第2章-1
王宮都市ダーラムの商店街は、いつも以上に賑わっていた。たくさんの露店やヒトビトの行き交いは変わらぬ光景だが、いつも閉ざされている城門が開いていた。
ヘイレンが雑貨屋で物色している間、店主の男に何かあるのか尋ねてみたら、どうやら騎馬隊のパレードがあるらしかった。
「パレードって名目だが、あれは決起集会ですな。ってのも、どうやら仕掛けるんじゃねぇかって噂が立ってまして。最近アーステラだけじゃなく全国的に魔物が増えてるって話ですわ」
シェラの耳元で、店主はそう教えてくれた。魔物が増え、それに伴い街道で襲われる事例が増えているので、一掃作戦を決行する方針で地界4国が合意したそうだ。
ヒト対魔物の全面戦争が始まろうとしている。そう考えるだけで胸が痛む。
魔物はヒトを襲うために生まれてきているのだろうか。共存する道は無いのだろうか。そんな事を考えたこともあった。だが、魔物は生きる為にヒトを喰らわねばならない。そのような希望を抱くのは無意味なのだ。
「また生きづらくなるなぁ。飲み食いも満足にいかなくなるし、隣の街にすら行けなくなる。ほんと、アイツらはどこで湧いて出てきてるんだか……」
大きく溜息をついて、そばにあった椅子にどかっと座り込んだ。シェラもつられて溜息をつく。
「……あの」
と、物色していたヘイレンが遠慮がちに話しかけると、店主は「おう、悪りぃ悪りぃ」と言いながら立ち上がった。
彼が持っていたのは、斜め掛けのポーチだった。黄色に近い茶色の柔らかい革製で、小さめに見えるが意外と入りそうな形をしていた。
「……少年、なかなかいい目をしているな。コイツは頑丈だし小っちぇえわりによく入るやつだ。で……値札見たか?」
ねふだってこれ?とヘイレンが見せてきたが、なかなかの高額だった。思わず、おお、と声が漏れる。
「……高いってこと?」
「……まあ、そうだね」
俺も生活がかかってるからなぁ、と店主は笑う。でも、と、ヘイレンから品を取り、値札を書き換えた。
「召喚士様が少年の為にお買い上げいただけるんであればこの値段で……いかがかな?」
変に丁寧な口調で差し出してきた。見ると半額になっていた。どういう意味合いなのかは考えないでおこう。
「ちゃんとお支払いします。書き換える手間をかけましたね」
やや皮肉っぽい口調になっている気がしながらも、笑みを浮かべて店主に元の値段で支払った。まさか全額支払われるとは思っていなかったのか、口を半開きにしたままお金を受け取り、値札を切ってヘイレンに品を渡した。
「さ、行こうか。お話ありがとうございました」
ヘイレンがポーチを下げたのを確認して、店を後にした。満面の笑みで「ありがとう!」と言われたが、正直なところ、懐のダメージは大きかった。
城門へと続く大通りの両端は、多くのヒトで埋め尽くされていた。ヘイレンの背丈では満足に見られないとわかったので、シェラは少し離れた建物の屋上へ彼を連れて行った。
そこは軽食と珈琲が楽しめるカフェで、屋上にもテーブルと椅子が置いてある。今日みたいな晴れた日は特に心地よく過ごせ、憩いの場となっている。
サンドイッチと珈琲を買って、店の外から屋上に行ける階段を上がり、パレードが見える位置に陣取った。彼に珈琲は苦いだろうと思い、一応ミルクを貰ってきたのだが、要らぬ心配だった。
「ボク、ブラックっていうの?これ好き!」
苦味と香ばしさが気に入ったらしい。シェラは微笑してミルクを自分の珈琲に入れた。
程なくして、ファンファーレが高らかに鳴り響いた。蹄の音が近づいてくる。
カポカポと、どこか心地よく、そしてしっかりと大地を踏みしめる音。騎馬隊が着る鎧の擦れる音も混じる。歓声が上がる。動じない馬もいれば、驚いて顔を上下に激しく振ったり嘶いたりと、様々な反応を見せているようだった。
「この音……」
