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プロローグ「霧の中のシャッター音」

満月の夜、霧梁県むりょうけん久遠木くどき。山間に這う霧が、記憶をざわつかせる。古道の果てにひっそりと立つハシヅメ写真館、その木戸が「ギィィ」と沈んだ音を立てて軋んだ。


22歳の夢写師、橋爪ルカは、黒のタートルネックに身を包み、撮影室の主役である「魂写機たまうつしき」を静かに点検していた。それは8×10インチの大判カメラ。橋爪家が「魂写機たまうつしき」と呼ぶ、代々の遺物。木の肌は黒く艶めき、真鍮の金具は月光に応じて青白く鈍く光る。ペッツバール式のレンズは、可視光ではなく"魂の光"——紫外線と青の波長を中心に記憶を写し取る異形の眼だ。


灰銀の瞳は静か、感情を閉ざした仮面のよう。写祓の危険から身を守るための防壁だった。失敗すれば、写し世の悲しみや怒りが自分の中へと流れ込む。写真師が感情を映せば、写し世の魂は写真に定着しない。


「レンズ、きれいなままだ。よかった」


彼女の手は埃を払い、シャッターボタンをそっと押す。カシャリ。空の音が響く。その音が写し世と現世の境界を揺らし、一瞬だけ彼女の感情抑制を解いた。写し世——記憶と影が映る世界、現実とは異なる時間の流れる場所。夢写師だけがその狭間に立ち、記憶を写し取ることができる。


シャッター音の瞬間、手が微かに震えた。七時四十二分——懐中時計の針が示す時間が脳裏に浮かぶ。「なぜこの時間が…」彼女は首を振り、理解できない感覚を振り払った。


「これで一日が始まるんだよね。いつも通り、落ち着くかな」


独り言は、静寂を埋める小さな習慣だ。


ルカは机の引き出しを開け、乾板入りの暗箱を手に取る。ガラス板にゼラチン乳剤を塗布した「月影乳剤」は、影向稲荷の地下水で調合され、魂の青い光を増幅する特性があった。水脈に宿る記憶の力が、写真の精度を高める。その下から古い懐中時計が姿を現す。彼女はそれを手に取り、針が止まったままの文字盤を見つめる。七時四十二分を指したまま、しかし金属が微かに脈打つように感じられた。生きているかのように。胸が突然締め付けられる感覚に、彼女は眉をひそめた。


「なんでだろう…」


不意に両親の葬送曲が脳裏に響き、彼女は目を強く閉じた。姉の声—『ルカ、忘れないで』—が耳の奥で響き、彼女の指が震えた。「感じると、痛いから…」感情を抑える癖が、孤独な夜を耐える術だった。写祓の度に記憶の欠片が削れていく恐怖から自分を守る、唯一の方法。


懐中時計の針は七時四十二分で止まったまま。ルカは深呼吸し、時計を引き出しに戻した。


「在庫、ちゃんとあるね。忙しくなるかな、チクワ?」


窓際に座る黒と白のハチワレ猫、チクワが首を傾げる。白い毛が月光で淡く光る。猫の金色の瞳が一瞬、不自然に青く輝いた。その瞳は魂の光を映し、写し世の揺らぎを感知する能力を持っていた。夢写師の家系に代々仕えてきた守り手のような存在。


「ねえ、お前、いつも何か知ってる顔してるよね。霧の向こう、教えてよ?」


チクワは答えず、鏡を一瞥。一瞬、影が揺れた気がした。猫は低く唸り、壁の一点——二階への階段の先を見つめた。ルカには見えない何かを見ているようだった。チクワの金色の瞳が月光に一瞬青く輝き、そのまま視線を階段に固定した。


「二階?何かあるの?」


ルカは階段を見上げた。使っていない部屋があるはずだ。なぜか足が向かない場所。記憶が欠けている感覚。「変ね…」彼女は頭を振り、厨房へ向かった。


「動かないと、頭がぐるぐるする。動こう、ね」


彼女の声は小さく、霧に溶ける。遠くから時間の軋むような音が微かに届き、彼女の耳を震わせた。それは写し世と現世が交差する時、発せられる特有の音色だった。普通の人間には聞こえないが、夢写師の血を引くルカには、その余韻が痛いほど響く。


