた話だった。晴れた日の縁側、桜の花びらが散る中、穏やかな声で語られた物語。
「チヨが教えてくれたのね」
その名前を口にすると、脳裏に映像が流れ込んだ。七歳のルカと十二歳のチヨ。「ねえ、いつか二人で行こうね。あの温泉、治癒の力があるんだって」と笑う姉の顔。遠く、時間の軋むような音が響き、その声が過去からの反響のように彼女の耳を震わせた。「ここなら、心も体も癒される」というチヨの言葉が蘇る。どこか期待を込めた表情で、姉は小さな彼女の手を握っていた。
クロは無言で頷いた。面の下の表情は見えないが、彼の姿勢からは何かを隠しているような緊張が感じられた。二人は森の中の狭い山道を進んでいた。陽は傾き始め、木々の間から漏れる光が斑模様を地面に描いている。
「この先で一泊するつもりか?」
「ええ、日が暮れる前に着きたいわ」
実際には、朽葉温泉旅館はルカの写祓の仕事で一度だけ訪れたことがあった。だが、それは表面的な仕事だった。旅館の所有者から「時々、湯気の中に人影が見える」と依頼され、簡単な写祓を行っただけ。深く関わらなかった場所だ。しかし今、再び訪れると思うと、心が不思議と騒ぐのを感じた。湯気に包まれた幼い頃の記憶が、断片的に蘇ってくる。チヨと手をつなぎ、木の廊下を歩く足音。温泉の硫黄の香り。遠い笑い声。
「そこには…どんな欠片があるの?」
「声の欠片」クロが答えた。「言葉と約束を司る欠片だ」
彼の声には、いつもの冷静さの下に、かすかな熱が混じっていた。紋様が強く光り、その青い輝きが顔の半分を照らす。
「どうやって見つけるの?」
「見つける必要はない。それは自ら現れる」クロは立ち止まり、ルカを見つめた。「問題はそれを手に入れる方法だ。お前は…代償を払う覚悟があるか?」
ルカは黙って前を見た。心の片隅で、失うものへの恐れを感じた。だが、それ以上に強いのは姉の声を取り戻したいという願い。懐中時計が胸ポケットの中で震え、心臓の鼓動と共鳴するように感じられた。
道が開け、視界が広がった。谷あいの霧が晴れた瞬間、沈黙を守るように立ち尽くす旅館の影が見えた。屋根の一部は崩れ、窓には風の鳴く音が響いていた。まるで"忘れ去られた記憶"が形を保っているかのように——。朽葉温泉旅館だ。明治時代の面影を残す立派な和風建築。だが、今はその姿も朽ち果て、廃墟と化していた。屋根の一部が崩れ、壁には蔦が絡みつき、かつての威容を自然が飲み込もうとしていた。
「なんだか…懐かしい」
ルカの言葉に、クロが足を止めた。
「来たことがあるのか?」
「仕事で一度。だけど、その前にも…」
頭の中で記憶が揺れる。幼い頃、どこかで見た光景。湯気の向こうの笑顔。母の手を引かれて廊下を走る足音。それは本当の記憶なのか、それとも欲しい記憶が生み出した幻なのか。父のカメラを構える手、母の穏やかな横顔。家族の断片的な記憶が、霧のように曖昧に浮かんでは消える。
二人は旅館の前に立った。「朽葉温泉旅館」と彫られた古い木の看板が、今にも落ちそうに傾いている。入り口には「立入禁止」の札が下がっているが、風雨で色あせていた。
入口に立つと、空気が変わった。ほんのり湿った温かさが肌を撫で、遠い記憶を呼び起こす。ルカの皮膚が敏感に反応し、一瞬だけ彼女の黒いコートが白く見え、周囲の色彩が反転した。写し世の干渉だ。温泉旅館は特に写し世との境界が薄い。数多の人々が過ごした感情と記憶が、建物そのものに染み込み、時間の通路を作り出している。
「入りましょう」
ルカが一歩を踏み出した瞬間、風が吹いた。冷たく、どこか懐かしい香りを含んだ風。彼女の背筋に震えが走る。髪が宙に浮くような感覚——それは写し世の気配だった。声の欠片の存在を感じ取ったのかもしれない。
古い引き戸を開けると、広い玄関ホールがあった。埃と朽ちた木の匂いがする。天井からは蜘蛛の巣が垂れ下がり、かつての豪華な調度品も打ち捨てられたままだ。しかし、目を凝らすと、影の中にかすかな動きが見える。まるで過去の旅行客の幽霊が、今も往来しているかのように。
