第5章-4
半刻(約1時間)経って、アルスはそっと目を開けた。傍らでミスティアがちょうどかざしていた手を離したところだった。
ゆっくり起き上がり、左太腿に手を当ててみる。ミスティアがそっと包帯を外してくれた。傷はすっかり癒えている。
「綺麗に消えたわね。よかった。あとはしっかり立って歩けるかどうかね」
アルスは黙って頷いた。
「そういやあれからどれくらい経ったんだ?ヘイレンが俺の傷を治そうとしたあの日から……」
「7日ぐらい経ったかな」
ベッドを挟んでミスティアの向かいの椅子に腰掛けていたシェイドが言った。そんなに経ってしまっていたのか、とアルスは驚愕した。
その間、ヴァルストは何か仕掛けたのだろうか。イルム王を探しに地界へ降りるとか、ホーリアをさらに闇に浸したりとか、魔物を生み出して己の守りを堅めたりとか、次々と憶測が浮かんでくる。
しかし、シェイドは首を横に降り「あいつは何もしてきてないよ」と言った。それこそ半刻前に、フレイ達に「アルスを連れてこい」と言ってきたぐらいだという。
何もしなかった……何をすれば良いかわからなかったのか、敢えてアルス達の回復を待ったのか、自分の力を蓄えて次の戦いに備えたのか。何にせよ7日分の体力気力の回復はなされたはずだ。
アルスは座ったまま足を軽く曲げたり伸ばしたりした。問題なさそうだったので、立ち上がってみる。足先がふわっとした感覚に陥ってふらついたが、ミスティアに支えられる前に踏ん張れた。
伸びをして上半身を捻ったり肩を回したりして身体をほぐす。血の巡りが良くなり、体温が上がっていくような感覚がした。目を閉じてひとつ大きく深呼吸をし、瞼を開けるとミスティアが心配そうな眼差しでこちらを見ていた。
これからヴァルストと対峙する。戦いは死と隣り合わせだ。何度も修羅場を潜り抜けてきたし、そんなことはお互いにわかりきっているはずだが、やはり不安はつきものである。
「大丈夫だ」
静かに言うと、ミスティアはゆっくり頷いた。アルスも軽く頷き、部屋を出る。廊下を歩き、瓦礫が散乱した出入口と思しき場所に出ると、フレイとシェイドが待っていた。兄の手には、見慣れた護身用の短剣が握られていた。
黙って差し出されたのを受け取り、腰に装備する。お互いの顔を見て、小さく頷き合った。
療養所から離れ、地下シェルターを横目に城の方へ進む。城門の土台だけが残されたあたりで足を止め、仰いだ。
奴……ヴァルストは壊れた城のバルコニーだったであろう場所に立っていた。黒き衣を纏い、左手に細長い剣を携え、左眼を紅玉髄の色に染めてこちらを見下ろす、アーデルの血を引く『過去の』ジンブツ。
『先祖』と二度も対峙するとは思ってもみなかった。しかもこんな形で。アルスはじっとヴァルストを睨んだ。
『射手を闇から解放するとは、なかなかだな。我が末裔よ……』
「お前……過去から来たんだろ?」
アルスの言葉にヴァルストの表情が曇った。
「エフーシオが滅ぼされる瞬間を見たんだかなんだか知らねえが、何百年もすっ飛ばして今の時代に来て、ホーリアを滅ぼすとか言いやがって、それを実行して……とんだ迷惑だ」
ヴァルストは黙って睨み返している。
「あんたがこんな事したせいで、俺たち闇の種族の肩身が狭くなった。近い将来、どこにいようと敵視されるだろうな。ましてや『黒の一族』と知られたら……」
『 不都合でもあるのか?』
剣を器用に手元で回転させる。話を終えたいのだろうか。濃い紫色の靄がじんわりと奴の周りに現れる。