鍋で唐辛子の煮込みが煮える。赤い湯気が鼻を刺す。


「うわ、辛っ! でも、これで頭が静かになるんだよね。甘いもの? うーん、なんか気持ちがふわっとしちゃいそう」


ルカはスプーンを握り、一口。


「…悪くないけど、もうちょい辛くてもいいかな?」


食事を終え、彼女は二階の自室へ向かう。階段を上がりながら、廊下の突き当たりにある閉ざされた部屋の前で足が止まる。手が勝手にドアノブに伸びかけ、彼女は慌てて引っ込めた。


「なんで…」


チクワが彼女の足元に現れ、閉ざされた部屋の前で座り込んだ。まるで待っているかのように。その金色の瞳は月の光を受けて鋭く輝き、ドアの隙間から漏れる見えない何かを追っているようだった。


「いつか…開けるときが来るのかな」


ルカは自室に入り、着替え始める。


「さて、着替えないと。仕事の時間だ」


タートルネックを脱ぎ、戸棚から巫女装束を取り出す。白の小袖と緋の袴、丁寧に畳まれた布が月光に映える。布から桜の香りがする気がした。


「この服、ちょっと窮屈だけど…気持ちが引き締まるんだよね」


ルカは髪を整え、袴の紐を結ぶ。鏡に映る自分に小さく頷く。


「よし、夢写師の顔。ちゃんとできてるかな」


微笑みが一瞬、浮かんで消える。一瞬、鏡の中に、巫女装束の誰かが立っていたように見えた。笑顔の少女。短い黒髪。目を瞬くと、そこにはもう誰もいなかった。


心臓が早鐘を打ち、胸の内から抑えきれない感情が溢れそうになる。何かを忘れている—そんな感覚に襲われた。記憶の欠片が迫り来る危険。ルカは深く息を吸い、感情を押し込んだ。


「気のせいよ…」


現像室へ降りる。土蔵を改造した「くらやみ」は、彼女だけの聖域だ。円形の部屋、壁の八つの鏡が月光を反射する。それぞれの鏡は写し世への門。天井の月見窓から銀の光が差し、床の魔方陣が浮かぶ。


扉を開けた瞬間、空気が変わった。重く、濃密になる。最初に聴覚がおかしくなる—自分の足音が遠く、多重に反響し、過去の誰かの足音と混ざり合う。これは時間の波紋、写し世の影響だ。続いて視界が歪む—鏡に映る自分の白い小袖が黒に、チクワの毛が青に変色する。写し世の色彩反転の法則。暖色(感情)は暗く、寒色(真実)は明るく映る。


「ちゃんと現像液を測って」「もう少し明るく撮りたいね」写し世の記憶が、音となって空間に滲み、それらの声の中に姉らしき柔らかな話し方が混ざっているようだった。


「ここ、なんだか別世界。霧が濃い夜は、いつもドキドキするんだよね」


ルカの呟きが、冷えた空気に響く。遠くで時間の軋むような低音が鳴り、彼女の耳を震わせた。今夜の依頼は病院からだ。老人ホームで囁く魂、穏やかな記憶の残響。


ルカは魂写機を棚から降ろさず、代わりに小型の35mm一眼レフを手に取った。穏やかな写祓なら、これで十分だった。強すぎる魂には大型カメラと湿板が必要だが、これは危険も伴う。失敗すれば自らの記憶が削れる。