「夕方になると、湯気が立ち込める時間がある」
クロが言った。「かつてのご主人の習慣で、毎日午後六時に湯を沸かしていたからな」
「まだ… 機能してるの?」
「いや、配管は壊れている。だが、写し世の記憶は繰り返される」
クロの言葉に、ルカは辺りを見回した。確かに、部屋の隅々から微かな湯気が立ち始めていた。それは現実の蒸気ではなく、半透明の記憶のようだった。温泉旅館特有の硫黄の匂いが、かすかに漂う。ルカは不意に、影向稲荷の泉の水を思い出した。チヨが「この水は特別」と言って、現像液に混ぜていたことを。
ルカは時計を見た。五時四十分。あと二十分で、幽霊のような湯気が現れるというのか。時間が経つにつれ、空気が濃密になっていくのを感じる。まるで水中に沈むような、不思議な圧迫感。
「大浴場はどこ?」
「裏手だ。ついてこい」
二人は朽ちた廊下を進んだ。床板が軋む音が、不気味に空間に響く。ルカのカメラバッグが重く感じられた。懐中時計がポケットの中で脈打つような気がする。心の準備をしつつ、彼女は深呼吸した。この場所で何か重要なものを見つけるという確信と、同時に何かを失うという恐れ。写祓の危険と同じだ。写し世に触れれば触れるほど、自分の記憶も危うくなる。
廊下の壁に古い写真が掛かっていた。昭和初期の旅館の全盛期を写したもの。笑顔の客たち、整然と並んだ仲居さんたち。かつての賑わいが、今の廃墟と対照的だ。遠く、笑い声と湯船に浸かる音が幻聴のように聞こえた。過去の記憶が、音となって空間に滲む。
「この場所…時間が歪んでる」
ルカは感じた。廊下を進むにつれ、時計の針が不規則に動いているような感覚。一歩進むごとに、過去と現在が入れ替わるような目眩。一瞬、自分が七歳に戻ったような錯覚。廊下の向こうにチヨの後ろ姿が見え、姉に追いつこうとする幼い自分。それは記憶か、それとも写し世の幻か。
「写し世と現世の境界が薄いんだ」クロが言った。「特に、強い思いが残る場所では」
廊下の端に扉があり、そこを抜けると広い庭園に出た。苔むした石の小道を通り、小さな橋を渡る。その先に大きな木造建築がある。大浴場だ。
「気をつけろ。ここから先は、時間が不規則に流れる」
クロの警告を聞いて、ルカは懐中時計を取り出した。針は七時四十二分を指したまま。だが微かに震え、金属が脈打つような感覚が手のひらに伝わる。
「これは常に同じ時間を指しているわ」
「だが、お前の体感時間は変わる。気をつけることだ」
クロの紋様が強く光り、彼の緊張が高まっていることを示していた。この欠片に対して特別な関心と不安を抱いているようだった。普段の冷静さの中に、微かな焦りが滲んでいる。彼の指先が震え、それを隠そうとしている様子だった。
大浴場の入口で、クロは立ち止まった。
「ここからは一人で行け」
「え? なぜ?」
「欠片は、それを求める者にしか現れない。お前が一人で向き合わねばならない」
その言葉の裏に、何かを隠しているような響きがあった。クロは面の下で唇を噛みしめたように見えた。青緑の霧が彼の周りで渦を巻き、影が九つの尾のように地面に広がった。
「でも…何をすればいいの?」
「湯気の中に入り、耳を澄ませ。囁きが聞こえるはずだ」クロは言葉を選ぶように間を置いた。「そして…姉との約束を思い出せ」
ルカは躊躇した。姉との約束…それは何だったのか。心の奥に埋もれた記憶が、水面下で蠢くように感じる。「いつか一緒に来よう」「約束だよ、必ず」という断片的な会話。
「なぜあなたは…そんなに詳しいの?」
「俺は…」クロの声が震えた。「写し世の記憶の断片を長年集めてきた。欠片について…ずっと探っていた」
言葉を濁すクロに、ルカは疑念を抱いたが、今はそれを追及する時ではなかった。
「行ってくる」
ルカは深呼吸をした。カメラバッグから35mm一眼レフを取り出し、首から下げる。その重みが、現実への錨のように感じられた。静江から受け取った影写りの粉の袋をポケットに入れ、いつでも使えるようにする。
