第2章「黒い狐の来訪」
記憶に形があるとしたら、それは風に舞うフィルムのようだった。
手に取れば、きっと破れてしまう。
でも、目を逸らしたら、すべてが失われる。
影向稲荷への道は霧に埋もれていた。石段は苔むし、朱色の鳥居は痛んでいる。橋爪ルカは足を止め、呼吸を整えた。黒いコートの下で、心臓が早鐘を打っている。
「昔から来てたはずなのに…なんだか怖い」
ルカは小さく呟き、見上げた鳥居に手を伸ばす。指先が触れた瞬間、霧が揺らめき、色彩が反転した—鳥居の朱色が青緑に、自分の黒いコートが白く見える。一瞬の現象に、彼女は息を飲んだ。写し世の法則が、この場所でも作用している。特に古い神社では、現世と写し世の境界が薄く、時に色彩や音が反転することがある。何世代もの祈りと信仰が、場所そのものに記憶を刻み込んでいる。
霧の中から参道が現れた。かつて何度となく歩いたはずの道が、今日はどこか別の世界へと続いているようだ。ルカは掌に汗を握り、自らの意志を確かめるように前に踏み出した。静けさの中に、かすかな金属音が混じる。時間の軋みとも、遠い記憶の反響とも言えない音が、空気を震わせていた。
石段を上り切ると、境内が広がる。朝の霧で参拝客はまばらだ。手水舎で手を清め、本殿へと向かう。鈴を鳴らし、二礼二拍手一礼。これまで何百回と繰り返してきた動作なのに、今日は手が震える。
時計が七時四十二分を指す感覚—それは実在する記憶なのか、想像なのか。ルカは混乱していた。チヨの笑顔が頭をよぎり、胸が締め付けられた。
「橋爪さん、珍しいねぇ」
背後から声がした。振り返ると、神社の定例清掃をしていた年配の女性たちがいた。いつも写真館に立ち寄る常連だ。
「おはようございます。その…静江さんはいらっしゃいますか?」
女性たちは顔を見合わせた。
「静江ばあさんなら、奥の社務所にいるよ。体の具合が悪いの?」
「いえ、ちょっと…聞きたいことがあって」
ルカは曖昧に答え、社務所へと足を向けた。社務所は本殿の裏手、杉林に囲まれた小さな建物だ。ドアを叩くと、かすれた老婆の声が応えた。
「入りなさい」
室内は薄暗く、古い巻物や文書が積み上げられていた。年季の入った机の前に、銀色の髪を厳しく結い上げた老婆が座っている。静江は九十歳を超えているはずだが、背筋は真っ直ぐで、目には鋭い光が宿っていた。周囲の空気は不思議と静まり返り、外の世界の音が遮断されたように感じられた。
「橋爪の娘か。来るのが遅いね」
ルカは息を飲んだ。まるで自分の訪問を予測していたかのような口調だ。
「私を…ご存知ですか?」
「当然だよ。お前は夢写師の17代目」
老婆は茶を淹れながら、ルカを観察するように見つめた。彼女の手は年齢を感じさせるほど皺だらけだが、茶碗を扱う所作には厳格な美しさがあった。
「それに…」
静江は言葉を切り、じっとルカを見つめた。
「お前の姉も知っている」
姉——その言葉が空気を震わせた。ルカの頭に鈍い痛みが走り、呼吸が乱れる。クロの言葉が脳裏に浮かぶ。
「私には姉がいません」
言い切る声は、自分でも不自然に聞こえた。心臓が痛いほど早く打ち、掌に汗が滲む。何かが思い出されそうで、思い出せない感覚に襲われた。
静江は小さくため息をついた。
「座りなさい。お茶を飲みながら話そう」
老婆は茶を注いだ。香ばしい香りが立ち上る。ルカは震える手で茶碗を受け取った。熱さが指先に伝わり、わずかに現実感を取り戻す。
「あの男が来たんだね。黒い狐の面の」
ルカは驚いて顔を上げた。
「クロのことを知っているんですか?」
