第6章-1
シーナは聖なる国ホーリア上空を旋回していた。
白い輝きを取り戻した聖なる地に佇む召喚士が、ずっとこちらを見ている。飛竜の羽ばたきが風を生み、亜麻色の長い髪がふわりと揺れている。
もうすぐ陽が沈む。アルスは黄昏時に仕掛けるつもりでいた。黒い服装なので、薄暗くなれば闇に紛れて不意をつける……かもしれない。
シェラを拘束した闇の鎖を断ち切るには、己の鉤爪で彼を貫かねばならない。ラウルの鎖を切った時のように。鎖に溶け込みシェラを支配したヴァルストも一緒に葬れるはずだ。
アルスは鉤爪を装備した。それを見たフレイは跨る姿勢から中腰へと乗り方を変えた。ミスティアはいまだに目を覚ましていない。フレイは突起物に守られている彼女の手にそっと触れた。
落ちないように慎重にシーナの背から飛び降りる体勢に構えて、アルスはフレイを見た。竜騎士は小さく頷くと、飛竜の首の根元を軽く叩いた。これが降下、接近の合図だった。低く唸りながら旋回し、高度を下げ始めたその時、アルスは我が目を疑った。
「ヘイレン!?」
召喚士に向かって金色の髪の青年が走っていた。「嘘でしょ」とフレイもつぶやく。シーナは降下をやめた。
「あのコ何を……!」
「構わん、行け!」
「でも!」
「いいから!」
フレイはシーナに命じる。やや遅れて再び高度を下げ始めた。少し翼をたたんで速度を上げる。召喚士は槍を構えた。禍々しい闇の靄を出し、矛先はヘイレンに向けられている。
3馬身程の距離になった時、アルスはシーナから飛び降りた。直後、シェラは振り返って左手をアルスに向けてかざした。氷が勢いよく向かってくるのを、アルスもまた左手をかざして炎を放って相殺した。
白い靄で一瞬姿が見えなくなったが、アルスはしっかりと紅玉髄の眼を捉えていた。着地し、素早く鉤爪を突き出すも、それは空を切った。シェラも同時に横に飛び退くと、体勢を低くして槍を剣の如く弧を描くように払ってきた。それを素早く鉤爪で受け止める。
魔力はシェラに敵わないが膂力はある。アルスは時々シェラのトレーニング相手になっていた。接近戦となれば彼の槍を弾き、体術戦となればあっさりと投げ飛ばしていたが、今は違う。容姿はシェラだが、力は明らかにヴァルストだった。
互いの力のぶつかり合いが続く。空色の眼は光を失っている。アルスは一層ヴァルストに憎悪した。
一瞬力を抜いた。シェラが前のめりになったのをかわしながら、左手で彼の首元を一発殴った。これが効いたようで、シェラの手が緩み槍がこぼれた。それを掴んで放り投げ、仰向けに倒れたシェラの上にのしかかろうとした。が。
「!!」
氷の刃がアルスを貫いた。同時に後方へ吹っ飛ばされた。地に叩きつけられると氷は粉砕した。貫かれた腹部は凍っていて流血はしていないが、体温を一気に奪っていった。
「がはっ……」
身体が震えて思うように動けない。その間にシェラはゆっくり立ち上がり槍を取りに駆けようとしたのだろうが、そこで立ち止まっていた。
見ると、槍を構えるヘイレンが立っていた。へっぴり腰で足元は震えているものの、両手でしっかりと槍を握ってシェラを睨んでいた。
シェラが……正確にはヴァルストが……一歩ヘイレンに近づくと、青年は一歩下がる。召喚士は微笑して右手を差し出した。
「僕の槍を返してくれ」
シェラの優しい声が、ヘイレンを惑わせる。
「ヘイレン、聞くな!」
「聞かないよ!これはわたさない!」
そう叫んで、ぎゅっと槍を抱くように身体にくっつけた。刹那、シェラの身体がビクッと痙攣した。額を押さえてやや屈む。何が起きたのか。
「……ろせ」
アルスは冷える身体を無理やり起こした。ヘイレンは聞こえたのか、青ざめた顔でまた一歩下がり、全力で首を横に振っていた。
「くっ……」
震えながらも何とか立て膝をついた瞬間、パキッと腹部で氷の割れる音がした。見るとじわじわと赤黒い液体が服を染め始めていた。構わず立ち上がった。体温が戻っていく。じわじわと闇の力が湧いてくる。己の血を活力に、アルスは飛び出した。