ヘイレンが目を見開き、じっと一点を見つめていた。パレードを見ているというより、音を聴いているようだった。そして珈琲カップを持つ手が震えていることに気づき、そっと手を添えた。
震えはシェラの手を、腕を伝って脳を震わせた。瞬間、稲妻が走るような光と共に高音の耳鳴りに包まれた。
紺碧の海。一枚の白い羽根が、泡と共に浮上していく。対して自分は、海の底へと沈んでいく。光に包まれ、眩しさのあまり目を瞑った。すると耳鳴りが止み、パレードの喧騒が戻ってきた。
ハッと目を開き、手からこぼれ落ちそうになった珈琲カップと咄嗟に掴んだ。
カップをテーブルに置き、スローモーションのようにくずおれるヘイレンを支え、頭を胸元に抱き寄せた。苦しんでいる様子もなく、静かに眠っているように見えた。
突然のことでシェラの心の臓も激しく彼を叩いていた。深呼吸を繰り返し、まずは自身を落ち着かせる。近くにいた他のヒトたちは心配そうに見守っている。
鼓動が落ち着いたところで、そっとヘイレンを呼んでみるが返事はない。起きる気配もない。これはもうヒールガーデンに戻るしかない。そう思って彼を抱き上げようとしたのだが、身体が石のように動かない。
なぜだろう、先程まで普通に動けていたのに。自分の呼吸の音が、鼓動が、今までになく大きく聴こえる。鼓動に混じって、潮騒が聴こえてきた。それはだんだん大きくなり、鼓動と呼吸の音を掻き消した。
また稲妻が走るような衝撃。シェラは顔を上げた。そこにはうっすらと、光を纏った女性が立っていた。魚のヒレのような耳、青く輝く鱗のような胸元、流れるような白い衣、銀色に輝く長い髪をなびかせていた。
『彼を……守って……』
澄んだ声が脳内に響き渡ってすぐ、彼女はふわりと消えた。と同時に身体が動かせるようになった。
周りのヒトは何も見えていなかったらしく、自分だけが彼女を見、声を聴いていた。ひと息ついて、もう一度抱き上げる。今度は無事に立ち上がれた。
羽根のような軽さに驚きながらも、階段をゆっくり降りた。
ヒールガーデンに戻ってウィージャと会い、事情を説明してアルティアと同じ部屋にヘイレンのベッドを用意してもらった。横になっていたアルティアは顔を上げて、シェラたちを見つめていた。
ヘイレンを寝かせた途端、脈打つような頭痛が襲ってきた。窓際のソファで横になると、意識が飛んだ。
✳︎
紺碧の海と泡。さっき見た幻影の続きのようだった。眩しい光に、やはり目を閉じる。
波の音でシェラはそっと目を開けた。そこは浜辺だった。ポルテニエの近く、樹海に延びる海岸かと思ったが、様子が違った。
すぐそばに小さな三角州があり、細い川が森へと続いている。樹海には川は無かったはずなので、ここは知らない海岸だ。
海の方向から声がする。美しく、澄んだ声。振り向くと海面にあの女性が佇んでいた。水面から少し浮いている。彼女は手を胸元で組んで歌っていた。まるで祈るかのように。いや、むしろ、祈りの歌だろうか。ただただ美しく見惚れてしまっていた。
燃えるような空は段々と紫から濃い青となり、星々を散りばめ始めた。水平線から月が顔を出す。満月と女性が重なると、彼女は歌をやめて手をほどき、そして大きく広げた。
海から大小様々な泡沫が浮かび上がり、月明かりに照らされ虹色に輝く。泡沫はどんどん増えながら、シェラの足元までやってきた。一際大きなひとつが彼を包み込む。苦しくはなかった。
ふわりと宙に浮き、無重力空間にいるかのようにゆっくり身体が回る。月に向かって手を伸ばしてみる。泡沫に触れたが割れなかった。少しひんやりとしていた。
気がつくと、彼女のすぐ近くまで来ていた。真珠のように白く、細い手がシェラの手と重なった。刹那、泡沫が消えた。それでも彼は浮いていた。
『彼を……守って。彼の方から……守って』
彼とはおそらくヘイレンだろう。では、彼の方とは誰だろうか……。
『そして、彼の方を……救って……』
彼の方も救う……だって?彼の方って誰なんだ?