「ああ、知っているさ」
静江は窓の外を見つめ、懐かしむように目を細めた。
「十年前から、あの姿でここに何度も来ていた。お前の姉のことを、ずっと探していたんだよ」
ルカの手が震え、茶碗を取り落としそうになる。体の奥で何かが揺れ動く感覚。知らない記憶の断片が、強引に意識の表面へと押し上げられようとしていた。
「繰り返しますが」ルカは平静を装った。「私には姉はいません。両親も…」
「両親は早くに亡くなった。それは本当だ」
静江の声は柔らかくなった。
「だが姉は、確かにいた」
老婆は立ち上がり、古い桐箱を取り出した。埃を払い、床に座ったルカを前に、慎重に蓋を開ける。中には古い写真が一枚。
「これを見なさい」
写真には二人の少女が写っていた。十二、三歳のルカと、その横に立つ十七、八歳の少女。黒い髪に穏やかな笑顔。巫女装束を着ている。
ルカの指が写真に触れた瞬間、鼓動が跳ねた。頭に鋭い痛みが走る。夏の祭りの太鼓の音。扉の外、風の気配とともに風鈴が「チリン…」とひと鳴り。だがその音には、不思議と風の動きがなかった。そして「大丈夫、私がついてるよ」という優しい声。遠い川のせせらぎと、子どもたちの笑い声。見覚えのある顔。いや、見覚えがあるはずなのに、はっきりと思い出せない。
「これは…」
言葉が詰まる。ルカの視界が歪み、写真の中の少女の顔が霞んだり鮮明になったりを繰り返す。老婆の声が遠くなる。
「橋爪チヨ。お前の姉だ」
チヨ——その名前を聞いた瞬間、ルカの胸に何かが降り立った。温かく、懐かしく、同時に痛みを伴う感覚。外から霧が部屋に滲み入り、足元で渦を巻くようだった。
「いつも笑顔だった」静江は続けた。「お前と違って、感情をよく表に出す子だった。写し世の誰とでも話せる特別な力を持っていて、村人からも『笑顔の巫女さん』と慕われていた」
老婆は茶を一口すすり、ルカの反応を見守った。彼女の皺だらけの手は、ルカが想像していた以上に強く温かかった。
「チヨはね、あなたが熱を出したとき、三日三晩そばを離れなかった。手ぬぐいで額を拭きながら、お気に入りの物語を読み聞かせていたよ」静江は優しく微笑んだ。「『ルカの笑顔が、私の力になる』といつも言っていたね」
ルカの目から涙が溢れた。自分でも気づかなかった感情の洪水。感情の抑制が、彼女の魂の防衛であり、写祓の安全装置だった。だが今、その堤防が少しずつ崩れていく。それは危険であると同時に、彼女の魂が本来の姿を取り戻そうとしているようでもあった。
「でも、なぜ私は…」
「忘れているのか?」静江は首を振った。
「違う、忘れさせられたんだよ」
ルカは両手で頭を抱えた。室内に時間の軋む音が響き、過去の声々が壁に反響するように聞こえた。少女の笑い声、囁き、そして悲鳴。
「嘘です!そんなこと…」
声は上ずり、全身が震えていた。何かが壊れそうで、何かが溢れそうで、全ての感情を押さえつけなければ心が砕けるような気がした。
「記憶を失うのは、夢写師の宿命でもある」静江はゆっくりと言葉を選んだ。「お前も写祓のたびに少しずつ失っているはずだ。だが、姉の記憶は違う。あれは、特別な封印の結果だ」
「封印?」
静江は頷き、立ち上がって壁に掛けられた古い掛け軸を指差した。そこには巫女の姿が描かれている。手に鏡を持ち、月を見上げるその姿は、どこかルカに似ていた。
「まずは影写りの巫女のことから話さねばならない」
老婆の声が儀式めいた厳かさを帯びる。周囲の空気が重くなり、時間の流れが変わったように感じられた。部屋の隅に置かれた古い灯りが青く揺らめき、壁に映る影が歪む。現世と写し世の境界が、この瞬間、薄れていた。
