第1章-1
予兆もなく突如襲った頭痛は、目の前が真っ白になるほど酷かった。
小さな光がそこかしこでチカチカと点滅しており、目眩も起き始めた。足に力が入らなくなり、すぐそばの太い木の幹に寄りかかった。肩を上下に動かす程呼吸が荒く、意識も薄れてきていた。
どれくらい経っただろうか。頭痛と目眩が落ち着き、ゆっくり目を開けた。いつの間にか気を失っていたようだ。そっと身体を起こし眉間を押さえながら、アルスは一つ深呼吸をした。辺りを見回すが、森の中は変わった様子はなく、静まり返っていた。
レジェーラント大陸の西に位置する水の国ウォーティス。港町ポルテニエの南西に、黒い霧に覆われた広大な樹海がある。もう少しで海岸に出る辺りでとんでもない頭痛に見舞われた。……遠くから波の音が聴こえてくる。ゆっくり立ち上がり、ややふらつきながら海岸へ向かった。
樹海を抜けると空は暗く、黒い雲で覆われていた。今にも降りだしそうな空を一瞥し、砂浜を大股で進む。海からの風は冷たく、まだ寒期は終わらないとでも言いたげだった。
ついにぽつりと雨粒が乾いた砂浜に跡をつけ始めた。ウォーティスは比較的温暖な気候のため、雪は降らない。アルスはコートのフードをかぶって先を行く。雨足が強くなり、顔を容赦なく濡らしてくる。やや俯き加減で進んでいると、突然何かが目の前を横切った。
それは淡い光の玉だった。アルスの目の前を旋回したかと思うと、顔めがけて突っ込んできた。咄嗟に躱すが、玉は頭上を旋回し向かってくる。また躱そうかと思ったが、玉を捕まえようと試みた。すると今度は玉がふわっと避けたのだった。
アルスは玉を睨みつける。動きを止めたそれは、ゆっくり点滅し始めた。
『……来て……けて……』
頭の中で、誰かが話しかけてくる。一瞬頭痛がしたが、先程の酷いものではなく、すぐに治まった。声の主はまた、アルスの頭の中で話しかけてきた。
『来て……ボク……を……た……けて……』
ボクを……助けて?そう聞き取れた時、光の玉は点滅をやめ、樹海の方へと飛んで行ってしまった。
普段ならこのまま何事も無かったかのように先を急いでいたはずだが、なぜか後を追ったほうがいい気がした。小さく溜め息をつきながら着た道を引き返す。
玉を躱した際にフードが脱げてしまったので、すっかりずぶ濡れになっていたが。
結局来た道をほとんど戻り、樹海への出入口に着いてしまった。しかし、光の玉はそこを通過し、さらに海岸沿いを飛んで行った。その先は行き止まりだったはずだ。
行き止まりに着くと、光の玉はさらに淡くなり、やがて消えてしまった。見ると、白色のローブを纏ったヒトが横たわっていた。
色白の肌に、淡い金髪、袖が余り過ぎていてかなり線が細く小柄な体格だった。そっと近づき、息をしているか確認する。わずかに身体が上下していたので、一応呼吸はしているようだ。
躊躇いもなく抱き上げて樹海に戻った。雨のせいで森の中は真っ暗闇だったが、アルスには関係なかった。普通のヒトとは違い、暗闇の中でも物がはっきり見える目を持っていた。
迷うことなくどんどん進むと、少し開けた場所に出た。石と木で造られた小屋が鎮座している。アルスは抱えたままドアを押し開けた。
中央に小さな丸テーブルと1脚の椅子、その奥には暖炉とキッチンがあり、さらに奥に居間と同等の広さの寝室がある。アルスは寝室のベッドにそっと寝かせた。雨で重たくなったローブはそのままにしてしまっているが、脱がせるわけにもいかない。だが、身体は冷え切っていて、小刻みに震えていた。
寝室の奥から毛布を引っ張り出しそっと掛けて、さらに分厚い布団を掛けてやった。そして居間に行き暖炉に火をつけた。火は自分の魔法で出した。
火の暖かみにふれた瞬間、自身も冷え切っているのを感じた。震えながらもコートを脱ぎ、さらに服を脱いで新しいものに着替えた。
タオルで濡れた髪を拭きつつ暖炉の世話をしていると、奥で音がした。寝室に行くと、彼がちょうど起き上がろうとしていたところだった。が、身体を支えていた腕が脱力し、ベッドから落ちそうになったのを咄嗟に支えた。
「あ……え……??」
布団と毛布を少しよけて、ゆっくり起こしてあげる。当の本人は目を白黒させて何が起きているのかわからない様子だった。
「……大丈夫か?」
どう見ても大丈夫そうではないのだが、掛ける言葉がこれしか浮かばなかった。声を聞いて彼は顔を上げた。美しい、金色の眼だった……。
「あ……うん……だい……じょう……ぶ?」
やや首を傾げる。もしかして言葉が通じていないのか?