大浴場の引き戸を開けると、意外なことに内部は比較的よく保存されていた。広い湯船、タイル張りの床、高い天井。しかし異様なのは、部屋全体が薄い湯気に包まれていること。それは現実の蒸気ではなく、半透明の記憶のようだった。
湯気に触れた瞬間、空間が歪んだ。温かな空気が肌を包み、同時に時間感覚が狂い始める。足を踏み出すたびに、床が波打つように揺れる。ルカの白いシャツが青みがかって見え、カメラが銀色から金色に変化したように見えた。写し世の色彩反転の法則だ。彼女の体感時間が鈍くなり、一歩一歩が水中を歩くような重さを帯びていた。
ルカは静かに前進した。湯気は彼女の周りで奇妙に動く。流れ、渦巻き、時に人の形を思わせる。耳に不思議な音が届く——笑い声、会話の断片、水の音。過去の記憶が音となって漂う。
カメラを準備するルカの目の端に、一瞬、人影が過った。——赤い装束の少女が、湯気の向こうに佇んでいたような。「誰かいるの…?」
ルカが声を出すと、湯気がさらに渦を巻いた。音が増幅され、空間が震える。ルカの言葉が過去へと伝わり、過去からの反響が彼女に返ってくる。突然、目の前に一人の男性が現れた。中年の、知的な表情の男性だ。白衣を着て、眼鏡をかけている。
「あなたは…?」
男性は口を開くが、声は聞こえない。彼は何かを必死に伝えようとしているように見える。その姿は半透明で、湯気の中に溶け込みそうになったり、鮮明になったりを繰り返す。
「聞こえません。もう一度…」
男性はフラスコのような何かを手に持ち、それをルカに見せている。実験器具だろうか。白衣の襟元にはネームプレートがあり、かすかに文字が見える。
「あなたは研究者? 霧島…さん?」
男性は激しく頷いた。その表情が喜びに変わり、さらに彼の姿が濃密になった。そして突然、彼の表情が変わる。恐怖と焦燥で満ちた表情に。彼は再び何かを言おうとする。今度は、かすかに声が聞こえた。
「データが…時間が…」
男性の後ろで、過去の光景が湯気の中に浮かび上がる。白衣を着た人々が忙しく動き回る研究室。温泉の湯を試験管に取り、顕微鏡で観察する様子。そして突然、炎が画面を覆い、悲鳴が響く。時間の軋むような音が鮮明になり、空間が震えた。
「火災…研究データが燃えた?」
ルカは眉をひそめた。湯気の中の幻影との会話は初めてではないが、これほど明確な姿と声は珍しかった。声の欠片を求める彼女の心が、この強い未練の魂を引き寄せたのかもしれない。彼自身の記憶も、欠片と共鳴していた。強い感情が湯気をより濃密にし、両者の間に写し世の繋がりを作り出している。
「あなたの名前は?」
男性は口を動かした。「霧島…誠一」
声は入り江から聞こえる波のように、断続的に響いた。
「霧島さん、何かお手伝いできることは?」
男性—霧島誠一は、やはり何かを伝えようとしている。だが湯気が濃くなり、彼の姿がぼやけ始めた。同時に、周囲の温度が急激に上昇。湯気の中から、火災の熱気が漏れ出してくるようだ。
「待って!」
ルカは反射的にカメラを構えた。写し世の存在を留める方法は写真しかない。ファインダーを覗くと、霧島の姿が鮮明に見えた。彼の目には絶望と未練が混じっている。
シャッターを切る。カシャリ。
閃光が湯気を貫き、一瞬、空間が凍りついたように見えた。その瞬間、霧島の声が明瞭に聞こえた。
「温泉の…治癒力を…証明したかった…あと一日、あと一時間あれば…」
写真の力で、霧島の思いが言葉となって現れた。だが、それは同時に他の変化も引き起こした。湯気が激しく渦巻き、部屋の隅々から人影が湧き上がり始めた。旅館に滞在した人々の記憶だ。彼らは霧島とは違い、顔が見えない。霧のような形をしているが、人の輪郭ははっきりしている。
「忘れられた…」「約束が…」「戻りたい…」
断片的な声が、湯気の人影たちから漏れ出る。彼らはルカに向かって手を伸ばし始めた。冷たい恐怖が背筋を走る。
「これは…」