「橋爪家は代々、影写りの巫女を務めてきた。かつて影向稲荷の創建時に、初代巫女が狐神と契約を結び、記憶を守る役目を負ったのだ。明治以前は鏡を使い、明治以降は写真技術を取り入れて『夢写師』となった。お前たちの役目は、写し世と現世の境界を守ること」
ルカは頷いた。それは両親から聞いていた話だ。しかし契約や初代の話は聞いたことがなかった。
「影向稲荷は記憶の狐神を祀る神社」静江は続けた。「その神の名は『クロミカゲノオオカミ』。記憶を司る九尾の狐神だ。数百年間は安定していたが、時代の変化と共に狐神の力は不安定になった。数世代ごとに、特に強い巫女が必要になる」
書き物机の上に静江は古い絵巻を広げた。そこには九尾の狐と対峙する巫女の姿が描かれていた。九つの尾は、それぞれ異なる色を持ち、巫女はそれらを鏡で封じようとしている。
「かつて狐神は人々の記憶を守護した。だが時に暴走し、人から記憶を奪うこともある。そんな時、影写りの巫女が現れる」
「狐神と姉は…?」
静江はため息をついた。外から風の音が聞こえ、紅葉が窓を叩く音が教えを受ける儀式に厳かさを加えた。
「十年前、この神社で起きた封印の儀式。あの日、お前の姉は狐神を封じ込めるため、自らを犠牲にした」
老婆の言葉に合わせ、断片的な記憶がルカの中で蠢き始める。月明かりの下の儀式。鏡に囲まれた円形の空間。姉らしき少女の叫び声。そして、自分自身の泣き声。遠く、時間の軋む音が彼女の記憶に漂う。
「十年前、夏至の夜」静江の目が遠くを見つめる。「狐神が暴走を始めた。村人たちの記憶が奪われ、写し世と現世の境界が崩れ始めた。当時の神主は対処できず、夢写師の家系である橋爪家に助けを求めた」
ルカの喉が渇く。体の震えは収まらず、記憶と現実の狭間で意識が揺れていた。
「チヨは17歳だった。若すぎた」静江の声は悔恨に満ちていた。「だが、彼女には特殊な才能があった。写し世の存在と直接対話する力だ」
「それで姉は…自ら狐神と…」
「そう、対峙した」静江は頷いた。「チヨは言った。『私には話せる。だから私が行く』と」
顔を上げた老婆の目には、涙が光っていた。
「儀式は成功した。だが代償は大きかった。チヨの魂は狐神と共に封じられ、その存在は人々の記憶から消えていった。親族である橋爪家の記憶が最も強く影響を受けた。お前ですら、姉の存在を忘れてしまった」
「守るために…記憶を消した?」ルカの声は震えていた。「でも、それは残酷すぎます!」
「封印の儀式では、チヨ自身が望んだことだ」静江は静かに答えた。「お前を守るために」
「姉の最後の言葉は…?」
「『わたしのことを、ずっと覚えていてね』」
その言葉に、ルカの胸が千切れそうになった。思い出せない記憶が、心を引き裂く。村の古い井戸の前でチヨと手をつなぐ自分。雨の日に傘を差し出す姉の笑顔。そして、写し世の境界で互いを見つめ合う二人の姿。
「同時に、狐神の力は九つの欠片となって散った」静江は静江は天井を見上げ、深い息を吐いた。青い光を帯びた影が壁に揺らめく。「各欠片は強力な願いの力を持つが、使用者の記憶を奪うという代償を伴う。欠片の中には特に強いものが5つあり、それらは封印を開く鍵となる。残りの4つは封印を支える柱。これらが揃えば、チヨの封印にも変化が生まれるだろう」
「神の欠片…」ルカは眉を寄せた。「クロの言っていたものですね」
「そう」静江は頷いた。「彼もまた、封印の過程で生まれた存在だ。狐神の力の一部が分離し、人の形をとったものと考えられる」
