第1章-3
随分と眠ってしまっていたようだ。目を覚まして窓を見ると、外はすっかり闇に包まれていた。
背中の痛みは感じなくなったが、怠さがまだ残っていて起き上がれない。靄に奪われた力は相当大きかったようだ。
一つ大きなため息をつき、再び目を閉じる。翌朝には起き上がれることを祈りつつ、アルスは眠りに落ちていった。
*
冷たく湿った風で目が覚めた。
アルスは淡く青白い光に包まれた森の中で佇んでいた。木々が風で騒めき、落ち葉が舞う。
光は彼を誘うように舞い、先へ進めと促してくる。自然と足を進める。風が止み、静寂に包まれる。
足音がいやに大きく響く。鼓動も大きく感じるし、早い。そして、息が詰まる。
しばらくすると小さな池に着いた。綺麗な円形で、中心から小さな泡がぽつぽつと顔を出し、波紋を生み出している。
そっと覗き込んでみる。ワインレッドの右眼と紫の左眼を持つ自分の姿が映る。霊体を召喚していたジンブツと、左右は違えど同じオッドアイだ。
アーデルの血を引く魔族の末裔。必ずどちらかの眼の色が赤く染まるオッドアイであることが特徴だ。彼らは『黒の一族』と呼ばれていた。心の深淵に宿す『闇』を取り込み、身体の傷を癒したり、魔力を回復させたりして、自らの生命力を高める。
取り込む時の力は膨大で、かつ取り込んだ後は動くことが困難なほどの苦痛に見舞われる。峠を越えれば苦痛も和らぐのだが、取り込む量が多ければ多いほど越えるまでが長くなる。
はるか昔、700年程前からこの一族は存在していた。当時は『闇』を取り込むことで相手の心を苦痛から救っていたそうだ。
それが何処で狂ってしまったのだろうか、『闇』を取り込んだ一族の民が、取り込んだ闇の力を火力とすればねじ伏せられると考え、ある時小さな町を制圧してしまった。
その町から国へと発展していったのだが、町の住民は全員奴隷となり、一族の住む家や長の城の建設、道の整備など、粗末な食事と短い睡眠を強いられこき使われた。逆らう者は闇の力で洗脳され、食事も摂らされず餓死するまで働かされた。
この国の名はエフーシオと呼ばれ、天空界の4つ目の国となったのだが、ある事がきっかけで聖なる国ホーリアに一夜にして滅ぼされた。奴隷にされていた先住民も道連れに、黒の一族は滅びたはずだった……。
それなのに、何故自分はこの一族の血を引いているのか。アルスは右目を覆い隠すように手を当てる。
忘れかけていた一族の過去は、子供の頃聞かされた。あまりにも残酷だと感じ、自分の血族が嫌いになった。同時に、何故滅びたはずの一族の末裔なのか疑問に思った。
生き残った者がいたから、今の自分がいる。単純に考えればそういうことだが、それにしても、だ。
一族は滅びたと言われていたはずだったが、その後、たったひとり生き残った者がいたという。
オッドアイは純血のみ存在すると言われているが、純血の子孫を残すには一族の男女が生き残っていないと不可能だ。となると、自分は別の種族との混血になるはずで、オッドアイで生まれてくることはないはずなのだ。
思えば親も片眼は赤かった。上にふたり兄がいたが、彼らもそうだった。母親は自分を産んだ直後に亡くなったらしいが、彼女もまた同じ眼だったという。
両親のどちらかの祖先が突然変異でも起こしたのだろうか。あるいは混血同士で純血が生まれる、ということもあるのだろうか。……いずれにせよ、真相は謎である。
これ以上一族の事を考えても疲れるだけだ。そう思った時、池に映る自分の姿が歪み始めた。波紋が広がり、細かな泡がたくさん上がってくる。黒い影が、だんだんと近づいてくる。
一歩退いた瞬間、池の中から勢いよく何かが飛び出してきて、アルスの頭上まで飛躍した。また一歩下がって見上げると、それはヒトの顔だった。紫の右眼と紅玉髄の左眼、短髪で整った目鼻立ち。青白く光り、口元は不敵な笑みを浮かべている。
その顔に見覚えがあった。あの悪夢で見たあいつだった。
じりじりと顔が寄ってくる。先程まで動けていた足が、地に縫われたように動かない。手も誰かに押さえつけられている感覚があって挙げられない。鼓動がますます早くなり、冷や汗がどっと溢れ出す。
突然、顔が何かを唱えたかと思うと、赤と紫の炎に包まれた。視界は池や森など何処にもなく、一面炎の壁。不思議と熱さは感じない。足から膝、腰、胸と徐々に身体が燃えていくのをじっと見つめていた。
このまま燃え尽きてしまうのか……!?