ルカは一歩後ずさった。人影たちが近づき、湯気がより濃密になる。息苦しさを感じ始めた。写し世の存在に正面から向き合う恐怖。写祓と同じだが、今回は自分の記憶も揺れ動いている。彼らの感情がルカの内側に流れ込み、抑制を解いていく。
湯気の中を進んだ。霧島の姿を追って。すると突然、別の光景が現れた。火災の炎。逃げまどう人々。「データを! データだけでも!」と叫ぶ霧島。炎の中を駆け回る彼の姿。そして倒れる瞬間。
「火災で…研究データが…失われた」
ルカは理解し始めた。彼の研究は火災で失われた。それが霧島を縛り付けている悔恨なのだ。だが、ただ理解するだけでは写祓は完了しない。写し世の存在の本当の願いを汲み取る必要がある。
「あなたの研究データを探しているのね?」
霧島の姿が再び凝縮した。彼は必死に頷いている。その目は疲労と絶望に満ちていたが、ルカの言葉に希望の光が灯った。
同時に、湯気の人影たちがルカを取り囲み始めた。「忘れた!」「約束を破った!」「取り返せない…」混乱した声が重なり、空間が振動する。湯気が彼女の体を締め付け、呼吸が困難になる。冷たい恐怖が全身を包む。時間の流れが歪み、彼女は一瞬、自分が水中にいるような錯覚を覚えた。
一つの人影が彼女の腕に触れた。その冷たい感触に、ルカは身震いした。接触した瞬間、彼女の記憶が一瞬揺らぎ、チヨとの約束の断片—「病気になった人を救う」という言葉が頭をよぎった。まるで湯気の人影が彼女の精神に侵入し、記憶を探り出したかのような感覚だった。
ルカはカメラを構えた。今度は写祓の技術で、写し世の迷いを解放するために。だが、人影たちの声があまりにも強く、彼女の集中力を乱す。
「霧島誠一さん。あなたの研究は、無駄ではなかった」
シャッターを切る前に、ルカは心を込めて語りかけた。写祓の途中で止めることは危険だと、本能が告げていた。写し世の存在を浄化するには、彼らの望みを理解し、受け入れる必要がある。
「時間があれば、きっと証明できたでしょう。でも、それは…」
言葉に詰まる。何と言えばいいのか。湯気の人影たちが彼女の周りで渦巻き、声が耳を刺す。「約束を破った」「忘れてしまった」その言葉が、ルカ自身の心に突き刺さる。チヨとの約束…忘れてしまった約束…「いつか病気の人を治せるようになりたい」という幼い自分の言葉と、それに微笑む姉の表情。
突然、背後から声がした。
「あと一日、一時間あれば…そう思っているんだ」
振り返ると、クロが立っていた。彼の声は通常より柔らかく、どこか遠い響きを持っていた。右目の紋様が強く光り、青い光が湯気に映えている。
「クロ? どうして…」
「私は知っている。彼の悔いを」
クロは霧島に近づいた。霧島は驚いた表情でクロを見つめている。クロの姿を包む青緑の霧が強まり、一瞬だけ彼の影が九つの尾を持つように見えた。
「私も…時間が足りなかった」クロは静かに言った。「大切なものを守れなかった。でも」彼の目が霧島を見つめる。「あなたの研究は失われていない。湯の成分が特定の病に効くという仮説は、後の研究者によって証明された」
クロの言葉に、霧島の表情が変わった。希望の光が灯るように。
「そして…」クロは続けた。「あなたが最後に書いたノートの断片は、この旅館の地下室に今も残っている」
霧島の表情が歓喜に変わった。そして彼は何かを言おうとしているようだ。
ルカはカメラを構え、最後の写祓のシャッターを切った。カシャリ。
閃光が走り、部屋全体が青白い光に包まれた。霧島の姿が透明になっていく。しかし消える前に、彼の声がはっきりと聞こえた。
「ありがとう…そして、気をつけて。湯気の下に…約束の欠片が…」
その言葉と共に、霧島の姿は完全に消えた。湯気が薄くなり、空間がより明瞭になる。だが、写し世の試練はまだ終わっていなかった。彼の魂は浄化され、あの世へと旅立ったが、旅館に染み込んだ他の記憶たちはまだ残っている。
湯気の人影たちが、より強い意志を持ってルカに迫ってくる。彼らの存在が、ルカの中の忘れられた記憶と共鳴しているようだった。
「約束を破った」「忘れてしまった」「許されない」