「では、クロとは何者なのですか?」
静江は一瞬、躊躇ったように見えた。窓の外で風が強まり、木々の揺れる音が室内に響いた。空気が冷たくなり、静江の傍に座る古い茶壺から湯気が立ちのぼる様子が変わった——湯気が凍ったように、動きが遅くなる。写し世の影響で時間が歪んでいた。
「彼は欠片を集め、封印を解こうとしている。だが、そうなれば…」
「姉は?」ルカの声は切迫していた。
「自由になるかもしれない。だが同時に、狐神も解放される。再び暴走すれば、今度は止められないかもしれない」
ルカは立ち上がった。頭がぐらつく。真実を知りたいと思ったが、これほどの重みは予想していなかった。心の奥で、姉を取り戻したいという強い願いが芽生え始めていた。
「わかりました。ありがとうございます」
帰ろうとするルカを、静江が呼び止めた。
「待ちなさい。これを」
老婆は小さな布袋を差し出した。中には朱色の印が押された古い札が入っている。
「影写りの札だ。写し世との境界が強まる場所でこれを使いなさい。姉の記憶を取り戻す助けになるだろう」
ルカは札を受け取った。感謝の言葉を言おうとしたが、喉が詰まる。
「もう一つ」静江の目が鋭くなった。「あの懐中時計、まだ持っているね?」
「はい」ルカは無意識に胸ポケットに手をやる。「いつも」
「あれは特別なものだ。チヨが最後に使った写祓の道具。針が示す時刻は、封印の瞬間を指している」
七時四十二分——ルカはその数字を反芻した。姉の最期の瞬間。その時計が微かに脈打つような感覚がする。まるで生きているかのように。
「記憶を取り戻すことは、写し世の境界を乱す。お前自身が危険にさらされるかもしれない」静江は静かに警告した。「写祓の代償は記憶の喪失。これはチヨも知っていたことだ。だが彼女は言った——『真実を知るために、記憶の一部を失っても構わない』とね」
「チヨ姉さんは…強かったんですね」
ルカの声に初めて「姉さん」という言葉が混じり、彼女自身もその違和感と自然さに戸惑った。
「行きなさい」静江は柔らかく背中を押した。「あの男が待っているだろう」
神社を出ると、空気が変わった。霧が濃くなり、世界の輪郭がぼやける。ルカが鳥居に近づくと、予告通りクロが立っていた。
鳥居の下で待つ彼の周りには、わずかに青緑の霧が渦巻いていた。霧に触れると、時間の流れが変わったように感じる——過去と現在が重なり、音が反響し、色が反転する。写し世の干渉だ。クロの足元の影が伸び、一瞬だけ九つの尾のように見えた。
「話は聞いたか」
青緑色の狐の面は相変わらず表情を隠している。しかし、その声には微かな緊張が滲んでいた。どこか懐かしさを感じる二重音の響き。
「ええ」ルカは答えた。「でも全部は信じられません」
クロは小さく息をついた。狐の面の下で、一瞬だけ表情が揺れたように見えた。
「当然だ。十年もの間、記憶を奪われていたのだから」
彼の右目の紋様が青く瞬き、その光が霧に映える。ルカはクロをじっと見つめた。男の姿に、どこか懐かしさを感じる自分に戸惑った。
「姉が…チヨが本当にいたなら、私はもっと…」
言葉に詰まるルカを、クロはじっと見つめた。その目に、理解と共感が浮かんでいるように見えた。
「力ずくで思い出させることもできる」クロは静かに言った。「だが危険だ。少しずつ、かつての記憶を辿るべきだろう」
「どうすれば?」
クロは鳥居に寄りかかり、遠くを見つめた。そこにはかつての記憶の風景でも見えるのだろうか。風が彼のコートを揺らし、一瞬、その輪郭が霧と溶け合うように見えた。現世と写し世の間で揺れ動く存在——それがクロの正体なのかもしれない。
