第1章「霧の中の写真館」
月が欠け、霧が町に満ちていく。久遠木の空気が、静かに色を失い始める夜——写し世と現世、その境目が最も曖昧になる時間帯だった。
満月から三日が過ぎ、ハシヅメ写真館の窓から漏れる灯りが、通りに淡い黄色の帯を描く。その光の中に、一人の男の影が揺れていた。
「橋爪さん、この写真のことで相談があって...」
河内俊介は四十代半ばの中学教師だった。神経質そうな細面に、端正な眼鏡が似合っている。両手で差し出された古びたアルバムには、埃を払った跡が残っていた。指先が微かに震えていた。
「ええ、どんな写真ですか?」
ルカは感情を映さない表情のまま、茶を一杯差し出した。湯気が客間に広がる。古い柱時計が七時を告げる音が、空間に重みを加える。窓の外では、夕霧が夜の帳に変わりつつあった。遠くから時間の軋むような音がかすかに届き、ルカの耳を震わせた。胸ポケットの懐中時計が微かに脈打つような感覚がある。
「祖父の遺品を整理していて見つけたんです。この家族写真なんですが...」
河内は恐る恐るアルバムを開いた。黄ばんだ台紙に貼られた古いモノクロ写真。昭和三十年代、家族四人の記念写真。笑顔の両親と子供二人。時間が凍り付いたような一瞬が、そこに閉じ込められていた。かつての写真師がアルブミン紙に焼き付けた記憶。
「右側の少年が祖父で、その隣が叔父のはずなんですが...」
彼は写真を指差した。確かに右側の少年の横には、もう一人分の空間があるのに、そこには誰も写っていなかった。しかし家族の腕の位置や笑顔の向きを見ると、明らかに誰かを抱き寄せているようだった。そこだけが不自然に霞んでいる。
「家系図には確かに叔父の名前があるのに、どの写真にも映っていないんです。家族の記憶からも...消えているようで」
空白を見つめるルカの灰銀の瞳に、一瞬だけ柔らかさが浮かんだ。これは単なる写真の不備ではない。写し世からの消去、記憶の欠落だ。
「いつから気になっていたんですか?」
彼女の声は冷静だが、どこか共感するような響きが混じっていた。自分もまた、何かを忘れている—そんな感覚が彼女の胸に灯る。窓の外で霧が淡く色を変え、青みを帯びて見えた。写し世の反応。ルカは意識して呼吸を整え、感情を抑制した。
「先週の夢で見たんです。叔父らしき人物が『忘れないでくれ』と...」
河内の声が震えた。そこには恐怖というより、深い喪失感が響いていた。
部屋の隅から、チクワが静かに歩み寄ってきた。黒と白のハチワレ猫は、河内の足元にすり寄り、ひいおじの存在を認めるかのように鳴いた。猫の金色の瞳が、ルカと河内の間を行き来し、やがて写真の空白部分に固定される。チクワは首を傾げ、何かを感じ取ったようにそっと爪を立てた。金色の瞳が月光に一瞬青く輝き、まるで記憶の欠落部分を見通しているようだった。
「写祓の依頼ですね」
ルカは立ち上がり、黒い木箱から古い懐中時計を取り出した。その動作には、彼女自身も気づいていない儀式めいた厳かさがあった。時計の針は常に七時四十二分を指していた。金属が微かに脈打つような感覚が手のひらに伝わる。その意味を、彼女はまだ知らない。
「この写真、三日間お預かりします。月が欠ける夜は、忘れられた記憶が浮かびやすい」
彼女は事務的に説明した。河内は安堵の表情を浮かべる。
「料金は...」
「完了してからでいいです。失敗したら頂きません」
ルカは淡々と答え、写真を入念に観察した。確かに不自然な空白。しかし単なる現像ミスとは違う。意図的に消された痕跡があった。空白部分の縁がぼやけ、まるで記憶そのものから削除されたかのようだ。この写祓には強い魂写機と湿板が必要だろう。だがそれは自らの記憶を代償に差し出すリスクも伴う。水面下で沸き起こる不安を、彼女は丁寧に心の奥へと押し込んだ。