「滅びた種族になっているからな。それこそ700年前に、ホーリアに国を滅された時に……!?」
『ホーリア』の単語に反応したのか、ヴァルストが突然ふわりとバルコニーから飛び降りると、アルス目掛けて剣を振るってきた。
素早く腰から短剣を抜き、鉤爪に変えて構える。ぎぃん、と金属のぶつかる音が響き渡った。アルスは右手から炎を出しながら腕を薙ぎ払った。相手の剣を弾くと同時に、炎を身体にくらわせた。
ヴァルストは3馬身程飛び退って距離を取った。炎で服が少し朽ちると、胸元に赤黒い穴が空いているように見えた。
そっと右手で穴を摩るヴァルストの表情は嗤っていた。痛みなど感じていないかのようだ。不気味な笑みと同時に酷く濃い靄が現れ、あっという間にふたりを覆った。
周りが全く見えない。見えるのはヴァルストのみ。アルスは腰を落として右足を半歩下げて構える。
『滅ぼされたはずの種が、なぜ私の目の前にいる?』
剣の先端を地に向けてアルスを見据えた。それはこっちの台詞だ、と言いたかったが、考えられることはひとつ。
「お前以外に生き残りがいたんだろう、としか考えられねえだろうが」
『私以外に……生き残りだと?』
そう言って、剣を下げたままアルスに歩み寄った。いつでも鉤爪を突き出せる体勢のままヴァルストを睨む。
『私はこの目で見たのだ!国が、ヒトビトが焼け死んでいく瞬間を!』
ヴァルストは素早く剣を振り落とした。剣から青白い靄のような光のようなものが飛び出した。アルスは咄嗟に横へ飛んだ。青白いものが身体の真横を掠めていった。一回転して構えかけたその時、剣が右から飛んできた。
再び鉤爪と剣がぶつかり甲高い音を立てる。大股で腰を落とし、左手を地につけた状態で剣を受け止めた為、踏ん張りが効かなかった。鉤爪を払われた。剣の切先が上から降ってくる。アルスは後ろに飛び退った。
剣が地に刺さったと同時に地割れが起きた。着地した瞬間、ひびに足を取られた。バランスを崩して転んだところを、青白いものがぶち当たった。
「くっ……!!」
左腕で顔を覆うように防御姿勢をとるも、青白いものはアルスを吹っ飛ばしながら、細かな切り傷を服に、腕に、身体に刻んだ。
宙を舞いながら、アルスはヴァルストを捉えた。右手に魔力を溜めて渾身の力を込めて薙ぎ払った。赤と紫が混じった闇の靄が、空間を駆け抜けた。ヴァルストは右手を翳してそれを制し、小さく火を放った。瞬く間に靄に引火し、あたりは炎に包まれた。
ふと既視感を覚える。この光景を最近見たような……。着地した直後、何かが足を掴んだ。反射的に見下ろすと、鎖が絡みついていた。動かそうとするもびくともしない。
見上げると、そこにはオッドアイを持った青白い顔がぼんやり浮かんでいた。炎のように揺らめきながら、ヴァルストは笑みを浮かべていた。『あの時』とは違って、足元から熱さが伝わってきた。
ヴァルストが迫る。鉤爪で顔を覆うように構える。剣が当たる。ぎりぎりと擦れる音にとヴァルストの嗤い声が混じる。熱さが胸元まできている。
『私の邪魔をするならば、燃え尽きてしまえ!』
ヴァルストの右手がアルスの左腕を掴むと、赤紫の炎を放った。剣の存在がふっと消え、右手が軽くなる。全身炎に包まれ、焼かれる痛みが駆け巡った。
「ぐぁあ!!」
露出した肌……腕が、切り傷が焼けていく。アルスは屈むしかなかった。顔を覆い続けるが、耳が、頬が熱い。目はもう開けていられない。ただただ闇の中で、低く唸るような音を聴きながら、炙られていく。