そう問いかけようとした時、突如風が吹き、シェラは空高く舞い上がった。彼女の手も離れてしまった。戻りたいと足掻こうとするが、身体が言うことを聞かない。彼女がどんどん小さくなっていく。やがて闇に投げ出されたが、声だけははっきりと脳内に響いていた。
『時空の旅人様を、闇から救って……』
✳︎
窓からの西日に照らされ、眩しさを覚えて飛び起きた。突然起きたせいか、鼓動が乱れた。胸元を押さえて深呼吸を繰り返す。頭痛はまだ少し残っていた。
「大丈夫か?顔が真っ青だよ」
声のする方を向くと、心配そうにウィージャが跪いてシェラを見上げていた。
「ちょっと失礼」
すっと立ち上がると、医師は自分の額をシェラのそれにくっつけた。んん、と唸りつつそっと離すと、ちょっと熱あるね、と言った。手首を掴むと、脈が飛んでる、と付け加えた。義手でも脈が測れるのか、とその手を見つめながらぼんやりと思った。
「頭痛ある?」
「……はい」
「だよね。今下手に動かない方がいい。ソファで申し訳ないけど、横になって身体を休めて」
ゆっくり寝かしてもらうと、医師は窓のカーテンをそっと閉めた。西日が遮断され、薄暗くなった。
電気をつけて明るさを控えめにし、部屋の奥から掛け布団を出してきて、かけてくれた。
「ヘイレンは……」
自分の苦しさよりも、彼が気になった。ウィージャはちらっと見て、まだ起きていないと返した。
「落ち着いたら、何が起きたのか教えてくれないか?」
シェラはゆっくり頷いた。ウィージャも頷き、お大事にと言いつつ部屋から出ていった。
部屋が静かになり、アルティアの寝息が聞こえてきた。そっと目を閉じて、さっき見た夢を思い返す。
時空の旅人様……先日起きた『時空の裂け目』の出現と何か関係があるのだろうか。空と海と大地に起きたそれのどこからか飛び出してきたのだろうか?
そもそもあの夢の世界は何処なのだろうか?闇から救ってとは?
彼女は一体誰なのか。彼を守ってと言ったのはどういうことなのか。誰かに狙われているのだろうか……。
何もわからない。頭痛が酷くなってきたように感じたので、考えるのをやめて眠りについた。
次に目が覚めたのは、外がうっすらと朝を告げている頃だった。ゆっくりと身体を起こす。胸の痛みも頭痛も治まっていてほっとした。
「おはよう、シェラ」
声の方を向くと、ヘイレンがベッドから身を起こしてこちらを見ていた。薄暗いので顔色がよくわからない。
「おはよう。調子はどう?」
「うん、大丈夫。たくさん寝たから」
「それはよかった」
シェラはゆっくりソファから離れ、控えめに照らしていた電気を明るくした。
眩しくなって一瞬ギュッと目を閉じるが、すぐに慣れた。ヘイレンも少し眩しそうにしていた。
「ごめん、急に明るくして。……顔色も良さそうだね」
大きく頷いて、彼はうんと背伸びをした。
一呼吸置いて、昨日は、とシェラは彼に聞いた。
「何か、思い出したの?突然意識を失ったからびっくりしたよ」
「……ごめんなさい。あの音が……」
と、胸を押さえて俯く。慌ててヘイレンに駆け寄る。3回大きく深呼吸すると、彼はシェラを見上げた。
「ボク、あの音をいつも聴いていたような気がする。とても間近で」
「あの音って……馬蹄の音?」
彼はゆっくり頷いた。そう言えば、アルスが彼の『本来の姿』が幻獣じゃないかと推測していたが、あながち間違っていないのかもしれないと、ふと思った。
ヘイレンも同じ事を思っていたらしく、「ボクってやっぱりグリフォリルとか馬とかだったのかな」と首を傾げた。
「幻獣にせよ馬にせよ、どうしてヒトの姿になっちゃったんだろう?ボクは……どこから来たんだろう?」
窓を見つめる。シェラはベッドに座って、彼に自分が見た幻影と夢の事を簡単に話した。すると、何か思い出しそうなのか、手で額を押さえた。
病み上がりで苦しいかもしれないが、少しでも自分の事を思い出して欲しい。そう願った。
あっ、と言いながら押さえていた手を下ろし、突然ベッドから飛び出した。ソファに駆け寄り、カーテンを勢いよく開けると、外は荒天だった。
雨が強く窓を叩く。風がごうごうと叫んでいる。遠くではごろごろと雷鳴まで聞こえてきた。
シェラもソファまで行き、外を一瞥してヘイレンを見下ろした。
「……そうだ……あの日、凄い雨だった。とても冷たかった。もがけばもがくほど、陸が遠くなって……」
「陸?」
「……ボク、海で溺れてた」
気がついた時は海の中にいて、息を吐いてしまったので慌てて浮上した。海面に何とか顔を出せたのはいいが、今のような雨風の酷い状況だったそう。
荒波が彼を飲み込みパニックになった。浮上するまでどうやって泳いだのかわからないくらい、泳ぎ方も忘れてしまった。大量の海水が口を、喉を通っていく。体温が奪われ、意識が遠のいて……。
気がついたら、海岸にいた。雨も止んでいた。激しい痛みが全身を覆い、また意識が消えそうになった。ここで死ぬかもしれないと思って……あとはアルスから聞いた話に至った。
「溺れ死んだと思ったのに、海岸に流れ着いていたことが不思議だった。……シェラの話を聞くまでは」
そう言ってヘイレンは、窓を背にしソファにすとんと座った。シェラも隣に座った。
互いに見つめ合う。頭ひとつ分の身長差があるので、ヘイレンを見下ろす格好になるのは変わらない。
「シェラが見た女のヒトって、銀の長い髪で、魚のヒレみたいな耳をしていて、白い服を着てなかった?」
あまりにも合致していて言葉を失った。小さく頷くと、彼はやっぱり、と大きく頷いた。
「そのヒト、セイレーン族だよ」
セイレーン族はリヒトガイアの深海に広がる水界の民である。夢の世界も同世界だったということか……?