彼らの声が、ルカの心の内側から聞こえるようだ。彼女自身の罪悪感が形となって迫ってくる。
「彼らは…」
「この旅館で過ごした人々の記憶だ」クロが言った。「彼らも約束を果たせなかった存在。そして…」
「私自身の心も映し出している」
ルカは胸ポケットの懐中時計に手を当てた。七時四十二分。封印の時間。チヨが消えた瞬間。懐中時計が微かに震え、金属が温かさを帯びてくるのを感じた。一瞬、心臓が早鐘を打つ。その指先で鼓動を感じた。時計が、彼女の心臓と同期して動いているかのよう。
「どうすれば…」
「自分自身と向き合うんだ」クロの声が遠くから聞こえる。「お前が果たせなかった約束と」
ルカの胸が締め付けられた。果たせなかった約束。それは…
「チヨとの約束…?」
耳の奥で、チヨの声が囁くのを感じた。心の中で温かく響く感覚。湯気の中から、一つの声が聞こえた。それはチヨの声ではなく、幼い頃のルカ自身の声だった。
「お姉ちゃん、約束する。私、感情を表さなくても、ちゃんと覚えてるよ。お姉ちゃんのこと、ずっと…」
その言葉が引き金となり、記憶が流れ込んだ。両親を失った悲しみの中、感情を閉ざし始めたルカを心配するチヨ。「大丈夫、ルカ。あなたの感情は、私が代わりに表現してあげる」と笑う姉。そして朽葉温泉旅館で、二人で交わした言葉。「いつか一緒に来よう」「約束だよ、必ず」「ここなら、心も体も癒される」。
ルカの目から涙がこぼれた。久しぶりに感じる、解放されるような温かさが胸に広がる。
「約束したのに…忘れてしまった」
湯気の人影たちが近づき、ルカを取り囲む。彼らも同じだ。大切な約束を破り、それを悔いている存在。彼らの冷たい手が、ルカの体に触れる。震えが走る。
「私は…チヨを忘れてしまった。だけど…」
ルカは胸ポケットから懐中時計を取り出した。七時四十二分を指す針が、かすかに震えているように見えた。
「忘れたわけじゃない。奪われたの。だから…」
時計を強く握り締めた。その感触が彼女に勇気を与える。
「約束を果たすために、ここにいる」
彼女はカメラを構え、湯気の渦に向けてシャッターを切った。カシャリ。眩い光が部屋を満たし、湯気の人影たちが後退し始めた。だが完全には消えない。彼女の写祓だけでは足りないようだった。
ルカは静江から受け取った影写りの粉の袋を取り出した。「強い感情や記憶が渦巻く場所で」という言葉を思い出す。ためらいつつも、粉を湯気に向かって撒いた。
粉が空中を舞い、青銀色の光を放ちながら湯気と混ざり合う。一瞬、彼女の視界が白くなり、耳に強い音が響いた。時間の波紋のような音。それから空間が反転したように感じた——天井が床に、床が天井に見える不思議な感覚。写し世の境界が薄れ、ルカ自身も半分、写し世に引き込まれていくような浮遊感。
湯気の人影たちの声が、より明瞭になった。
「約束は破れる」クロが静かに言った。「だが、それを認め、向き合うことで、新たな約束が生まれる」
クロの声には、かつて聞いたことのない感情が込められていた。紋様が静かに脈打ち、彼自身の悔いが言葉に滲む。
湯気が完全に晴れ、湯船の底から微かな青い光が漏れ始めた。
ルカは湯船に近づいた。中を覗き込むと、底に小さな青い結晶が光っていた。声の欠片だ。
「これを…手に取ればいいの?」
「ああ。だが、代償を覚悟しろ」
クロの警告に、ルカは深く息を吸った。欠片に手を伸ばす前に、彼女は自分に問いかけた。失っても構わない記憶とは何か。代償として何を差し出せるのか。チヨの声を取り戻すために、失うべきものはあるだろうか。
「欠片は願いに最も強く結びついた記憶を代償として選ぶ」クロが静かに言った。「自分でコントロールできるものではない」
ルカは懐中時計をしっかりと胸に抱き、欠片に手を伸ばした。水面に触れた瞬間、冷たさではなく温かさを感じた。指先が結晶に触れると、鮮やかな青い光が広がった。
「これが…神の欠片」
結晶を手に取った瞬間、ルカの頭に激しい痛みが走った。記憶が流れ去っていく感覚。何かが失われる。頭の中でイメージが次々と消えていく。