意識が途絶えようとしていたその刹那、アルスの身体が浮き上がった。足に絡みついていたはずの鎖は無くなっていた。激しく何かが壊れる音が響く。熱いものから離れ、ややひんやりとした空間に降ろされた。
力が入らずその場に倒れ込む。激痛が走る。呼吸が浅く、苦しかった。
「しっかり!」
うっすら目を開けると、ミスティアが見下ろしていた。手を彼の胸に当てて霧を発していた。この状況に一瞬理解が追いつかなかった。
ミスティアの手が喉元に移る。身体が少し痙攣を起こしている。話そうとしたら「だめ!」と止められた。
「今声を出すと二度と喋れなくなっちゃう!」
そう言って霧を濃くした。身体全体が白い霧に包まれる。ミスティアの姿も霞んできた。
「この火傷を早く治すためにも、少しだけ眠ってちょうだい。ヴァルストは……シェイドが戦ってる。……シェラもいるわ」
遠くを見つめている風だったが、アルスには見えなかった。真っ白な空間に収まり、まどろんでいた。
突如くぐもった低音が頭上から聴こえ、地下シェルターが小さく軋んだ。
「そ、外が!」
シェルターから外の様子を見たヒトが、ロビーに転がり込んできた。赤と紫の炎が広がっていると声を震わせて叫んでいた。
「シェラ……!」
ヘイレンが行こうと一歩踏み出したので、咄嗟に腕を掴んだ。行きたいのはわかるが、魔法石はあれどそのまま行くと焼け死ぬだけである。
「正面から行ったら死ぬよ」
少し語気を強めてヘイレンを諭した。彼は驚いて少し落ち込み、ごめんと小さく謝った。シェラは首を横に振りながらため息をついた。
メインの出入口の先が炎の海だったため封鎖してしまったが、裏口があるとのこと。しかし、裏口の上に瓦礫がのしかかっている可能性があり、使えるかどうかはわからないそうだ。
それでもシェラとヘイレンは裏口まで案内してもらった。ふたりきりになると、シェラは裏口の扉を開けた。階段を経て地上へ出られるようだが、案の定瓦礫で埋め尽くされていた。隙間からうっすらと紫色の靄が出ている。
結局、ヘイレンは地下シェルターに留まることを拒み、危なくなったら逃げる、自分の命を第一にすることを約束して、一緒に向かうことになった。
「下がって、壊すから」
ヘイレンを裏口の扉から離し、突き当たりを曲がってもらう。爆風で瓦礫が飛んできて当たったら危ない。戦う前から傷つけたくない。
彼が見えなくなったのを確認して、シェラは階段に向かって右手を翳した。ぼんやりと青白い光が集まると、一息ついて唱えた。光が階段を塞ぐ瓦礫に当たると、瞬時に凍りついていく。やがて地上まで達したのだろう、凍りつく音が消えた。指をパチンと鳴らすと、瓦礫が手前から粉砕していった。
細かく砕かれた瓦礫が少しだけシェラ側に飛んできたが、傷つくほどでは無かった。全ての瓦礫が無くなり、階段が姿を現した。同時に、靄が流れ降りてきた。
「ヘイレン、聖石を持ってこっち来て!」
そう叫ぶと、背後からぱたぱたと青年が走ってきた。シェラの横で立ち止まりポーチから取り出していた聖石を胸元の高さで翳す。聖石がぼんやりと光だすと、靄は一気に蒸発していった。
「すごい……」
思わずヘイレンはつぶやいた。光が消えると、白かった石は少し灰色がかったようになった。これでもまだ威力は高いので「ヘイレンの守り用にしよう」とシェラは言った。
「使うタイミングは、ヘイレンが危なくなった時。僕のことは気にしないで。約束した通り、自分の命を第一に考えて」
そうは言っても……とヘイレンは食い下がったが、シェラは自分には召喚獣がいるから大丈夫、と微笑んだ。