シェラはまだヘイレンに向いていたが、こちらに気づき顔を向けた時には、既にアルスの体当たりを受けた後だった。地に叩きつけてのしかかり、両腕を押さえて叫んだ。
「ラウル!」
遠くから矢を番えていたことを、アルスはシーナから飛び降りる際に見つけていた。起きあがろうともがくシェラに全体重をかけた。
「おのれぇ!」
ヴァルストの心の声が、シェラを通じて発せられた直後、地がメリメリと音を立てて盛り上がった。やや沈下させると、シェラの手足を地に縫い固めた。アルスは起き上がって彼から離れた。
「ぐっ……あ……」
生き物の如く、地の土が二の腕や腿まで覆った。これで完全に動けなくなった。召喚士のローブがアルスの血で赤く染まっている。目眩を起こしてふらつくと、ヘイレンが駆け寄ってアルスを支えた。
槍は魔力を失って小さな杖に戻り、ヘイレンの右手でしっかりと握られていた。
唸り声を上げながら、召喚士は必死にもがいていた。アルスはヘイレンに支えられながらも、じっと目をこらえて闇の鎖の在処を探す。右眼がほのかにワインレッドの光を放つ。
鎖は全身を縛ってはいなかった。シェラの心の臓だけをしっかり縛っていた。鎖を切るには……ここを貫かねばならない状態だった。
「マジかよ……」
思わず声が漏れる。ヘイレンが不安そうにアルスを窺っている。ため息をついて召喚士に話しかける。
「お前、どこまでも汚ねえな。自分がもう死ぬと悟って、シェラを道連れにするとかよ……」
怒りが込み上げてくる。もがいていた身体がぴたりと止まった。かと思うと、突然嗤いだした。
「私を生かしておけば、この身体も、『本来の魂』も死にはしない!この地を滅ぼせばそれでいい……。聖なる力は我々にとって害悪なものだ。それが無くなれば、お前も楽に生きられるだろう?」
口調はヴァルストなのに声がシェラであることに酷く心が痛む。
「こんな……大地など……砕いてみせ……ぐっ……」
瞼をぎゅっと閉じて堪えるような表情に変わる。シェラの意識を僅かに感じた。闇の鎖に囚われれば、その者の意識は完全に絶たれるものなのに、この召喚士は……ほんの僅かではあるが自我を保っている!
「シェラ……!」
ヘイレンも感じたようだ。一瞬、ほんの一瞬だけ、シェラがそこにいた。ヘイレンの声に、カッと見開いた。
「殺せ!ヴァルストを……僕を……あっ!」
身体がびくんと跳ねる。めりっ、と手足を埋めた大地が音を立てたが、しっかりと固定させたままだった。
「あああああ!」
ヴァルストの怒りに満ちた叫びを、シェラが代弁した。そしてまたもがき始めた。見るのが辛くなって思わず視線を逸らしてしまった。アルスを支えるヘイレンの手が、ぎゅっと強くなった。彼もまた、この状況に必死に耐えている。涙を堪えながら。
「さて、どうする?」
アルスの背後に、いつの間にかラウルが弓を持って立ち尽くしていた。どうすると聞かれても、もう頭が回らなかった。
苦しむシェラを目の当たりにし、さらには殺せと言ってくる。ヴァルストは闇の鎖と同化していて、奴を屠るには鎖を切らねばならないが、即ちその行為はシェラをも屠ることになる……。絶望しかなかった。
「アルス」
そっとヘイレンが声をかけてきた。ゆっくり振り向いて金色の眼を見る。彼の眼は潤んではいたが怯えている様子ではなく、どこか希望に満ちているように見えて少し驚いた。
「ヴァルストを取り出すことって出来ないかな?」
「……取り出す……だと?」
ヘイレンは強く頷く。
「アルスが持っている闇を取り込む力……それでヴァルストの魂も鎖も引っ張り出せないのかな……って」
なるほどな、と小さくつぶやくも、アルスは首を縦に振らなかった。
「鎖はシェラを縛ったまま、ヴァルストの魂だけが俺の中入り込むだけだ。敵が増えるぞ」
そんな、とヘイレンは青ざめたが、でもと食い下がる。