再度顔を上げるが、例の顔は姿を消していた。手が、腕が、肩が燃え、いよいよ顔が燃えようかというところで目を固く閉じた。
夢から早く覚めろと願うも、まだ炎の声は鳴り止まない。アルスは思わず叫んでいた……。
*
「アルス!起きろ!!」
両肩を掴んで思い切り身体を揺さぶり起こしてくれたのはシェラだった。長時間息を止めた後のような息苦しさが押し寄せてくる。
息を吸え、と叫ばれても、呼吸の仕方がわからなくなっていた。無理矢理身体を起こされ、背中を叩かれると、小さく息を吐き、そして大きく吸った。さらに激しく咳き込んだ。
シェラの声に合わせて必死に深呼吸を繰り返す。どのくらい時間が経ったのだろうか。ヘイレンがそっと部屋に入ってきた時、ふわりとカモミールの香りが鼻をくすぐった。すると、さっきまでの苦しさが嘘のように消えていったのである。
「これ……近くの露店で売ってたから……」
そう言って、そっと近くの小さなテーブルにカモミールティーが入ったコップを置いた。いつも自分が淹れているものより色がかなり濃かった。
「どれくらい浸してたらいいのかわからなくて……その……苦かったらごめん」
俯いてもじもじするヘイレンを見て、シェラがくすりと笑った。
「むしろ苦めの方が今のアルスに良く効きそうだね」
フォローなのか貶してるのか……。シェラはそっとコップをわたしてくれた。ちょうど良い熱さで確かに少し苦かったが、身も心も洗われた。
連日の悪夢でぐっすり眠れた気になれていないが、身体の傷は癒えて怠さも無くなり、歩けるようにもなっていた。ベッドから出て身体をほぐし、寝間着から着替え、部屋を整えてからそっと廊下に出る。
大きな窓からの景色は、何事もなかったかのように活気ある商店街の様子が映しだされていた。鮮魚や果物、野菜を売る商人の呼び込む声や、子供たちの笑い声、空では海鳥たちが飛び回っている。
アルスたちは療養所を出て、商店街を少し歩いた。ヘイレンは店頭に並ぶ食べ物や雑貨に興味津々だった。レタスとトマトが挟まったサンドイッチと艶の良い林檎を人数分買い、ポルテニエを後にした。
快晴の空の下、ダーラムへと続く街道を歩き、少し逸れて小高い丘を登り、遠くに見える王宮都市をじっと眺めた。
「あれが……ダーラム?」
ヘイレンの問いにシェラが頷いた。
「ここから先が地の国アーステラ。地界最大にして最高位の国だ。ダーラムは首都だけに最も発展していて活気もあるよ。ポルテニエも賑わっていたけど、全然違うよ」
目を爛々と輝かせるヘイレンがどこか眩しかった。
本来シェラと会う場所だったダーラム。ポルテニエで会って話をしたので行く用事は無くなってしまったのだが、彼が行きたがったので、折角だし……ということで向かうことになった。
しばらく眺めたのち、その場に腰を降ろして買ってきたサンドイッチと林檎を頬張る。彼はどれも初めて食べたものらしく、口に入れるたびに感激していた。
腹がくちくなったので、丘を降りて街道に戻り、ダーラムに向かおうとした時、進行方向から何かがこちらにやってくるのが見えた。
頭部は狼、首から肩まで白い毛で覆われていて、前脚と翼は鷲、月色の胴と後脚は獅子、尾は馬。この世界では、様々な生き物の一部を合わせたような幻獣はグリフォリルと呼ばれているが、その幻獣は明らかに歩様がおかしかった。
「あれは……!」
シェラが走り出した。アルスとヘイレンも後を追う。グリフォリルと合流したところで、息を飲んだ。
全身傷だらけで流血しており、翼も一部羽根がもげてボロボロだった。頭を低く下げ、息は荒く、眼も虚ろだ。
「何があったんだ……」
シェラがそっと幻獣の肩に触れると、頭を上げて一瞥したかと思うと、その場で四肢が崩れた。
「アルティア!」
シェラは跪き、アルティアと呼ばれた幻獣の頭を抱き寄せた。そっと首元を撫でると、小さく唸って目を閉じた。撫でた手は赤く染まっていた。
アルスは目を細めた。幻獣の後躯から黒い靄が湯気の様に湧いていた。そっと近づき、腰あたりに右手を当てた。ピクリと胴が反応したが、顔を上げる様子はない。
靄が右手に集まってくる。腕を伝い、胸まで来ると、すっと身体に溶け込んでいく。目を閉じて、アルティアに何が起きたのか靄に問う。一瞬の頭痛の後、その光景が脳裏に映った。
アルティアは、アルスたちを襲ったあの靄と対峙していた。頭上を旋回し、一気に降下してくるのをかわそうとするが、靄が横や縦に広がって幻獣を包みこんだ。瞬間、全身が切り刻まれ、鮮血が飛んだ。
身体を震わせ、顔を大きく振り、翼を広げてひと羽ばたきして風を作る。靄は吹き飛ばされて離れていくが、一塊となって大きく膨らんでいく。よろめきながらも睨み威嚇する。