「まずは写真館に戻れ。そこにはまだ、チヨの痕跡が残っているはずだ」
ルカは頷いた。混乱していたが、行動することでこの状況を理解できるかもしれない。
「二階の使っていない部屋に、チヨの荷物はまだあるだろう」クロは続けた。「彼女の物に触れれば、封印された記憶の一部が戻るかもしれない」
「あなたは…チヨのことを知っているのですね」
クロの右目の紋様が強く脈打った。彼は一瞬、言葉を失ったように見えた。風が彼のコートを揺らし、一瞬青緑の光が彼の体を包んだ。
「チヨの封印が、俺を呼ぶ」彼はようやく言葉を絞り出した。「彼女の光を…取り戻したい」
その声には、ルカの知らない深い感情が込められていた。悲しみ、後悔、そして希望のような。その感情の揺れは、写し世の霧をより濃くさせた。クロの周囲で霧が渦を巻き、通常では見えないはずの青緑の光が霧粒に反射して、幻想的な光景を作り出す。クロの足元の影が瞬間的に九つに分かれ、尾のように揺れた。
「それと…この欠片を」
クロは小さな袋を差し出した。中には青く光る小さな結晶。触れると微かに震える。欠片からは冷たさと同時に、不思議な温かさが伝わってきた。まるで生きているかのように。
「最初の欠片だ。『声の欠片』と呼ばれている。使えば、チヨの声を少しだけ思い出せるだろう」
ルカは欠片を受け取った。掌の上で結晶が脈打つように光る。
「代償は?」
「大切な人との『最後の会話』の記憶」
ルカは躊躇した。欠片を使えば姉の声を思い出せる。しかし何かを忘れる。この選択が、今後の旅の象徴なのだろう。代償を払ってでも、姉の存在を取り戻す価値があるのか。それとも、安全な無知のままでいるべきか。
「考えておきます」
クロは無言で頷いた。右目の紋様が微かに光を失い、彼の肩から緊張が抜けていくのが見えた。
「俺たちの旅は五つの廃墟を巡ることになる」彼は静かに告げた。「各地に眠る能動的欠片を集め、真実に近づく。そして最終的には…」
「姉を取り戻せますか?」
クロの狐面の下で、表情が揺れたようだった。彼は言葉を選ぶように間を置いた。青緑の霧が彼の周囲で渦を巻き、影が九つの尾のように揺れる。
「それはお前次第だ。記憶か、現実か」
「記憶を守るか、姉を救うかということ?」
クロは小さく頷いた。
「選択は、必ず訪れる」
「記憶が戻るたびに、新たな欠片の在処も見えてくる。写し世と現世が交差する場所——廃墟こそが、記憶と欠片が宿る場所だ」
ルカは空を見上げた。雲間から差し込む光が、わずかに霧を払っていた。懐中時計を取り出し、七時四十二分を指す針を見つめる。針が微かに震え、金属が脈打つのを感じた。
「写真館に戻りましょう」彼女は決意を固めるように言った。「まずは…姉の部屋を見たい」
胸の中でかすかに暖かいものが灯る。感情を抑えることに慣れたルカの中に、小さな希望が芽生えていた。遠くから時間の反響音が聞こえ、過去の約束が風に乗って囁かれるように感じた。
「これからの道は危険だ。写し世の記憶に触れるということは、自らの記憶も危機にさらすということだ。それでも...」
「行くわ」
ルカの瞳に決意の光が宿る。感情を抑えることに慣れた彼女が、初めて自分の意志を明確に示した瞬間だった。たとえ記憶の一部を失っても、姉を思い出すことは、彼女自身を取り戻すことでもあった。
クロは静かに頷き、ルカの横に並んだ。二人は霧の中を歩き始めた。過去へ、そして未知の未来へ向かって。
霧の先に見えない明かりを求めて。