「……もしかして彼女が海岸へ君を……?」
「……かもしれない、って思った。ボク、そのヒトと会ったことがあるんだと思う。どこで会ったのかは思い出せないけど」
リヒトガイアに生きるセイレーン族は、溺れているヒトを近くの陸地まで運んでくれるが、邪心を抱く者は逆に海に引きずりこんで溺死させる……という言い伝えがある。
会ったことのあるセイレーンであれば、彼を見捨てることは無いだろうと、何故か確信していた。
少し思い出せたね、と言うと、彼はうん!と元気に頷いた。いつの間にか起きていたアルティアも頭を上げてこちらを見つめていた。
様子を見にきたウィージャに昨日起きた事を話すと、腕を組んで何やら考え込んでしまった。
「ヘイレンはフラッシュバックを起こして気を失った……のかな?蹄の音に嫌な思い出とかあった?」
「そんな事ない……はず……です」
声がしぼんでいった。シェラも何となくだがそんな事はないと思っていた。
「ともあれ、何か記憶が戻るきっかけになったみたいだね。気を失っちゃうことってたまーにあるし……。問題はシェラが見たモノだな」
医師は窓の外に視線を移す。相変わらず雨風が酷い。
「この世界は魔法やら幻獣やらが普通に存在するから、幻影を見る事も何らおかしくはない。でもね……最近なんか異変が起きているように感じるんだよね。時空の裂け目が出現した日から、魔物が急増したらしいし、黒い靄が地界のあちこちを行き交っているって話だし」
『黒い靄』にシェラとヘイレンは顔を合わせた。ポルテニエで遭遇したアレだ。ふと、ヘイレンが聞いた。
「そういえば、アルスってここに戻ってきたの?」
昨日の朝にちょっと口論になって部屋を出て行ったきり、会っていない事に今更ながら気がついた。ウィージャは「見てないね」と否定し、それからこう続けた。
「そうだ、東の門番隊が彼を引き止めようとして逃げられたって聞いたな……。トア・ル森方面に走って行ったって」
トア・ル森というと、左右眼の色が異なるジンブツが大人を皆殺しにした例の事件が起きた場所だ。
逃げた、という言葉にヘイレンは目を丸くした。
「逃げたってどういう事?まさかアルスが疑われてるの!?」
「正しくは『疑われてた』だな。背格好が酷似していたから声をかけて事情を聞いたそうだ。彼ではないと確証したが、真犯人は同族かもしれないとか言って行っちゃったらしい」
嫌な予感がして身震いした。あの話をした時も……黒い靄に襲われた後だったのもあるが……顔色が悪かった。そして昨日森へ行くと言ってこの部屋を出て行った。
しかし、今だに信じ難いのは、彼が真犯人と『同族の可能性である』ことだ。彼がオッドアイだったかなんて、注意して見てないから覚えていない。何なら、片目は前髪で隠れててよく見えない。というか、オッドアイの種族が存命していることは……ありえない。
「行こう、シェラ。アルスが危ない」
ヘイレンの口からそのような言葉が出てくるとは思わなかった。すっとソファから立ち上がろうとしたので慌てて肩を押さえた。
「ちょっと待って、この嵐の中移動こそ危険だよ」
「でも……!」
「仮に森まで行けたとしても、あそこは魔物と霊体がいっぱいいる。見通しも悪いし、こんな天気だと尚更ね。嵐が去ってから行った方がいい」
ウィージャも説得に加わる。
「心配するのはわかる。僕だって不安だ。でも、アルスならたぶん……大丈夫」
「あの靄がいたらどうするの!?」
食い下がるヘイレンを思わず抱きしめた。彼の息遣いが伝わってくる。呼吸が浅い。淡い金色の髪をそっと撫でて落ち着かせる。
「……どうするかは、彼次第だ。僕らに今できる事は、ただ無事でいることを祈るしかない。無力なのが悔しいけど」
ヘイレンが胸元に顔を埋めてきた。震えているのは、きっと悔しいからだろう。
シェラは彼が落ち着くまで抱きしめつつ、ひとりで突っ走るアルスを止める方法を考えていた。