再び翼を広げ羽ばたこうとした時、靄の中心からヒトの『手』が前に突き出てきた。そして、赤と紫が混じった光を放った。それは片翼を貫き、羽根を少し燃やした。
激痛と熱さで絶叫し、がむしゃらに翼をバタつかせて靄から逃げるが、もう片方も同じ光で貫かれた。根元からだらりと垂れ下がると、それを引き摺りながら駆け出した。しかし、靄に追いつかれると、それは背中に跨り、白い毛を掴んだ。
突然、アルティアの動きが止まった。靄はヒトの姿に形を成していた。音と靄が消える。と、ヒトが、毛を掴んでいる手と反対の手で首を撫でた。優しい笑みを浮かべながら、何度も撫で続ける。
サラサラと白い毛が舞い散る。銀色に光りながらヒトを囲む様に舞い、背中に吸い込まれていく。撫で終わるとそっと背中から降りて距離をとった。そして少し背を丸めると、中から勢いよく美しく大きな銀翼が現れた。
撫でる行為が、幻獣から『飛ぶ』力を奪っていたのだ。
ヒトは地面を蹴って力強く羽ばたいた。音は一切無く、ただ突風を起こして天高く飛び上がり、そして消えた。
風が止み、静寂に包まれる。アルティアは天を一瞥し、激痛に耐えながらゆっくりと歩き出した。
靄は消え、アルスの心の器に全て収まった。心の臓に若干痛みが残っているが、呼吸は乱れておらず身体も動かせる。意識もはっきりしていた。
ふと青白い光を感じたので顔を上げると、シェラが詠唱してアルティアの傷を治療していた。少しずつ血も止まり、傷も薄くなっていく。一つ一つが浅いものだったようだ。
ヘイレンはしゃがみ込んでじっと見守っていた。視線を感じたのか、アルティアはうっすらと目を開いた。互いに見つめ合う。時々小さくヘイレンが頷く。言葉を交わしていないのに、彼は幻獣と話をしているように見えた。
それから半刻(約1時間)程して、空が闇に包まれ始めた。アルティアの傷はすっかり消え去り、四肢もしっかり支えられるようになったが、翼は無残な姿のままだった。
「ごめん、これはちょっと僕の魔法では厳しいな……」
悔しさを滲ませながらシェラはアルティアの肩に触れた。幻獣は首を下げ、小さく鼻を鳴らした。
何か違和感を覚えたのか、シェラは「あれ」と呟いた。アルスも幻獣を見つめる。ヘイレンが首を傾げる。
「どうかしたの?」
「いや……何故だろう……アルティアが言葉を話せなくなってる」
アルティアは、野生のグリフォリルには無い特殊な能力を持っていた。それが『ヒトと話ができる』事である。
幻獣はちらりとヘイレンを見る。少し見つめ合うと、彼が口を開いた。
「飛ぶ力を無くした途端に喋れなくなったんだって」
淡々と話す様子にアルスたちは唖然とする。
「ヘイレン……アルティアと通じてる……」
自分しか幻獣の言葉がわかってないと気づいた途端、目を見開いてそわそわしだした。その能力しばらく活用させて欲しいとシェラがなだめると、ヘイレンは戸惑いながらも小さく頷いた。
「何だろう……彼の声が頭の中に響く感じなんだ」
痛む翼をなんとか畳んで少しコンパクトになったアルティアと並行して歩くヘイレンが、こう言った。
「ヒト以外の生き物と疎通できる能力を持っている、か。お前、もしかしたら同じ種なんじゃないか?」
ぼそっとアルスは呟いてみた。すると彼は目を丸くした。
「え……ボクもグリフォリル?ってやつだったの!?」
可能性を述べただけで確信は持てないぞ、と付け加えると、ああそうか、そうだよね、とため息をついた。
「アルティアの力を取り戻すには、例の靄を倒す他無いだろうね。ヒト型なり獣なり形を成してくれたらいいのだけれど、そう都合よくいかなそうだし……」
唸るシェラを見つめながら、アルスは靄から得た情景を話した。靄からヒトに変わり、アルティアに跨り彼を撫で、飛ぶ力を奪って自ら翼を生み出し、空高く飛び去っていった、と。
「そうなんだ……。ていうか、アルスにそんな能力あったの知らなかったよ。闇から過去を視るなんて……」
シェラとは長い付き合いだが、『黒の一族』の力を宿している事は一度も話してこなかった。自分がこの一族の末裔である事を知られたくなかったから。
バレてしまうかと思い目を逸らしてしまうが、これ以上彼から何か言われる事はなかった。
弱い風が、赤眼を隠した前髪をふわりと撫でる。反射的に伏目になるが、ふたりともこちらを見ていなかった。力を使い続けるといつかはバレる。その時彼らはどう思うだろうか。敵対するだろうか。そばを離れられて、また孤独に戻ってしまうのだろうか……。
孤独が嫌いというわけでは無い。が、築いてきた関係が壊れて失われる事に懸念を抱いていた……。