「明後日、結果をお知らせします。それまでは...」
「わかりました。ありがとうございます」
河内が去った後、ルカは書斎の窓から彼の後ろ姿を見送った。霧の中に消えていく背中が、何かを思い出させる。彼女は眉をひそめ、その感覚を振り払った。
「現像室へ行こう」
ルカは廊下を進み、現像室へと向かった。チクワがその後を静かについていく。猫の足音も、この写真館では特別な響きを持っているようだった。
「これは間違いない。写し世の痕跡だね、チクワ」
土蔵を改造した円形の現像室。「くらやみ」と呼ばれるこの空間に足を踏み入れると、空気が変わった。より重く、より濃密に。色彩も変わる—白い袖が灰色に、チクワの毛が青みがかって見える。歴代の写真が壁に並び、八つの鏡が月光を反射している。それぞれの鏡には、僅かに異なる現像室の姿が映っていた。
同時に、遠い記憶のような声々が耳に届く。「ちゃんと現像液を測って」「もう少し明るく撮りたいね」写し世の記憶が、音となって空間に滲む。姉の柔らかな笑い声も、どこか遠くから聞こえるようだった。——姉?ルカは立ち止まり、自分の思考に混乱した。姉などいないはずなのに。
チクワが現像室に入るなり、毛を逆立て、低く唸り始めた。猫は壁の一つの鏡に向かって背を丸め、尻尾を振るわせている。その金色の瞳に青い光が宿り、まるで何かの気配を感じ取ったかのように、鏡に向かって前足を伸ばした。その鏡には、他の鏡とは違う光景—川辺で遊ぶ子どもたちの姿が薄く映り込んでいた。
「どうしたの、チクワ?」
ルカは猫の視線を追ったが、鏡に映るのは暗い現像室の風景だけだった。しかし、猫の異常な反応は彼女の緊張を高めた。何かが起ころうとしている。何かが呼び覚まされようとしている。写し世の存在が強まれば強まるほど、彼女自身の記憶が危険にさらされる。ルカは深呼吸し、心を落ち着かせた。
ルカは「魂写機」をセットし、調整した。今夜は穏やかな記憶ではなく、消された存在。乾板では不十分かもしれない。彼女は迷った末、湿板コロジオンの準備を始めた。
「湿板を使うのは久しぶりだな」
ガラス板にコロジオン(ヨウ化物含む)を流し、硝酸銀の溶液に浸す。橋爪家の「影コロジオン」には、影向稲荷の狐火の灰が混ぜられ、魂の強い感情を吸収する特性があった。硝酸銀の液から引き上げた湿板から、銀色の液体が滴り落ちる。その瞬間、現像室の一角が青緑の霧に包まれた。
「月が欠けていく夜...魂が浮かびやすい時」
彼女は呟きながら、湿板を丁寧にカメラの暗箱に設置した。湿板は15分以内に撮影と現像を完了しなければならない。時間との闘いだ。失敗すれば、佐助の強い感情が彼女自身の記憶を侵し、歪めるかもしれない。写し世の魂は時に現世の記憶を奪う。ルカの胸に不安が渦巻いたが、彼女は表情を変えなかった。
「チクワ、窓から出ていって」
猫は従順に月見窓の下に移動した。それでも金色の瞳は警戒心に満ち、何かを待ち構えるように見えた。窓から差し込む月の光が、床の魔方陣を明るく照らし出す。ルカは河内の写真を特殊なライトボックスに置き、上からカメラを構えた。
「影よ、形よ、記憶のかけらよ——」「写祓、始めます」
儀式的な低い声で告げると、彼女は目を閉じた。三呼吸して、ゆっくりと瞼を開ける。その瞬間、灰銀の瞳の色が僅かに濃くなった。青みを帯びた銀色へと変化する。影写りの巫女の血が、目覚めるような震え。ピントグラスを覗き込むと、そこには単なる写真の姿だけでなく、淡い光の残響が見える。
シャッターを切る。カシャリ。