「こういう時は、これで大丈夫。軽いから動きやすいし」


フィルムの巻き上げ音が響く。カチリ。


「デジタル? そんなわけないよね。魂は乾板かフィルムにしか映らないよ」


彼女はレンズを覗き、試しにシャッターを切る。カシャリ。空のフィルムに、霧の気配が写りそうな気がした。視界の端に、青白い光が漂う。


「…は、ないよね。自分で言ってて恥ずかしいな」


小さな笑みが漏れる。


現像室の空気が重くなる。ルカはフィルムを現像液に浸す。橋爪家秘伝の「霧露液」は、記憶を定着させる不思議な匂いだ。


「この匂い、嫌いじゃないけど…頭痛がくるんだよね。でも…この匂い……昔もどこかで……いや、思い出せない」


彼女は額を押さえる。液に記憶が溶けるたび、ほんの少し、ルカの心も削れる。感情を抑えるのは、それを防ぐ術だ。現像時の霧露液の匂いは、魂の感情を増幅させ、過度な感情は結晶を曇らせる。それが彼女の感情抑制癖を強化していた。写祓の代償から自らを守る防壁。


液面に目をやると、異変に気づいた。現像液の表面に青い結晶のようなものが映っている。「魂の欠片」の痕跡だ。手を伸ばすと、液面が波打ち、結晶は消えた。


「なに…これ?」


町の噂が耳に蘇る—「影写りの巫女が欠片を封じた」「黒い狐が記憶を盗む」。ルカは首を振り、考えを振り払った。


「感じすぎると、写せない。冷静に、ちゃんと写さなきゃ。それが私の仕事」


鏡が微かに震え、チクワが窓際で唸り声を上げた。猫の背中の毛が逆立ち、金色の瞳が闇を見通すように輝いている。それは鏡の一つを指すように爪を立てた。まるで何かの気配を追うように、鏡の前に立ち止まった。チクワは写し世の使者として、鏡や魂写機の揺らぎを感知していた。


「チクワ、なんか見てるよね? 教えてよ、ほんと頼むよ」


鏡を見ると、一瞬、誰かの姿が映った気がした。白い小袖に緋の袴を着た少女。だが目を瞬くと、鏡には自分の姿しか映っていなかった。


「気のせい…」


チクワは静かに瞬きし、もう一度鏡を見つめる。その金色の瞳が神秘的な青さで光った。


写祓——魂の記憶を浄化する儀式。今夜の魂は穏やかだ。ルカは35mmカメラを構え、老人ホームの依頼を思い出す。


「囁き声が聞こえる、って。怖がってるみたい。…落ち着いてほしいな」


彼女は小さく息を吸う。


「怖いのは、私の方かもしれないけど」


写祓に失敗すれば、囁き声が増殖し、現世に漏れ出す。居住者の恐怖が現実となる。それは絶対に避けねばならない。


シャッターを切る。カシャリ——その音が、今日の記憶をひとつ、封じた。フィルムに淡い影が浮かぶ。囁き声がフィルムに封じられ、ルカは息を吐く。


「よし、終わった。ちゃんと浄化できたかな」


彼女はカメラを下ろし、鏡を見つめる。自分の顔が、一瞬別の顔と重なって見えた。何か大切なものを忘れている感覚—それが彼女の胸を締め付けた。


「…なんか、嫌な予感するんだよね、こういう夜って」


霧が深まる。写真館の外、影向稲荷の鳥居が闇に沈む。廃墟の噂が、霧に紛れて囁かれる。朽ちた温泉宿、止まった遊園地、霧の観測所。記憶が濃く残る場所。それらは写し世との境界が最も薄い場所。ルカは耳を塞ぐ。


「関係ないよ。私の仕事は、ただ写すこと」


チクワが毛を逆立て、鏡に光が走る。遠く、青緑の狐の影が揺れる。湿板の硝酸銀が鏡を揺らす現象——青緑の霧がクロを呼び寄せる兆候だった。写し世の住人の一部が、現世に漏れ出す前触れ。ルカの胸が締め付けられる。懐中時計が七時四十二分を指す感覚が体を貫く。「わたしのことを、ずっと覚えていてね」という柔らかな声が微かに記憶の底から浮かび上がる。


「…来ないでよ、誰だか知らないけど」


彼女はカメラを握り直す。


ルカは独り、思う。


光が強すぎると、影は写らない。

だから私は、曇りの日を好んだ。

境界がぼやけた風景の中でだけ、見えないものの気配が写り込む気がしていたから。

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