「ラウルがくれた石は……?」
白と水色のマーブル柄の石をちらりと覗かせる。そちらも守り用で、と返した。
「ヘイレンに渡したもう一つの聖石は、ヴァルストに向けて投げて欲しい。僕が投げるタイミングで叫ぶから」
わかった、といいながら青年は頷いた。
綺麗になった階段を上り、地上に出た。振り返ると遠くで赤黒い炎が勢いよく燃えていた。禍々しい闇の力を感じる。袖が少し引っ張られたので振り向くと、ヘイレンが掴んでいた。胸を押さえて眉間に皺を寄せている。呼吸も浅い。
「凄く……強い力……押しつぶされそう」
確かに息苦しさはあった。ヘイレンはここから動かないほうがいいかもしれない。
「ヘイレン、少し階段を下りたところで待機してて。そこだとダイレクトに魔力を受けないから息苦しさもマシになるだろうし」
「シェラは?あの炎のところに行っちゃうの?」
見上げる金色の眼が不安そうだった。裾を強く握られて、シェラは苦笑した。ヘイレンをひとりにしたくない。が、あの炎の中にヴァルストと、たぶんアルスがいる。そして、アルスの気力が弱っているのを感じていた。
シェラは黙って頷いた。そっと袖を離してもらい、隠れられるところまでヘイレンを連れて行った。受ける魔力が弱まったのか、胸を押さえていた手を下ろし、ポーチの中に突っ込んだ。一呼吸置いて、ヘイレンはシェラを見上げる。目元が少し潤んでいたのを見て、胸が苦しくなり、ぎゅっと抱きしめた。
「僕の声、あまり通らないんだけど、ヘイレンならきっと……届くよね?」
シェラの胸元に顔を埋めながらゆっくり頷く。
「……聞く。絶対に聞き逃さないから」
抱擁を解いて、ヘイレンと向き合う。口角を少し上げて、シェラは大きく頷いた。……ヘイレンも。
「よし、じゃあ行ってくる。まずは、アルスをあの炎から助けださないと」
大きく一つ息を吐いて、シェラは戦場へ向かった。
ヘイレンと別れた場所と炎の海との中間あたりでシェラは足を止めた。じっと目を凝らして炎の先を見る。足元を鎖で繋ぎ止められ身動きが取れないアルスの姿を捉えた。シェラはエールを召喚した。
氷狐と共に駆け出した。杖を持ち槍に変え、鎖めがけて突き出した。槍の先からまっすぐに尖った氷が飛んでいく。エールは手に魔力を溜め、薙ぎ払った。吹雪のように氷が舞い、炎の威力を弱めた。
シェラが放った氷は、炎に溶けることなくアルスの足を縛っていた鎖を砕いた。ふらりとよろめく身体を、エールが素早く抱き上げて炎から脱する。それを見て、左手に魔力を溜めてそれを放ち、炎を消した。シェラの放った魔法は、先にいたヴァルストにも降りかかったが、闇の力と相殺し、爆発した。近くの建物が跡形もなく粉砕した。
飛んできた建物の破片を消したのは、ヴァルストが放った闇の魔法ではなく、シェイドのそれだった。砂埃が払われて視界が開けると、大きな銀の翼を広げて宙に浮くヴァルストの姿があった。
あの翼は……アルティアから奪った「飛ぶ力」の賜物。シェラは槍を握り直した。優雅にゆっくり羽ばたきながら浮遊する姿は、悪魔の様。
ヴァルストの真向かいにシェイド、彼の左側にシェラ、そして右側の、ここから少し離れた療養所の出入口付近にシーナに騎乗したフレイがいた。飛竜は首を低くしていつでも飛びかかれる体勢だ。
『……ほう、お前、生きていたのか』
シェイドを見下ろしてニヤリと嗤うと、右手を翳して赤紫の靄の塊を生み出した。それはどんどん大きくなり、ヴァルストが見えなくなる。