その音は写し世の境界を震わせ、ルカの感情抑制を一瞬解き放った。乾板に光が定着する瞬間、現像室の空気がさざ波のように揺れた。壁の鏡が同時に振動し、それぞれに異なる映像が浮かび上がる。一つには川で遊ぶ子供たち、別の鏡には悲しむ家族、また別の鏡には埋葬の風景。チクワが背筋を伸ばし、耳を立てる。
鏡の一つに、一瞬だけ白い小袖の少女が映った気がした。短い黒髪、優しい笑顔。ルカは目を瞬いた。その姿はもう見えない。
「出てきて」
ルカは静かに呼びかけた。写真の空白部分が微かに霞み始める。霧が渦を巻き、人の形に凝縮されようとしている。
「あなたの名前は?」
霞の中から、少年の姿がおぼろげに浮かび上がった。十歳ほどの少年。しかし表情はなく、目は虚ろだった。かつて存在していた証が、この世界に溶け出してくる。
「わたしはルカ。夢写師。あなたの記憶を写し、浄化するために来ました」
少年は口を開いたが、音は聞こえない。唇の動きから、彼は何かを懇願しているようだった。その言葉は空気を伝わらず、ただ波紋だけが広がる。と思った瞬間、少年の影が激しく震え始めた。
「見ないで!」
突然、声が現像室に響き渡った。チクワが驚いて跳び上がり、ルカも思わず後ずさった。鏡がきしみ、現像室の温度が急降下した。霜が窓ガラスに走り、ルカの吐く息が白く凍る。
「佐助、怖がらないで」
ルカは震える手で、硝酸銀の滴る湿板を再びセットした。時間との闘い。15分の制約が彼女の緊張を高める。心拍数が上がり、感情が揺らぐ。この子の悲しみが、彼女自身の中にある何かと共鳴している。幼い頃に感じた喪失感、誰かを忘れることの恐怖。彼女は深呼吸し、自らを落ち着かせた。写し世の感情に飲み込まれれば、写祓は失敗する。最悪の場合、彼女自身が記憶を失う。
「もう一度」
シャッターを切る。カシャリ。
この瞬間、時間の流れが変化する。現像室の柱時計の針が逆回りを始め、やがて止まった。七時四十二分を示している。ルカはそれに気づかず、少年に集中していた。
少年の姿がより鮮明になる。唇が色づき、目に光が宿り始める。だが同時に、その表情に怒りが浮かび上がった。
「なぜ私だけ?みんな見て見ぬふりをした。記憶から消した。それなのに、なぜ私だけ思い出さなきゃいけないの?」
少年の感情が高まるにつれ、現像液が沸騰し始めた。青みを帯びた泡が立ち上り、部屋に異様な香りが広がる。湿板のコロジオンが少年の強い感情を吸収し、硝酸銀の滴りが写し世の境界を不安定にする。チクワは低く唸り、毛を逆立てた。猫は何かを感じ取っているようだ。
「名前を教えて」
ルカは冷静さを保ちながら、少年に向き合った。写祓の途中で止めることは危険だと、本能が告げていた。湿板の15分制約が迫る中、彼女の集中力が途切れそうになる。
少年の口が開く。「忘れられた...」かすかな声が聞こえた。それは水中からの声のように、遠く歪んでいた。
「みんなが忘れるなら、私も忘れたい!」
少年の感情の爆発と共に、鏡の一つが軋む音を立てて割れた。ガラスの破片が床に落ち、チクワが鋭く鳴いた。写祓が危険な方向に進んでいる。このまま少年の怒りが溢れれば、写し世の亀裂から現世へと漏れ出し、河内家に災いをもたらすだろう。ルカは動じずに、三枚目の湿板をセットした。時間が迫る。冷静さを保つことが、すべての鍵だ。
「あなたの痛みを感じる。私も…誰かを忘れた気がするから」
彼女の言葉に、少年の怒りが一瞬和らいだ。遠く、時間の軋む音が響いた。
カシャリ。
光が閃き、少年の存在がより濃密になる。彼の周りの空気が震え、色彩が戻りつつある。瞳に感情が宿り、肌に血の気が戻ってきた。
「河内...佐」
ルカは眉を寄せた。少年の声は断片的で、苦しげだ。まるで重い水の底から言葉を押し上げようとしているかのよう。
「河内佐? 河内佐...助?」