「ポルテニエでボクたちが襲われた時、アルスは闇を吸い取られたんだよね?あの時って靄のまま襲ってきたけど、アルスの場合は身体に触れないと取り込めないの?」
初めてヴァルストの姿を見たのはエクセレビスだったが、港町ポルテニエで『闇をよこせ』と襲われたのが本当の初手だったことを思い出した。随分と昔のことのように思える。
そうだ、あの時奴は姿を見せず、靄のまま黒魔術を俺に使ったのだった。間接的に闇を吸い出せる……ということか。
しかし、アルスはヘイレンの言う通り、身体に触れて初めて闇を取り込む力が使える体質だ、と返したいところだったが、単に間接的に黒魔術を使ったことがないだけで、実は出来るのではないかと思えてきた。
「離れた場所から取り込む力を使って、あいつを引っ張り出せたら、外気に触れて焼失するかと思ったんだけど……。聖石が壊れた時、聖なる力が一気に靄を消したから、もしかしたらって……」
ヘイレンの考えは理解した。ただ、外気に触れるだけで魂と化したヴァルストが焼失するかはわからない。それに、鎖はどうするのか。あれは黒魔術で吸い出せるモノではない。アルスは額に手を当てて唸った。
闇の鎖は生み出したモノの魔力で出来ているが、当ニンが死しても効力は残り、壊さない限り支配し続けるのだ。故に、ヴァルストの魂を屠ったからといって、シェラを縛る鎖は彼の心の臓を支配したままである。
この事実を淡々と話すと、ヘイレンは言葉を失った。絶望から生まれる闇の靄がアルスたちを包み込む。そうこうしているうちに、シェラの手足を押さえていた地にヒビが入り始めた。
「アルス、限界だ」
ラウルが矢を地から生成して番えた。アルスは覚悟を決めて右手をシェラに向けてかざした。目を閉じて一呼吸置き、見開いて念じた。
ヴァルストを……シェラから引っ張り出せ!
右眼が光り、シェラにまとわりつく闇の靄を引き摺り出そうとした。が、奴も抵抗していて表に出てこない。腹部の傷が疼き、血が溢れ出す。
身体を支えてくれていたヘイレンが、そっと杖の先を傷口にかざした。すると、ほんのり白く光った。痛みが和らいでいく。癒しの力を、杖を通じて使っていた。
「あまり長く使うなよ。お前自身を滅ぼしかねない」
アルスはシェラを睨んだままヘイレンに忠告した。彼は「わかった」と意外にも素直に返事した。
ヴァルストとの綱引きの様な戦いが続く中、ついにシェラを縫い留めていた地が粉砕した。同時に氷が地を這い、アルスたちを襲う。ラウルが氷に向かって矢を放つと激しく割れ、破片が弾丸の如く飛んできた。すかさずラウルは左手を地に着けると、氷の弾丸を受け止める壁が生まれた。それでもいくつかは体に当たり、小さく傷を作った。
取り出そうとした闇の靄が消えた。壁で力が遮断されたのと、シェラが動けるようになって飛び上がり、黒魔術から外れたからだった。
シェラは上から無数の氷の刃を放った。凄まじい魔力は、地を、空気を凍りつかせる。アルスはヘイレンを抱えて逃げ回ったが、刃は容赦なく彼らを切り裂いた。ラウルも地に溶け込むほどの魔力がなく、土を盛り上げて壁を作るので精一杯だった。
アルスは傍にいるヘイレンを一瞥する。目立った外傷は無さそうだった。右手でシェラの杖を、左手でアルスの服をしっかり握っていた。
「アルス、こっちだ!」
振り向くと、ラウルがドーム状の空間を生み出していた。左手を地に付けると、そこからアルスのいる場所までずらりと大地の壁が作られた。
「ヘイレン、行けるか?」
服を強く握りしめる青年にそっと話すと、彼は顔を上げた。それから壁、ドーム、ラウルと順に見渡すと、再びアルスを見て頷いた。
「腹、ありがとな。シェラは任せろ」
そっと金髪を撫でた。ヘイレンは一瞬目を丸くしたが、「うん」と強く頷いて服から手を離した。そして、ラウルのいる方を向いた。
アルスは上空に浮かぶシェラを睨む。ヘイレンが走る瞬間を狙っているようだった。じっと時を待つ。