魔力の圧を感じ、シェラは息苦しくなった。怯んでいる場合ではない。塊が放たれる直前、シェイドに近づき目の前で氷の壁を作った。塊が鈍い音を立てて壁にぶつかる。衝撃が槍から腕に、腕から身体に、心の臓にと伝わり、震わせる。
「くっ……」
凄まじい魔力に早くも壁に亀裂が入る。シェラは己の魔力を槍に集中させながら、シェイドに指示した。
「アルスを連れて、一旦国土から脱してくれ。ヘイレンに聖石を投げてもらう。その力でヴァルストを消す!」
「この魔力に耐えながら魔法石を壊すつもりか!?」
「この壁はエールにギリギリまで……支えてもらう」
シェラは氷狐を呼ぼうとしたが、どぅん、と重いものが壁に当たる感覚に襲われた。肩がじんわりと痛んだ。左手で咄嗟に押さえて耐える。
「エール……召喚獣もあなたの魔力が原動力だろ?それに今……!」
さらに衝撃波がふたりを襲った。壁がさらにひび割れ、踏ん張る力が無く、吹っ飛ばされそうになるのをシェイドが受け止めてくれた。
壁はいよいよ破られそうだった。冷や汗が噴き出る。
「シェイド……頼むから……早く!」
するとシェイドはシェラの耳元で囁いた。
「壁が壊れる前にあなたを吹っ飛ばして避けさせる。奴の魔力を受けても私は平気だから。私は奴の動きを止める。取り押さえるから、その時に石を……」
「そんなことしたらシェイドもろとも焼失するぞ!?」
ふふ、と小さく笑い声が聞こえた。思わずシェイドの顔を見上げた。柘榴石の色に染まった左眼が不気味に光っている。見た瞬間、悍ましい魔力を感じた。
「そんなの覚悟の上だ。第一、奴の力が無ければこの地に降りられていないし、アルスも助けられていなかった。奴の恩恵を受けているとか、皮肉だな」
一呼吸置いて、笑顔を消した。
「ホーリアへの復讐という『黒の一族』として最大の罪を犯している以上、共に消されるべきだ」
そう言うや否や、シェラは身体を掴まれた。軽々と持ち上げられると、思いきりぶん投げられた。
「なっ!」
シェラは、遠く離れたエールがいる方向に吹っ飛ばされた。その先にはアルスとミスティアの姿もある。彼らの手前で着地した。
前方を見ると、先程までいた場所にシェイドの姿はなかった。慌てて上空を確認すると、青白い光が2つ、混じっては離れを繰り返している。ぶつかる度に金属の当たる音が聞こえる。
シェラは遠くを見た。飛竜とフレイは『黒の一族』同士の戦いが激しく、身動きが取れないでいる。
このまま見守る、ではシェイドが危ない。血と魔力を奪われてから幾分経っていて回復しているだろうが、相手は力を増幅させた状態だ。力の差ははっきりしている。目で追っていると、シェイドが地に叩きつけられるも受け身をとってすぐ飛びかかる、という状況が繰り返されていた。
ヘイレンに聖石を投げてもらうには、アルスとシェイドを避難させなければならない。前者はエールに任せるとして、後者はどうしたものか……。再び視線を飛竜に移す。ややあって、シェラは小さく頷いた。
「エール、アルスとティアをここから遠ざけて欲しい。聖石の影響を受けない場所……出来れば地界まで行けたら……」
シェラの声はミスティアの耳に届いていたらしい。どういうことかと問われた。
「ヘイレンに聖石を持たせていて、地下シェルターの裏口付近で待機させているんだ。僕の指示で石を投げてもらうことになってる。聖石を壊したら、確実にこの一帯は聖属性に包まれて闇の種族は即死する」
だから、ティアはアルスと一緒にここから逃げてと述べた。彼女は眉をひそめ、頷かなかった。