少年の目に光が宿った。「佐助...そう、僕は佐助」
名前を呼ばれることで、少年の姿がより実体化していく。肩から上が写真から抜け出し、実物の少年のように動き始めた。魔方陣の光が強まり、写し世と現世の境界が薄れていく。これは危険な兆候だった。写し世の存在が強まりすぎると、現実に影響を及ぼす。魂の強い思いが実体化すれば、それは怨念となり、現世を歪める。
ルカは動じることなく、四枚目の湿板をセットした。時間切れが迫っている。最初の湿板をセットしてから既に10分が経過していた。彼女の表情は冷静そのものだが、内側では様々な感情が渦巻いていた。哀しみ、共感、そして不思議な既視感。佐助の喪失が、彼女自身の中の穴と重なって見える。
「河内佐助。あなたはなぜ忘れられたの?」
「事故...川で...みんな見ていたのに」
少年の声はかすれていたが、次第に言葉になっていく。悲しみが滲む。
「僕が溺れたとき、誰も助けてくれなかった。怖くて...みんな目を背けた」
現像室の鏡が震え始めた。あらゆる方向から少年の姿が映り込む。悲しみと怒りが交錯する表情。溺れる瞬間、恐怖で固まる友人たち、そして彼の姿が水中に消える様子。記憶が鏡の上で再生されている。
「それで家族はあなたを...忘れることを選んだの?」
「違う!」
少年の声が突然大きくなった。空気が振動し、湿板が揺れる。硝酸銀の滴りが床に落ち、青緑の煙を発した。チクワが低く唸り、鏡の一つに向かって威嚇するように背を丸めた。
「違うんだ! みんなが忘れたんじゃない。あの人が...」
「あの人?」
ルカの心臓が早鐘を打ち始めた。何かが近づいている—彼女の理解を超えた存在が。未知の力の予感に、指先が震える。湿板の使用時間制限がもうすぐ。失敗すれば、河内家だけでなく、ルカ自身の記憶も危険にさらされる。ルカは集中力を絞り、感情の波を抑えた。
ルカは最後の湿板をセットした。「誰があなたを忘れさせたの?」
少年は口を開きかけたが、その瞬間、現像室の月見窓から異様な風が吹き込んだ。青緑色を帯びた風が渦を巻き、部屋の気温が一気に下がる。湿板コロジオンの不安定性が写し世の境界を揺るがせていた。チクワが激しく鳴き、体中の毛を逆立てた。少年の姿が波打ち始め、輪郭がぼやける。
「黒い...狐...」
その言葉と共に、少年の姿が消えた。水蒸気のように霧散し、写真の中に戻っていく。同時に、湿板に閃光が走り、河内家の写真が変化した。空白だった場所に、少年の姿がうっすらと浮かび上がる。笑顔の河内佐助が、家族の輪の中に戻っていた。写祓は成功した。現世での記憶は完全には戻らないかもしれないが、少なくとも写真には姿が残る。次第に家族の記憶も戻っていくだろう。
最後の閃光の中で、少年の涙が定着する瞬間、ルカの胸にも何かが共鳴した。彼の悲しみが、彼女自身の中の何かを呼び覚ましたかのように。黒い狐。記憶を操る存在。ルカの心に、微かな恐れが芽生えた。
「黒い狐...?」
ルカは眉を寄せ、湿板から視線を上げた。窓の向こうに、一瞬だけ何かの影が映ったような気がした。月光を受けて青く輝く、狐の姿。だが、目を瞬くとそれは消えていた。
胸の奥がざわめく。懐中時計がポケットの中で脈打っているような感覚。彼女は時計を取り出して見た。七時四十二分を指したまま—だが、針がわずかに振動しているように見えた。まるで警告を送るかのように。
ルカは急いで湿板を現像液に浸した。ピロガロール酸の溶液が佐助の姿を浮かび上がらせる。現像過程では、魂の叫びが増幅され、ルカの頭に鋭い痛みが走った。これは湿板コロジオンの副作用—魂の感情が強く現れすぎると、写し手自身が影響を受けるのだ。強い魂の写祓は、少しずつ写真師の記憶を削り取る。代償だ。
「頭が...」