「とりあえず着ている服を脱いで、これに着替えろ」
支えがなくとも起き上がれているのを確認し、タンスから布製の服を取り出して彼に渡した。しばらく服をじっと見つめていたが、いそいそとローブを脱ぎ始めた。
アルスは居間に戻ってキッチンに向かい、小さなケトルに水を汲んで沸かした。そこに、樹海で自生しているカモミールの花を乾燥させたものを落とす。ふわりと優しい香りについ目を閉じて一呼吸つく。寒さもだいぶやわらいできた。
少しして、濡れたローブを抱えて居間に入ってきた。足元がおぼつかない。暖炉に寄りかかりそうになり、慌ててキッチンの火を消し駆け寄った。
ローブを受け取り、そっと椅子に座らせる。服が大きそうだった。無理もない、アルスは背丈もあれば肩幅も広めの、ガッチリとした体格だ。華奢な彼とは天と地ほど違う。
ローブを濡れた自分の服の上に置き、キッチンに戻ってケトルを取ってくる。テーブルにコップを置いて、カモミールティーを注ぐ。湯気と香りに少し驚いていた。
「香り……苦手だったか?」
じっとコップを眺めていたが、こちらを向き首を横に振った。なんとなく目が輝いている……ような気がした。
「……これ……いい……かおり……」
大きく息を吸い込み、長く息を吐いた。その様子をぼんやりと見つめていた。言葉は通じていたようだ。
「熱いからゆっくり飲んで、身体を温めな」
そう言うと、彼はそっとコップに手をかけ、時折り冷ましながら少しずつ飲んでいった。アルスも自分のコップに注いで同じようにする。茶は良い香りを伴って、身体の芯からじんわりと温めてくれた。
しばらくして雨足が弱くなってきた。ようやく落ち着いたのか、ふう、と彼は一息ついた。
「あの……あ、ありがとう……ございます」
改めて声を聞くとあの光の玉のそれと同じだった。
「なぜあんなところで倒れてたんだ?何かに襲われた形跡もなかったんだが」
「……あんなところ?」
「この近くの海岸だ」
「海岸……なんでだろう……?ボクは……」
目を閉じて考えだしたが頭を抱えだした。かと思うと、今気づいたかのように自分の両手を見て目を丸くした。
「え……」
まるで、自分がヒトの姿になってしまっている!とでも思っているようだ。
「ボク……どうして……?」
混乱で身体がまた震え始めた。そっとそばに寄り、しゃがんで震える肩に優しく手を置いた。触れた瞬間ビクっと小さく跳ね上がったが、震えは次第に治まっていった。
「……自分の名前は覚えているか?」
彼はゆっくり頷いた。しばしの沈黙ののち、「ヘイレン」と小声で言った。
「ヘイレンか。あくまで俺の想像だが……本来ヒトの姿じゃなさそうだな?」
ハッとしてこちらを見る。図星だったようだ。
「自分の手を見て驚く奴は、大抵『本来の姿』があったんだろうなと。どういうわけでヒトの姿になったかなんて、お前もわかんねぇよな……」
突然、金色の眼からポロポロと涙が溢れ出した。内心焦ったが、そっと彼を抱き寄せると、途端にわんわん泣き出した。
……気が済むまで泣いたらいい。泣き止むまで、しばらく時間を要した。
ヘイレンは、自分の名前以外の記憶を失っていた。
本来の姿はヒトではないことは確かなようだが、どんな姿だったのかがわからない。海岸に辿り着くまでの記憶も無いが、光の玉を飛ばして助けを呼びに行ったことはうっすらと覚えていた。
「俺があの光の玉に会わなければ今頃……」
死んでいたかもしれない。ヘイレンがそう呟いた。
「たぶん、必死だったんだと思う。全身痛くって……このまま死んじゃうのかなって。死んでも誰にも見つけられなかったらと思うと怖くなって。そしたら突然痛みが消えて、ふわふわ浮いた感覚になって……気がついたらここにいた」
今はもう、全身の痛みはないという。眠っている間に治癒したのだろう。……光の玉はヘイレンの生霊だったのかもしれない。そう思っていると、彼はふと窓の外を見て、不安気に言った。
「ボク……これからどうすればいいんだろう……」
帰る場所などもちろんわからない。ヘイレンの身体がまたも震えだした。不安と恐怖が、また一気に押し寄せてきているようだ。その『不安と恐怖』が淡い紫色の靄となって、彼を包み始めた。
アルスは右手を彼の心の臓付近に当て、目を閉じた。……その靄をこちらに。念じると、靄はすうっと右手に集まり、そのまま吸収されていった。
ヘイレンは脱力し、アルスに身体を預けた。そのまま抱き上げて寝室に向かった。ベッドのシーツは僅かに湿っぽかったが、震えるほどではないだろうとそっと寝かした。毛布と布団を掛けてやると、小さな寝息が聞こえてきた。
今は休め。先のことは後で考えたらいい。
居間に戻り、窓の外を眺める。雨は止み、月明かりが差し込んでいた。その時アルスは思い出した。今日は王宮都市ダーラムで、召喚士のシェラ……シェラードと会う予定だったのだ。
大きく溜め息をついて、すまん、と呟いた。