「アルスが『逃げる』ことを素直に受け入れると思う?」
「思わない。でも逃げてもらわないと。『黒の一族』は滅びてはいけない。ヒトビトから心の闇を吸い取れる力は絶やしてはならない。……僕はそう思うから」
それもそうね、とミスティアはようやく頷いた。
シェイドはどうするのか、と当然ながら問われる。どうにかして矛先をこちらに向けなければならない。三度シェラは飛竜を一瞥した。シーナと目が合った。やはり彼女に飛んでもらうしかない。
「フレイとシーナに……シェイドをヴァルストから引き離してもらう」
ミスティアの「気をつけて」の言葉を背に受け、シェラは慎重に、けれども素早く地を駆けた。闇の力が降ってくるのを交わしながら、そして氷の壁を作りながら飛竜の前脚まで辿り着いた。
フレイはシーナに指示し、シェラを騎乗させた。翼の根本で中腰になっている横で、やや息を切らしながら考えを伝えた。
「あの状況でどうやってシェイドを?」
「あそこに突入して矛先を僕に向けさせる。シェイドが孤立した瞬間に連れ去って欲しい」
「シェラ……」
他の方法は思いつかなかった。不安そうなフレイの肩にそっと触れて頷く。オレンジ色の眼がやや潤んでいるが、「わかった」と頷いた。
「シーナ、シェイドを引っ掴んだら降下するわよ」
竜騎士が相棒に指示すると、小さく低い声で唸った。シェラは、これが了承の意であることを知っていた。
するりと飛竜から降りると、少し離れてヴァルストたちを一瞥し、駆け出した。背後でシーナの動く音がした。上空でシェイドがヴァルストの剣に薙ぎ払われ、降下してきた。シェラは地面を蹴って跳んだ。シェイドとすれ違う。ほんの一瞬彼を見たが、全身傷だらけだった。表情は歪み、力なく落ちていく。
シェラはヴァルストを捉えた。魔力を込めて槍を突き出す。無数の氷の粒が、吹雪のように奴に襲いかかる。
『ん!?』
ヴァルストは突然の吹雪に一瞬硬直したのを見逃さなかった。シェラは接近し、もう一度槍を突き出した。今度は棘の形を成して飛び出した。ヴァルストは咄嗟に剣を薙ぎ払う。氷を斬った瞬間、剣諸共腕を、左半身が凍結していった。
『おのれ……!』
右手に赤紫の炎を素早く宿してシェラに放つも、それを左手で作った氷の盾で防ぐ。一瞬で溶け消えるが、すぐにまた盾を作った。その様子を見たヴァルストは、唸りながら銀翼を大きく羽ばたかせた。闇の力を帯びた爆風が押し寄せた。
盾で風を受け止めたせいで、やや降下した。槍を構え直し、距離を詰めようとした矢先、黒い線状のものが槍に当たって絡みついた。そのまま右腕を縛り、肩、胸、首に巻きついてくる。
ラウルを支配したあの鎖だった。首を絞めてくる鎖を巻きつかれていない反対の手で掴む。このままではヘイレンを呼べない。己の魔力が弱っていく。シェラは辺りを見回した。
飛竜は両手に黒い物体を掴んで滑空していった。エールはミスティアとアルスを抱えて飛び降りていた。
今しかない。
「へ……い……れん!い…ま……!」
声を絞り出すも、到底彼の耳に届くような声量ではなかった。刹那、鎖が一気に全身を這い、シェラを縛り上げた。
「ああ……!」
闇に囚われる。ヴァルストの駒にされる。もう声が出ない。シェラの作戦はここで終わる。はずだった。
一筋の白い光が、こちらに向かって飛んできた。それは大きく弧を描いてヴァルストの頭上まで来ると、後から飛んできた矢が光を貫いた。
強い、聖なる力が、シェラとヴァルスト、そして聖なる国ホーリアの大地を包み込んだ。