彼女は額を押さえながらも、手順を止めない。定着液(チオ硫酸ナトリウム)で湿板を洗い、魂を鎮める。最後にワニスを塗り、封印を強化する。
完成した湿板には、佐助の姿が鮮明に定着していた。しかし背後に、何か別の影が見えるような...。青緑色の光を放つ、面のような形。湿板に湿った硝酸銀が、見えないはずのものを映し出していた。
「これは...」
彼女が言葉を紡ごうとした瞬間、月見窓から冷たい風が吹き込み、写し世の気配が薄れていった。写祓は終わった。しかし完璧ではなかった。写真には佐助の姿が戻ったが、窓の外に見えた狐の影、その正体は謎のままだ。少年の言葉を思い出す。「黒い狐」——記憶を操る存在。
チクワは窓辺から跳び下り、ルカの足元に寄り添った。猫の体は暖かく、その存在が現実への錨となる。猫は湿板の表面をそっと爪でなぞり、小さく鳴いた。魂の浄化を確認する仕草だった。
「ありがとう、チクワ」
彼女は猫の頭を撫でながら、疲れた体を椅子に沈めた。今日の写祓は、いつもより深く彼女の心を揺さぶっていた。湿板コロジオンの不安定性が、彼女の感情抑制を乱し、頭痛と共に知らない記憶のフラッシュバックを呼び起こしていた。黒い狐。写し世の欠片。七時四十二分。幼い頃の記憶が、霧に包まれて揺らめいていた。
その夜、写真館に帰宅途中の河内俊介は、街灯の下で不思議な光景を目にした。青緑色の狐の面をつけた長身の男が、彼の方をじっと見つめていたのだ。男は風のように静かに立ち、その目は河内の内側まで覗き込んでいるようだった。右目の紋様が硝酸銀の光を映して青く輝いていた。
「お前は...記憶を取り戻したな」
耳元で囁かれたような声。河内が息を呑むと、男は小さく頷いた。その仕草には、どこか悲しげな優雅さがあった。
「もう、忘れることはない」
男の面の下から、かすかに声が漏れた。「彼女は、俺と同じだな。失った記憶を...」その一言に、どこか深い孤独と共感が混じっていた。男の右目の紋様が再び輝き、河内の記憶に佐助の姿をさらに深く刻み込む。
一瞬の出来事で、目を擦ると男の姿は既になかった。残されたのは、心の奥に刻まれた不思議な安堵感だけ。河内は急いで帰路を急いだ。明日、写真館を訪れよう—忘れられていた叔父の姿を確かめるために。
翌朝、ルカは完成したティンタイプを封筒に入れながら、不思議な違和感を覚えていた。写祓は成功したはずだが、何か重要なものを見落としているような感覚。黒塗りの金属板に直接定着された佐助の姿は、鮮明でありながらどこか儚げだった。これが彼の「最後の肖像」となる。写祓の代償として、彼女自身のどこかの記憶が少し薄れたようにも感じた。それが写し世と向き合う者の宿命。写せば写すほど、自分が写し世に浸食される危険性が高まる。
窓の外は霧に包まれ、世界の輪郭がぼやけている。今にも雨が降りそうな灰色の空が、ルカの心模様を映している。
チクワは落ち着きなく窓辺を行ったり来たりしている。金色の瞳が何かを追い、時折低い唸り声を上げる。猫は突然、二階への階段を見上げ、けたたましく鳴いた。
「何?あそこに何かいるの?」
ルカが立ち上がると、チクワは階段を駆け上がり、廊下の突き当たりにある閉じられた部屋の前で鳴き始めた。
「何か来るね...」
そう呟いた瞬間、写真館の玄関で風鈴が鳴った。澄んだ音色が、静寂を破る。訪問者を告げる音。しかし予約の客は今日はいないはずだった。
ルカが正面玄関に向かうと、そこには長身の青年が立っていた。茶色のコートに身を包み、青緑色の狐の面を被っている。まるで昨夜の夢から歩み出てきたような存在感。彼の周りの空気が歪み、写し世との境界が揺らいでいるのが分かった。遠く、時間の軋む音が彼の周りで共鳴するように響いていた。