殺傷能力の高い吹雪が弱まった。今だ。
「行け!」
掛け声と同時に、ヘイレンは駆け出した。アルスも後に続く。青年の足はまるで馬の如く速かった。
アルスは無事にヘイレンがラウルと合流したのを見て、急停止して身体の向きを変えた。シェラがドームに向かって急降下してきていた。アルスは念じて闇を纏い、鉤爪を一旦納めて飛び上がる。
「ヴァルストおおおお!」
渾身の体当たりを、ヘイレンだけを見ていたシェラにお見舞いした。そのまま地面に叩きつける。どん、と鈍い音に混じって小さく骨の砕ける音が鳴った。
吐血する召喚士を押さえつけ、心の臓に右手を当てた。間髪を容れずに闇を、ヴァルストを再度引き摺り出そうと試みた。己の鼓動が急激に早まり、息が苦しくなる。
シェラはじわじわと手を動かし、自分を押さえるアルスの腕を掴もうとするが、力が入らないようだった。それでもどうにか腕を上げるも、呆気なく地に落ちた。その間に、アルスは闇をどんどん取り込んでいく。
ヴァルストの魂に囚われる覚悟で闇を取り込む。とにかくシェラから奴を引き剥がし、鎖は自我を失う前に鉤爪で壊す……心の臓を貫かないギリギリのところを狙って……。そして、腰に付けているラウルからもらった聖石を外せば……。
道連れにする相手はシェラじゃない。俺だ。
滅ぼすべく時空を超えて辿り着いた、お前からすると数百年後の聖なる国ホーリアで、俺と一緒に焼失という結末をお見舞いしてやる。復讐は絶対にさせない!
ぼんやりと、シェラの左眼が紅玉髄の色に光出した。その刹那、呻き声を出して顎を上げた。ヴァルストの魂が出てこようとしているのか、魔力を溜めているのか、よくわからない。アルスはシェラの眼を凝視する。うっすらと青白い靄が出てきていた。
「アルス、眼を狙え!」
突然頭上から、風と飛竜の羽ばたく音と共に、シェイドの声が降り注いだ。思わず見上げかけたが、シェラから眼を逸らすと隙を取られるのでやめた。右手を心の臓から離し、左眼に向けた。
直後、シェラの身体がびくん、びくんと跳ね上がった。青白い靄が徐々に濃くなり、アルスの腕に伸びていく。右手をかざしながらゆっくり身を起こす。左手はシェラの胸元を押さえている。彼の痙攣が止まらない。
「うああああ!」
シェラの声が変わった。ヴァルストのそれが混じっていた。魂が取り出されようとしているのか。
しかし、アルスも限界がきていた。取り込む力が弱っていくのを感じていた。あと少しで奴を取り出せるのに……!無意識に舌を打つ。
青白い靄が左眼へと戻り始めた。アルスの右腕が震える。右眼が霞む。痛みが走る。諦めるものかと己を鼓舞する。
と、また頭上から風が吹いた。羽ばたく音が連続する。断続的に風が来る。上から紫色の靄が伸びてきた。
「なっ!?」
今度こそアルスは見上げてしまったが、シェラが動く様子は無かった。
飛竜の手に包まれたシェイドが、柘榴石の光を放ちながら左手をシェラに向けていた。包まれたと言っても、身体の半分以上は鋭く大きな手から出ている。シーナは兄の足を器用に掴んでホバリングをしていた。
再び青白い靄が姿を見せた。それは上へ上へと伸びていく。シェイドの力が、ヴァルストの魂を引き摺り出していく。靄は抵抗しているのか、シェラとシェイドの中間あたりで留まっていた。
「アルス、鎖を……切れ!」
シェイドの声がやや苦しみを帯びていた。ようやく顔を下げる。闇の鎖がシェイドの黒魔術で少し引っ張られていた。心の臓にぴたりと巻きついていた鎖が、僅かに隙間を作っている。アルスは拳を作ってシェラの心の臓に当てた。そして。
「シェラを……返せ!」
鉤爪を出した。それはシェラの胸を貫いた。心の臓の僅か上。闇の鎖が砕ける音がした。
「あぁ……」
シェラの左眼の紅玉髄が徐々に消えていく。空色に戻る前に彼の瞼が眼を覆った。痙攣が治り、静かに横たわる。アルスは鉤爪を短剣に変えた。それは深々と、召喚士に刺さっている。
