そのアイドルは私の夢
私は幼いころ、剣道場に通っていて。そこで同い年の、同性である少女に出会ったのだ。名前はミコちゃんで、この出会いが現実世界でもあったのかは自信がない。私は夢の中でミコちゃんと会っていて、とにかく眠っている今は、現実感を持って彼女のことを知っている。
知っている、などと言ったけど、ミコちゃんとの思い出は少なくて。彼女は小学校に入る前に引っ越してしまって、それっきり会うこともなかった。それでも彼女のことを覚えているくらい、ミコちゃんは可愛らしくて素敵だったのだ。
「ねぇ、ミコちゃんって知ってる? この子、可愛らしいアイドルなんだよ」
だから私が高校一年生になって、クラスメートからそう言われたときは、驚きもあったけど同じくらい納得もしていた。そうか、ミコちゃんはアイドルになったんだと。本名のままで活動していて輝いてて、剣道を中学で辞めて燻ってた私とは大違いだった。
今の私には目標も何もなくて。だからアイドル活動に全力で打ち込んでいるミコちゃんは太陽のような存在になったのだった。夏休みになって、そしたら私の家から行ける距離で、彼女との握手会が開かれるという情報を聞きつけて。これは行かなきゃならないでしょう!
というわけで、行ってみました握手会。流石に夢の中なので展開が早い。ミコちゃんはアイドルグループの一員で、屋内の会場に集まったファンは他の人も応援してるんだろうけど、私はミコちゃん一筋だ。参加券を持って、ファンの私たちは列を進めていく。
「過度に立ち止まらず、スムーズに次の方へ順番をお譲りくださーい」
係員さんのアナウンスに従ってイベントは進行して、私の番が近づいてくる。この握手会では、ファンからアイドルへのプレゼントを手渡しできて、私は花束を用意していた。これでミコちゃん、喜んでくれるかなぁ。
握手会ではアイドルと、ちょっとした会話もできるようだけど、何を話すかは考えていなかった。私はミコちゃんを覚えているけど、向こうは私のことなんか覚えていないだろう。人によっては、芸能界に入る前の話をされたくないアイドルだっているかもだ。ミコちゃんが小学校に入る前、剣道を辞めていたということはインタビュー記事で読んでいた。
私だって中学で剣道は辞めたし、今は新しいことにチャレンジしたい気分だ。『ミコちゃんみたいに、私もこれから輝きたいです。応援してます』とでも言おうかな。うん、そうしよう。向こうだって急に思い出話を振られても困るだろう。私はただの一般人で、これからもアイドルの人生とは交錯しないのだ。
ついに私の番が来る。他のメンバーと横に並んで待機している、ミコちゃんの前へと私は歩を進めていった。さあ花束を渡そうと思ったとき、なぜか後ろから悲鳴が上がる。なんだろうと思って振り返ると、そこにはナイフを持った女性がいた。
「この泥棒猫! 殺してやる!」
包丁よりは細い刃物を両手で持っている、その女性が叫びながら、制止を振り切って走ってくる。ブーツを履いているからか、少しスピードは遅い。ちょっとちょっと、こういうイベントでは金属探知機での持ち物検査があるはずでしょ? 夢の中でリアリティーに欠ける出来事は止めてほしい。
女性は真っ直ぐにミコちゃんを狙ってきてて、当然ながらアイドルの悲鳴が私の背中で上がる。ミコちゃんと女性の間には私がいて、だから私は逃げなかった。今、彼女を守れるのは私だけなのだ。
花束を両手で持って、右斜め下に振り下ろす。剣道でいう小手打ちの動きが自然に出た。花の束は鞭みたいにしなって、ナイフの峰である上側に絡みついて、嘘みたいに綺麗に上手くいった。刃物が床に落ちて、きっと十回やっても、同じことはできなかったと思う。
走ってきた彼女が、勢い余って私にぶつかる。私と彼女は一緒に転んだ。先にナイフを失った彼女が立ち上がろうとして、私は寝たままの状態から女性の片足にしがみ付く。再び彼女が転んで、悪態をついた。
「ちくしょう! 離せ、このぉ!」
片足を掴んだままの私は、女性からブーツの踵で頭部を蹴りつけられる。離すわけにはいかない。手を離せばミコちゃんに危害が加えられるかもしれないのだ。だから絶対、この手は離さない。
何度も蹴られて意識が遠のいていく。手に力を込めたまま、やがて周囲は真っ暗になった。