父の笑顔。母の手。「行ってきます」という父の声。「気をつけてね」という母の優しさ。事故の前日、最後に交わした会話が、水に流れる砂のように消えていく。両親との会話がチヨの記憶と繋がる最後の絆だった。
「何が…消えていくの?」
クロの声が遠くから聞こえた。
「大切な人との最後の会話…」
ルカの意識が遠のいていく。最後に、幻想的な青い光の中で、チヨの声が聞こえた。
「ルカ、わたしのこと、覚えていてくれた?」
その声が彼女の心を揺さぶり、何かが解放されたように感じた。そして暗闇が訪れた。
目を覚ますと、ルカは大浴場の床に横たわっていた。頭に鈍い痛みを感じる。手には青い結晶—声の欠片があった。
「気がついたか」
クロが彼女の横に座っていた。右目の紋様は静かに脈打ち、彼の表情からは安堵の色が見えた。
「どれくらい…気を失ってた?」
「数分だ」
彼は懐中電灯で彼女の顔を照らした。その光の中に、珍しく心配の色が垣間見えた。
ルカは欠片を見つめた。かつての光はなく、普通の青い石のように見える。だが、その内側に何かがあるのを感じた。欠片のあった場所を見ると、湯船の底に何かが書かれていた。「約束」という一文字。欠片が湯船に残した痕跡か、それとも元からそこにあった文字か。
「これで…チヨの声が聞こえるの?」
「試してみるがいい」
ルカは欠片を胸に当てた。目を閉じ、集中する。最初は何も起こらなかったが、やがて遠くから、微かに声が聞こえ始めた。
「ルカ…わたしの役目を…引き継いで…」
かすかだが、確かにチヨの声だった。温かく、優しく、時に厳しい声。ルカが忘れていた音色。心の奥に眠っていた感情が、その声に呼応して湧き上がる。
ルカは目を開けた。頬を伝う涙に気づき、慌てて拭った。もっと感じたいという欲求と、それに戸惑う気持ちが混じり合う。長年抑え込んでいた感情が解放され始め、まるで凍った湖の氷が春の訪れとともに少しずつ溶けていくような感覚がした。
「聞こえた…でも、何かが欠けている気がする」
「代償だ。何を失ったかわかるか?」
ルカは考えた。何か大切な記憶が抜け落ちている。「大切な人との最後の会話」…それは…
「父と母…の最後の言葉が思い出せない」
両親との最後の会話。それが消えていた。事故で亡くなる前の、最後の別れの言葉。最後に見た笑顔、別れの言葉、全てが霧に包まれている。
「そういう仕組みなのね」ルカは静かに言った。「一つの記憶を取り戻すために、別の記憶を失う」
記憶の穴に、彼女は手を当てた。胸の内側が空洞のように感じられる。しかし同時に、新たな希望も宿していた。チヨの声を聞けたこと。それは失った記憶に値する宝物だったのかもしれない。
「全ての欠片が同じだ」クロが立ち上がった。「さあ、次の廃墟へ向かおう」
「まだ…時間はあるでしょ?」
ルカは立ち上がり、カメラを手に取った。彼女の表情には、悲しみと決意が混じっていた。
「霧島さんが言っていた…地下室。彼のノートの断片が残っているって」
「それを探すのか?」
「ええ、彼の写祓は成功したけど…それが本当なら、証拠として残しておきたいの」
それは写し世への約束でもあった。記憶を留める—それが夢写師の役目だと彼女は感じていた。
クロは少し考え、頷いた。
「旅館の裏手に階段がある。だが、危険だ。床が腐っている場所もある」
クロが言った通り、彼は迷わずルカを案内することができた。二人は大浴場を出て、裏手に回った。苔むした石段が地下に続いていた。懐中電灯を取り出し、ルカは慎重に降りていく。
「なぜここのことをそんなに詳しく知ってるの?」
「写し世の記憶を通じて、多くの情報を集めてきた。霧島のノートの存在も、その中の一つだ」
クロの静かな答えに、ルカは眉をひそめたが、それ以上は追求しなかった。地下は湿気が強く、カビの匂いがした。狭い通路を進むと、いくつかの扉が並んでいる。
「どれ?」
「右から三つ目だ。霧島の研究室」
クロは迷いなく言った。ルカはその確信に驚いたが、問わずに指示に従った。