急所を外したとはいえ、剣を抜けば出血多量で、抜かなくともやがては死ぬだろう。助けるはずのひと刺しは、結局のところ命を奪う結果になろうとしていたが、僅かに胸元がゆっくりと動いている。瀕死の状態だ。
ふと思い出したかのようにアルスは天を仰ぐ。シェイドはまだ青白い靄を繋ぎ止めていた。己に移ることを拒み、かと言ってシェラの体内へは戻さない。何ならもう戻れない。闇の鎖を切って、シェラを解放したから。
ヴァルストの魂は、完全に外気に触れていた。
しかし、焼失しなかった。
「魂だけだと燃えないんだね……」
ヘイレンがラウルと一緒にアルスのそばまで来ていた。シーナの羽ばたきで生まれる風が、妙に心地よかった。
ごお、と低い唸るような音がずっと響いている。ヴァルストの声のようには思えなかった。
「時の旅ビト様を救って……か……」
聞き慣れない単語に、思わずアルスはヘイレンを見た。
「何だって?」
「ボク、言われたんだ。『彼の方を闇から救って』って。彼の方ってヴァルストのことなんだけど、自分の闇に囚われていて、正気に戻ればもう復讐なんか言わないはずだって」
そう言いながら、金髪の青年は短剣にぴたりと杖を当てる。白い光がぼんやりと現れ、患部に入り込んでいく。
「闇に囚われたら、二度と自我は取り戻せないってアルス言ってたよね?それなのにあのヒトは、正気に戻るって断言してた。どっちなんだろう?って」
ヘイレンの言う「あのヒト」が誰なのかはさて置いて、アルスはこれまでの出来事を思い返していた。
シェラの『心の闇』を取り込んだ後、苦痛が和らいできた頃にアルスは突然『黒の一族』のことをつらつらと語りだした、と彼から聞いた。あの時囚われそうになったのを、彼がアルスの肩を掴んでくれたから、正気に戻ったのか……と思った。
キルスと一戦交えた時、アルスは兄に取り憑いていた鎖を切って闇から解放した。その後姿を消し、どこへ行ったか知らないが、確かにあの時兄は正気に戻っていた。
ラウルもまた、闇の鎖で囚われていたのを、それを切ることで元の彼に戻すことができた。
『闇の元凶』を屠れば、ヒトは、生きものは正気に戻れるのだ……!
「……戻る」
アルスのつぶやきに、ヘイレンが振り向く。
「闇の鎖はそのヒトを拘束して支配する。支配されたモノは自我を失う。鎖を断つことで支配されたモノを闇から解放する。自我も……戻った。キルスもラウルも」
「じゃあ、あのヒトの言う通り?」
かもな、とアルスは頷く。自我が戻らないという恐れは誰に植え付けられたのか。そんなことは今はどうでもいいが、身体を失い、魂だけの存在となったヴァルストを、闇から救うにはどうしたらいいのだろうか。
黒魔術で闇を取り出す?同族にこの術は御法度のはずだ。しかし、禁忌を侵してまでヴァルストは力を蓄えた。それくらい奴の怨念や怒りの闇は濃くて深かった。
ふとアルスは気がついた。さっきヴァルストを引き摺り出すのに魔術を使ったではないか。現状、シェイドがこの力で奴を宙に留め置いている。いざとなれば禁忌も無効になるのだろうか……?『黒の一族』の言い伝えが曖昧なものになってきたが、それよりも今考えねばならない事はそっちじゃない。
……この力以外に方法は無いのだろうか。ホーリアの滅亡を許せば、奴は満足して闇を失い、正気に戻るかもしれない。しかしそれでは、今までの戦いが水の泡になるのではないか。
……やはり、黒魔術しかないか。アルスは立ち上がり、魂に向かって右手をかざした。
シェラから奪った闇とヘイレンの癒しの力で、身体は大分楽になっていた。不思議と苦痛になるようなことはなかったが、ヘイレンの力のおかげなのだろう。そう思っておくことした。
魂を睨み、ワインレッドの眼を光らせる。いつものように頭痛が走る。紫色の靄がぼんやりとアルスの腕に吸い寄せられていく。
ヴァルストが抱く『心の闇』を、俺が全て取り込んでやる!