「橋爪ルカか。お前に用がある」
その声には、懐かしさとも嫌悪ともつかぬ微妙な揺らぎがあった。
落ち着いた声だったが、どこか二重に聞こえるような不思議な響きがあった。男女の声が混じり合ったような、この世のものとは思えない声色。その声に混じる微かな懐かしさに、ルカは思わず耳を澄ませた。
「私が...誰?」
ルカは混乱しながらも、訪問者と向き合った。冷静を装っているが、全身の細胞が反応している。対峙すべき相手だと本能が告げている。昨夜の湿板に写り込んだ青緑の影と、目の前の男が重なって見えた。
男はゆっくりと狐の面を上げ、その下の顔の右半分を僅かに見せた。白い肌、鋭い輪郭。そして右目には奇妙な円形の紋様があり、それは時折青い光を放った。まるで湿板の硝酸銀の滴りのような輝き。霧の渦の中に、一瞬だけ九つの尾の影が映ったように見えた。
「クロと呼べ。お前の写真の中に、神の欠片がある。それを見せてもらいに来た」
冷静さを保とうとしたが、ルカの体は小さく震えていた。記憶の奥底で何かが揺れ動いている。見覚えのある声、見覚えのある紋様。断片的な記憶が、砕けた鏡のように浮かんでは消える。
「神の...欠片?」
「そうだ。お前の姉が封印したもの」
クロの言葉に、ルカは凍りついた。頭に鈍い痛みが走る。
「姉...? 私には姉なんていない」
彼女の声は微かに震えていたが、クロは意に介さない様子で続けた。その顔には確信があった。神の欠片という言葉が、湿板の表面に現れた青緑の影と重なる。欠片は全部で九つ。それらが集まれば、記憶の真実が明かされる。だが代償も大きい。
「思い出せ、橋爪ルカ。十年前、影向稲荷での儀式を。お前の姉が狐神を封印した夜を」
彼の言葉と共に、ルカの頭に鋭い痛みが走った。存在しないはずの記憶が、砕けた鏡のように断片的に浮かび上がる。
白い小袖に緋の袴。笑顔の巫女。「私がいるから大丈夫」という優しい声。満月の光。八つの鏡。そして七時四十二分を指す懐中時計。
見知らぬ巫女の笑顔がちらつき、それと同時に両親の葬送曲が脳裏に響く。これらは本物の記憶なのか、それとも妄想なのか。ルカの息が荒くなり、冷や汗が背中を伝う。まるで湿板の現像中のような頭痛が彼女を襲った。
「姉...橋爪チヨ。どうして忘れている?」クロの声には非難と共に、どこか痛切な悲しみが混じっていた。「写し世との均衡が揺らいでいる。放っておけば、お前の記憶だけでなく、この街全体が霧に飲み込まれる」
ルカは壁に手をついた。幻覚めいた映像が次々と脳裏を駆け巡る。笑顔の少女、鳥居の前での約束、写真館での楽しい日々、そして恐ろしい何かが雄叫びを上げる影。まるで写し世が一気に彼女の精神に流れ込むかのように。感情抑制の砦が、今にも崩れそうになる。
「今はその時ではない」
クロは冷静にルカの肩に触れた。その接触が、不思議と彼女を現実に引き戻す。
「まずは影向稲荷へ行け。静江に会うんだ。彼女ならお前に真実を教えてくれる」
ルカは震える呼吸を整えようと努めた。今まで知らなかった姉の存在。神の欠片。記憶の封印。謎は深まるばかりだ。しかし、この男——クロと名乗る存在の目には、彼女が信じるべき何かがあるように感じられた。紋様に宿る青い光が、懐中時計の七時四十二分と共鳴するような気がした。
「写し世から欠片が現れ始めている。お前は選択を迫られる」クロは静かに言った。「全ての記憶を取り戻すか、このまま忘れたままでいるか。だが急ぐべきだ。欠片は既に動き始めている」
ルカは窓の外を見た。霧が渦巻き、いつも以上に濃くなっていた。かすかに青みがかって見える霧。そして遠く、時間の軋むような音。写し世からの警告のようだった。
何かが始まろうとしていた。記憶と忘却の旅が。