扉を開けると、中は小さな研究室だった。壁一面に計器や図表が並び、中央には大きな作業台がある。すべてが火災の痕跡を残していたが、完全には燃えていない。漂う湿気が、火災から救った皮肉な恩恵だった。
「ここか…」
ルカは懐中電灯で部屋を照らした。光線が埃の中を通り抜け、妖しい光の筋を作る。作業台の上に、焦げた紙が数枚残っていた。
「これかも」
近づいて見ると、それは実験ノートの一部だった。かろうじて文字が読める。
「温泉水の成分分析…特定の細胞への影響…時間と温度の相関関係…」
科学的な記述だが、その一部に読める言葉があった。
「希望を持って…この研究が…人々を救う…」
ルカはページをめくると、さらに興味深い記述を見つけた。「影向稲荷の水を加えたところ、反応が安定。何か特別な成分が含まれているかもしれない。」その一文に、ルカは思わず目を凝らした。チヨが現像液に使っていた水と同じだ。
「彼はこの研究にすべてを捧げていたのね」
「ああ。だが、時間が足りなかった」
クロの声には珍しく感情が混じっていた。紋様が青く瞬き、彼の内面の動揺を示していた。彼の言葉に込められた共感が、どこか個人的な経験に基づいているような気がした。
「あなたも同じ…?」ルカは静かに尋ねた。「時間が足りなかった…」
クロは黙り込んだ。その沈黙自体が答えだった。
「あなたは彼のことを知っていたの?」
「詳しくはない。だが、彼の気持ちは…わかる気がする」クロは窓から外を見つめた。「何かを守るために、全てを捧げる気持ち。それでも足りなかった後悔…」
ルカはノートを慎重に鞄に入れた。その仕草に、彼女自身も気づかない敬意が表れていた。
「持ち帰って、どこかの研究機関に送るわ。彼の研究が無駄じゃなかったことを示すために」
二人は地下から出て、旅館の玄関に戻った。日が落ち、周囲は暗くなり始めていた。星々が顔を出し始め、朽ちた建物を幻想的な光で照らしている。
「今日はここで野営するか?」
「ええ。明日、月影遊園地に向かいましょう」
ルカは玄関の片隅に荷物を置いた。胸ポケットには声の欠片が収まっている。その重みが、失った記憶の代償のようだった。もう思い出せない両親の最後の言葉。しかし、それと引き換えに得たチヨの声。
「ルカ…」クロが呼んだ。「その欠片…使いこなせるか?」
「まだわからない。でも…」ルカは欠片に手を当てた。「姉の声が聞こえた。それだけで…価値がある」
クロの紋様が静かに光った。面の下の表情は見えないが、その佇まいには何か深い感情が表れていた。彼の過去にも、同じような選択があったのだろうか。失うことで得たもの、そして二度と取り戻せないもの。
「チヨとの約束…?」
ルカは柔らかく問いかけた。クロの狐面が傾き、その下から覗いた素顔の一片は、哀しみに引き裂かれたような表情だった。右目の紋様が、痛々しいほどに脈打っている。まるで流れる涙のように、青い光が頬を伝った。
「わからない。それが…代償だ」
彼の声には、ルカが今まで聞いたことのない痛みが混じっていた。そして一瞬、声の調子が変わり、女性の声の残響が混ざったように聞こえた。「忘れてしまった...彼女との約束を」
ルカは驚いてクロを見つめた。その一瞬の声の変化が、彼の正体についての新たな疑問を投げかけていた。
朽ちた温泉旅館。かつて多くの人々が訪れ、約束を交わした場所。その中で果たされなかった約束と、これから果たそうとする約束。声の欠片がポケットで微かに脈打ち、時折チヨの囁きが聞こえる気がした。
ルカは窓の外を見ながら、心の中で誓った。「チヨ、私は約束を守る。あなたの記憶を、すべて取り戻すわ」
そう思った瞬間、懐中時計が、ほんの少しだけ動いたような気がした。七時四十二分から、一秒だけ針が進んだように見えた。それは幻だったかもしれないが、ルカの心には確かな希望の光として映った。
手の中の懐中時計が再び震えた。七時四十二分——止まったままの針が、霧の中で小さく鳴る。「……約束、守るよ。今度こそ、ちゃんと写すから」